経営者として独立を考えるなら「最高の使用人」を目指す事から始める!
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「本物とは何か?」の総括をした結果は、
簡単に表現すれば、まがい物に対して正しさを明らかにしてくれる力のあるもの。と言うフレーズが解りやすいのかもしれません。
ただ、「正しさ」という言葉も大きな誤解を招きやすい表現だと感じていますが、私は「正しさ」を様々な体系的法則性との整合性が整い、状況変化に
も本質における差異や変化が起きづらい考え方や、原理性や原則性を内包しているものと言うような解釈で正しさの言葉を使用する様に心がけています。
ビジネスを行なう時に大切な事は、自身が経営者になる動機です。
独立を目指す者の動機を尋ねると様々な答えが返ってきます。
中には人に使われるのが嫌だから経営者になると言う考えを言う若者もいます。
しかし、経営者が人に使われない存在であると考えるのは、全くの誤解です。
たとえば、借金をすれば最低限借金先の使用人なる様なものであり、実際多くの経営者が銀行などの使用人として働いているような感じを覚えるものです。
また、資本金を出して貰えば、投資家の使用人になるようなもので、資本家の使用人になったと自覚するような事が山ほど発生します。
取引先の使用人になる状況や、家主の使用人になる状況など際限のない上司的な存在が経営者には出現してきます。
顧客の使用人になる状況も、自身の雇用している従業員の使用人同然の状況も発生します。
世の中に、誰にも使われない存在は、起こり得ないし、第一、より多くの人から使用される価値を自身が生み出し続けていくことこそが経営能力を高め
ていることであり、社員一丸となって多くの人々の喜ばれる使用人となるように心がける教育に成功している会社こそが「実業」を創造しているともいえます。
したがって、誰にも使われたくないから経営者になると言う事は、全く無法な考えで自滅するしかないアイデアだと言えます。
ただ、より多くの人々から喜ばれる使用人といえども、その中で特にどのような顧客、取引先からより大きな喜びを創造できる使用人になろうとする事は、とても大切な事です。
使用人となって心から喜べるようになるコツは、その相手を心から好きになれること、少しでも役に立ちたいという気持ちが自然と高まるような条件はどのようなものであるかを考える事がとても大切になります。
たとえば、ミクシーを店として考えた場合、マイミクの一人一人が好きになれるためにはどうしたらよいだろうと考えてみる。
マイミクの一人一人に役立たいと思えるようになるにはどうしたらよいだろうと考えてみる。
そのようなことを考えて一人一人の日記を見ようとする。
そのようなことを考えてマイミクをお願いするようにする。
そのようなことを考えてコメントを入れるようにする。
そのようなことを考えてメッセージを送るようにする。
そのようなことを考えて紹介するようにする。
そのようなことを考えて紹介文を書くようにする。
毎日、交流を重ねていくごとに理解が深まるマイミクが増えていく。
毎日、好きさが増して行くマイミクが増えていく。
毎日、学びを与えてくれる事に感謝が増して行くマイミクが増えていく。
毎日、尊敬の念が強まるマイミクが増えていく。
必然的に、お役立ちできることは無いかという気持ちがわいてくる。
必然的に、私にやらせてくださいという思いが沸き上がってくる。
必然的に、素敵な人を紹介したい気持ちになる。
必然的に、感謝の気持ちが膨らんでくる。
私は無理に人を好きになろうとしなくていいと考えています。
実際、私の店に来るお客様をすべて好きになろうとは思っていません。
ただ、私が常連と呼ばせている方は、全て好きになれるように心がけたいと日頃思っています。
店の常連さんは、ミクシーのマイミクさんと同じようなものですが、
マイミクは人を選べます。
好きになれそうな人、
学びを受けたい人、
深く共感できるものを持っている人、
自身と正反対の考えでもその考えを学びたいと考えている人、
選択が自由に出来ます。
ただマイミクを承諾して頂ければの条件がつきますが‥
店では、人を露骨に選ぶ事は、なかなか困難です。
しかし、趣味性の強い品揃えや、個性に性格が著しく反映される品揃えや、美意識の深さや、環境への貢献参画というメッセージ性などを店に強く反映する事で、結果として顧客を選択できるようになります。
特に、学びの交換を感じあえるような店には、感謝の思い、尊敬の念、お助け精神の高揚などが相互に高まりあう作用を引き起こします。
そのような店はとても素晴らしい緊張感と居心地のよさが絶妙のハーモニーでバランスをとり続けていくことが出来ます。
実際、そのような素晴らしい関係を創造している店に、非常に稀ですが出会います。
ミクシーには、私と同じように店を経営している方も多く居られる中で、その店を是非、見てみたいと思わせる方にも出会います。
是非、見てみたいと思う動機を振り返って見ると、
どのような方をマイミクにしているのか?
どのような内容の交流をしているのか?
どのような内容の紹介が交流しあっているのか?
それぞれの興味に納得が行く方の店は,是非,訪ねて見たいという気持ちが強くなってきます。
実際、私がこっそりと伺った店は、そのような条件を満たしていたミクシーの使い方をしている方でした。そして、予想通りに、心からのお助け精神が
満面の笑みで溢れているような店で、お客様もやはりそのような貴重な空気感を大切にしたいと感じて来店されているような素敵な方々とのさりげない交流は行
なわれていました。
そして、その店は無名新人作家の陶器ばかりを集めている店でしたが、とても独創性があり、説得力のある品揃えがそれぞれの存在感を生かしながら陳列してありました。
華もそこの主人が生けたのでしょう。器とのバランスを絶妙に造形化させたものでした。
有名ブランドを置く事で客層が荒れることを故意に避けているようにも感じるほどの自信が伝わってくる店に来店する客も、品を出す陶芸家も、花屋さんまでが共に、わざわざという特別性を生み出しているように感じられる店でした。
私はその経営者は、本当に「良い使用人」だと感じ入りました。
「良い使用人」は、使用されがいのある人を様々な方法で選ぶ能力に長けた人であり、心から喜べる条件を生み出すための苦労をいとわない人の事だと最認識した事があります。
独立したいと考えるなら、まず、最高の使用人になろうと覚悟を決めることが大切だと思います。
現在、どこかで働いているとして、まずはその職場で、顧客や取引先の最高の使用人となるように努力して、努力して、努力する。
その努力の仕方に自身で満足がいくほどに、顧客や取引先からフェアーな関係で信頼される「使用人」になれたときが、独立を具体的に考える事が出来る第1歩だと思います。
そして、その条件が整った時、いかにして「本物がもつ過ちを修正する力」を見方にするようなビジネスプランを描くのかを検討する事が肝要だと考えています。
最高の使用人になれるようになれば、経営者として70点以上の評価を得られるのではと、私は考えています。
その理由は、真っ当な取引先が考えるベストな使用人は、決して言いなりの使用人ではなく互いを高めあえると感じられるベースが最低条件になるからです。
上質な顧客においても理想的な使用人は、やはり言いなりの使用人でなく互いを高めあえると感じられるベースを大切にします。
人間のまともさは、常に「フェアー」で居たいという理念をアイデンティティー(理念)を確立できているかどうかに掛かっています。
取引先の選択においてフェアーさへの信頼関係が構築できない相手とは、いかに儲かりそうなアイデアが用意されていても近寄るべきではありません。
その理由は、万一自身は、危険人物として用心していても、自身以外の従業員や顧客への責任を果たす事が出来なくなることと、取引先を尊敬できるで
きるようにしておく事は、従業員に大きな学びの環境を自ずと提供できるようになっており、精神的な健全化が育まれやすくなりますし、抜け目の無い隙あれば
付け入ろうとする相手に対するガードコストや労力も著しく軽減できます。
それは顧客に対してもいえることで、信頼関係をフェアーな状態さでの心地よさを共感できる相手から好まれるような品揃えや、サービス提供を行なう事を何よりも大切にしていなければ、売り場はすぐに抜け目ない、ずるがしこい性質が店の空気を凌駕するようになってしまいます。
いかにして取引先に育てられる店。
顧客に育てられる店。
いかにして取引先を育てられる店にするか?
顧客を育てられる店ににするかは、もとっも重要な健全事業の背骨ともいえるものです。
その精神を育ててくれるのが最高の使用人を目指す事だと考えています。
次に大切な事は、会社の物事の判断基準を明確にする事が必要になります。
いつ、いかなる時でもこの考え方を基準に判断をしていくという判断基準です。
それが会社の理念として事業に関わる人の全てに周知徹底させるもっとも大切なものですが、その理念の質を高める為に役立つのがやはり、「最高の使用人」を目指しているときに会得する物事への考え方です。
当然、事業を行なう以上は、戦略を考える事が大切になりますが、事業戦略の整合性の質を高める為には、基本戦略と基本理念の合致が大前提となります。
当然、いかなる事業戦略も、その基本戦略との整合性確認が行なわれてこそ、判断の質が一貫することになります。
それが組織内に出来れば、あとは目的と目標を示せば、誰でも判断を上司に仰がずに判断を行なう事が可能なスキーム(枠組み)が社内にできあがる環境を整備した事になります。
戦術判断を自由裁量に任せられるようになってこそ、様々な経営資源が自由闊達に動き出すようになるわけですが、多くの会社は、その戦術判断を理念無き自由裁量の闊達な職場作りを目指そうとする愚を犯します。
理念無き自由裁量の闊達な職場とは、言葉を変えれば、
「儲かりさえすれば何をやっても良い!」
「ばれさえしなければ何をやっても良い!」
「楽が出来るなら何をやっても構わない!」
「身内に迷惑が掛からなければ何をやっても構わない!」
誰にも分かりやすい浅智恵の判断基準を無責任に自身や従業員に放り投げたことで利益と言う蜜を味わった人間は、刑務所に入る状況に追い込まれない
限り、自身で気づけ無くなるほどに強烈な収益成果を短期的に上げる事を体験してしまうために、経営者としての修正が困難になります。
そのような経営者の職場では、表面的にはうまくいっているように見えます。
自由裁量が大きい為に、自由闊達で生き生きしているように見えるのです
。
儲かりさせすればよいのですから、その組織には全く迷いがありません。
どのような手段でも儲かればよいのです。
オレオレ詐欺集団の組織は、墓穴を掘る状況が近づかない限り、
非常に明るく闊達にアイデアがわきあがっていく環境に一時的になていると言う話を聞く事がありますが、それほどに、いちいち上司の判断を仰がなく
ても良いという環境は、ある意味で居心地がよく、能力を発揮しやすい環境なので、その空気を知っている上司は、その手法を手放せなくなります。
健全さを育みながら、自由闊達な判断が行なわれる環境を創造するためには、どうしても真っ当な理念をトコトン身につける人間修行を欠かすことは出来ません。
身近な人間修行が、最高の使用人を目指して日々の学びを自身に焼き付けて、心から感謝できる喜びを会得するしか、方法はありえないほどに大切な事だと考えています。
続く
(前の日記のレスが長くなりすぎたのと、大切な内容となったことから日記にしました。)
ichide!さんへ
コメントありがとうございます。
先程ichide!さんの日記に伺い最新の日記を拝見させて頂きました。
とても素敵な日記でしたが時間の都合でとりあえず「いいね」だけで失礼させて頂きました。
そのichide!さんの意味深い日記に相応しいコメントが寄せられている中で、レスされtレた下記のあなたの言葉が心に残りました。
> 学びですよね何でも。深く掘るほど自分の無知を知りますが、
>解らないながらも、なにがしか、だんだんとかたちにしていかないと何もせずに終わ
>ってしまう。知るとつくるは同時進行なのだろうとおもいます。
作ると言う漢字は、「ナガラ」と「ヒト」の組み合わせの文字である事を思い出しました。
「ナガラ」は同時進行的に新たさを引き出す意味を、「物に刃物で切り込み形を変えていく様子」に「人為という意味で人という漢字を組み合わせたものだそうです。
物の形に新たな切り口を入れる行為は、今まで見えていなかった事が見えてくるという事を繰り返すことで、同時に「知」を瞬時に手に入れる意味があり、
その瞬時性の意味も「乍」(ナガラ)の解釈で重要な事になっています。
私の子供の次女には、この「知」の字を入れた「佐知」という言葉にしています。
「知」は、矢を射るように瞬時に的を射るように「本質」を理解し言葉にする能力という意味があります。
>「知る」と「作る」は、同時進行なのだろうとおもいます。
まさに「知」と「作」との言葉の本質を射抜いた解釈だと感服しました。
実際に日々物を作っているからこそその本質が然るべくして会得してさりげなく出てきた言葉であろうと感じ入りました。
長女と次女が始めて創作をしたと言えるような物をコレコーレに飾ってあります。
一つは『赤いりんご』です。
もう一つは「緑の南瓜」です。
基本的に子供たちを塾に行かせることには余り賛成できない考えを元々持っていた私でしたが唯一例外に考えていたのが「絵の教室」です。
学校の成績に最も影響を与えなさそうに見えて、実はもっとも大きな成果を上げるだろうと考えていたことが創造を行なう活動に喜びをみいだし続ける基本を学ばせるという考えでした。
子供の絵を教えてくれていた先生の日々の創作活動は、表層的な美しさや綺麗さに一切とらわれることなく、自身の内面をさらけ出すような強さをもつ 生き生きとした創作活動をされていた方で、教える子供の心理状態をとても的確に瞬時に把握される先生でもあった事も、どうしてもその先生から創造の本当の 面白みや喜びの本質を学ぶことを、二人の子供の人間の知力の基礎として欲しいという気持ちがありました。
その先生の下に、幼少の二人の子供を行かせて、最初に作り上げてきたのが粘土細工の『赤い林檎と、緑の南瓜』です。
二つもとても力強く生命力が生き生きとした素晴らしい質感と色合いと存在感を発揮させた作品で、20年以上大切している私の宝物です。
作品だけを取り上げれば、その後の作品の方が、とても大きな展示会で最優秀賞を頂いて、ニューヨークや海外の個展にも紹介されたりしたことで、作品の描写の深さや的確さなど子供たちの作品に対する感動するチャンスは、それぞれに訪れましたが、
私の中では、最初の創作ともいえる二つの作品に大きな意味と命の意味を感じる事ができると同時に、子供たちの創造の可能性に無限性を開いてくれる原点と思える唯一性のある作品として身近に置き続けています。
成人した子供たちが共通している事は、作る喜びを命の活力にし続け、自身の知るべき事を作る工程から学び、作る行為から新たな道への確かさを探ろうとしている基本をしっかりと身に付けていると感じられることがとても嬉しい事です。
親が子供に教えられる事や学ばせて上げられる事には、必ず限界が来ますし、また限界があることがとても大切な事だと考えています。
親が子供のとっての老害現象となるのは、親自身の限界を子供と親が認めようとしない愚かさが生み出すと考えています。
これは師弟関係でも職業政治家や経営者後継者問題での本質に内在する大切な事柄になっています。
無限の可能性を持って生まれた子供の力の前で、親が認織すべき事は、自身が子供の可能性のさらなる飛躍の最も大きな重石となってしまう存在である事を認めつつ育てる責任だと思います。
日本人の子育愛や師弟愛の本質に「守破離」シュハリの原理原則を学びの基礎とすることが最も大切な事ですが、「守破離の原理原則」会得の方法の最善策に「作」という「学びの原理原則」がもっとも有効性を発揮するのではないかと考えています。
「作」の文字は、言葉の意図を分解すれば、破壊と創造であり、破壊する相手を知り、破壊の目的を悟り、破壊行為から表層現象から見えていなかった 「知の素材」を観察し、破壊目的の意図をさらに深める啓発培養を生み出しながら、最善の「総意」を具現化させる行為を示しているのだと思います。
親が教えられることは、あくまでも「守」が限界で在り、「破」は、親子は子離れ、親離れの共同作業のような段階であり、「離」の教えの師は、「作の原理原則」だとも言えるほどことなのかもしれません。
大切な言葉と大切な思い出をichide!さんから頂くことが出来ましたありがとうございます。
物々交換オヤジ 片桐健二
天晴さまコメントありがとうございます。
いつもとても深い学びの機会を頂き感謝しております。
>人は自分の為、自分の幸せの為に努力するのが偽らざる真理です。
>他人の為などと言おうものなら「偽」(人の為)文字通り偽りなのです。
>間違えてはならないのです。自分の為はそのまま人の為に通じる。
>頑張ったこと、やり遂げたこと、一生懸命だったこと…
>何らかの影響や成果が生まれ流れだし誰かの喜びや幸せに繋がるのです。
>どんな苦境にあっても笑顔…素晴らしい努力です。
>何事があってもへこたれない姿…美しいです。
>なぜ…なぜそんなにひたむきでいられるのか…
>そんな疑問を誰かの胸に起こさせる…
>その答えは感動と気付き、励ましと癒しをその者に与える。
>そこには「自分の為」が熱く雄弁に語る人生観がある。
>正しく「自分の為」
>自分だけ…とか
>自分さえ…のような
>独りよがりな
>かたくなな…
>そのような狭い感性であってはならないとつくづく思うのです。
「作」と「為」というどちらも「人が物に手を加える」という意味の言葉で必然のように導いて頂き感謝します。
どちらも「ナス」という作り上げる意味ですが私の理解では、「為す」の字は、調教的な意味が語源にあり、「守破離の原理原則」の中では、「守」において物事を為そうという意味が強いと言う理解です。
「人為的」という解釈は、企てにおける目的達成の手段として調教を施し思い通りに支配し事を成そうという本意があるのではないかというように理解しています。
親が子供を育てる時に、師が弟子を育てようとする時に、その始めに企てが存在しますがそれ自体が悪いことではなく、企てようとする動機に善悪や美醜が生まれるだけのことであると考えています。
学校教師にも教師として天命を持った人物も居れば、調教師が教師の真髄であるかのごとくに信じる調教教師が存在します。
調教教師も調教両親も大義名分では、
「子供を守る為に、」
「子供への責任の為に、」
「世間への責任の為に、」
「子供の将来に為に、」
テレビコマーシャルでよく流される「あなたの為だから‥」のキーワードのような呪文が教師を縛り、両親を縛り、世間を縛り、何よりも子供の未来を縛り続けて行きます。
「為」には、調教を示す意図として「象」の語源も内包されていますが、心理学の実験の中にも象の調教習性としてのトラウマが取り上げられる意味も指摘した意図があるように思えます。
大きな巨体の象が、巨象の足に鎖に繋がれた小さな杭を抜く事が出来ない現象が起きる理由について、物理的な力から言えば、いとも簡単に抜く事が可能であり、実際に野生の象をその杭につなぐと一瞬で抜いて逃げてしまうことができます。
しかし、小象の時に結ばれた鎖と杭で拘束され続けた場合は、体得してしまった杭から逃げられないという固定観念が象の生涯にわたって強く支配し続けます。
このような力の象徴のような象と言う動物の幼少のトラウマ現象を語源に組み込むことで強調させた言葉でもあったのだろうとも考えています。
調教が「善」となるなるか「悪」となるかの境をキチンと理解している人は、あまり多いとは言えません。
先程の象の例でも、自然界に生き生きと生きる象からすれば、人間がどのように都合の良い論法を立てても人間的な価値の調教は、「悪」や「醜」としかならないでしょう。
しかし、何らかの理由でその象が自然界で生きていく事が困難で、人間界でしか生きられない事情があるとしたら、その答えが必ずしも正しいとは言えなくなります。
たとえば、犬や猫という動物のように人間社会に同化させるために、交配を繰り返し固有の個性自体が歪んでしまい狼の特性を一切喪失してしまってい るペット使用品として目的に加工された動物は、自活の能力が根本から奪われており、人間界の調教の世界でしか生きられなくなっています。
生命体にとっての調教の善悪は、犬のオリジナルである「狼」を例にして語る事は、今の時勢や将来の構想から考察すれば、既にナンセンスな状況になっています。
事の善悪は別として、人間の創造する未来の動物の行方は、全てが犬や猫のような、人間にとって都合の良い交配と調教を繰り返し続けていく運命のシステムに乗せられていくしか道は残されていないのかもしれません。
それは動物に限らず、植物においても交配と様々なテクノロジーでの改良と調教の中にしか生きていく事を許さない時代へと人類は、向かっていくのだとも感じています。
もちろん、それが宇宙意思でもなければ、宇宙法則、真理との整合性を整えることではなく、根本的な人類の破滅のシナリオを自身で描いている事に なっているのかもしれませんが、人類の無知と欲望と、地球を支配する権力構造の意思を変えることを人類自身が行えるほど聡明ではないだろうとも考えていま す。
そこには、「為」という人類のとっての大義名分を生み出し、その大義名分により、本質性へ知力が届かない現実の壁は、人類の最大の恐怖心と表裏になったものであるからでしょう。
人類の最大個性である「知力」で地球生命の食物連鎖の長として君臨し続けてきた人類があらゆる生命の根源の調教、営みの調教を行なう事で,継続して食物連鎖を維持するシナリオバランスをとり続けていくことが本当に可能なのか?
それを阻止する人知を超えた宇宙意思の絶大な「知力」が新たなる地球生命に必要な目的における「作」を行なおうとする行為に、人類そのものが凌駕されることになって行くのか、私にはまだ解りません。
ただ、親として子供に与える調教の目的は、あくまでもその子ども自身がその調教の支配を克服させる目的で与えている自覚を堅持させなければならないということです。
小象を野生に戻すのなら、小象自身が受けた人間界の調教を克服させられるようにしてあげてから戻す責任があるように‥
自身の子供は、自身のものではなく、
また、子供自身の物でもない‥
20万年に遡るミトコンドリアが遡る先祖達や世間から未来を創作する使命の担い手として何らかの天命を授かって預かることが出来た運命の命の継承 の繰り返しという壮大なドラマの一コマに命の継承という節目に自身が立会う事は、自身の果たすべき使命と向き合う節目であり、新たな天命を受けた命との出 会いの節目でもあります。
そして、その節目は、周囲や親にどのようなアイデアがあろうとも調教を始める節目となっている事実を変える事をありえません。
そのように考えて見ますと、自身の子供が誰のものであるかと考察すると、肉体の帰属する所有物では語りきれない、もっと壮大な命の継承の営みそのものが所有しているのかもしれません。
又、調教を与えて育てたたという認識を持つ事が親のつとめであり、壮大な責任の重さな中に自身を存在させる意義付けなのかもしれません。
そのように考えると、他の生命体とは異なり、人類が未熟にか弱く赤子を生み時間をかけて調教の機会を与え調教の成果で子供を守ることの意味や意義 は、大切メッセージを持っていますし、また、その与えた調教で人類を滅ぼそうとしている矛盾を人類に与えている意味もとても奥深いものがあるように思えま す。
物々交換オヤジ 片桐健二
さとりんさまへ
>経営者だけでなく、
>人生の全てにおいて通ずる哲学ですね。
コメントありがとうございます。理学療法士の専門家の方に読んで頂くには、不勉強が多々ある中寛容頂く部分が多い日記だと思います、ご遠慮なくご教示いただければ嬉しいです。
会社では「帝王学の源流」伊藤肇著書を人生の学びとして熟読するように奨めています。
「原理原則」を会得する事が自身を真に自由にさせ創造の命に確固たる中心を持てるようになることだと信じています。
もし、今回の「最高の使用人を目指せ」が経営者にとっての都合に良い従業員の自身操術として便利な方便として理解されることなく、万事に通用する学びとなったのであれば原理原則の基づく思考と言えることになります。
現在、経営をしている物が「最高の使用人を目指せ」という言葉を自身の過去の反省の糧として照らし合わせ、
いかなる使用人であったのか?
今は、いかなる使用人であるのかを考えれられるチャンスに吸収できると経営の帝王学に礎が作られる事になるのではと考えており、それを書き残し部下が読むという行為は、自身そのものへの戒めにもなります。
物々交換親父 片桐健二
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コメント
<input type="hidden" name="owner_id" value="2236149" />
- ichide!2011年02月11日 17:05 <input type="checkbox" name="comment_id" value="1671761936:20110211170507:1981605" />
- >作ると言う漢字は、「ナガラ」と「ヒト」の組み合わせの文字である事を思い出しました。
物の形に新たな切り口を入れる行為は、今まで見えていなかった事が見えてくるという事を繰り返すことで、同時に「知」を瞬時に手に入れる意味があり、
その瞬時性の意味も「乍」(ナガラ)の解釈で重要な事になっています。
なるほど。私も語源が気になり調べました。
元は垣を結うことで、のちに人為で造営、つまり、仰るように刃物や人の指示を介し新しい面が見えてくる事はあるのでしょうね。
>「作」の文字は、言葉の意図を分解すれば、破壊と創造であり、破壊する相手を知り、破壊の目的を悟り、破壊行為から表層現象から見えていなかっ た「知の素材」を観察し、破壊目的の意図をさらに深める啓発培養を生み出しながら、最善の「総意」を具現化させる行為を示しているのだと思います。
『最善の「総意」を具現化』・・・おお、まさにそれかもですね。
例えば、私の様な「外野」が伝統産地へ関わる場合、
つくり手が機嫌良く進められる空気作りをまず重要にします。
つくり手は、現場で、日々存分に精進なさって酸いも甘いも知るゆえに、仰るような「為」の縛りから抜け難いそうです。
私は、それを捨てずに、むしろ、そのまま生かせないか?と考えます。「忘我で発露するその人の個性」が質実な美とも感じるからです。
よって、作業の風通しを良くするために、素材の配分や工数など整理点を探し、使う人売る人の一般目線をお伝えし、自然と新型が現れるのを期待します。
やがて、対話の渦中で、「これをやってみよう」、「これが美しい」といった、気付きと、かたちが自然派生します。
つくり手は自ら発露したかたちで、試みは葛藤、それを自ら超えた自負もお持ちです。
そのような模索は物議をかもしますが、出せば意外と人気でます。
多分、今、その瞬間は、真実なんだろうとおもいます。
また、買う人、使う人からご意見も色々沢山いただきますので、
それも反映し、だんだん修正作業も並行でしていきます。
正解は、何年も先に色んな人に叩かれてできてくかもしれません。