物々交換コレコーレ

物々交換が出来る不思議なお店

ミクシーにとんでもない大物が非公開で‥http://mixi.jp/list_diary.pl?from=navi

2011-02-19 06:30:10 | ブログ

歌手としての公式登録にしていないために、マイミク人数は、まだ17名です。

これほどまでに有名な超実力歌手が公開しない理由を私はまだ知りませんが、間違いなく本物のブログです。

おかげさまで、とても素敵な方ばかりがマイミクになって頂いていることから、ご紹介させていただこうと考えましたので、一度訪問ください。

「全学連」を記憶に持つ私にとって、加藤登紀子さんの存在は、歌手の素晴らしさや人間性の奥行きの深さだけでなく、特別な存在です。

また、亡くなられたご主人の藤本氏からは、非常に多くのオピニオンリーダーをご紹介して頂いた恩人でもあり、私の人生に大きな影響力を与えて頂いた存在でもあります。

存命中は、よく名古屋にお越し頂いてもう一人の大恩人である中山女史という大豪傑の女性が経営していた「ディスイズアペン」の隠れた名古屋の社交場でお会いし、お話しする機会が多かった。

中山女史は、10人ほどしか入れないような小さなバーのママだが、実体不明な桁違いの資産家の方で、小さなバーは全くの趣味で経営しているような店だが、趣味の内容はほとんどが人材紹介である。

ママに気に入られたお客さんはとんでもない人脈を与えていただくことになる為に、噂だけはかなり早めに、私も耳にしていたのだが、到底飛び込みで入れるような店ではなかった。

中山女史がとても気に入っていたデザイナーの仲介で私もその店に出入りできるようになったのだが、小さな店に出入りしてくるお客様の筋のよさに当時本当に驚いたものだった。

当時、出入りしていた客筋からすれば私は一番若いくらいの頃から時々呼ばれていくことが多くなっていた。

基本的にその店には、常連になってもママから呼ばれないと入れないような店のような習慣が暗黙のうちにあって、呼ばれると大半がママが紹介したいと考えている人がこれから来るから時間が作れるようなら来なさいよ!

そのようなパターンが多くて加藤登紀子さんのご主人の藤本氏もやはり、中山女史からの紹介であった。

当時、バーで禁煙の店というのも珍しい頃であったが、愛煙家の皆もママの前ではおとなしく禁煙していていよいよがまんできなくなると、店の外で雑談しながらタバコを吸っていた時に親交が深まった人脈すらも今の財産になっているほどの店である。

中山女史も藤本氏も今は存命ではないが、当時の頃に私の周辺で起きていた事は、誰も信じてはくれないような出来事のオンパレードである。

余りに華やか過ぎる人脈の爆発が起きていた時期で、ともかく会いたいと願えばどのような人でも会える。必要な人脈はいつでも用意されていると言う信じがたい状況になっていくきっかけを作ってくれたのは、中山女史と藤本氏だったのはないかと思える様な出会いだった。

最初、中山女史の兄さん家のとても豪華な純金風呂の噂を耳にしていたことから、その一点の噂だけで、私の苦手なタイプの一族だろうと、中山女史をご紹介して頂いたチャンスを何度も断り続けた時期が3年ほどあった。

あまりにも知人のデザイナーが一度会った方が良いといい続けるので、お会いする事になったのだが、さっぱりとした、何の偏見も持たない自由闊達な 発想の女性で、しかもずば抜けた美貌に関わらず、男のようにズバズバと歯切れの良い、下心の無い応対で接してくる中山女史の存在は、まぶしいほどであっ た。

私の人生にもっとも鮮烈な生き様を身近に見せてくれた女性であったが、藤本氏からみても中山女史は特別な存在のようで、トコトン心を許していたようで、日頃の表では見せないだろうと思える顔を沢山見させて頂いたような気がする。

短期間に藤本氏との交友を重ねられ、かけがえのない学びの機会や知人の紹介というチャンスになっていくために、中山女史の存在は不可欠であった。

また、もう一人不可欠であったのが私の国語の恩師である。
私が「全学連」に傾倒して言った動機も元々は国語の恩師からの影響であった。
米国の対日本人洗脳計画を、かなり早くから恩師の影響で知る状況であった。

全学連活動から時間の経過が進むに連れて、洗脳計画が具体的な成果として明らかになっていく日本の現状の日々や世界の変化と言う中で、藤本氏は「自然王国」というスタンスでさらに大きなスキームでの気づきを提示したかったのだろう。

私は、現在とても納豆を良く食べるような習慣を持っているのだが、その習慣も藤本氏が与えてくれたようなものである。

コメント
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