いいかげん涼しくなってほしい。
猛暑はもう飽きた。
この暑さに本当に涼しくなって秋が来るのだろうかと思う。
しかし日本列島はきっちり春・夏・秋・冬とやってくる。
けれどこの温暖化で夏の季節が長くなったような気がする。
気温も何度か高くなったような気がしている。
私の心の中はまだ舟木一夫の「学園広場」が残っているのかなにかの時に「学園広場」の歌を心で歌っている。土曜日のNHKの「思い出のメロデイー」がまだ残っているようだ。
舟木一夫と私と同じ年、昭和19年生まれ(1944年)、高校卒業してデビューした。高校卒業後の昭和38年(1963年)にデビュー曲「高校三年生」で一躍、スターになった。
高校卒業後と「高校三年生」の歌、詰襟でデビューした。
高校三年生の歌はどの人の心にも入るほど歌いやすい歌だった。
私も卒業してOL生活をしたばかりだった。
妹が「この歌ええよ」といって歌っていたのが「学園広場」だった。
―空に向かってあげた手に
―若さがいっぱい飛んでいた
―学園広場で肩組み合って
―友とうたった若い歌
―涙ながした友もある
―愉快に騒いだ時もある
―学園広場に咲いている花の
―ひとつひとつが思い出さ
―ぼくが卒業してからも
―忘れはしないよ いつまでも
―学園広場は青春広場
―夢と希望がある広場
1番はすんなりでてきたものの最後のところがあいまいです。
インターネットで検索してみると歌詞があった。
歌詞をここに書いてみた。
私が過ごした1960年(昭和35年4月)から1963年(昭和38年3月)まで過ごした京都府立木津高校は山の上にあった。
内田山という山のところにあった。
日本が敗戦した後、15年後の高校生だった。
まだまだ日本は貧しく集団就職というのがあった。
東京や大阪に日本全国から中学を卒業した子どもたちが集団就職列車に乗ってやってきた。まだまだ就職する生徒が多い時代だった。
私は洋裁学校に行く予定になっていた。しかし3年の担任教師は時代を予見しておられた。これからの時代は高校卒業者が増えてくると見越しておられたのだろう。木津高校の進学を勧めて下さった。担任教師の時代の見方で私は木津高校に入学した。
この担任教師について私たちの卒業生は「好き」と「嫌い」がはっきりとわかれるらしい。その理由は「先生のえこ贔屓」があったという。私はそんなことを1度も感じたことがなかった。
ただ私に高校進学を勧め、数学と美術担当の教師は私に版画展などになるといつも金賞や銀賞の紙を貼ってくれていた。
当時はただ先生が評価して賞をくれていると思っていたが、小学校の同窓会で同級生たちに会うとこの教師の「えこ贔屓」が話題に出た。
そんなときに中学3年の担任教師のことが脳裏を走る。
美術の時間になると奈良時代の建物やまた広隆寺の弥勒菩薩像になると仏教や弥勒菩薩像などが渡ってきたのは「朝鮮半島から来たのです。今の大韓民国です。中国ではありません。韓国の中央博物館に行くとこれと同じものがあります。韓国の弥勒菩薩を見ています」と話す。私はまた朝鮮という言葉に下を向いていると教師は拳骨で黒板をどんどんと何度も叩く。私が顔をあげると黒板を叩くことをやめられた。
朝鮮半島から伝わって今の日本を作った。奈良は朝鮮半島から伝わったものがあると教えていた。このことを知って私に自信を持ってほしかったのだろう。
長い人生を経て、縁があって在日韓国人の新聞社の記者になった。
京都市立郁文中学校の夜間中学を取材してこれが縁でまた私は1世のオモニ(お母さん)や教師の前で講演することになった。
それでどうしても中学3年の担任教師に会って聞きたいことがあった。
探してようやく京都市内に住んでおられるということがわかった。
講演前にこの先生と京都市河原町の喫茶店で卒業してから初めてお会いすることになった。
私が聞きたかったこと。
「あの当時はまだまだ在日朝鮮人に差別が多かったのに私にどうして木津高校の進学を勧めたのですか。在日の私をどうして大事にして下さったのですか」と。
担任教師は「君は在日だったから日本で自信を持って生きてほしかったから高校進学を勧めたのです。それに私は学生時代、朝鮮半島で過しました。日本の終戦で朝鮮から引き上げることになりました。周りの朝鮮人にとてもよくしてもらいました。日本に帰るときに近所の朝鮮人たちが手をふって見送ってくれました。そのときの女性たちが着ていたチョゴリの袖のことが今も目に残っています」と話した。
担任教師は何かの経験があったのだった。そうでないと在日朝鮮人の生徒の家を訪問して熱心に高校進学を勧めたりしなかっただろう。
母親は手に技術を持たせて結婚して家庭を持っても洋裁して家計を助けることができるということで洋裁学校を勧めた。担任教師は頑として高校進学を勧めた。担任教師は時代背景を読み取っておられた。
私たちの卒業生、昭和37年度(1962年度)が最後の古い教科書になり「38年改訂」といって38年度の高校入学生から新しい教科書、クラス編成も変わって地学、倫理など新しい教科も増えた。
38年度に入学した妹は私に新しい教科書を見せてくれていたので今もそのことは覚えている。
この「38年改訂」のことは担任教師と喫茶店でお会いした時に「君たちが古い教科書の最後の世代だよ」と行って「38年改訂」のことを話して下さった。
喫茶店でお会いして会話のできなかった私がよく話すようになっていたのでまず担任教師は驚いておられた。講演は同じ中学で2回したが2回とも足が震えて声も震えて講演というものを私は向いていないと自分で判断していた。
それから講演の話を頂いてもきっぱりとお断りしている。
足も声も震えている自分を想像するととても講演を引き受ける気持ちになれない。
自分の勉強不足も思い知らされる。これも自分がよく知っているので講演をお断りする理由の1つです。本来は記者生活をしながら講演活動をする人もおられる。しかし私は講演者には向いていないと思っている。それでお断りをしている。悪く思わないで下さい。会話のできなかった子どもの私の本来の性格がそんなところに見え隠れしている。
大人になって奈良に住んでいると時々、中学3年の担任教師を思いだす。
古代史の宝庫、古代朝鮮半島から渡来した文化の中で暮らしているとふとした時に思い出している。
この時に同じクラスだったMさんも脳裏に浮かんでくる。
頭が良くて人柄もよくて社交的な彼女、木津高校に行くと彼女は木津高校一のモダンガールと言われるほど考えた方もおしゃれも時代の先端をいっていた。
私は中学3年が同じクラスだったので少し親しくしていた。
その彼女の嫁いだところの近くから通っている美容師にあった。
最近、美容院でのカラーの担当が変わって住んでいるところを聞くとJR関西線の加茂駅の近くだった。
同級生の話をするとよく知っておられた。
またまわりまわって人の縁ができている。
「学園広場」と聞くと木津高校の中庭、クロバーがいっぱい咲いていた中庭を思いだす。ここに座り話したこと。私はまだ見たこともなかったが同級生たちが話す話題に耳を傾けていた。洋画の話が主だった。「嵐が丘」「風と共に去りぬ」「エデンの東」などなど。誰かがもうすでに歌っていた歌は「学生時代」だった。ポップ歌謡の全盛期、この中庭でクラスメイトたちから聞いて今も耳に残っていて昭和のポップ歌謡の懐かしいものになった。アメリカから入ってくる歌に魅了された時代だった。
一方、日活映画全盛期、石原裕次郎など多くのスターの話題がこの中庭から上がった。赤木圭一郎が事故死した。この話題も多く上がった。1961年初めのことだった。
私は世間も知らない。会話も苦手で人の話を黙って聞いているだけだった。
けれどその中庭に座って人の話を聞いていることが青春だった。
そんな光景を思い出している。
カメラも当時は持っている人は少ない。
それが男子生徒の誰かがカメラを持ってきてお目当ての女性にカメラを向けていた男子生徒がいた。当時、カメラは珍しくてそのカメラのレンズの行方を見たものだった。
今朝のブログは長くなった。
同級生たちに中学3年の時のある教師のことを知ってもらいたくてつい長く書いてしまった。このへんでまた。
猛暑はもう飽きた。
この暑さに本当に涼しくなって秋が来るのだろうかと思う。
しかし日本列島はきっちり春・夏・秋・冬とやってくる。
けれどこの温暖化で夏の季節が長くなったような気がする。
気温も何度か高くなったような気がしている。
私の心の中はまだ舟木一夫の「学園広場」が残っているのかなにかの時に「学園広場」の歌を心で歌っている。土曜日のNHKの「思い出のメロデイー」がまだ残っているようだ。
舟木一夫と私と同じ年、昭和19年生まれ(1944年)、高校卒業してデビューした。高校卒業後の昭和38年(1963年)にデビュー曲「高校三年生」で一躍、スターになった。
高校卒業後と「高校三年生」の歌、詰襟でデビューした。
高校三年生の歌はどの人の心にも入るほど歌いやすい歌だった。
私も卒業してOL生活をしたばかりだった。
妹が「この歌ええよ」といって歌っていたのが「学園広場」だった。
―空に向かってあげた手に
―若さがいっぱい飛んでいた
―学園広場で肩組み合って
―友とうたった若い歌
―涙ながした友もある
―愉快に騒いだ時もある
―学園広場に咲いている花の
―ひとつひとつが思い出さ
―ぼくが卒業してからも
―忘れはしないよ いつまでも
―学園広場は青春広場
―夢と希望がある広場
1番はすんなりでてきたものの最後のところがあいまいです。
インターネットで検索してみると歌詞があった。
歌詞をここに書いてみた。
私が過ごした1960年(昭和35年4月)から1963年(昭和38年3月)まで過ごした京都府立木津高校は山の上にあった。
内田山という山のところにあった。
日本が敗戦した後、15年後の高校生だった。
まだまだ日本は貧しく集団就職というのがあった。
東京や大阪に日本全国から中学を卒業した子どもたちが集団就職列車に乗ってやってきた。まだまだ就職する生徒が多い時代だった。
私は洋裁学校に行く予定になっていた。しかし3年の担任教師は時代を予見しておられた。これからの時代は高校卒業者が増えてくると見越しておられたのだろう。木津高校の進学を勧めて下さった。担任教師の時代の見方で私は木津高校に入学した。
この担任教師について私たちの卒業生は「好き」と「嫌い」がはっきりとわかれるらしい。その理由は「先生のえこ贔屓」があったという。私はそんなことを1度も感じたことがなかった。
ただ私に高校進学を勧め、数学と美術担当の教師は私に版画展などになるといつも金賞や銀賞の紙を貼ってくれていた。
当時はただ先生が評価して賞をくれていると思っていたが、小学校の同窓会で同級生たちに会うとこの教師の「えこ贔屓」が話題に出た。
そんなときに中学3年の担任教師のことが脳裏を走る。
美術の時間になると奈良時代の建物やまた広隆寺の弥勒菩薩像になると仏教や弥勒菩薩像などが渡ってきたのは「朝鮮半島から来たのです。今の大韓民国です。中国ではありません。韓国の中央博物館に行くとこれと同じものがあります。韓国の弥勒菩薩を見ています」と話す。私はまた朝鮮という言葉に下を向いていると教師は拳骨で黒板をどんどんと何度も叩く。私が顔をあげると黒板を叩くことをやめられた。
朝鮮半島から伝わって今の日本を作った。奈良は朝鮮半島から伝わったものがあると教えていた。このことを知って私に自信を持ってほしかったのだろう。
長い人生を経て、縁があって在日韓国人の新聞社の記者になった。
京都市立郁文中学校の夜間中学を取材してこれが縁でまた私は1世のオモニ(お母さん)や教師の前で講演することになった。
それでどうしても中学3年の担任教師に会って聞きたいことがあった。
探してようやく京都市内に住んでおられるということがわかった。
講演前にこの先生と京都市河原町の喫茶店で卒業してから初めてお会いすることになった。
私が聞きたかったこと。
「あの当時はまだまだ在日朝鮮人に差別が多かったのに私にどうして木津高校の進学を勧めたのですか。在日の私をどうして大事にして下さったのですか」と。
担任教師は「君は在日だったから日本で自信を持って生きてほしかったから高校進学を勧めたのです。それに私は学生時代、朝鮮半島で過しました。日本の終戦で朝鮮から引き上げることになりました。周りの朝鮮人にとてもよくしてもらいました。日本に帰るときに近所の朝鮮人たちが手をふって見送ってくれました。そのときの女性たちが着ていたチョゴリの袖のことが今も目に残っています」と話した。
担任教師は何かの経験があったのだった。そうでないと在日朝鮮人の生徒の家を訪問して熱心に高校進学を勧めたりしなかっただろう。
母親は手に技術を持たせて結婚して家庭を持っても洋裁して家計を助けることができるということで洋裁学校を勧めた。担任教師は頑として高校進学を勧めた。担任教師は時代背景を読み取っておられた。
私たちの卒業生、昭和37年度(1962年度)が最後の古い教科書になり「38年改訂」といって38年度の高校入学生から新しい教科書、クラス編成も変わって地学、倫理など新しい教科も増えた。
38年度に入学した妹は私に新しい教科書を見せてくれていたので今もそのことは覚えている。
この「38年改訂」のことは担任教師と喫茶店でお会いした時に「君たちが古い教科書の最後の世代だよ」と行って「38年改訂」のことを話して下さった。
喫茶店でお会いして会話のできなかった私がよく話すようになっていたのでまず担任教師は驚いておられた。講演は同じ中学で2回したが2回とも足が震えて声も震えて講演というものを私は向いていないと自分で判断していた。
それから講演の話を頂いてもきっぱりとお断りしている。
足も声も震えている自分を想像するととても講演を引き受ける気持ちになれない。
自分の勉強不足も思い知らされる。これも自分がよく知っているので講演をお断りする理由の1つです。本来は記者生活をしながら講演活動をする人もおられる。しかし私は講演者には向いていないと思っている。それでお断りをしている。悪く思わないで下さい。会話のできなかった子どもの私の本来の性格がそんなところに見え隠れしている。
大人になって奈良に住んでいると時々、中学3年の担任教師を思いだす。
古代史の宝庫、古代朝鮮半島から渡来した文化の中で暮らしているとふとした時に思い出している。
この時に同じクラスだったMさんも脳裏に浮かんでくる。
頭が良くて人柄もよくて社交的な彼女、木津高校に行くと彼女は木津高校一のモダンガールと言われるほど考えた方もおしゃれも時代の先端をいっていた。
私は中学3年が同じクラスだったので少し親しくしていた。
その彼女の嫁いだところの近くから通っている美容師にあった。
最近、美容院でのカラーの担当が変わって住んでいるところを聞くとJR関西線の加茂駅の近くだった。
同級生の話をするとよく知っておられた。
またまわりまわって人の縁ができている。
「学園広場」と聞くと木津高校の中庭、クロバーがいっぱい咲いていた中庭を思いだす。ここに座り話したこと。私はまだ見たこともなかったが同級生たちが話す話題に耳を傾けていた。洋画の話が主だった。「嵐が丘」「風と共に去りぬ」「エデンの東」などなど。誰かがもうすでに歌っていた歌は「学生時代」だった。ポップ歌謡の全盛期、この中庭でクラスメイトたちから聞いて今も耳に残っていて昭和のポップ歌謡の懐かしいものになった。アメリカから入ってくる歌に魅了された時代だった。
一方、日活映画全盛期、石原裕次郎など多くのスターの話題がこの中庭から上がった。赤木圭一郎が事故死した。この話題も多く上がった。1961年初めのことだった。
私は世間も知らない。会話も苦手で人の話を黙って聞いているだけだった。
けれどその中庭に座って人の話を聞いていることが青春だった。
そんな光景を思い出している。
カメラも当時は持っている人は少ない。
それが男子生徒の誰かがカメラを持ってきてお目当ての女性にカメラを向けていた男子生徒がいた。当時、カメラは珍しくてそのカメラのレンズの行方を見たものだった。
今朝のブログは長くなった。
同級生たちに中学3年の時のある教師のことを知ってもらいたくてつい長く書いてしまった。このへんでまた。
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