私は仕事のないときは外出したくないので黙っているがやっぱり気になるから夫に聞いた。そしたら夫は言ったことは覚えているが「お前は行きたくないと言った」と言っている。覚えている。私は外出しない時は化粧するのが面倒である。
今日は遅くまで寝てしまった。疲れているのだろうか。
今日は空が曇っている。
3月15日、もうすぐ彼岸に入る。早い。この間元旦と思っていたらもう桃の節句は終わって卒業式シーズン、そしてやがて入学式になる。
こんなことを考えていると大人になると1年は早い。
することが多いから早いのだろうか。
私は1957年(昭和32年)に中学校に入学した。
桜が咲いていた。みんな親と一緒にきているのに私は親がこなかった。
母親は小学校の時1回参観日に顔を出しただけである。学校にはこなかった。
小学校の卒業式は親に来てほしいと思わなかったのに中学校の入学式のときは来てほしいと思ったが親にいえなかった。
そして民族丸出しの母にはきてほしくなかった。
どこから見ても知的で民族が見えない父親に入学式に来てほしかったが来てほしいとはいえなかった。父親なら民族が見えない教養のある人に見えるので来てほしいと思ったが来てくれなかった。
当時は国鉄だった。朝1番の京都行きの列車に乗って会社に行き京都で終電車前まで仕事して終電車で家に帰ってきた。働いていた。また管理職だったのでいつも終電車で帰っていた。
そんな父親だった。
日曜日はたいてい家にいた。いつも新聞を読んでいた。茶の間で新聞を読んでいた。
中学1年の6月、弟ができた。やっと男の子ができた。この男の子は溺愛をした。女の子には関心を向けなかったことも関心を向けた。
町内会の子ども会の役員も引き受けて子どもたちを遊園地につれていったりした。仕事が忙しいので弟の参観日には顔をださなかったが弟のことには気配りを大分していた。
なんかふとそんなことを思い出した。
私が入学式のとき桜が咲いていた。その横になんの木か忘れたが葉っぱをとって好き、嫌いという遊び方を誰かが教えてくれた。私はなぜ好き、嫌いを葉っぱでする意味がわからなかったが大人になるにつれてその意味がわかった。
あのとき真新しい紺のセーラー服を着ていた私、襞スカートで白い線が3本入ったセーラー服、ネクタイはエンジ色だった。なつかしいなあ。
さて高校入学の時は桜がさいていたのかまったく記憶がない。入学式のことは何も覚えていない。
なぜだろう。何も覚えていないのはなぜだろう。
入学式前に父親が「高校の教科書をきちんとそろえたのか」と私に何度も聞き、母親にも「ちゃんとお金は払っているのか」と聞いていた。
こんなことを思い出すと女の子が嫌いと言っていた父親だがちょっとは私のことを気にしてくれていたのだろうか。
父親は母親にやかましく言っていたのは「制服と教科書」は新しいものをそろえるようにと言い聞かせていた。無学な母親にはわからないことが多くある。そんなとき学校教育を体験した父親は子どもの学習教材にはいつも気にかけていた。
小学校のころはたまには私の筆箱を見て鉛筆が小さくなっているとすぐ母親を呼んで母親に叱り飛ばしていた。
「こんな小さい鉛筆で勉強できひんやろ」と。
そして今思い出した。
自分がこんなことにも苦労したから子どもの学習教材が気になるのかとずっと思っていたが父親は祖母がしてくれたことを子どもの私たちにも同じことをしてくれたたのかと。
祖母は日本植民地支配になるまで生まれていたのだろう。家はそれなりの家だったのだろう。祖母は韓国語で九九もできた。そしてハングルも読めた。韓国の寺小屋のようところで勉強したと聞いている。
祖母は日本にきて父親には教育の気配りをしたのだろう。
祖母の手料理は上品でその作り方は上手かったと生前、長い間一緒に暮した叔父が言っていた。こんなこともっともっときいておけばよかったと反省している。
そして祖母は政治のこともわかっていたのだろうか。
結婚している私の家に北朝鮮を支持する従姉妹が訪ねてきたことがあった。
そしてしばらくして祖母が実家に来ていた。
そしたら祖母は私に言った。
「あの子には何も話したらあかん。来ても黙ってなんかあかん。家に来ないようにしたほうがいい」と韓国語で私に言ったことがあった。
なんでこんなこと言うのだろうと私はそのときはキョトンとしていたが年齢を重ねてくると祖母は韓国の韓国新聞を読んでいたのでだろう。いろんな韓国事情を知っていたのかということ。そして民族学校で教師をしていたのであのとき彼女はなぜ私の家にきたのか-------。
祖母は何かを感じ取ってめったに怒らない祖母が口調をきつくして従姉妹の訪問を嫌ったことが少し理解できるようになった。従姉妹は何も言わないで帰ったがあれはなんだただろうか。祖母が怒った意味は長い間理解できなかった。
近年、北朝鮮のいろんな事情が表に出てくるとあれはなんだったのだろうか。
何も政治事情、日本も分断国家の政治事情もしらなかった23歳のころである。
中学生のセーラー服のまま大人になった私と私より3歳年下の従兄弟とは天と地ほどの差になっていた。
私は本当に純粋そのものだった。従姉妹はまた違う人生を歩いていた。
結婚して従姉妹は東京に行った。夫の家業に精をだしているだろう。
政治事情に関心がなかった私、父親の影響が大きい。
分断国家になった祖国、政治に翻弄された日本植民地時代を生きた父親は戦後、日本社会で生きた。双方の民族団体にかかわらないようにして生きてきた。
こどもたちにもそれを強要した。
客観的に物を見る中立を貫いた。
そして私も40歳になって民族と向き合う。葛藤にさいなまれた。
「民族のほころび」を体験した。
それから韓国語学習から始まり自分の人生の青写真にはいっていなかった在日韓国人の新聞記者になった。
何年もかかって民族と向き合い自分と言うものを作ってきた。
今もその気持ちは変わっていない。在日韓国人として日本社会で生きている。
政治には偏らないで生きている。ただいろんなことが浮上してきた北の事情には首を縦にふるわけにはいかない事柄がたくさんある。
NOという言葉がよくでてくる。
父親が中立を通した。日本社会で生きて姿勢、今はよくわかる。そしてそれだけ孤独な人生だったとも理解できるようになった。
父親の嫌いなところもたんさんあるがこうした政治事情をよく見ていた父親の先見の目には驚く。
私は中学生の入学式、桜の咲く中を入学した。
あれからずいぶんと時は流れた。あれからいろんなことを体験して今の私を作っている。しかし祖国はまだ分断されたままである。
当時、私と同じ位の人も多く北に帰国したことだろう。
そしてあの時流行った歌、小林旭の「北帰行」は北朝鮮に帰る歌だと大分年を重ねてから知ることになった。
だから、もの悲しい歌と理解できる。
この歌が大好きでレコードを聞いていた同じ年の又従姉妹は31歳でなくなった。いろんなことを思い出した。
今の中学生は早熟である。早熟だから子どものころが短い。
しかし私は子どものころが長かったあの中学、高校時代が今もなつかしい。
今日は遅くまで寝てしまった。疲れているのだろうか。
今日は空が曇っている。
3月15日、もうすぐ彼岸に入る。早い。この間元旦と思っていたらもう桃の節句は終わって卒業式シーズン、そしてやがて入学式になる。
こんなことを考えていると大人になると1年は早い。
することが多いから早いのだろうか。
私は1957年(昭和32年)に中学校に入学した。
桜が咲いていた。みんな親と一緒にきているのに私は親がこなかった。
母親は小学校の時1回参観日に顔を出しただけである。学校にはこなかった。
小学校の卒業式は親に来てほしいと思わなかったのに中学校の入学式のときは来てほしいと思ったが親にいえなかった。
そして民族丸出しの母にはきてほしくなかった。
どこから見ても知的で民族が見えない父親に入学式に来てほしかったが来てほしいとはいえなかった。父親なら民族が見えない教養のある人に見えるので来てほしいと思ったが来てくれなかった。
当時は国鉄だった。朝1番の京都行きの列車に乗って会社に行き京都で終電車前まで仕事して終電車で家に帰ってきた。働いていた。また管理職だったのでいつも終電車で帰っていた。
そんな父親だった。
日曜日はたいてい家にいた。いつも新聞を読んでいた。茶の間で新聞を読んでいた。
中学1年の6月、弟ができた。やっと男の子ができた。この男の子は溺愛をした。女の子には関心を向けなかったことも関心を向けた。
町内会の子ども会の役員も引き受けて子どもたちを遊園地につれていったりした。仕事が忙しいので弟の参観日には顔をださなかったが弟のことには気配りを大分していた。
なんかふとそんなことを思い出した。
私が入学式のとき桜が咲いていた。その横になんの木か忘れたが葉っぱをとって好き、嫌いという遊び方を誰かが教えてくれた。私はなぜ好き、嫌いを葉っぱでする意味がわからなかったが大人になるにつれてその意味がわかった。
あのとき真新しい紺のセーラー服を着ていた私、襞スカートで白い線が3本入ったセーラー服、ネクタイはエンジ色だった。なつかしいなあ。
さて高校入学の時は桜がさいていたのかまったく記憶がない。入学式のことは何も覚えていない。
なぜだろう。何も覚えていないのはなぜだろう。
入学式前に父親が「高校の教科書をきちんとそろえたのか」と私に何度も聞き、母親にも「ちゃんとお金は払っているのか」と聞いていた。
こんなことを思い出すと女の子が嫌いと言っていた父親だがちょっとは私のことを気にしてくれていたのだろうか。
父親は母親にやかましく言っていたのは「制服と教科書」は新しいものをそろえるようにと言い聞かせていた。無学な母親にはわからないことが多くある。そんなとき学校教育を体験した父親は子どもの学習教材にはいつも気にかけていた。
小学校のころはたまには私の筆箱を見て鉛筆が小さくなっているとすぐ母親を呼んで母親に叱り飛ばしていた。
「こんな小さい鉛筆で勉強できひんやろ」と。
そして今思い出した。
自分がこんなことにも苦労したから子どもの学習教材が気になるのかとずっと思っていたが父親は祖母がしてくれたことを子どもの私たちにも同じことをしてくれたたのかと。
祖母は日本植民地支配になるまで生まれていたのだろう。家はそれなりの家だったのだろう。祖母は韓国語で九九もできた。そしてハングルも読めた。韓国の寺小屋のようところで勉強したと聞いている。
祖母は日本にきて父親には教育の気配りをしたのだろう。
祖母の手料理は上品でその作り方は上手かったと生前、長い間一緒に暮した叔父が言っていた。こんなこともっともっときいておけばよかったと反省している。
そして祖母は政治のこともわかっていたのだろうか。
結婚している私の家に北朝鮮を支持する従姉妹が訪ねてきたことがあった。
そしてしばらくして祖母が実家に来ていた。
そしたら祖母は私に言った。
「あの子には何も話したらあかん。来ても黙ってなんかあかん。家に来ないようにしたほうがいい」と韓国語で私に言ったことがあった。
なんでこんなこと言うのだろうと私はそのときはキョトンとしていたが年齢を重ねてくると祖母は韓国の韓国新聞を読んでいたのでだろう。いろんな韓国事情を知っていたのかということ。そして民族学校で教師をしていたのであのとき彼女はなぜ私の家にきたのか-------。
祖母は何かを感じ取ってめったに怒らない祖母が口調をきつくして従姉妹の訪問を嫌ったことが少し理解できるようになった。従姉妹は何も言わないで帰ったがあれはなんだただろうか。祖母が怒った意味は長い間理解できなかった。
近年、北朝鮮のいろんな事情が表に出てくるとあれはなんだったのだろうか。
何も政治事情、日本も分断国家の政治事情もしらなかった23歳のころである。
中学生のセーラー服のまま大人になった私と私より3歳年下の従兄弟とは天と地ほどの差になっていた。
私は本当に純粋そのものだった。従姉妹はまた違う人生を歩いていた。
結婚して従姉妹は東京に行った。夫の家業に精をだしているだろう。
政治事情に関心がなかった私、父親の影響が大きい。
分断国家になった祖国、政治に翻弄された日本植民地時代を生きた父親は戦後、日本社会で生きた。双方の民族団体にかかわらないようにして生きてきた。
こどもたちにもそれを強要した。
客観的に物を見る中立を貫いた。
そして私も40歳になって民族と向き合う。葛藤にさいなまれた。
「民族のほころび」を体験した。
それから韓国語学習から始まり自分の人生の青写真にはいっていなかった在日韓国人の新聞記者になった。
何年もかかって民族と向き合い自分と言うものを作ってきた。
今もその気持ちは変わっていない。在日韓国人として日本社会で生きている。
政治には偏らないで生きている。ただいろんなことが浮上してきた北の事情には首を縦にふるわけにはいかない事柄がたくさんある。
NOという言葉がよくでてくる。
父親が中立を通した。日本社会で生きて姿勢、今はよくわかる。そしてそれだけ孤独な人生だったとも理解できるようになった。
父親の嫌いなところもたんさんあるがこうした政治事情をよく見ていた父親の先見の目には驚く。
私は中学生の入学式、桜の咲く中を入学した。
あれからずいぶんと時は流れた。あれからいろんなことを体験して今の私を作っている。しかし祖国はまだ分断されたままである。
当時、私と同じ位の人も多く北に帰国したことだろう。
そしてあの時流行った歌、小林旭の「北帰行」は北朝鮮に帰る歌だと大分年を重ねてから知ることになった。
だから、もの悲しい歌と理解できる。
この歌が大好きでレコードを聞いていた同じ年の又従姉妹は31歳でなくなった。いろんなことを思い出した。
今の中学生は早熟である。早熟だから子どものころが短い。
しかし私は子どものころが長かったあの中学、高校時代が今もなつかしい。
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