地元役所とは事あるごとに
ミーティングなど行うおばちゃんたち
先日は少々毛色の違う方々も交えての意見交換
おばちゃんW,T,H 3人が参加したよ
動物たち、とくに人間によってその尊厳を踏みにじられ
虐げられる命になにをしてあげられるか
どうすれば そんな社会じゃなくなるのか
そんな動物の福祉を推進し尊厳を守っていこうとする活動に
「人のために良いから」とか「人の役にたつから」
なんて言葉が出たら それは愛護活動として
とても純度が落ちる話だね
そこに動物がいると みんな動物愛護だと思ってる人が非常に多いけど
それは間違ってることもあるよ
たとえば、盲導犬や介助犬といった補助犬(使役犬)
これは人間の福祉部門で動物愛護とは分野が違うよ
もちろん、そこに動物の福祉や愛護の精神がなきゃ困るし、
人間の福祉はずっと離れたところで動物の愛護と
つながってはいるけれど そもそも目的が違うでしょ
おばちゃんたちの活動は
馬鹿な人間に「用済み」「用なし」と棄てられた動物たちを
最期の瞬間まで愛して 一緒にいてくれる事を約束してくれる人へ
託すこと
大切に育てた子を貸し出したりはしないんだよ
「役に立たなくたって生きてていいじゃないか」
どの命にも そんな風に接したいし
そんな世の中になってほしいと思う
大事な判断を迫られた時や 活動の中で迷いが生じた時
読み返すと間違いを見つけられるかも… ↓
http://www.alive-net.net/law/gainen/kenri-sengen.html
地球生物会議(ALIVE)資料集 海外の動物保護法【欧米編】より
前文
「生命」はひとつであり、すべての生物は共通の起源をもち、種の進化の過程において分化してきたことに鑑み、
すべての生物は生来の権利をもち、神経組織をもつすべての動物は特別の権利をもつことに鑑み、
これら生来の権利の無視、否(いな)、単なる無知すら「自然」に対する重大な侵害をひき起こし、動物に対する犯罪を人間に犯さしめることに鑑み、
世界における種の共存は、人類が他の種の生存権を認めることを前提とすることに鑑み、
動物の尊重は、人間自身の間の人間の尊重と不可分であることに鑑み、
つぎのように宣言する。
第一条
すべての動物は、生物学的均衡(equilibres biologiques)の枠内で、等しく生存の権利をもつ。この平等性は種ならびに個体の間の差異を覆い隠すものではない。
第二条
すべての動物(vie animale)は、尊重される権利をもつ。
第三条
いかなる動物も、虐待または残虐行為の対象とされない。
A動物を殺すことが必要な場合には、即座に、苦痛なく、不安を生ぜしめないやり方で死にいたらしめなければならない。
B死んだ動物は品位(decence)をもって扱われなければならない。
第四条
野生動物は自然な環境のなかで自由に生き、その中で繁殖する権利をもつ。
A野生動物の自由を長期間奪うこと、娯楽のための狩猟と釣り、そして生命維持に不可欠でない目的での、あらゆる野生動物の利用は、この権利に反する。
第五条
人間が自分の支配下においている動物は、扶養され、注意深く世話をされる権利をもつ。
A前項の動物は、正当な理由なく、遺棄され、死に至らしめられてはならない。
B動物の飼育・利用の形態がいかなるものであれ、その種に固有の生理と行動を尊重しなければならない。
C動物を使った展示、見世物、映画もまた動物の尊厳を尊重し、暴力を一切含んではならない。
第六条
肉体的・心理的苦痛をともなう動物実験は、動物の権利を侵害する。
A代替方法が開発され、組織的に用いられるべきである。
第七条
必要なく動物の死を伴う行為はすべて、ならびにそのような行為へといたる決定はすべて、生命に対する犯罪を構成する。
第八条
野生生物の生存を危うくする行為はすべて、ならびにそのような行為へといたる決定はすべて、ジェノサイド、すなわち種に対する犯罪を構成する。
A野生動物の殺戮、ビオトープの汚染と破壊はジェノサイドを構成する。
第九条
動物の法人格とその権利は、法律によって認められるべきである。
A動物の擁護・保護については政府機関のなかに代表者をもつべきである。
第十条
啓発と公教育によって幼いうちから動物を観察し、理解し、尊重するよう、人間を導くべきである。
動物の権利の世界宣言は、1978年10月15日、パリのユネスコ本部において厳粛に宣言された。それは、人類と他の動物の間に、それ以降確立されるべき関係についての哲学上の立場の選択であった。その哲学は最新の科学的知見にもとづき、生命の前における種の平等を表明している。二十一世紀の夜明けに、同宣言は人類に対して、生命倫理の準則を提案している。普遍的平等主義の理念は新しいものではない。それは西洋文明よりずっと古い文明の中にも見いだされ、ユダヤ・キリスト的宗教とはまったく違う宗教の中にも見いだされる。しかし、この倫理は、すでにあまりに変調をきたし、破壊におののき、そして暴力と残虐がたえず爆発しているこの現代の世界において、明確に断固と表明されなければならなかった。
たとえ人間が、自分自身の種についての諸権利の綱領を徐々に確立することができたとしても、しかし、人間は宇宙に対しては、なんら特別の権利を持っているわけではない。人間は地球上の動物のひとつの種、しかもごく最近になって現れた種のひとつにすぎないのである。生命は人類のものではない。人間は生命の創造主でもなけれな、その排他的な保持者でもない。生命は、魚にも昆虫にも哺乳類にも鳥にも、そして植物にも属している。人間は、自分自身のやり方だけを考慮して、生物界に本来存在しない恣意的な序列を作った。この人間中心的な序列は、種差別主義へとつながるが、その立場は種ごとに違った態度をとり、ある種を保護しつつある種を破壊し、ある種を「有益」と宣言し他の種を「有害」または「獰猛」と宣言し、「知性」は人間だけに留保して動物には「本能」しかないとするものである。人間が動物は人間のように苦しまないと考えるようにさせたのは、その種差別主義であるが、その反対に現在わかっているところでは、動物もわれわれ同様に身体的苦痛を感じ、中枢神経系の存在と関連して、その思考も神経科学が垣間見せてくれるものよりずっと洗練されたものであって、それがまた動物に心理的な苦悩を与えるのである。こういった能力があるため動物には、植物との対比において特別な権利が与えられる。
世界宣言は、人類が宇宙との調和を取り戻すのを助けるはずである。それが目的とするのは、人類を未開部族の生活様式にふたたび戻そうというのではなく、人間が属し、人間が依存している生物共同体全体の利益のために、あらゆる形態の生命を尊重するよう人間を仕向けていくための一歩となるものなのである。宣言は、人間の貧困に対する闘い、精神的身体的な苦痛に対する闘い、凶暴な利己主義、政治的な監禁、拷問に対する闘いを忘れさせることを目標とするものではないし、またそのような結果をもたらしてはならない。それどころか、動物の権利の尊重に目を配ることは、必然的に人間の権利への目配りにもなることは明らかである。なぜならば、その両者は、不可分に結びついているからである。
世界宣言は、良心を反省し深く捉えることによって人類に生物種の中における自らの位置を再認識させ、人類自身の生存の基本的条件である自然の均衡のなかにあらためて場所を得させることを通じて、ひとつの哲学、ひとつの生命倫理、ひとつの道徳的振る舞いを人類に示しているのである。そのことは、人類が、現在の志向様式を変え、動物崇拝的な行動も人間中心主義も放棄して、生命の擁護を中心に据えた行動と倫理を採用しなければならないことを意味する。
そこにおいて、動物の権利の世界宣言は、人間の知性と道徳の歴史の中で重要な一歩をなすのである。