今週は中盤がたて込んでいる。
月曜日の連載を少しずつパソコン入力しないといけない。
在日コリアンの戦後、1940年から1960年代の後半はぼんやりとしっていてもはっきりとしたこがわからなかった。
月曜日の連載をパソコンで入力しているとおよそのことが分かってきた。
1世たちの苦労が偲ばれる。筆舌では尽くせないほどの苦労をして日本で経済構築をされた。そこに祖国は南北分断になりこの傷はずっと癒されることなく1世たちはこの日本で亡くなっていった。
先日、民団のある支部で取材をしているときに民団の関係者が昔のことを話してくれた。
この生野区は民団か総連か。熾烈な戦いを同胞どうしでしてきた。
当時の民団、韓国も動乱の後で食うや食わずで在日韓国人に支援などできなかった。
「在日」も日本の敗戦後で生きることに大変だった。
それでも日本人がしない仕事をして生きていた。
そして皆で知恵やお金を出し合って民団を作った。
そのときの総連はいい話で固めて同胞を北(北朝鮮)に連れて行った。日本も在日朝鮮人を日本から1人でも居なくなることを望んでいた。そして当時の北の指導者、国が廃墟になって建設するのに人材がいなかった。
生活できない在日コリアンにすれば北に行けば生活が出来ると考えて北に帰国していった。
しかし時を経て北朝鮮の化けの皮が剥がれた。
どんなに総連は罪なことをしたのか。北に送ったが北がよかったらまず真っ先に自分たちが帰ったはずだ。なぜ帰らなかったのか。そこに答えが見えている。
そして化けの皮が剥がれて今その答えが出ている。罪なことをした。
家内工業をしながら民団を私たちは支えてきた。
今、民団は時代の流れで日本国籍を取る人が増えている。
日本の行政は差別が多少少なくなっているものの日本人の意識は昔と何も変わらない。こうした日本人のあり方に帰化者が増加していく。日本人と同等の扱いをすれば帰化者は少なくなっていく。
こうした話に彼の実感がこもっていた。
韓国で生まれて動乱に巻き込まれて幼い頃、親と一緒に大阪に密航してきた。
以前は大阪本部で勤務しておられたがものすごく怖い印象だったがその職務から離れてからは私の知らない歴史をゆっくりと分かるように話して下さる。
1日、話を聞いていても飽きない。
1世たちの体験はもっともっと聞かなければならないと自分に言い聞かせている。親から聞くことを逃げていた若い時代、日本人になろうと思っていた。
それがある日、民族のほころびに会い韓国語を習うことで帰化を踏みとどまった。そのとき父親に1世の生き様を聞こうとしたら父親と会うことが出来ないくらいに仕事に忙殺された。
ようやく仕事の量が落ち着いた時父親は病の床についていた。
もっと聞けばよかった。
23歳で結婚して実家を出た。
本家の長女の出戻りは禁止だった。
家の恥だった。
祖母は私に言い聞かせた。
「離婚しても絶対に家に帰ってきてはいけない。骨になっても軒先で死ぬこと」と何度も言い聞かせた。韓国語で何度も話していた。娘時代は、なにげなしに聞いていたが結婚してみると祖母の言葉に大変な意味があることを知った。
父親は実家のことより嫁ぎ先に染まることを願い実家の祭祀の歴史は私に教えようとしなかった。嫁ぎ先に慣れるように私に言い聞かせた。
そして子どもが大きくなって高校生になるころになるとやっと父親は私が婚家に落ち着くと考えて少しずつ実家の祭祀のことも話してくれるようになったが今度は私が仕事で忙殺される日々になった。
弟には1945年8月15日前夜の自分の位置など話して日本の戦争が負ける裏話も話していたという。そんなことも聞きたかったが女性の私には話さなかった。
そして家は裕福ではなかったのに弟の大学受験、1浪して国公立の受験をさせなかった。現役で大学に入れることだった。
そして私学の大学に入れた。
父親は弟の生活状況は常に見ていた。
何を恐れたのか。
1浪すると浪人している弟を周りの総連関係者が引っ張り込むことを恐れた。
妹が高校卒業して家で家事をしているときに町の総連関係者が来た。
父親に言う。
「娘さん、ウリマル(自国の言葉)を勉強するのに来て頂けませんか」と。
そのとき父親は言った。
「何、ウリマルの勉強、お前らウリマルの勉強なんかしてへん。爆弾を作る勉強しているところに娘はやれるか」と言って玄関の戸をピシャンと閉めたという。
これは妹から聞いた話である。
爆弾の話は1960年代の後半である。
そして拉致ということば、1975年前後に父親から直接聞いた。
日本海に家族や親戚たちと泳ぎに行くと帰ってくるたびに父親は怒った。
「拉致されるからいったらあかん」と。
私は昔みたいにサーカスの人さらいでもないのにと思って「そんな今時にない」と言ったら父親ははっきりと「北朝鮮が拉致する」と言った。
それでもまだ信じられなくて「嘘」と叫んでいた。
そして長い年月を経てある新聞に横田めぐみさんの拉致が掲載されそして元総連者が北朝鮮と総連の工作員と拉致を暴露した著書を出版された。
やっとここで父親の話は本当だったと気がついた。
父親がいつも女は嫌いと言っていた。そんな環境で育った。娘には愛情がないと思っていたが拉致被害者が明るみになってきてやっと父親が家族を守ろうと必死になっていたことが分かった。
9人兄弟の父親、2家族の北朝鮮支持者の言葉、中傷、非難にもめげず家族を守るために双方の組織に属さないで日本の会社員で生涯を通した。
民族気質を持って生きていたが家族を守るために兄弟の中では中立を通したが北朝鮮の実態を何時頃から知ったのか1960年代の後半になると親戚の誰かかが北朝鮮の良いことを話すと「そんならお前が先に北朝鮮に帰ったらいい。人に進める前に自分が先に帰ったらいい。帰れないのは北朝鮮の事情をしっているから」と批判した。
それからこの人は実家に足を運ぶことがなかった。
その後は父親が亡くなったときだけである。
もっと父親に分断の話など聞いておきたかったが多感な青春時代は私に向かって決して祖国の話は政治的に話さなかった。父親の口癖は「政治に関与するな」だった。文章を書き始めた娘の私にどんなにハラハラしていただろうと今なら分かる。
先日、民団関係の年輩者にかつての民団創設の話と総連との戦いを聞いて1世の話にもっと細部に耳を傾けなければならないと思った。
他にここに書けないこともいっぱい話してくれた。
取材現場を少し横にそれて雑談している中に今起きている現実の状況も民団関係者の雑談からヒントがたくさん見えていた。
それにようやく気がつくのは新聞記事になってからである。
あの話はこれだったのかと、やっと気がついている。
裏で声が飛ぶ。
「それでも新聞記者か」と。
私は危険な橋は渡れない。
慎重に生きてきた父親の影響をたくさん受けている。
私の人生は危険な橋に渡らないでその大分前で引き返している。
静かに平凡に暮らしていく生活を大事にしてきた。
もし「日本人のふりをして日本の記事を書きたくない」というジレンマ、雑誌記者時代に体験していなかったらそのまま日本国籍を取っていた。
「日本人のふりをして日本の記事を書きたくない」気持ちの葛藤、先人たちが私に葛藤を与え民族を忘れない生き方を選択させた。
女であっても本家直系の第1子として生まれた使命感を先祖が与えたと思っている。
これも私に与えられた運命だったと思っている。
この仕事をしたことに次世代に何かを残していく役割があると思っている。
私が差別されたからと言ってこのブログを書いているのではない。
私は木津という町で育ちまわりは日本人の中で育ったが地域ではそんなに大きい差別も受けることなく地域の人に育ててもらった。
小さな差別表現は数回体験しているが大阪や京都などで暮らした同胞から見ると私のは差別のうちに入らない。
たまたま民団新聞の中で職を得ている。これも私に与えられたところと考えて体が健康で動ける間は1人も多く取材して記事にして喜んでもらうように努力している。
またホームページは勉強不足であることを私自身がよく知っている。文献著書を出してきて伝えることが役目と思ってしている。
中には差別にあってきたから在日コリアンのことを書いているという心ないコメントに胸がふさがれる。
こんなとき日本人の視野の狭さを痛烈に感じている。
民団の関係者が言った。
「日本の行政は差別をなくしているが日本人の意識はまったく変わっていないから差別はなくならい」と強固に言った言葉の意味をまた思い出している。
月曜日の連載を少しずつパソコン入力しないといけない。
在日コリアンの戦後、1940年から1960年代の後半はぼんやりとしっていてもはっきりとしたこがわからなかった。
月曜日の連載をパソコンで入力しているとおよそのことが分かってきた。
1世たちの苦労が偲ばれる。筆舌では尽くせないほどの苦労をして日本で経済構築をされた。そこに祖国は南北分断になりこの傷はずっと癒されることなく1世たちはこの日本で亡くなっていった。
先日、民団のある支部で取材をしているときに民団の関係者が昔のことを話してくれた。
この生野区は民団か総連か。熾烈な戦いを同胞どうしでしてきた。
当時の民団、韓国も動乱の後で食うや食わずで在日韓国人に支援などできなかった。
「在日」も日本の敗戦後で生きることに大変だった。
それでも日本人がしない仕事をして生きていた。
そして皆で知恵やお金を出し合って民団を作った。
そのときの総連はいい話で固めて同胞を北(北朝鮮)に連れて行った。日本も在日朝鮮人を日本から1人でも居なくなることを望んでいた。そして当時の北の指導者、国が廃墟になって建設するのに人材がいなかった。
生活できない在日コリアンにすれば北に行けば生活が出来ると考えて北に帰国していった。
しかし時を経て北朝鮮の化けの皮が剥がれた。
どんなに総連は罪なことをしたのか。北に送ったが北がよかったらまず真っ先に自分たちが帰ったはずだ。なぜ帰らなかったのか。そこに答えが見えている。
そして化けの皮が剥がれて今その答えが出ている。罪なことをした。
家内工業をしながら民団を私たちは支えてきた。
今、民団は時代の流れで日本国籍を取る人が増えている。
日本の行政は差別が多少少なくなっているものの日本人の意識は昔と何も変わらない。こうした日本人のあり方に帰化者が増加していく。日本人と同等の扱いをすれば帰化者は少なくなっていく。
こうした話に彼の実感がこもっていた。
韓国で生まれて動乱に巻き込まれて幼い頃、親と一緒に大阪に密航してきた。
以前は大阪本部で勤務しておられたがものすごく怖い印象だったがその職務から離れてからは私の知らない歴史をゆっくりと分かるように話して下さる。
1日、話を聞いていても飽きない。
1世たちの体験はもっともっと聞かなければならないと自分に言い聞かせている。親から聞くことを逃げていた若い時代、日本人になろうと思っていた。
それがある日、民族のほころびに会い韓国語を習うことで帰化を踏みとどまった。そのとき父親に1世の生き様を聞こうとしたら父親と会うことが出来ないくらいに仕事に忙殺された。
ようやく仕事の量が落ち着いた時父親は病の床についていた。
もっと聞けばよかった。
23歳で結婚して実家を出た。
本家の長女の出戻りは禁止だった。
家の恥だった。
祖母は私に言い聞かせた。
「離婚しても絶対に家に帰ってきてはいけない。骨になっても軒先で死ぬこと」と何度も言い聞かせた。韓国語で何度も話していた。娘時代は、なにげなしに聞いていたが結婚してみると祖母の言葉に大変な意味があることを知った。
父親は実家のことより嫁ぎ先に染まることを願い実家の祭祀の歴史は私に教えようとしなかった。嫁ぎ先に慣れるように私に言い聞かせた。
そして子どもが大きくなって高校生になるころになるとやっと父親は私が婚家に落ち着くと考えて少しずつ実家の祭祀のことも話してくれるようになったが今度は私が仕事で忙殺される日々になった。
弟には1945年8月15日前夜の自分の位置など話して日本の戦争が負ける裏話も話していたという。そんなことも聞きたかったが女性の私には話さなかった。
そして家は裕福ではなかったのに弟の大学受験、1浪して国公立の受験をさせなかった。現役で大学に入れることだった。
そして私学の大学に入れた。
父親は弟の生活状況は常に見ていた。
何を恐れたのか。
1浪すると浪人している弟を周りの総連関係者が引っ張り込むことを恐れた。
妹が高校卒業して家で家事をしているときに町の総連関係者が来た。
父親に言う。
「娘さん、ウリマル(自国の言葉)を勉強するのに来て頂けませんか」と。
そのとき父親は言った。
「何、ウリマルの勉強、お前らウリマルの勉強なんかしてへん。爆弾を作る勉強しているところに娘はやれるか」と言って玄関の戸をピシャンと閉めたという。
これは妹から聞いた話である。
爆弾の話は1960年代の後半である。
そして拉致ということば、1975年前後に父親から直接聞いた。
日本海に家族や親戚たちと泳ぎに行くと帰ってくるたびに父親は怒った。
「拉致されるからいったらあかん」と。
私は昔みたいにサーカスの人さらいでもないのにと思って「そんな今時にない」と言ったら父親ははっきりと「北朝鮮が拉致する」と言った。
それでもまだ信じられなくて「嘘」と叫んでいた。
そして長い年月を経てある新聞に横田めぐみさんの拉致が掲載されそして元総連者が北朝鮮と総連の工作員と拉致を暴露した著書を出版された。
やっとここで父親の話は本当だったと気がついた。
父親がいつも女は嫌いと言っていた。そんな環境で育った。娘には愛情がないと思っていたが拉致被害者が明るみになってきてやっと父親が家族を守ろうと必死になっていたことが分かった。
9人兄弟の父親、2家族の北朝鮮支持者の言葉、中傷、非難にもめげず家族を守るために双方の組織に属さないで日本の会社員で生涯を通した。
民族気質を持って生きていたが家族を守るために兄弟の中では中立を通したが北朝鮮の実態を何時頃から知ったのか1960年代の後半になると親戚の誰かかが北朝鮮の良いことを話すと「そんならお前が先に北朝鮮に帰ったらいい。人に進める前に自分が先に帰ったらいい。帰れないのは北朝鮮の事情をしっているから」と批判した。
それからこの人は実家に足を運ぶことがなかった。
その後は父親が亡くなったときだけである。
もっと父親に分断の話など聞いておきたかったが多感な青春時代は私に向かって決して祖国の話は政治的に話さなかった。父親の口癖は「政治に関与するな」だった。文章を書き始めた娘の私にどんなにハラハラしていただろうと今なら分かる。
先日、民団関係の年輩者にかつての民団創設の話と総連との戦いを聞いて1世の話にもっと細部に耳を傾けなければならないと思った。
他にここに書けないこともいっぱい話してくれた。
取材現場を少し横にそれて雑談している中に今起きている現実の状況も民団関係者の雑談からヒントがたくさん見えていた。
それにようやく気がつくのは新聞記事になってからである。
あの話はこれだったのかと、やっと気がついている。
裏で声が飛ぶ。
「それでも新聞記者か」と。
私は危険な橋は渡れない。
慎重に生きてきた父親の影響をたくさん受けている。
私の人生は危険な橋に渡らないでその大分前で引き返している。
静かに平凡に暮らしていく生活を大事にしてきた。
もし「日本人のふりをして日本の記事を書きたくない」というジレンマ、雑誌記者時代に体験していなかったらそのまま日本国籍を取っていた。
「日本人のふりをして日本の記事を書きたくない」気持ちの葛藤、先人たちが私に葛藤を与え民族を忘れない生き方を選択させた。
女であっても本家直系の第1子として生まれた使命感を先祖が与えたと思っている。
これも私に与えられた運命だったと思っている。
この仕事をしたことに次世代に何かを残していく役割があると思っている。
私が差別されたからと言ってこのブログを書いているのではない。
私は木津という町で育ちまわりは日本人の中で育ったが地域ではそんなに大きい差別も受けることなく地域の人に育ててもらった。
小さな差別表現は数回体験しているが大阪や京都などで暮らした同胞から見ると私のは差別のうちに入らない。
たまたま民団新聞の中で職を得ている。これも私に与えられたところと考えて体が健康で動ける間は1人も多く取材して記事にして喜んでもらうように努力している。
またホームページは勉強不足であることを私自身がよく知っている。文献著書を出してきて伝えることが役目と思ってしている。
中には差別にあってきたから在日コリアンのことを書いているという心ないコメントに胸がふさがれる。
こんなとき日本人の視野の狭さを痛烈に感じている。
民団の関係者が言った。
「日本の行政は差別をなくしているが日本人の意識はまったく変わっていないから差別はなくならい」と強固に言った言葉の意味をまた思い出している。
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