鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

暖かい春の日差しにじっとしておられなくて---。

2006-04-17 17:24:36 | 直言!
整理
パソコン機器などベランダのある部屋に置き換えて今、パソコン機器を置いているリビング、居間兼仕事場になっている。もうそろそろ分離してリビングを広く使えるようにしなければならない。沖縄にいる孫も大きくなってきたのでいずれ奈良にきて寝泊りするようになるだろうから広く使えるようにしておかなければならない。おもいきって捨てるものは捨てるということに頭を切り替えた。
昨年12月の12日と13日、2日かけて取材資料の封筒、紐で縛ると50個ほどにもなった。
ベランダ側の部屋にあった本棚の本、500冊は越える本を縛って捨てた。
軽トラ1台にもなった。
13日は今冬1番寒い日で冷え込み雪もちらついた。
これでとうとう私は疲れと風邪でダウン、38度の光熱が4・5日も続き体調回復は2月までかかった。それから夫には部屋の整理は春になってからするようにと釘をさされてしまった。
そして今日は暖かい。春の日差しにじっと座っておれない。
押入れの下に整理してあった取材資料、覚書ノートなど縛って整理した。本も多少整理した。それでもまだ捨てる本と残す本の整理する本、本棚にまだ3段ほどある。思うだけで気がしんどい。なぜもっと早くに捨てなかったのかと後悔している。
おもきって捨てないと家の中が片付かない。
整理していると取材で使った写真がたくさん残っていた。日本の取材の写真は全部捨てることにしても韓国の取材の写真は捨てることができないと考えてこれも少し整理した。
そしたら大事な写真がでてきた。
韓国で取った友人、知人たちと一緒にとった写真があった。
ソウル龍山区にあるハイアットホテルで女友達2人と待ち合わせをしてここでコーヒーを飲んで江南区の野菜専門のレストランに昼食を食べに行ったときの写真がでてきた。
まだ私はスマートでまだ若さがはちきれていた。
これは1996年8月12日~18日、京都市外国人教育研集会で京都の公立中学校の教師たちと同行取材をしたときの写真でである。
今は亡き京都市市立郁文中学校の若原先生も移っている。パコダ(タブタル)公園にある独立運動のレリーフの前で記念撮影をしている。
このとき日本人の学校教師に日本植民地時代の歴史をとうとうと教師に説明するハラボジ(おじいさん)がでてきて困ったことも思い出した。
このとき、一行とソウルで別れた後、20日から行われた日本から来る在日韓国教育者大会の一行とソウルで合流した。オリンピックホテルで宿泊をした。
その時の写真も一緒に袋に入っているだろうがとりあえず今手元にこの写真がでてきた。
17日に一行と別れてオリンピックホテルに行くまで明洞の世宗ホテルで泊まって1人で景福宮に行き翌日はまた1人で戦争記念館に行き見学をした。
韓国動乱の様子が詳しく展示されていいた。涙ぐみながら見学したことを思い出した。
一行と別れた後、ソウル在住の女友達とあって食事をしたり、ーヒーを飲んだりした。
世宗ホテルは明洞にはすぐ近くにあり1人でブラブラしていても飽きない。
しかし安心はできない。
女1人の夜遅くあることはしてはいけないと気がついた。
夜11時ごろ、お腹がすいてきたのでホテル近くのパン屋にパンを買って帰ろうとしたら向こうから男性が1人歩いてきた。
女1人で歩く私に声をかけた。
「これから一緒にのみに行こう」という。
そりゃ1人で退屈しているから普通だったら旅の解放感で行ってもいいと言う気持になるだろう。
しかし悲しいことに私は在日韓国人でここは分断国家の韓国側にいる。政治的なことは何もないかもしれない。しかし在日韓国人で分断国家にいる。とっさに頭にひらめいて一瞬「あぶない」と思った。
男は近寄ってきて「一緒に行こう」という。
私は日本語で「行きません。行きません」と言って一目散に駈けた。走った。走った。歩いて2分ほどのところを一目散に走った。
それからはけっして夜遅い外出、1人でしないことにしている。
宿泊ホテルもソウル市庁の近く公務員が多く歩くところの近くのホテルに宿泊をするようになった。
このとき政治的なことはなかったかもしれない。普通のよっぱらいの男性だったかもしれない。それでも分断国家を祖国にして日本で住んでいる。どんな形でも在日同胞はワンコリアの中で生活をしている。そうしなければ日本では生活ができない現実である。
当時の写真を見ていろんなことを思い出した。
そしてこの後20日から3泊4日の在日韓国人教育者ソウル大会に取材で参加した。
取材の終った後、関係者と「蚕室」の居酒屋でいろんな議論を話し合ったことがいい思い出に残っている。
そのとき特別ゲストで招待されていた鄭早苗さん(大谷大学教授)も一緒だった。まだ50歳になったばかりで気合が合った。夏の暑い中、居酒屋も暑かったが私たちの「在日同胞とはどう生きていくまか」と議論に熱く燃えた夜でもあった。
そんな記憶がよみがえってきた。
韓国の旅、1988年5月に初めて訪問した。それから何回となく韓国に訪れている。訪れるごとに変わっていくソウルの町である。
1992年、ソウル龍山区二村洞の地下鉄駅のレストランで女友達の何人かと会った。
そのまえに時間があったので二村洞の町を散策して写真をとった。かなり古い建物が立ち並び日本の1960年代を思い出させた。
しかしここは都市開発地域になっていた。2003年の夏、この町を訪問すると私がみた古い韓屋の民家は取り壊されて高い塀で囲いをしていた。ここは高層マンションが建ち新しい町になる。そして公共施設などが建って新しい町に変わるということだった。
韓国の移り変わる町の様子などが思い出された。
写真1枚からいろんな思い出がよみがえってきた。


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