来週の土曜日、1月13日に、インド映画『カルプナー』(1948)が初お目見えします。以前紹介した時は映画の基本的データを書き忘れたので、今回はそれと、映画のストーリー、ならびに登場するソング&ダンスシーンをご紹介しておこうと思います。ソング&ダンスシーンは実に20カ所もあるのですが、歌のタイトルは資料にあるものはローマナイズで示してあり、他は私が便宜的に付けたタイトルです。他にもダンスだけのシーンがいくつかあり、それもちょっと書き添えておこうと思います。事前に内容を知りたくない方、インド、ならびにアジアの舞踊に詳しい方で、ご自分で発見したい! と思われる方は、今は読まないでいて下さいね。
『カルプナー』国立映画アーカイブ「蘇ったフィルムたち」公式サイト
©Nasreen Munni Kabir
1948年/インド/ヒンディー語/153分/モノクロ/原題:Kalpana
監督:ウダイ・シャンカル
出演:ウダイ・シャンカル、アムラー・ウダイ・シャンカル、ラクシュミー・カーンター
(注)使用写真は①©Nasreen Munni Kabir(友人ナスリーン・ムンニー・カビール所有の公開当時のプレス『Kalpana』ブックレットより)②©NFAI(National Film Archive of Indiaで購入したもの)
[物語]
映画は、ある男性が自分の脚本を映画会社に持ち込む所から始まる。「儲からない映画は作らない」という映画会社社長を、彼の脚本は説得できるのだろうか...。
北インドの村に住むウダヤンは、芝居に夢中の男の子。叔父や祖父は勉強させて将来は事務員にと思っており、女形のまねごとをするウダヤンを打ち据える。近所の女の子がウダヤンを気にしてくれていたが、その子も町へ越していってしまう。孤立していたウダヤンを救ってくれたのは、「先生」と呼ばれていた人で、彼の元でウダヤンは絵画や音楽の才能を開花させる。成人したウダヤン(ウダイ・シャンカル)は、先生の勧めで友人ヌールと共にベナレスに行き、劇団を作って公演を始める。その時力になってくれたのがヌールの友人のラメーシュで、ラメーシュから叔父とその娘ウマー(アムラー・ウダイ・シャンカル)を紹介され、ウマーは公演に加わることになる。外をシヴァ信者の賛歌を歌う一行が通った時、一緒に歌うウマーは、ウダヤンに強い印象を残した。
<歌①>シヴァ神賛歌
©Nasreen Munni Kabir
彼らの公演には劇場を持つ男が協力してくれたが、終了後ウマーたちを送り出したあと、金銭的なことからその男と争いになってしまう。彼を殴り倒したウダヤンは、てっきり彼が死んだと思いヌールと共に逃げ出すが、その事件が元で逃亡生活を余儀なくされ、ヌールも命を落とす。そんな時ウダヤンは、狂気じみた若い女性カーミニ(ラクシュミー・カーンター)と知り合い、同棲するようになる。
<歌②>椰子酒の歌
カーミニーはどうやら金持ちらしく、ウダヤンにインドのあちこちを公演して回ることを提案、彼らはカルカッタ(現コルカタ)、ラクノウ、デリー、カラチ、ラホール、アグラ、マドラス(現チェンナイ)、ボンベイ(現ムンバイ)と巡回する。インドの古典舞踊をモダンダンス化したものや、カタカリ舞踊などを演じるウダヤンの劇団は、好評を博していた。そこへウマーやその仲間も加わり、公演はますます人気になったが、カーミニは不満を募らせていく。
<歌③>ヤムナー川のほとり
公演の最後の日、カーミニはウダヤンのイライラの原因が劇場支配人を殺した罪の意識だと知り、その男は死んでいないことをウダヤンに証明してやる。そして、その夜金持ちが大勢集まるパーティーに彼を連れて行き、資金援助をあおごうと持ちかける。「今の劇団員を全員解雇して。みんなあなたのことなんか理解してないし、感謝してもいないわ」その声は劇団員にも聞こえ、みんなの気持ちはバラバラになった。金持ちのパーティーでもウダヤンは傷つき、資本家たちの横暴を描くダンスシーンを想像する。打ちのめされたウダヤンが戻ってくると、「先生」がやってきていた。先生に助けられ、劇団員たちに謝ったウダヤンは、当初の目的だった芸術センターを作る事業に心血を注いでいく。
芸術センターは完成し、教育と公演、そして生活の場として活動を始めた。
<歌④>Sadiyo ki behoshi(長い間自覚しないまま)
演劇クラスや音楽クラスの様々な授業とパフォーマンスが行われて、活気に溢れる芸術センター。ウダヤンとウマーはその中心となり、素晴らしい舞踊を披露していく。
©NFAI
<歌⑤>Bharat jai jai(インドに栄光あれ)
「バーラト・マーター(母なるインド)」が登場し、それにインド各地の出身者が故郷自慢をし合うパフォーマンスなど、社会風刺や政治批判を込めた内容も登場するようになる。
<歌⑥>パンジャーブの歌
<歌⑦>Bharat jai jai(インドに栄光あれ)
だが芸術センターでは、またしても経費の問題が持ち上がっていた。ウマーは国内巡回公演を提案するが、カーミニはボンベイに行って映画を撮ろうと言い出す。しかし、ウダヤンも映画には二の足を踏み、芸術祭を行うことを提案。「春の芸術祭」にみんな賛成するが、カーミニは自分の考えが退けられたことに腹を立ててしまう。カーミニの存在は不協和音を生み出し、やがてカーミニが劇団員のマダンに言い寄るなど、次々と問題が持ち上がっていく。そんな状態を嘆き、ウマーは一人歌う。
<歌⑧>Behti ja behti ja sarite(流れてお行き)
ウダヤンはウマーを慰めるが、そこで意外なことが判明する。子供時代、ウダヤンを気にしていた近所の女の子こそ、ウマーだったのだ。こうして、「春の芸術祭」の準備が進められていく。外部からの参加は、マニプリ舞踊団、スリランカの舞踊団、インドネシアのバリ島のケチャッ舞踊団に女性の舞踊手たちなど、様々な舞踊団が招待された。
<歌⑨>クリシュナ神の歌
ウマーは芸術祭を祝って、入り口ホールに神への供え物を置くが、カーミニがそれを見ていた。ウマーは内部のゴタゴタがいやで、芸術祭が終わったら身を引こうと考えていた。
©Nasreen Munni Kabir
芸術祭が始まり、多くの見物人がやってくる。王侯貴族から庶民や農民たちまで幅広い観客が詰めかけたが、インド人で西洋かぶれの人は入れてもらえず、自国製の服を着た愛国心のある人だけを入れるなど、なかなかに骨のある芸術祭だった。芸術センターからはインドの諸言語で実況中継がなされ、またマダンは王侯貴族の席に「感情メーター」探知機を取り付けて、パフォーマンスがどのくらいウケたのかを示すスケールを楽屋に設置していた。そんな中で、モダンダンスと古典舞踊を融合させた神への祈りから、パフォーマンスは始まった。
<歌⑩>神への祈り
公演は大好評だったが、それがカーミニには面白くない。ウマーが供えた神へのお供えを蹴っ飛ばすカーミニ。その後戻ってきたウマーは、悲しそうにそれを眺める。それを知ったウダヤンも、マニプリ舞踊に出る気をなくし、自分抜きで演じるようマニプリの師匠に頼む。楽屋では、子供にひどい仕打ちをしたカーミニに、ついにウマーの堪忍袋の緒が切れる。
<歌⑪>マニプリの男性舞踊と女性舞踊
<歌⑫>クリシュナ神と女性たちのリーラー
<歌⑬>ホーリー祭の歌
カタック舞踊の女性パフォーマンスも登場。
<歌⑭>Deep jalao(ディワーリー祭の歌)
<歌⑮>Hindustan ka bal hai hal(鋤こそはインドの力)
農民たちへの共感が司会者によって語られ、会場に来ている農民たちが映し出される。「カルプナー1号」と書かれたトラクターも登場する。
<歌⑯>マニプリ舞踊の太鼓ダンス
王侯貴族向けに剣舞も登場するが、彼らの反応は今ひとつ。次はウダヤンが登場し、太鼓をどんどん大きくしていくユーモラスなフォークダンスを披露。
<歌⑰>フォークダンス
王侯貴族の席を沸かせようと、ひるがえるスカートから生足が拝める踊りを登場させ、計算通り「興奮」「セクシー」ラインまで行ったものの、踊り手が実は男性だったと明かすとみんな苦笑いで一挙にメーターが落下。
<歌⑱>クリシュナと牛飼い女たちのリーラー
北東インドの女性たちの舞踊も登場。
<歌⑲>「至福」と歌いながらの女性たちのダンス
やがて、王侯貴族から寄付の申し出が相次ぎ、女性の剣舞も始まる。弓矢ダンスが始まると、王侯貴族らは弓を奪って自分たちが踊り出し、もうノリノリに。その後、ウダヤンは気を失い、様々なイメージが去来するパフォーマンスが続く...。
<歌⑳>「聞かせて頂戴」
収拾が付かなくなったこの脚本は、果たして映画になるのだろうか?
©Nasreen Munni Kabir
今回の字幕翻訳は、英語字幕リストしかなかったもので、歌の歌詞を捉えるのに大きな苦労をしました。国立映画アーカイブの方に原語台本か歌詞一覧がないか、この作品を修復した機関にいろいろ尋ねていただいたのですが、どこにも見つからず...。で、ダメもとで友人のインド映画研究家ナスリーン・ムンニー・カビールに「セリフの英語訳はあなたがしたの?」と聞いてみたら、「私じゃないわ。でも、昔のブックレットが手元にあるかも」と探してコピーして送ってきてくれたのが、上に使った画像のB5判ブックレットでした。英語、ヒンディー語、グジャラーティー語でストーリー等が書いてあり、ヒンディー語で5曲だけ歌詞が収録されていたもので、それで本当に救われました。原語の歌詞と英語字幕を比べるとかなり違っているものがあったりして、そんなわけで他言語の歌詞は訳が違っているかも知れません。もし何か、お気づきの点があればぜひご教示下さい。
©NFAI
古典舞踊でよく登場しているのは、北東インドのマニプール州のマニプリ舞踊と、南インドのケーララ州のカタカリ舞踊です。ラビンドラナート・タゴールが自ら開設した学園で、自分の詩に曲を付けたタゴールソングの振り付けを考えた時、マニプリとカタカリの舞踊手を招いて基礎のステップを生かした振り付けをさせた、という話を聞いたことがあるのですが、それと何か関係があるのかも知れません。今後の調査課題にしたいと思います。