日本在住の中国の映画研究者、劉文兵さんの新しい本が出ました。「証言 日中映画人交流」(集英社新書)です。
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証言 日中映画人交流 (集英社新書) |
劉 文兵 | |
集英社 |
劉文兵さんも後書きに書いているように、この本は2006年に出た同じ著者の「中国10億人の日本映画熱愛史」(集英社新書)の姉妹編と言えます。
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中国10億人の日本映画熱愛史 ― 高倉健、山口百恵からキムタク、アニメまで (集英社新書) |
劉 文兵 | |
集英社 |
「中国10億人の日本映画熱愛史」では、中国における日本映画の受容が記述され、特にプロレタリア文化大革命直後の『君よ憤怒(ふんど)の河を渉れ』(1976)の上映を契機とする日本映画ブームについて、ご自分の経験もまじえて詳しく述べられていました。ご参考までに、『君よ憤怒の河を渉れ』の予告編を付けておきます。
今回の「証言 日中映画人交流」には、『君よ憤怒の河を渉れ』に主演した高倉健、監督の佐藤純彌、やはり中国で大ヒットした『愛と死』 (1971)や『サンダカン八番娼館 望郷』 (1974)の主演女優栗原小巻、シリーズ中6本が中国で公開されている『男はつらいよ』の監督山田洋次へのインタビューが収録されています。さらに、中国と関わりの深かった監督として『二十四の瞳』 (1954)の木下恵介監督に新たな光を当て、木下監督と一緒に仕事をした脚本家の山田太一、プロデューサーの脇田茂、そして最後の助監督だった本木克英にもインタビューをしています。本木克英監督は、私の大好きな映画『てなもんや商社』 (1998)で渡辺謙と小林聡美に絶妙のコメディを演じさせ、私のお腹の皮をよじれさせた人です。
どのインタビューもそれぞれ興味深い事実が引き出されているのですが、特に出色なのは高倉健、健さんへのインタビュー。一般にはインタビュー嫌いと言われている健さんが、全然構えたところもなく、正直すぎるほど正直に自分の体験と真情とを吐露しているのです。満州と縁のあった幼い頃の話から始まって、内田吐夢監督との出会い、呉宇森(ジョン・ウー)監督のこと、香港とマカオでロケをした石井輝男監督作品のこと、そして張芸謀(チャン・イーモウ)監督を始めとする中国の映画人との交流などなど、自分に不利なこと(内田吐夢監督とのくだりでは「(僕は)ずいぶん生意気だった」とまで)も含めて率直に語られるその内容に、読む者はすっかり魅了されてしまいます。
健さんのインタビューの最後の部分は、”「僕は器用に生きていると思っています」”という小見出しがついているのですが、世間が抱いている健さんのイメージを軽くいなすようなこの発言には、読んでいて思わず頬がゆるみました。中国映画に関心のある人だけでなく、高倉健ファン、そして日本映画ファンにも必読の書です。思うに、劉文兵さんのよく下調べがしてあるけれども控え目に繰り出される質問の数々に、健さんの感性がビビッと反応して、胸襟を開いて語ってくれる結果になったのではないでしょうか。
うちにも中国の映画雑誌の古いものが何冊かあるので、健さんが表紙になっているものはないかなーと調べてみたら、残念ながら健さんのはなかったものの、『君よ憤怒の河を渉れ』で健さんの相手役を演じた中野良子が裏表紙になっている雑誌がありました。「大衆電影」の1980年11月号です。目次には”撮影:周雁鳴”というクレジットがあるので、訪中した時に撮られた写真かも知れません。
余談ながら、右側に出したこの号の表紙は、目次には『苦恋』 (1980?)の劉文治(凌晨光役)と黄梅瑩(緑娘役)とあります。実はこのあと1981年4月、『苦恋』は反党・反社会主義的作品として批判を受け、共同脚本を書いた作家白樺が自己批判を余儀なくされるという事態になってしまうのです。映画は上映禁止になったそうですが、「岩波現代中国事典」によると、この映画は「国民党に追われて米国へ亡命し、そこで著名な画家となった主人公凌晨光が、人民共和国の誕生と共に祖国愛に燃えて帰国、新国家の建設に参加しながらも、文化大革命の中で様々な迫害を受け、ついには死んでいく」というストーリーだとか。台湾での後日談などもあるいわく付きの作品なのですが、こんな所にスチールが掲載されていようとは。劉文兵さんのご本のおかげで、思わぬ発見もしてしまったのでした。
えー、健さんにもインタビューなさったことがあるんですか!? そうか、任侠映画を追いかけてらした関係ですね。もったいない、健さんの2回のインタビューも含めて、早く世に出して下さいよ~。
「ものすごい話好き」だという健さん、外見と中身が違うおしゃべりなシルバーグレー、なんていう役を一度見てみたいですね。