朝、8時20分にパソコンを閉めて身支度をした。
8時48分頃、自宅前のバス乗場にいた。
市内循環バスで近鉄奈良駅に出た。行きつけの喫茶店に入ったのが9時10分。
10時まで新聞2紙を読んで近鉄奈良駅に行くと10時8分、三宮快速急行と思って3番乗場に行くと間違っていた。特急の難波行きだった。
もう一度上がって快速急行乗場に行こうとしたが特急券を買うことにした。
自動販売機で特急券を買う時は13分、あと2分しかない。
とりあえず急いで買ってもう1度ホームに下りる。
時計は14分、4号車が座席指定だが下りたところは2号車車両が目の前にある。2号車から飛び乗って4号車に向かった。
座席に座ると電車は動いた。
難波に出てトイレを済ませて南海電車乗場のコンコースを歩く。
この距離が長い。歩くと長く感じる。いつもそう思う。
11時7分の電車に乗って堺東に出た。
着くと11時20分、昼食は出る前、おにぎり1個食べた。
そのままタクシーに乗って現場に行く。
現場にいたのは40分、急いで現場を出てタクシーで境東駅に出たのが12時10分。改札口に入ると難波行き電車がもう入る。
急いだ。エレベーターがホームに着くと電車が入ってきた。
12時22分の電車に乗った。
難波について駅でトイレを済ませてコンコースを歩いて近鉄難波駅に行くと三宮から来た電車が入ってくる。エスカレーターを急いで降りた。
12時40何分、なんとか座れてよかった。
1時30分に奈良駅に着いた。空腹感が押し寄せてくる。
前から気になっていた近鉄奈良駅改札口前の食事処に入った。日替わり定食を頼んだ。手羽先がうまく煮込まれていた。こんな柔らかく煮るのに時間がかかる。女性が厨房に入って調理している。ここを出たのが1時45分。50分に行きつけの喫茶店に行った。
息抜きである。読みかけの文庫本を読んだ。2時50分に店を出た。
100円ショップで大学ノートを何冊か買って銀行に行く。
忘れていた振込み、サイフの中に入れたままだった。あわてて振り込んで本屋に寄って1冊の雑誌を買ってスーパーに寄るが今夜の取材、夫の食材を買ってバス乗場に来ると4時5分、中循環バスがすぐにきた。
自宅に着くと4時10分、荷解きをしてシャワーを浴びてパソコンを開けるときは4時半、受信メールの返信をしてライフワークのホームページを見ていると時計は5時に近づいていく。
プログを書く頃は5時過ぎていた。
もう5時半です。夕食の用意です。
そうそう、思い出した。パソコンを開いて画面をそのままにして電話をしていた人がいた。今日は久しぶりにメールをもらって喫茶店で返信をしたが声を聞きたいので電話した。
彼女は韓国系民族学校に在籍していた。小学6年の時、韓国語の弁論大会で最優秀賞を取った。そのとき私は現場に取材していた。日刊紙の記者だったころである。私は取材して記事にしたことはすっかりと忘れていた。大人になって私がかって仕事していた新聞社で記者を1年だけした。そのときに私のことは覚えていたので取材した本人はすっかり忘れているのにインタビューしたことをきちんと覚えてくれていた。インタビューしたことは本人を安心させたのか私に自分のことを話してくれた。それは私の知らない世界を生きた彼女の生き様をつぶさに話してくれた。安心して私に話す彼女に私のできる範囲でなんとか育てたいと思い若い女性だったが仲良くしていた。彼女もそうしてくれた。
1年でやめて元の職場に戻ってやがて前からつきあっていた日本人の彼氏と結婚した。今は女児の母親である。
実母の介護も真剣に正面から向かい今日のメールはようやく安心でききる施設のお世話になることになったと----いうメールである。
電話をかけると明るい元気な声だった。
民族学校時代のそのまま明るい元気な声だった。
に声だった。安心した。
母親のことが落ち着いて明るさを取り戻していてほっとした。
子どもが幼稚園に行っている。
幼稚園のお母さん、韓流にはまっていてみんなよく知っているという。
私は何もしらないというが---。子育てとかいろいろ忙しくしているのだろう。
韓国語を話すとお母さんたちよりとても上手いがきっとそういうことを表にださない彼女である。私も彼女にこの韓国語の意味はと何度か教えてもらったことがある。韓国に帰国した教師に私が電話するときちんと韓国語で話していた。私は日本語で話しているどうしょうもない在日韓国人2世である。
彼女は3世だが----。民族学校で学んだ韓国語、韓国系民族学校でも本人の努力でちゃんと話せるのである。
このへんの違いを日本の学校教育を受けたものとの違い、格差を感じる。
しかし私は1950年代に学校教育を受けている。田舎で育った私は地元の学校に行くのが世間に習えだった。民族学校といえば当時の田舎での感覚は朝鮮学校、北朝鮮の支持する学校だった。北朝鮮の政治と政権に批判していた父親、娘はけっしてそうしたところにやらなかった。日本社会でいき易いようにしてくれた。これが良かったのか悪かったのか。日本社会で教育を受けた2世の支障、心のかたわにならなくてすんだ。客観視を身につけてくれた。40歳を過ぎて私を民族に向かせるようにしてくれた。祖父母たち先人がそうしてくれた。
韓国の家系の血筋、男だったら総領だったが女だったために他家に嫁入りさせるものとして育てたが厳しかった。その躾は厳しかった。
祖母はいつも私に言い聞かせた。
結婚して万が一、夫に死なれて後家になっても再婚はしてはいけない。何があっても嫁ぎ先で骨をうずめること。もし婚家から出されても実家に帰ってきてはいけない。帰ってきて死ぬことがあっても実家に足をいれないで軒先で死ぬことと----。今から考えるとなんと厳しいそして今時なら御伽噺の世界である。
そんなことが心の片隅にあって結婚して辛いことがあっても留まることができた。そして嫁いだ娘に親はけっして甘く優しくしなかった。特に第1子の私には厳しかった。こんな厳しい家なら帰りたくないと思うほどだった。
親は心を鬼にして夫婦一緒に添い遂げるようにしていたのかと今この年になって思う。
こんなこと書いていると6時前です。夕食の支度をします。
明日も現場です。
8時48分頃、自宅前のバス乗場にいた。
市内循環バスで近鉄奈良駅に出た。行きつけの喫茶店に入ったのが9時10分。
10時まで新聞2紙を読んで近鉄奈良駅に行くと10時8分、三宮快速急行と思って3番乗場に行くと間違っていた。特急の難波行きだった。
もう一度上がって快速急行乗場に行こうとしたが特急券を買うことにした。
自動販売機で特急券を買う時は13分、あと2分しかない。
とりあえず急いで買ってもう1度ホームに下りる。
時計は14分、4号車が座席指定だが下りたところは2号車車両が目の前にある。2号車から飛び乗って4号車に向かった。
座席に座ると電車は動いた。
難波に出てトイレを済ませて南海電車乗場のコンコースを歩く。
この距離が長い。歩くと長く感じる。いつもそう思う。
11時7分の電車に乗って堺東に出た。
着くと11時20分、昼食は出る前、おにぎり1個食べた。
そのままタクシーに乗って現場に行く。
現場にいたのは40分、急いで現場を出てタクシーで境東駅に出たのが12時10分。改札口に入ると難波行き電車がもう入る。
急いだ。エレベーターがホームに着くと電車が入ってきた。
12時22分の電車に乗った。
難波について駅でトイレを済ませてコンコースを歩いて近鉄難波駅に行くと三宮から来た電車が入ってくる。エスカレーターを急いで降りた。
12時40何分、なんとか座れてよかった。
1時30分に奈良駅に着いた。空腹感が押し寄せてくる。
前から気になっていた近鉄奈良駅改札口前の食事処に入った。日替わり定食を頼んだ。手羽先がうまく煮込まれていた。こんな柔らかく煮るのに時間がかかる。女性が厨房に入って調理している。ここを出たのが1時45分。50分に行きつけの喫茶店に行った。
息抜きである。読みかけの文庫本を読んだ。2時50分に店を出た。
100円ショップで大学ノートを何冊か買って銀行に行く。
忘れていた振込み、サイフの中に入れたままだった。あわてて振り込んで本屋に寄って1冊の雑誌を買ってスーパーに寄るが今夜の取材、夫の食材を買ってバス乗場に来ると4時5分、中循環バスがすぐにきた。
自宅に着くと4時10分、荷解きをしてシャワーを浴びてパソコンを開けるときは4時半、受信メールの返信をしてライフワークのホームページを見ていると時計は5時に近づいていく。
プログを書く頃は5時過ぎていた。
もう5時半です。夕食の用意です。
そうそう、思い出した。パソコンを開いて画面をそのままにして電話をしていた人がいた。今日は久しぶりにメールをもらって喫茶店で返信をしたが声を聞きたいので電話した。
彼女は韓国系民族学校に在籍していた。小学6年の時、韓国語の弁論大会で最優秀賞を取った。そのとき私は現場に取材していた。日刊紙の記者だったころである。私は取材して記事にしたことはすっかりと忘れていた。大人になって私がかって仕事していた新聞社で記者を1年だけした。そのときに私のことは覚えていたので取材した本人はすっかり忘れているのにインタビューしたことをきちんと覚えてくれていた。インタビューしたことは本人を安心させたのか私に自分のことを話してくれた。それは私の知らない世界を生きた彼女の生き様をつぶさに話してくれた。安心して私に話す彼女に私のできる範囲でなんとか育てたいと思い若い女性だったが仲良くしていた。彼女もそうしてくれた。
1年でやめて元の職場に戻ってやがて前からつきあっていた日本人の彼氏と結婚した。今は女児の母親である。
実母の介護も真剣に正面から向かい今日のメールはようやく安心でききる施設のお世話になることになったと----いうメールである。
電話をかけると明るい元気な声だった。
民族学校時代のそのまま明るい元気な声だった。
に声だった。安心した。
母親のことが落ち着いて明るさを取り戻していてほっとした。
子どもが幼稚園に行っている。
幼稚園のお母さん、韓流にはまっていてみんなよく知っているという。
私は何もしらないというが---。子育てとかいろいろ忙しくしているのだろう。
韓国語を話すとお母さんたちよりとても上手いがきっとそういうことを表にださない彼女である。私も彼女にこの韓国語の意味はと何度か教えてもらったことがある。韓国に帰国した教師に私が電話するときちんと韓国語で話していた。私は日本語で話しているどうしょうもない在日韓国人2世である。
彼女は3世だが----。民族学校で学んだ韓国語、韓国系民族学校でも本人の努力でちゃんと話せるのである。
このへんの違いを日本の学校教育を受けたものとの違い、格差を感じる。
しかし私は1950年代に学校教育を受けている。田舎で育った私は地元の学校に行くのが世間に習えだった。民族学校といえば当時の田舎での感覚は朝鮮学校、北朝鮮の支持する学校だった。北朝鮮の政治と政権に批判していた父親、娘はけっしてそうしたところにやらなかった。日本社会でいき易いようにしてくれた。これが良かったのか悪かったのか。日本社会で教育を受けた2世の支障、心のかたわにならなくてすんだ。客観視を身につけてくれた。40歳を過ぎて私を民族に向かせるようにしてくれた。祖父母たち先人がそうしてくれた。
韓国の家系の血筋、男だったら総領だったが女だったために他家に嫁入りさせるものとして育てたが厳しかった。その躾は厳しかった。
祖母はいつも私に言い聞かせた。
結婚して万が一、夫に死なれて後家になっても再婚はしてはいけない。何があっても嫁ぎ先で骨をうずめること。もし婚家から出されても実家に帰ってきてはいけない。帰ってきて死ぬことがあっても実家に足をいれないで軒先で死ぬことと----。今から考えるとなんと厳しいそして今時なら御伽噺の世界である。
そんなことが心の片隅にあって結婚して辛いことがあっても留まることができた。そして嫁いだ娘に親はけっして甘く優しくしなかった。特に第1子の私には厳しかった。こんな厳しい家なら帰りたくないと思うほどだった。
親は心を鬼にして夫婦一緒に添い遂げるようにしていたのかと今この年になって思う。
こんなこと書いていると6時前です。夕食の支度をします。
明日も現場です。
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