物々交換コレコーレ

物々交換が出来る不思議なお店

「本物とは何か?」をミクシーのブログで掘り下げた時の内容をスタッフの学びの参考にコピペしてみた。(そ

2011-02-10 04:26:57 | ブログ

私、片桐健二はミクシーというSNSでブログを書いています。その中で店に関わる内容に触れていますので、共に働くスタッフ達にも学びになる話題展開が掘り下げられているのでこちらのブログにコピペします。

本日、とても素敵な方とマイミクになることが出来ました。

天恵美さん
http://<wbr></wbr>mixi.jp<wbr></wbr>/show_f<wbr></wbr>riend.p<wbr></wbr>l?id=25<wbr></wbr>54039

きっかけは「恵」という言葉の意味をその方が管理人をしているコミュの冒頭に説明している事からでした。

その理由は、私が20年の結婚生活後に離婚し、ながらく再会しないままに来ていて最近交流を行なうようになった長女の名前が「恵」という字であることからでした

子供の名前には、漢字の語原や本質的な意味を考慮してかなり熟慮して決めていることから、比較的深く理解して与えるようにしていました。特に長女 の恵は、出産時に仮死状態で生まれたことから、強い不安を気質性に持ちやすいことを考慮して、与える名前が恵の将来に援助を与えてくれるような名前であっ て欲しいとの強い願いを込めて命名してきました。

その新たなマイミクの方自体の名前も今回解りました。その名前は、とても素晴らしい意味を授かっている事が言葉の意味を調べてきている私には良く分かる名前でした。

同時に、その方の日記を遡ってみて読ませて頂いて私が理解できたことと、その名前に本来与えられている力がとてもよくマッチしている事が判り、とても嬉しくなりました。

きっといつか今まで以上に自身の名前がもつ力を自身で探る事が出来る方なのだということもわかりこれからの交友を楽しみにしています。

その新たにマイミクになって頂いた方から素敵な言葉と、情報が届いてきました。
それは、私が現在こだわって定義付けを行ないたいと願っている「本物」という言葉の本質に重大なヒントを与えてくれる言葉でした。

現在、意識の高い方には、かなり有名にもなってきた「吉村医院」という「本物の出産」にこだわる医師のことを取り上げたドキュメント映画の名前が「玄牝」という漢字の組み合わせで「ゲンピン」という題名の映画があります。

ネットで検索するとやはりトップにドキュメンタリー映画「玄牝」が出てきます。
http://<wbr></wbr>www.gen<wbr></wbr>pin.net<wbr></wbr>/

その中で「玄牝」という言葉の意味を説明しています。

玄牝とは?

『谷神不死。是謂玄牝』――谷神(こくしん)は死せず。これを玄牝という。
タイトルの「玄牝」とは、老子の『道徳経』第6章にあることば。大河の源流にある谷神は、とめどなく生命を生み出しながらも絶えることはない。谷神同様、女性(器)もまた、万物を生み出す源であり、その働きは尽きることがない。
老子はこれを玄牝――“神秘なる母性”と呼んでいる。

「玄」は、天のどこまでも深く続く永遠の暗さを現す言葉です。

「牝」は、女性性器そのものを表す言葉です。

「牝」の「匕」は、匕首(アイクチ)*刀と鞘の組み合わせから来る言葉でもあり、男性性器(刀)と女性性器(鞘)を代替で現している組み合わせであり、女性性器は子宮を表す言葉でもあります。

男性性器と女性性器の合体を刀と鞘の組み合わせで表している意味は、

然るべきものが、

然るべくして、

然るようにピッタリと填まり、

然るべきように、

然るべき子供が生まれ出る。

創造の必然性であり、子供と言う存在が「本物」として生まれる「理」コトワリを表しています。

私の持論では、

子供は、どのような子供であれ「本物」に生まれ、

親との相関関係で「本物」失い、

やがて親からの自立から、

自身の「本物」探しのために様々に降りかかる試練の旅に出て、

立命した自身の「真の本物の自分」を中心としてこそ
真の選択が出来る人生を開く事が出来る。

そのように考えてきていました。そのような中で、玄牝という原点のヒントを頂いた事は、本物を考える中でとても大切なアドバイスを頂いた気持ちになりました。

マイミクの皆様、新たに加わって頂いた素敵なマイミクさんをよろしくお願いします。

⑥「本物」の定義へ、「守破離」「玄」「恵」の奥義

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1668340907&owner_id=2236149

昨日マイミクになっていた頂いた天恵美さんから頂いた「玄牝」ゲンピンという本物の出産にこだわる吉村医院のドキュメント映画の話題を頂いたことを書いた昨日の日記にとても意味深いコメントを寄せて頂いたので、今日の日記で掘り下げさせて頂こうと考えました。

今回の日記のスタートは、130日の日記からでした。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1665263029&owner_id=2236149&org_id=1665955604

東京の方でミクシー上で縁が出来て、4年前にマイミクになって頂いたフランスとドイツの国境の近くにある淑女の名門として有名なアルザス成城学園でマナーを身に着けてきた方でその美貌だけでなく、立ち居振る舞いの美しさに、心から脱帽させられた方でした。

幸いフランス語で話さずに気さくに日本語で交流できたのですが、つい調子に乗って私がしゃべりすぎてしまう状態に、私のことを監視するために同伴 頂いた、マイミクの凛々子さんも巻き込んでの話題が様々エスカレートした中で、私にアルザス成城学園卒の淑女が初老の私に名古屋まで来て直接話を聞きたい 内容について言及した時に、将来、経営者としての独立に挑戦したい考えがあるので、物々交換の店を直接見たかったことと、数々事業を成功させてきたように なぜかみえるらしい私に、金儲けに対する考え方を聞きたいという話題になりました。

その際、私が金儲けの本質を掴み易いように、かなり劇薬的な説明を話しました。

結論的な私の話の内容は、

「本当よい物や優れて過ぎた物は、売れない。」
「市場から迎合されるもので、さも本物ように演出させる本物まがいが良く売れる」

極論を言えば作者の物作りの動機から見れば、
お金のために心を鬼にして、まがい物(疑物)を作る事に徹する事が出来ればよく売れるが、究極の本物を探求すればするほどに市場のニーズからかけ離れていくことになり売れなくなる。

そんなことはない、本物は必ず売れるし、売れているものはいいものである事の方が多いという話題でバトルになった経緯から、本物とは何かという話 題に発展し、さらに「本物」を定義してから私の130日の話題の私の持論を説明しようという事になったのですが、考えれば考えるほどに、「本物」という ものの本質を深める事は容易ではないことに気づき出した状況の中で核心に近づいたヒントを頂いたのではないかと考えるようになりました。

今回の質問は、私の娘から投げかけられた質問と同じ意味を持っているように自覚しているので、私なりに最善な答えを出せられれば嬉しいと考えています。

? Kintoki
sionさんとても思慮深く博識なコメントをありがとうござい。

>親との守破離、それが自分の中に眠れるものを呼び覚ましますね。

守波離(シユハリ)という「本物への開眼」という、もっとも本質的な紐解きを簡潔に表現した言葉を与えて頂いたことにとても感謝しています。

この言葉の意味は、その前に凛々子さんがヒントに与えてくれた「自分らしい」とは、何かという問に対する明快な答えを示してくれたのかもしれませんね。

私は仕事柄デザイナーや画家や陶芸家などとの接点がありますが、それぞれがもっとも苦しむのが自分らしさとは何か、本当の自分とは何かという問い掛けを創作活動を通じて挑む事です。

本物と言える画家の創作活動においては、自身の心の深い闇や一筋の光を引き出させる事はオリジナルの中心を確かなものにするために欠かせない戦いだと聞きます。同じ説明を服飾の本物のデザイナーからは聞く事が出来ます。

オリジナルとは、親から与えられたまま自身を「立命」させることが無い個性の中心に育まれる事はありえないと、真のオリジナルに覚醒した創作家が口を揃えて言う事です。

*「宿命」に人は生まれ、「運命」に翻弄されて、自身の「守波離(シユハリ)」を切磋琢磨させることで自身の「立命」を知り、「天命」に生き抜いていく。

画家自身の「守波離(シユハリ)」の苦しみと悦びは、時として、モデルそのものを過酷なまでに心を丸裸にすることがあるようです。

ミクシーの私のプロフィールに好きな映画のひとつとして書いてある題名に「美しき諍い女」がありますが、この作品がテーマとするものも親が与えてくれた自身の個性を本当の個性自身の個性と信じてきた美しい絵画のモデル。
モデル自身がそれまで様々選んだり、判断してきたと思っていた事が、実は本当の自身が判断していたのではなく、癖として染み付いてきた反射的な判 断であり、言葉を代えれば判断させられ続けて生きてきたという、自身に仕立てられたドラマ(心理脚本)どおりのあらすじを繰り返し続けてきただけであっ た。
そして、鋭い洞察眼を持つ老練な画家により、自身も気づかずにいた、その「守」の仮面の中の正体をキャンパスに描き上げられた「破」の姿を浮び上がらせた描写に驚嘆するあらすじです。

そして、自身の「破」に気づいた画家のモデルとなった女性は、「守」で選んだ婚約者と別れ、「離」の人生を歩き始めようとすることを暗示させなが ら終わるフランス映画独特のFINで幕を閉じていました。「美しき諍い女」を通じてある意味で守波離(シユハリ)を映画化させたかもしれない作品は、私の 中の名作のひとつであると私は考えています。

服飾デザイナーの中にも着るモデル自身に対して、守波離(シユハリ)を求めるようなすさまじいデザイナーに合う事があります。

かつて私が日本に初めて紹介した頃のジル・サンダーもそのような服でした。
(今は、事情があって長い事ジルサンダー自身がジルサンダーの名前を使えない契約であり、ジルサンダーという商号の服に対して一切のタッチをしていない。)

オリジナルを持っているデザイナーとオリジナルを持っていないデザイナー
言葉を変えれば、守波離(シユハリ)を経た自身のアイデンティティーのないデザイナーが洋服を作ると言う事は、タマシイのない服を作っているのと 同じで、見ているのは自身のアイデンティティーに基づく自己表現ではなく、お金の得る手段に対する方策検討だけだと言って過言ではありません。

中には、幼児的な好き嫌いという余りにも次元の低いままごとの延長の創作家がなぜかもてはやされたり、

同じような服の色や形、質感でしか創作が出来ず、少しでも変化させてしまうと、誰が作ったのか想像の片鱗も残せないような制服ファッションの創作家。

本来なら創作家という呼び方やデザイナーという呼び方をしてはいけないような力量の偽者達が本物の顔を装いながら、自身の弟子の作品を盗作し続ける堕落ドラマから抜け出せなくなるただの亡者に成り果てる姿も沢山見てきています。

守破離(しゅはり)という言葉は、能楽を確立した世阿弥が生み出したとも言われていますが、心理学の人格形成と発達心理学においても、武道におい ても本当の自身の流派を打ち立てる為に欠かせないプロセスとのことですが、今回のテーマとなる「本物」という言葉の意図を「物」という表面上に見えている 色、形、質感や、香り、温度感、手触り、質量など5感に認識しやすいレベルのさらに奥にある「本」の意味に着目する必要があります。

「本」の漢字源解釈では、「物事の中心という意味になります」
もしくは、マイミクの自適さんが答えて頂いた「物事の始まり」という解釈になります。

形而下(見えている様子。)の物を通じて形而上(見えていないこと。.)を通じて見えていることの中心となっている正体。という解釈が成り立ちます。

言葉を返せば、
「中心がある物は、本物であり、」
「中心が無い物は、本物でない。」

人格において、

自身の中心を観ようとしている者は、本物のなりえる。
自身の中心を観ようとしない者は、本物になり得ない。

Kintoki
sionさんから与えて頂いた守破離のヒントから発展させていけば、さらに唯識(ユイシキ)のレベルまで掘り下げていかないと本 当ではないのかもしれませんが、まずは、今回の初心の会話から著しく深い話に発展していく事になるとの解釈で次回の課題にしたいと思います。

「本当よい物や優れて過ぎた物は、売れない。」
「市場から迎合されるもので、さも本物ように演出させる本物まがいが良く売れる」

守破離(シュリハ)の意味とは、
「守」=師からの教えを忠実に学ぶ第1段で、型や作法、知識の基本を習得する。
    発達心理学では、親からの躾によって習得させられる癖であり性格。
「破」=鍛錬を積み重ね、師の教えを土台としながらも、第二段へステップアップする為に、自分なりの真意を会得するために「守」を打ち破る段階。
発達心理学では、自身に条件反射のように繰り返されるドラマがなぜ引き起こるのかその裏側の心の作用を知る怖さに打ち勝ち、その作用の原点の更なる奥にある自身の中心を観ようとする試みの段階。
「離」=過去に習得した一切の技や、反射的反応や知識にいっさいとらわれることなく、思うがままに至芸の奥義を極めようとする段階。
  発達心理学では、性格分析で行動を押し図る事が困難なくらい性癖反応や、条件反射的選択から開放されて、自由闊達に状況にあわせた最善な選択を常にニュートラルな心の状態で選択が出来る状態。

唯識(ユイシキ)
http://www.plinst.jp/musouan/yuishiki01.html
http://www.plinst.jp/musouan/yuishiki.html


>自分は感謝を伝えにいく段階に入っています。
>せっかく縁あって親子になれた奇跡。無駄にしたくないですね。

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ヘレンド日本に1点物を始め大量のコレクションをネットでも紹介することに!

2011-02-01 15:32:29 | 入荷情報

洋食器の最高峰ヘレンドの国内入荷1点物を始め多くのコレクションをネットでも紹介することになった。

http://storeuser4.auctions.yahoo.co.jp/jp/user/core_collection?alocale=0jp&apg=1&s1=bids&o1=a&mode=2

当店の顧客の中でも指折りのコレクターから貴重なコレクションを多数を預からせて頂いており、来店者に限定して販売してきたが、今回は、店以外の販売手段としてためしにネットでも買えるようにする事になった。

 

当店に品物を出して頂けるコレクターの中でも別格扱いになっている事があることは、

なかなか信じ難い事かもしれないが出品自身を一切素手で触っていないというのである。

 

最初聞いた時は、余り信じられなかったが自宅に伺って理由が良く理解できた。

コレクションは、全て2点購入しており1点は使用する為のものであり、もう1点はコレクションとしての保管用であり、何らかの理由で取り出すときは、必ず白い手袋を使用するのである。

この状態は、販売しているヘレンドの本店でもありえないような徹底ぶりでとても驚くと同時に、最初に聞いた話の信憑性に納得できた瞬間でもあった。

 

大量の作品なので全てが上がってからリンクを貼る事にします。

ヘレンドHerend, Herendi pocelánygyár)は、陶磁器製のディナーウェア、人形、ホームアクセサリーをデザイン・生産・販売しているハンガリーの企業、及び商品ブランド

 
 

 


 

1826年に、ハンガリーの首都ブダペストから遠くないヘレンド村に、ショプロン出身のヴィンツェンツ・シュティングル(Vinzenz Stingl, またはシュティングル・ヴィンツェ・フェレンツ Stingl Vince Ferenc)により創業。以前から焼き物の盛んだったこの地帯は、16世紀からマヨルカ陶器の産地としても知られているが、シュティングルの掘っ立て小屋の様な会社はそんな恐れ多いものとはほど遠かった。

掘っ立て小屋経営から抜け出したのは、1839年にタタTata) 出身のフィッシェル・モーリツ(またはフィッシェル・モール、モーリッツ・フィッシャー, Moritz Fischer, Fischer Mór(ic))が経営の手綱を握ってから。そのころはマイセン中国産(今で言う骨董品)の高級陶磁器の修復会社であった。

ヘレンドの名声を世に知らしめたのは、サルディニアの 王が中国から持ち帰った陶磁器の食器セットの内、破損してしまったものの複製をヘレンドへ持ち込んだ事件がきっかけとなったからだ。一年近く実験を繰り返 し、フィッシャーは破損した食器の複製に成功した。しかし、心配性の彼は言うなれば「偽物」である自分の作品に自信がなかったので、王に彼自ら作品を見せ たいと願い出た。

トリノの城に着いたフィッシャーは、 本物の中国製陶磁器をテーブルに並べ、自分の作品は棚にしまった。王や従者たちが部屋に入ると、早速「偽物」の批評が始まり、ここがいけない、あそこが違 うと批判した。しかし、フィッシャーが真実を明かすと、一本取られた王は素直に受け入れ、王を騙せるほどの作品を作ったフィッシャーを賞賛した。

この逸話とヘレンドの名が広まるとともに、フィッシャーは新しく自社製品のデザインを次々に世に送り出した。1851年のロンドン万国博覧会ではヴィクトリア女王ウィンザー城のためにヘレンドに注文を入れた。中国風の絵柄に蝶の舞うデザインは一般にも販売され、「クイーン・ヴィクトリア」シリーズとして大変流行した。それからというもの、ヨーロッパ貴族の間でヘレンドの作品はブランドとして広まった。

1853年にはアメリカのニューヨーク産業展示会へ出展。フィッシャーは1866年にはハンガリー産業への貢献を認められ、貴族モーリッツ=フィッシャー・フォン・ファルカシュハージ(Moritz Fischer von Farkasházy, Farkasházi Fischer Mór)として称号を与えられた。1897年に、孫のイェネー(Jenő)が経営を受け継ぎ、ヘレンドの名は世界的に広まり続けた。

1926年にイェネーが他界してからは、アンドラーシュ伯爵(Count András)とエステルハージ・モーリツ伯爵(Count Móric Eszterházy)が経営。ヘレンドは開発施設等を新装するも、伝統を重んじ、ハイクォリティーの手作り陶磁器を作り続けている。

ヘレンドでは過ぎ越しセデル用のプレートも作っている。

引用
 ウィキペディア

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