たいてい11月3日の天気は過去のデーターから晴天とされている。四天王寺ワッソから開幕した四天王寺ワッソの本祭、なぜ11月の3日になったのか。11月3日になったことがどこからか耳に入ってきた。
過去の天気のデーターから11月3日が祭に相応しい天気となって決定されたと聞いている。11月3日はまた同じくして枚方市長尾にある王仁塚の慰霊祭だった。いつも重なっていた。しかし王仁塚の慰霊祭を以前からされていた。
そんなことで四天王寺ワッソは3日以外にしてほしかったとよく周りから声を聞いていた。そんなときに聞いた開催日のことだった。
地元の人たちにそして枚方市ライオンズクラブや民団大阪枚方支部の関係者らの地道な努力で王仁塚の慰霊祭は大きい規模になっていった。
午前11時ごろから始まった四天王寺ワッソのパレード、最初のところだけ参加して王仁塚に行く人も多くいた。私も誰かの車に同乗させてもらったこともある。
慰霊祭が行われていたのが1時からだったと思う。
そんな綱渡り的に3日の1日を過ごす人が多かった。しかし関西興銀の倒産で四天王寺ワッソが一時中断された。
しかし関係者の思いはたくさんの人々に伝わった。
創設した李煕健氏の思いはもちろん職員に伝わり運営を関係していた多くの人に伝わっていく。1世の思いと日本人の歴史認識の重要性、その架け橋をするのが四天王寺ワッソ本祭だということが四天王寺ワッソに関与した人々に再開の情熱が浸透していった。再開にあたって王仁塚と重ならないようになった。
四天王寺ワッソについて巷では意見をする人も多くおられる。
創設した李煕健氏に対しての様々な事柄があるので多くの反発の声もある。
しかし私はこんな多くの声を掻き消すことに出会った。
四天王寺ワッソの衣装やだんじりなどが保管されている倉庫を見学してからだった。
衣装は専門家の手によって点検されてクリーニングされていく。クリーニングにかかる手間も並ではない。太鼓やチャングの楽器そして船のだんじり、旗など整然と並べられた道具、以前は関西興銀の職員の手で後片付けをされていたので金融マンらしい整然とした道具のしまいかたに四天王寺ワッソに対する思いがひしひしと伝わってきた。
大きな船のだんじり、古代史は韓国と日本は友好関係にあったのでその歴史は華やかだが、船だんじりを見ると日本海(東海)の海峡を渡って日本にやってきた1世の歴史がそこにあった。
1世が渡ってきた波の音が聞こえてきそうである。
2世の私だからそう思うのだろうか。
ここに長く立っていると目頭が涙で滲んでくる。
3世や4世は2世と同じ気持ちにならないかもしれない。
しかし2世が次世代に親のルーツを体で教えていかないといけないという関西興銀の元職員の意気込みも伝わってくる。
なるほど、本祭には関西興銀に勤務していた元職員たち、理事長だった役職の人たちも学生たちのボランテイア活動たちと一緒に本祭の裏方をしておられる。
こんな気持ちを知れば四天王寺ワッソの本祭の意義が私も少しずつ理解できるようになった。本祭の後、なんとか四天王寺ワッソの記事を大きくしたいと考えて倉庫の取材になったが私自身、多くのことを教えてもらった。
毎年、訪れる数万人の観客、先日の11月1日は雨で中止になった。
中止のマイクに自転車で来ていた夫婦連れや家族連れ、「楽しみにしていたのに」という残念の声が聞かれた。もともと地域の祭として行われた四天王寺ワッソ、自転車でくる人たちや地下鉄で来る人たち、地域の祭として定着し始めている。
11月1日は中止になったが翌日の2日から晴天、これは何を意味しているのだろうか。来年は11月7日開催、晴天になることを願っている。
文化の日、もう時計は2時48分、今日も暮れていく。
明日はまた気温があがるという。今年の秋の気温、変動は激しいな。
過去の天気のデーターから11月3日が祭に相応しい天気となって決定されたと聞いている。11月3日はまた同じくして枚方市長尾にある王仁塚の慰霊祭だった。いつも重なっていた。しかし王仁塚の慰霊祭を以前からされていた。
そんなことで四天王寺ワッソは3日以外にしてほしかったとよく周りから声を聞いていた。そんなときに聞いた開催日のことだった。
地元の人たちにそして枚方市ライオンズクラブや民団大阪枚方支部の関係者らの地道な努力で王仁塚の慰霊祭は大きい規模になっていった。
午前11時ごろから始まった四天王寺ワッソのパレード、最初のところだけ参加して王仁塚に行く人も多くいた。私も誰かの車に同乗させてもらったこともある。
慰霊祭が行われていたのが1時からだったと思う。
そんな綱渡り的に3日の1日を過ごす人が多かった。しかし関西興銀の倒産で四天王寺ワッソが一時中断された。
しかし関係者の思いはたくさんの人々に伝わった。
創設した李煕健氏の思いはもちろん職員に伝わり運営を関係していた多くの人に伝わっていく。1世の思いと日本人の歴史認識の重要性、その架け橋をするのが四天王寺ワッソ本祭だということが四天王寺ワッソに関与した人々に再開の情熱が浸透していった。再開にあたって王仁塚と重ならないようになった。
四天王寺ワッソについて巷では意見をする人も多くおられる。
創設した李煕健氏に対しての様々な事柄があるので多くの反発の声もある。
しかし私はこんな多くの声を掻き消すことに出会った。
四天王寺ワッソの衣装やだんじりなどが保管されている倉庫を見学してからだった。
衣装は専門家の手によって点検されてクリーニングされていく。クリーニングにかかる手間も並ではない。太鼓やチャングの楽器そして船のだんじり、旗など整然と並べられた道具、以前は関西興銀の職員の手で後片付けをされていたので金融マンらしい整然とした道具のしまいかたに四天王寺ワッソに対する思いがひしひしと伝わってきた。
大きな船のだんじり、古代史は韓国と日本は友好関係にあったのでその歴史は華やかだが、船だんじりを見ると日本海(東海)の海峡を渡って日本にやってきた1世の歴史がそこにあった。
1世が渡ってきた波の音が聞こえてきそうである。
2世の私だからそう思うのだろうか。
ここに長く立っていると目頭が涙で滲んでくる。
3世や4世は2世と同じ気持ちにならないかもしれない。
しかし2世が次世代に親のルーツを体で教えていかないといけないという関西興銀の元職員の意気込みも伝わってくる。
なるほど、本祭には関西興銀に勤務していた元職員たち、理事長だった役職の人たちも学生たちのボランテイア活動たちと一緒に本祭の裏方をしておられる。
こんな気持ちを知れば四天王寺ワッソの本祭の意義が私も少しずつ理解できるようになった。本祭の後、なんとか四天王寺ワッソの記事を大きくしたいと考えて倉庫の取材になったが私自身、多くのことを教えてもらった。
毎年、訪れる数万人の観客、先日の11月1日は雨で中止になった。
中止のマイクに自転車で来ていた夫婦連れや家族連れ、「楽しみにしていたのに」という残念の声が聞かれた。もともと地域の祭として行われた四天王寺ワッソ、自転車でくる人たちや地下鉄で来る人たち、地域の祭として定着し始めている。
11月1日は中止になったが翌日の2日から晴天、これは何を意味しているのだろうか。来年は11月7日開催、晴天になることを願っている。
文化の日、もう時計は2時48分、今日も暮れていく。
明日はまた気温があがるという。今年の秋の気温、変動は激しいな。
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