11時40分頃、昼食を食べ終わって横になって新聞を読んでいると眠たい。
1紙は読んだがまだ2紙目は読んでいない。
40分ほど昼寝をしたのか。
起きて2紙目を読み終わって寝ようとしても寝られない。
起きると1時20分、テレビをつけた。
徹子の部屋にでている中尾ミエのゲストに見たくなったのでつけた。
私もそうだけれど中尾ミエも年を重ねてきておられる。
あのときの青春、1960年初めの青春、私の高校時代と重なってくる。
昭和でいうと35年からの青春、まだまだ日本は物資が不足していたが皆、希望と夢に溢れていた。
夢を持たせたてくれたのは当時の若い俳優や歌手たちだった。
どれほど石原裕次郎は皆に希望と新しい発見を見る生き様を見せてくれたかもしれない。
そんな時にテレビから流れてくる中尾ミエの「可愛いベイビー」だった。
高校の中庭、クローバの上に座って皆と一緒にこの歌を歌ったものだった。
歌謡曲の知らない私もいつの間にかこの歌を覚えたものだった。
テレビは2時前に終わった。
お風呂に湯を入れながらテレビを見ていた。
風呂に湯が入ったので風呂に入った。
風呂に入ってから夕食の支度をした。
4時から見たいテレビがあったので今日の過ごし方を変えた。
3時前に夕食の支度を終えてパソコンを開いた。
受信メールの確認をしないといけないので-----。
受信メールを見るとほっとしてブログを書いている。
今朝はライフワークの原稿の資料を検索してある程度、資料が揃ったので原稿を作り始めた。かなり資料が多いので早い目にとりかかってよかった。
今からでも作ろうと思うが4時までそんなに時間がないのでまた少しずつ時間を見て作成していこう。
天気のよい今日、10月7日というが過ぎていく。
10月10日は昔、体育の日だったが今年は10日の月曜日になっているが毎年はどうなっているのだろう。
祝日も変わったので分からない。
1964年、昭和38年は東京オリンピックの年だった。
日本も世界も1つになってオリッピク競技に夢中になったものだった。
当時、私は何もわからない。
民族とは何やと、気臭いことを考えていなかった。
日本の学校教育を受けたそのままの日本人化している在日朝鮮人だった。
別に韓国にも興味もなく北朝鮮にも何の関心もなかった。
日本が取る金メダルに拍手を送ったものだった。
そして長い年月を経て私の生き方は180度変わった。
まさか自分に民族とは何かと考える日が来るとは思っていなかった。
専業主婦をそのまま続けていればたぶん日本国籍に切り替えていただろう。
人生とは不思議なものである。
雑誌記者になって私の中に何かが目覚めはじめていた。
「日本人のふりをして日本の記事を書きたくない」という心の葛藤に悩むことになった。これがきっかけで民団奈良県本部に韓国語を習いにいきだした。
雑誌社のこの時の若い事務員の意地悪は壮絶だった。
もともと私を苛めていたが私はめげなかったが韓国語を習いだしてからの苛めは壮絶だった。いつか当時のことを本に書いてみたいとは思うが---。
いつか書きたいと思っている。
おかげで「のほんん」と育った私は若い事務員の苛めは私を強くした。辛抱という柱で強くした。彼女が私にしたいろいろを書くと壮絶な文書になってしまう。韓国籍というだけでその苛めは壮絶だった。
奈良県の山村特有の気質、奈良県の差別事象の気質をもろに見せてもらった。
縁があって同胞の中で仕事をするようになった。
3・4年は人間関係に悩んだ。日本社会の中で生きて私と在日同胞の中の社会の人間関係に躊躇して元の古巣に足が向きかけるがやはり心の根底に「日本人のふりをして日本の記事を書きたくない」を辛抱させた。
ここで1964年に行われた東京オリンピックの韓国と在日韓国人の事情が分かった。日韓国交正常化していないときの東京オリンピックだった。
当時はまだ在日同胞は日本国籍を取っている人はごくごくわずかだった。
在日韓国人と本国の韓国人との寄せ集めの選手団で東京オリンピックに出場した。今や在日同胞は日本生まれの北朝鮮籍とマスコミで伝えられるが当時はそんなことはいっさいなかった。在日の体育会と韓国との関係が結束されていてマスコミにも伝えることがなかった。またマスコミも報道しなかった。
当時はまだ北朝鮮の方が日本社会では人気があった。
韓国はまだまだ戦後の経済復興できない国として知られていた。
しかし1世は出し惜しみをしなかった。
韓国の選手の日本への渡航費用は当時の民団関係者や在日韓国人の経済人が担った。そんなことは仕事を通して耳に挟むようになった。
それほど貧しかった韓国は1988年にソウルオリンピックを開催した。
華やかに幕開けしたソウルオリンピック、1世たちの故郷を思う気持ちは格別だったことを今も記憶している。
ソウルオリンピックも在日韓国人の1世や2世の協力もあって華やかに幕開けしたことを在日同胞の若い世代は知ってほしい。そして忘れてはいけない。
また韓国で冬季オリンピックも平昌で開催される。
今、韓国は世界で10位内に入った経済国になった。
今の80代、70代そして60代や50代は寝ないで働いて建国に奔走された成果でもある。寝ないで働く韓国の働き盛りの仕事を目の前で何度も見ることになった。これも雑誌社から転職したから分かったものである。
ふと振り返ると私の人生も
いろんなことがありすぎたな---。
1紙は読んだがまだ2紙目は読んでいない。
40分ほど昼寝をしたのか。
起きて2紙目を読み終わって寝ようとしても寝られない。
起きると1時20分、テレビをつけた。
徹子の部屋にでている中尾ミエのゲストに見たくなったのでつけた。
私もそうだけれど中尾ミエも年を重ねてきておられる。
あのときの青春、1960年初めの青春、私の高校時代と重なってくる。
昭和でいうと35年からの青春、まだまだ日本は物資が不足していたが皆、希望と夢に溢れていた。
夢を持たせたてくれたのは当時の若い俳優や歌手たちだった。
どれほど石原裕次郎は皆に希望と新しい発見を見る生き様を見せてくれたかもしれない。
そんな時にテレビから流れてくる中尾ミエの「可愛いベイビー」だった。
高校の中庭、クローバの上に座って皆と一緒にこの歌を歌ったものだった。
歌謡曲の知らない私もいつの間にかこの歌を覚えたものだった。
テレビは2時前に終わった。
お風呂に湯を入れながらテレビを見ていた。
風呂に湯が入ったので風呂に入った。
風呂に入ってから夕食の支度をした。
4時から見たいテレビがあったので今日の過ごし方を変えた。
3時前に夕食の支度を終えてパソコンを開いた。
受信メールの確認をしないといけないので-----。
受信メールを見るとほっとしてブログを書いている。
今朝はライフワークの原稿の資料を検索してある程度、資料が揃ったので原稿を作り始めた。かなり資料が多いので早い目にとりかかってよかった。
今からでも作ろうと思うが4時までそんなに時間がないのでまた少しずつ時間を見て作成していこう。
天気のよい今日、10月7日というが過ぎていく。
10月10日は昔、体育の日だったが今年は10日の月曜日になっているが毎年はどうなっているのだろう。
祝日も変わったので分からない。
1964年、昭和38年は東京オリンピックの年だった。
日本も世界も1つになってオリッピク競技に夢中になったものだった。
当時、私は何もわからない。
民族とは何やと、気臭いことを考えていなかった。
日本の学校教育を受けたそのままの日本人化している在日朝鮮人だった。
別に韓国にも興味もなく北朝鮮にも何の関心もなかった。
日本が取る金メダルに拍手を送ったものだった。
そして長い年月を経て私の生き方は180度変わった。
まさか自分に民族とは何かと考える日が来るとは思っていなかった。
専業主婦をそのまま続けていればたぶん日本国籍に切り替えていただろう。
人生とは不思議なものである。
雑誌記者になって私の中に何かが目覚めはじめていた。
「日本人のふりをして日本の記事を書きたくない」という心の葛藤に悩むことになった。これがきっかけで民団奈良県本部に韓国語を習いにいきだした。
雑誌社のこの時の若い事務員の意地悪は壮絶だった。
もともと私を苛めていたが私はめげなかったが韓国語を習いだしてからの苛めは壮絶だった。いつか当時のことを本に書いてみたいとは思うが---。
いつか書きたいと思っている。
おかげで「のほんん」と育った私は若い事務員の苛めは私を強くした。辛抱という柱で強くした。彼女が私にしたいろいろを書くと壮絶な文書になってしまう。韓国籍というだけでその苛めは壮絶だった。
奈良県の山村特有の気質、奈良県の差別事象の気質をもろに見せてもらった。
縁があって同胞の中で仕事をするようになった。
3・4年は人間関係に悩んだ。日本社会の中で生きて私と在日同胞の中の社会の人間関係に躊躇して元の古巣に足が向きかけるがやはり心の根底に「日本人のふりをして日本の記事を書きたくない」を辛抱させた。
ここで1964年に行われた東京オリンピックの韓国と在日韓国人の事情が分かった。日韓国交正常化していないときの東京オリンピックだった。
当時はまだ在日同胞は日本国籍を取っている人はごくごくわずかだった。
在日韓国人と本国の韓国人との寄せ集めの選手団で東京オリンピックに出場した。今や在日同胞は日本生まれの北朝鮮籍とマスコミで伝えられるが当時はそんなことはいっさいなかった。在日の体育会と韓国との関係が結束されていてマスコミにも伝えることがなかった。またマスコミも報道しなかった。
当時はまだ北朝鮮の方が日本社会では人気があった。
韓国はまだまだ戦後の経済復興できない国として知られていた。
しかし1世は出し惜しみをしなかった。
韓国の選手の日本への渡航費用は当時の民団関係者や在日韓国人の経済人が担った。そんなことは仕事を通して耳に挟むようになった。
それほど貧しかった韓国は1988年にソウルオリンピックを開催した。
華やかに幕開けしたソウルオリンピック、1世たちの故郷を思う気持ちは格別だったことを今も記憶している。
ソウルオリンピックも在日韓国人の1世や2世の協力もあって華やかに幕開けしたことを在日同胞の若い世代は知ってほしい。そして忘れてはいけない。
また韓国で冬季オリンピックも平昌で開催される。
今、韓国は世界で10位内に入った経済国になった。
今の80代、70代そして60代や50代は寝ないで働いて建国に奔走された成果でもある。寝ないで働く韓国の働き盛りの仕事を目の前で何度も見ることになった。これも雑誌社から転職したから分かったものである。
ふと振り返ると私の人生も
いろんなことがありすぎたな---。
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