行きしなは橿原神宮前で降りて駅で昼食を済ませた。
そしてタクシーに乗って博物館に行った。歩けば遠い。タクシーに乗れば近距離である。畝傍御陵前で降りれば近いことが今日分かった。
以前は橿原神宮にでてこの研究所に勤務していた従姉妹がいた。仕事で行くとなると従姉妹が車で迎えにきてくれた。そして送ってくれた。そんなとき帰りは橿原神宮駅前でコーヒーを飲んで話しをした。
私とは15・6歳下で大分年が離れていたが長女としての悩みや親のことなど私に話しをすることで気が晴れていたのだろうか。
それがもう迎えにきてもらえなくなった。
もう亡くなって5年くらいになるのだろうか。
まだ40代の半ばだったのに大腸がんで亡くなった。
手遅れだった。
もし研究所にずっと勤めていればもっと長生きしただろう。
ずっと父親に反対されながらこの研究所に勤務していた。
国籍が違うので正学芸員にはなれなかったが発掘調査したものを論文にまとめていた。好きな仕事だったのだろう。長いこと勤務していた。
それが退職しなければならなくなった。父親が病に倒れた。家業の土建業が長女の従姉妹にかかってきた。
従姉妹が女社長になって姉妹3人で土建業に従事した。建設作業員のこと、経営のこと、建設に関する行政とのこと、どんなに頭がよくても女性の体にはしんどかったのだろうか。
ストレス解消にアレジメントフラワーの資格をとって1人住まいするマンションで教えていた。それでも家業は幾年かしたが慣れない仕事は体を蝕んでいたのだろうか。
手遅れだった。
博物館に行って従姉妹のことを思い出した。
目標の大学に行けずに医者になれなかった。京都の同志社大学をでて同胞と恋愛もしたが金持ちでも価値観が違うからと言って彼女から去ってきた。
はたしてこれでよかったのか。ふと思ってしまう。
人生それぞれの生き方があるだろう。
今日は彼女が卒業した畝傍高校で所蔵されていた「新羅瓦」の展示会だった。
そして案内して下さった方に思わず従姉妹の話しをするとよく知っておられた。
「亡くなりましたが研究所の職員はみんな親しくしていたのですよ」と話された。
ここの現場の取材にこさせたのは従姉妹が手繰り寄せてくれたのだろうか。
自宅に戻ってから気がついた。
昨年は従姉妹の母親、私から見たら叔母が亡くなり私の母は1昨年亡くなった。私の妹も亡くなってずいぶんと経ったがまだ妹のことは語れない。私の心の奥にしまったままになっている。
従姉妹のことはこうしてすんなり語れるのに妹のことはまだ話せない。
畝傍高校に通って頃の従姉妹、親戚の中でも成績優秀で叔父の自慢の子どもだった。国籍条項がなければいい論文を今ごろ発表していたかもしれない。
2世として生きた在日韓国人、世代は違ってもこの日本でそれぞれ痛みをかかえて生きてきた。
やっぱり従姉妹がひきつけてくれたのだろうか。この展示会の案内も偶然、近鉄奈良駅の観光センターで偶然に目に飛び込んできた。
「新羅の瓦」のタイトルに記事になると考えてシンポの現場に入った。
どうやら従姉妹が引き寄せてくれたかもしれない。
今日は迎えに来ていただけないのでタクシーに乗った。
やはりタクシーに乗って迎えに来てくれた従姉妹のことを思い出していた。帰りは畝傍御陵前の駅にでた。歩くと5分ほどだった。
それでも従姉妹は何も言わないで車で迎えに来てくれた。
少しでも従姉妹のふれあい、いやそうじやなくてこれでも従姉妹の中では1番上のお姉さんになるので迎えにきてくれたのだろう。
今、ありがたい気持ちでいっぱいである。
そして案内して下さった人に「いつも従姉妹に送り迎えしてもらったのですから近くの駅の畝傍御陵前の駅にでる道はどこですか」と聞くと「ここから歩いてすぐです」と教えてもらった道を行くとすぐ駅に行くことができた。
帰るとき研究所のトイレに入った。
手洗いで手を洗っていると誰もいないのに人がすっといく気配を感じた。
一瞬、誰かがいったのかなと思ったが誰もいなかった。
従姉妹が風のように私の傍を通り過ぎていったのだろうか。
今日の現場は従姉妹が引き寄せてくれたのだろう。
展示物の配置や博物館内も前と少し変わっていたが職員たちは韓国に留学したりして日本文化の源流、考古学の源流は百済、新羅、高句麗にあると考えて研究した調査資料を日本人たちに公開して講演をしておられる。
今日のシンポに大勢の考古学フアンが参加した。職員たちがいつかはこんなことが学校教育でしてもらいたい。そんな気持ちで日夜励んでおられる様子だった。従姉妹のことは案内して下さった方覚えていたよ。
どこかで風のように従姉妹はみているのだろう。
そしてタクシーに乗って博物館に行った。歩けば遠い。タクシーに乗れば近距離である。畝傍御陵前で降りれば近いことが今日分かった。
以前は橿原神宮にでてこの研究所に勤務していた従姉妹がいた。仕事で行くとなると従姉妹が車で迎えにきてくれた。そして送ってくれた。そんなとき帰りは橿原神宮駅前でコーヒーを飲んで話しをした。
私とは15・6歳下で大分年が離れていたが長女としての悩みや親のことなど私に話しをすることで気が晴れていたのだろうか。
それがもう迎えにきてもらえなくなった。
もう亡くなって5年くらいになるのだろうか。
まだ40代の半ばだったのに大腸がんで亡くなった。
手遅れだった。
もし研究所にずっと勤めていればもっと長生きしただろう。
ずっと父親に反対されながらこの研究所に勤務していた。
国籍が違うので正学芸員にはなれなかったが発掘調査したものを論文にまとめていた。好きな仕事だったのだろう。長いこと勤務していた。
それが退職しなければならなくなった。父親が病に倒れた。家業の土建業が長女の従姉妹にかかってきた。
従姉妹が女社長になって姉妹3人で土建業に従事した。建設作業員のこと、経営のこと、建設に関する行政とのこと、どんなに頭がよくても女性の体にはしんどかったのだろうか。
ストレス解消にアレジメントフラワーの資格をとって1人住まいするマンションで教えていた。それでも家業は幾年かしたが慣れない仕事は体を蝕んでいたのだろうか。
手遅れだった。
博物館に行って従姉妹のことを思い出した。
目標の大学に行けずに医者になれなかった。京都の同志社大学をでて同胞と恋愛もしたが金持ちでも価値観が違うからと言って彼女から去ってきた。
はたしてこれでよかったのか。ふと思ってしまう。
人生それぞれの生き方があるだろう。
今日は彼女が卒業した畝傍高校で所蔵されていた「新羅瓦」の展示会だった。
そして案内して下さった方に思わず従姉妹の話しをするとよく知っておられた。
「亡くなりましたが研究所の職員はみんな親しくしていたのですよ」と話された。
ここの現場の取材にこさせたのは従姉妹が手繰り寄せてくれたのだろうか。
自宅に戻ってから気がついた。
昨年は従姉妹の母親、私から見たら叔母が亡くなり私の母は1昨年亡くなった。私の妹も亡くなってずいぶんと経ったがまだ妹のことは語れない。私の心の奥にしまったままになっている。
従姉妹のことはこうしてすんなり語れるのに妹のことはまだ話せない。
畝傍高校に通って頃の従姉妹、親戚の中でも成績優秀で叔父の自慢の子どもだった。国籍条項がなければいい論文を今ごろ発表していたかもしれない。
2世として生きた在日韓国人、世代は違ってもこの日本でそれぞれ痛みをかかえて生きてきた。
やっぱり従姉妹がひきつけてくれたのだろうか。この展示会の案内も偶然、近鉄奈良駅の観光センターで偶然に目に飛び込んできた。
「新羅の瓦」のタイトルに記事になると考えてシンポの現場に入った。
どうやら従姉妹が引き寄せてくれたかもしれない。
今日は迎えに来ていただけないのでタクシーに乗った。
やはりタクシーに乗って迎えに来てくれた従姉妹のことを思い出していた。帰りは畝傍御陵前の駅にでた。歩くと5分ほどだった。
それでも従姉妹は何も言わないで車で迎えに来てくれた。
少しでも従姉妹のふれあい、いやそうじやなくてこれでも従姉妹の中では1番上のお姉さんになるので迎えにきてくれたのだろう。
今、ありがたい気持ちでいっぱいである。
そして案内して下さった人に「いつも従姉妹に送り迎えしてもらったのですから近くの駅の畝傍御陵前の駅にでる道はどこですか」と聞くと「ここから歩いてすぐです」と教えてもらった道を行くとすぐ駅に行くことができた。
帰るとき研究所のトイレに入った。
手洗いで手を洗っていると誰もいないのに人がすっといく気配を感じた。
一瞬、誰かがいったのかなと思ったが誰もいなかった。
従姉妹が風のように私の傍を通り過ぎていったのだろうか。
今日の現場は従姉妹が引き寄せてくれたのだろう。
展示物の配置や博物館内も前と少し変わっていたが職員たちは韓国に留学したりして日本文化の源流、考古学の源流は百済、新羅、高句麗にあると考えて研究した調査資料を日本人たちに公開して講演をしておられる。
今日のシンポに大勢の考古学フアンが参加した。職員たちがいつかはこんなことが学校教育でしてもらいたい。そんな気持ちで日夜励んでおられる様子だった。従姉妹のことは案内して下さった方覚えていたよ。
どこかで風のように従姉妹はみているのだろう。
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