折りたたみの傘にしようか。普通の傘にしょうか。
買物をして帰るのに長い傘は邪魔である。
しかし雨足を見ていると強い。
自宅から病院まで10分程度歩かないといけない。帰りもバス停まで歩いてこないといけない。
そして近鉄奈良駅にでて郵便振込みの引き出しをして今度は宅急便の送達もしないといけない。
歩く距離があるので長い赤い傘を持って行った。
長い傘を持っていて正解。雨足が強かった。折りたたみの傘では背中がぬれてしまう。病院に入って人に迷惑をかけてしまうと考えて長い傘にしてよかった。
今日は雨が降っているのか予約取り消しもあったのかすいていた。
10時の予約、時間通りに診察をしてもらった。
そして会計の受付に行こうと思ったら内科の待合の椅子でじっと顔を見ている人がいる。
私も見たことがある人なのにどこで見たのか思い出せない。
頭を下げられたので「どこでお会いしたのでしょうか」と聞くと息子が通っていた小学校のPTAの役員時代だったがもう誰か思い出せない。
「声をかけて頂いてありがとうございます」と言って立去った。
受付に会計の清算書を出して座ろうとしたら「こんにちは」とやって来た人は前の佐紀町に住んでいたとき仲良しだった息子と同じクラスだったお母さんだった。もう20年は会っていなかった。「聞いたような声だと思って飛んできたらそうだった」と言う。
懐かしい。本当に懐かしい。
病院の介護ヘルパーの仕事をしていた。えらいな。なかなか出来ない仕事である。在日韓国人の組織の婦人会も介護ヘルパー2級をとってもこの資格を生かしている人はほんのわずかである。資格を取った人も高齢で「私が介護を受けたい」と言う。恵まれた婦人たちは介護するということには気がまわらない。
取材で現場に何度か入ったがなかなか出来ない。
積もる話があるが「誰が見ているかわからないから」というので携帯電話を教えてわかれた。
懐かしい。子育てのころ閉鎖的なこの町でずいぶんいろいろとお世話になった。化粧品の訪問販売もしていたのでその大変さも彼女を見ていて分かったので後でいろんな人に化粧品の訪問販売を進められても絶対にしなかった。
化粧品の訪問販売をやめて食堂を出して家計をキリモリしていたが私は雑誌記者時代近くまで行くと立寄ったが在日韓国人の新聞社の記者になってとんとご無沙汰になった。
3人の子どもさんは皆成長して結婚したと言う。
私も「息子が沖縄に行ったままで息子は日本の嫁さんを貰って子どもの席のために日本国籍を取った」というと「よかったやんか」と言うがこれが日本人の普通の考えである。私は摩擦を起こしたくないで「よかったか悪かったかわからん」と言って言葉を濁した。
彼女も息子と一緒に地続きで家を建てて住んでいるが「嫁さんをもらったら息子みたいな他人」と言った。お互い様。私も「同じや。言いたいことがいっぱいあるが息子がかわいそうやから胸の中でこらえていることがいっぱいある」と話をするとこの話しにも意気投合した。
皆、似たようなものがある。人に言えない悩みを抱えて生きている。
けれど彼女に会って嬉しかった。心置きなく何でも話せた1歳年下の彼女である。大阪で務めていたご主人と知り合って結婚した。九州から出てきて大阪に来て嫁いできたところがまた旧家、平城宮跡が自宅前にある。
ここに来て幾度も泣いただろう。それでもそんな苦労を見せない明るい人だった。
佐紀町に住んだ縁の友人である。
当時、仲の良かった女友達のことも気にしていたのでさっそく女友達にメールしてまた3人で会うことにしょうとメールを打った。
息子の小学校の頃、私はでたがりで目立ちがたりでいつも前に前にと目を向けてエネルギシュッに活動していた。
雑誌記者時代もそうだった。在日韓国人の新聞社、日刊紙の記者のころもエネルギシュだった。それが現在の仕事に変って自分の器がどんな物かと見えたときに自分のやれる範囲でやれることにしようというマイペースに変った。
加齢とともにもっとマイペースになった。
しかし燃えた時代を走りぬけてきた彼女と久しぶりに会った。
いつか当時の仲良しの友だち3人で会って昼ランチを楽しみにしておこう。
病院から帰り郵便局の帰り11時過ぎたところ。昼ランチはたいてい11時半からしか店は開いていない。昔、このホテルができたときは活気的だったが今は限られた宿泊者になっているだろう。それで昼ランチにバイキングランチを出しておられる。久しぶりに立寄ってここで昼食、1000円は昼ごはんに高いがたまにはいいかと思って食べた。久しぶりにカレーも食べた。
美味しかった。それに懐かしい友人に何年ぶりに会って嬉しかったのか昼食が美味しかった。
買物をして帰るのに長い傘は邪魔である。
しかし雨足を見ていると強い。
自宅から病院まで10分程度歩かないといけない。帰りもバス停まで歩いてこないといけない。
そして近鉄奈良駅にでて郵便振込みの引き出しをして今度は宅急便の送達もしないといけない。
歩く距離があるので長い赤い傘を持って行った。
長い傘を持っていて正解。雨足が強かった。折りたたみの傘では背中がぬれてしまう。病院に入って人に迷惑をかけてしまうと考えて長い傘にしてよかった。
今日は雨が降っているのか予約取り消しもあったのかすいていた。
10時の予約、時間通りに診察をしてもらった。
そして会計の受付に行こうと思ったら内科の待合の椅子でじっと顔を見ている人がいる。
私も見たことがある人なのにどこで見たのか思い出せない。
頭を下げられたので「どこでお会いしたのでしょうか」と聞くと息子が通っていた小学校のPTAの役員時代だったがもう誰か思い出せない。
「声をかけて頂いてありがとうございます」と言って立去った。
受付に会計の清算書を出して座ろうとしたら「こんにちは」とやって来た人は前の佐紀町に住んでいたとき仲良しだった息子と同じクラスだったお母さんだった。もう20年は会っていなかった。「聞いたような声だと思って飛んできたらそうだった」と言う。
懐かしい。本当に懐かしい。
病院の介護ヘルパーの仕事をしていた。えらいな。なかなか出来ない仕事である。在日韓国人の組織の婦人会も介護ヘルパー2級をとってもこの資格を生かしている人はほんのわずかである。資格を取った人も高齢で「私が介護を受けたい」と言う。恵まれた婦人たちは介護するということには気がまわらない。
取材で現場に何度か入ったがなかなか出来ない。
積もる話があるが「誰が見ているかわからないから」というので携帯電話を教えてわかれた。
懐かしい。子育てのころ閉鎖的なこの町でずいぶんいろいろとお世話になった。化粧品の訪問販売もしていたのでその大変さも彼女を見ていて分かったので後でいろんな人に化粧品の訪問販売を進められても絶対にしなかった。
化粧品の訪問販売をやめて食堂を出して家計をキリモリしていたが私は雑誌記者時代近くまで行くと立寄ったが在日韓国人の新聞社の記者になってとんとご無沙汰になった。
3人の子どもさんは皆成長して結婚したと言う。
私も「息子が沖縄に行ったままで息子は日本の嫁さんを貰って子どもの席のために日本国籍を取った」というと「よかったやんか」と言うがこれが日本人の普通の考えである。私は摩擦を起こしたくないで「よかったか悪かったかわからん」と言って言葉を濁した。
彼女も息子と一緒に地続きで家を建てて住んでいるが「嫁さんをもらったら息子みたいな他人」と言った。お互い様。私も「同じや。言いたいことがいっぱいあるが息子がかわいそうやから胸の中でこらえていることがいっぱいある」と話をするとこの話しにも意気投合した。
皆、似たようなものがある。人に言えない悩みを抱えて生きている。
けれど彼女に会って嬉しかった。心置きなく何でも話せた1歳年下の彼女である。大阪で務めていたご主人と知り合って結婚した。九州から出てきて大阪に来て嫁いできたところがまた旧家、平城宮跡が自宅前にある。
ここに来て幾度も泣いただろう。それでもそんな苦労を見せない明るい人だった。
佐紀町に住んだ縁の友人である。
当時、仲の良かった女友達のことも気にしていたのでさっそく女友達にメールしてまた3人で会うことにしょうとメールを打った。
息子の小学校の頃、私はでたがりで目立ちがたりでいつも前に前にと目を向けてエネルギシュッに活動していた。
雑誌記者時代もそうだった。在日韓国人の新聞社、日刊紙の記者のころもエネルギシュだった。それが現在の仕事に変って自分の器がどんな物かと見えたときに自分のやれる範囲でやれることにしようというマイペースに変った。
加齢とともにもっとマイペースになった。
しかし燃えた時代を走りぬけてきた彼女と久しぶりに会った。
いつか当時の仲良しの友だち3人で会って昼ランチを楽しみにしておこう。
病院から帰り郵便局の帰り11時過ぎたところ。昼ランチはたいてい11時半からしか店は開いていない。昔、このホテルができたときは活気的だったが今は限られた宿泊者になっているだろう。それで昼ランチにバイキングランチを出しておられる。久しぶりに立寄ってここで昼食、1000円は昼ごはんに高いがたまにはいいかと思って食べた。久しぶりにカレーも食べた。
美味しかった。それに懐かしい友人に何年ぶりに会って嬉しかったのか昼食が美味しかった。
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