2013年6月6日青森まんぶるず「ナチェ」
「光を感じる」
</object>
例えば友人の死体があってさ
その肉肉が、僕の古い時代から知っていた母親だとしてさ
暖かくていいにおいの弾力の皮ふを何回も触って
遠い記憶に記憶の皮ふをすりあわせたり重ね合わせたりして
異動を促す念動力の塊が地獄だと何度も叫ぶ現実の底辺の絡め取られる生活と
瞬きを繰り返す無い知識の寒気の触れなさ見たいな切なさだとしてもさ
僕は優しくて正しい人だから人に踏みつけられてしまっているんだと言う
もしかしたら言い訳めいた事なのか、それともその言葉さえも
自分を温めるための鍵穴をべろべろ舐めつけている玉子脳だとしてもさ
それでも親しい友達が死んだのを観てもさ、ボンネットに入れて
どこか遠い霧深い奥の様な遠い静かな場所へ、連れて行こうなんて
思わないわけ。
それをやってしまったのは、誘惑で
鳥の目の僕が僕を見てさたまたま、その情景をなんだか
美しいかけがえのないものに感じてしまったわけでも
それは幼稚で、抒情的な自己陶酔の様なものの遍歴の気まぐれで
そういうボンネットに母親の死んだ匂いごと死体を入れて
どこかに連れ立ちたいなんて事を死体と思わないわけ
それでも車輪が回り、ヒーターが僕の上半身を暖かく保り
アクセルは適度な緩い速度を保つ踏み加減で
当て所のない宛へ僕だけの魂を、運搬してニコチンを吸引するの
それで精神を美しく保ち、アスファルトを削るスタッドレスタイヤが
取り替えるお金を積むことのできぬ、溶けてこぼれるゴムの離別と、
ガス欠になりかけの針のふりが、僕をすぐに
死体を運ぶ僕をすぐに、眩しい瞼と景色を、自慰行為を
美しい行為のような、姿として母親の匂いで包み込むの
5千800回の、天国は手淫の地獄かもしれないと
快楽と同じ分だけ痛覚が同時に過敏に犯され
でもこれまでの、僕の全部の行為が人の人型の習わしとは
違う動機づけを持ち笑っているので、世界は僕を笑うの
人差し指を刺す方角は常にパソコン上で、エロい女を探す動機の電気信号を流して
なんどもほとんどのすべてが、その方向に時間を費やしてきたの
それで精神をホワイトアウトしたみたく破裂させんの
ぼぐがさ昔幼稚園くらいの時のねぶたっていったら
町内会のねぶたが主体で、今みたいに大変な観光化されてなかったのさ
んでもだからと言って、今のねぶたが嫌だとかまったくないんだけどさ。
美しいじゃん。針金に貼った紙越しの光がさ。墨の滲んだ色んな色と
混ざり合ってさ。綺麗だよね。それと邂逅の思念が混ざり合ってさ。
県民だばさ、せつなぐなってウットリするよね。
津軽の人だからさ、切ないこととかってウットリしてしまうんだよね。
それにニコチンとか過剰摂取しながらさ、理不尽に高額な冷えた焼き鳥とさ
ビールのみながら、立ち尽くして路上で見るあの光景はさ
好き嫌い超えて県民ならさ、何らかに捉われた感動を抱いて心中したくなるよね。
んでそういう感情をさ、脳内のぐらいだーが乱気流しながらさすぐに
負けてしまって、ああやっぱりこの場所で生きていかなくてはって肯定的に
おもいこむ美しい契機になるおん。言い訳をさ、善悪まぜこぜで肯定してくれる光景がさ
毎年、訪れるからさ。人嫌いでもそれでもみれば、なんだか納得させられてしまうもの。
明日からも生きていかなくてはダメだべなってさ。
僕が体感したねぶたで今はさ。もう亡くなったのでさ。
みんなまだ覚えているのかなって思うんだけど、タマゴねぶたってのがあってさ。
妊娠した母親の、安産祈願だったと思うんだけどさ、
胎盤みたいなねぶたあったよね、提灯と一緒にさ、
もしかしたらうちの町内会だけだったのかもしれないけど、
そんなことないよね。あったよね、
今でも、ひとりで夜に集団についていく光景思い出すもん
幼稚園の時のさ。
ジンライカーバー!!って
皆叫んでてさ、懐かしいよね、あの玄孫踊りで足と手一生懸命動かした記憶あるおん。
津軽の真夜中にさ。みたわ。まるでいくつものだらしないショボイ太陽が、夜中に
去勢張って いきがっているみたいでさ。
それから何十年もたってまったけどさ。
私の思いはいまだに変わらなくてさ。
この前、工藤パンの春彼岸の臨時バイトで、餅運んで手で切って
モチつくり機に投入するってバイトしててさ。
その時の仕事開けに帰る時にみた、青森ベイブリッジの朝の太陽とかさ
ダラダラしてて美しくてさ、蜃気楼に犯された星みたいでさ。
5件目の場末の飲み屋の
ウズラの卵みたいなダラシナイ太陽でさ。
現実なんだここはって思ってさ。
時折脳みその画面を汚してさ。
全然美しくないんだけどさ、それでも
夜8時から朝8時まで働いた帰り道だったから、すごく美しく見えたの。
ビックりしてしまってさ。覚えてるんだわ。
だって精神は死んでいて景色さえさ、だらしなく脳に感光するのにさ
なんだか美を感じでまったのさ。
金ばもらえる充実した仕事って、素晴らしいなと思ったのさ。
わあの信じてきたものなんて、本当に簡単に糞でさ。
子どもに飯食べさせてやれないし、奥さんも呪いの言葉を時折吐くからさ。
なんだかリアルなライフ伊豆ビューティフル見たくなったのももう通り越してしまってさ
飴とムチば使い分けた、変な洗脳教育の、末のカルト愛情みたくなってまってるもん。
俺地獄地獄と何回もしゃべるもん。
愛しているにこの様って、半身不随みたいだぜ。
自殺する勇気もないしさ、んだからかといって命がけで
なにか作品なりばさ作り出すかって言ったら全くそんなことなくてさ
有限に死を待つ津軽の無色に簡単に成り上がってさ。
わあの書く詩なんて金になるわけねえし。そもそも詩が金になるのならばさ
俺なんてこの場所でなんかしゃべってたりしないって。
あんたらとおれの距離何て何メートルしかないのにさ。
地球の一周の距離って4万キロなんだってさ、んだば
僕から一番遠くにいる人は常に2万キロしかないんのさ。
車で時速100キロで飛ばせば、200時間で誰とでも会える距離なのさ。
八日間あれば世界中のだれとでも必ず出会えるってことなのさ。
思ったよりも結構、近いよね。
大げさなパチンコ屋のネオン管の点滅がさ
偶然モールス信号になっててさ
翻訳したら、パンドラの箱ぶちまけたような
絶望のすべとの言葉の羅列だったおん
寒いな。まんず。
たまごネブタ、あれ本当はサントネブタって言うんだったな。
まだあのロープの中に入って、母親と手をつないで
不安定な真夜中の町内ば、どきどきしながら歩きたがったなあ。
祭りだの、糞だって思ってたけど、あのネブタだけいまだに復活しねえんだもんな。
あのダラシナイ球面のネブタってさ、クドパンの帰り道にみた太陽と同じでさ
弱くだらしない光だったんだべな
だから思いだすんだべな
じんらいカーバー!ってさ
お囃子がいづまでも聞こえてさ。
世界中で色んなネブタ祭りやってるって思ってたからさ
リオのカーニバルはブラジルのネブタだべなとかさ
スフィンクスは動かないネブタだったんだべな
とかさ
一人で妄想していたもの
命は和紙で覆われた光で
少しだけ熱を帯びていてさ
友人の死体を運ぶときの窓辺に
妄想で映りこんでたもの
小さな光が遠い場所へと帰る人間の儀式とさ
わあの、吐き気の原因を許してもらえる言い訳にとかさ
わあ確かに実存で見えたもの
小さな光っこ 現実に見えたもの
「光を感じる」
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例えば友人の死体があってさ
その肉肉が、僕の古い時代から知っていた母親だとしてさ
暖かくていいにおいの弾力の皮ふを何回も触って
遠い記憶に記憶の皮ふをすりあわせたり重ね合わせたりして
異動を促す念動力の塊が地獄だと何度も叫ぶ現実の底辺の絡め取られる生活と
瞬きを繰り返す無い知識の寒気の触れなさ見たいな切なさだとしてもさ
僕は優しくて正しい人だから人に踏みつけられてしまっているんだと言う
もしかしたら言い訳めいた事なのか、それともその言葉さえも
自分を温めるための鍵穴をべろべろ舐めつけている玉子脳だとしてもさ
それでも親しい友達が死んだのを観てもさ、ボンネットに入れて
どこか遠い霧深い奥の様な遠い静かな場所へ、連れて行こうなんて
思わないわけ。
それをやってしまったのは、誘惑で
鳥の目の僕が僕を見てさたまたま、その情景をなんだか
美しいかけがえのないものに感じてしまったわけでも
それは幼稚で、抒情的な自己陶酔の様なものの遍歴の気まぐれで
そういうボンネットに母親の死んだ匂いごと死体を入れて
どこかに連れ立ちたいなんて事を死体と思わないわけ
それでも車輪が回り、ヒーターが僕の上半身を暖かく保り
アクセルは適度な緩い速度を保つ踏み加減で
当て所のない宛へ僕だけの魂を、運搬してニコチンを吸引するの
それで精神を美しく保ち、アスファルトを削るスタッドレスタイヤが
取り替えるお金を積むことのできぬ、溶けてこぼれるゴムの離別と、
ガス欠になりかけの針のふりが、僕をすぐに
死体を運ぶ僕をすぐに、眩しい瞼と景色を、自慰行為を
美しい行為のような、姿として母親の匂いで包み込むの
5千800回の、天国は手淫の地獄かもしれないと
快楽と同じ分だけ痛覚が同時に過敏に犯され
でもこれまでの、僕の全部の行為が人の人型の習わしとは
違う動機づけを持ち笑っているので、世界は僕を笑うの
人差し指を刺す方角は常にパソコン上で、エロい女を探す動機の電気信号を流して
なんどもほとんどのすべてが、その方向に時間を費やしてきたの
それで精神をホワイトアウトしたみたく破裂させんの
ぼぐがさ昔幼稚園くらいの時のねぶたっていったら
町内会のねぶたが主体で、今みたいに大変な観光化されてなかったのさ
んでもだからと言って、今のねぶたが嫌だとかまったくないんだけどさ。
美しいじゃん。針金に貼った紙越しの光がさ。墨の滲んだ色んな色と
混ざり合ってさ。綺麗だよね。それと邂逅の思念が混ざり合ってさ。
県民だばさ、せつなぐなってウットリするよね。
津軽の人だからさ、切ないこととかってウットリしてしまうんだよね。
それにニコチンとか過剰摂取しながらさ、理不尽に高額な冷えた焼き鳥とさ
ビールのみながら、立ち尽くして路上で見るあの光景はさ
好き嫌い超えて県民ならさ、何らかに捉われた感動を抱いて心中したくなるよね。
んでそういう感情をさ、脳内のぐらいだーが乱気流しながらさすぐに
負けてしまって、ああやっぱりこの場所で生きていかなくてはって肯定的に
おもいこむ美しい契機になるおん。言い訳をさ、善悪まぜこぜで肯定してくれる光景がさ
毎年、訪れるからさ。人嫌いでもそれでもみれば、なんだか納得させられてしまうもの。
明日からも生きていかなくてはダメだべなってさ。
僕が体感したねぶたで今はさ。もう亡くなったのでさ。
みんなまだ覚えているのかなって思うんだけど、タマゴねぶたってのがあってさ。
妊娠した母親の、安産祈願だったと思うんだけどさ、
胎盤みたいなねぶたあったよね、提灯と一緒にさ、
もしかしたらうちの町内会だけだったのかもしれないけど、
そんなことないよね。あったよね、
今でも、ひとりで夜に集団についていく光景思い出すもん
幼稚園の時のさ。
ジンライカーバー!!って
皆叫んでてさ、懐かしいよね、あの玄孫踊りで足と手一生懸命動かした記憶あるおん。
津軽の真夜中にさ。みたわ。まるでいくつものだらしないショボイ太陽が、夜中に
去勢張って いきがっているみたいでさ。
それから何十年もたってまったけどさ。
私の思いはいまだに変わらなくてさ。
この前、工藤パンの春彼岸の臨時バイトで、餅運んで手で切って
モチつくり機に投入するってバイトしててさ。
その時の仕事開けに帰る時にみた、青森ベイブリッジの朝の太陽とかさ
ダラダラしてて美しくてさ、蜃気楼に犯された星みたいでさ。
5件目の場末の飲み屋の
ウズラの卵みたいなダラシナイ太陽でさ。
現実なんだここはって思ってさ。
時折脳みその画面を汚してさ。
全然美しくないんだけどさ、それでも
夜8時から朝8時まで働いた帰り道だったから、すごく美しく見えたの。
ビックりしてしまってさ。覚えてるんだわ。
だって精神は死んでいて景色さえさ、だらしなく脳に感光するのにさ
なんだか美を感じでまったのさ。
金ばもらえる充実した仕事って、素晴らしいなと思ったのさ。
わあの信じてきたものなんて、本当に簡単に糞でさ。
子どもに飯食べさせてやれないし、奥さんも呪いの言葉を時折吐くからさ。
なんだかリアルなライフ伊豆ビューティフル見たくなったのももう通り越してしまってさ
飴とムチば使い分けた、変な洗脳教育の、末のカルト愛情みたくなってまってるもん。
俺地獄地獄と何回もしゃべるもん。
愛しているにこの様って、半身不随みたいだぜ。
自殺する勇気もないしさ、んだからかといって命がけで
なにか作品なりばさ作り出すかって言ったら全くそんなことなくてさ
有限に死を待つ津軽の無色に簡単に成り上がってさ。
わあの書く詩なんて金になるわけねえし。そもそも詩が金になるのならばさ
俺なんてこの場所でなんかしゃべってたりしないって。
あんたらとおれの距離何て何メートルしかないのにさ。
地球の一周の距離って4万キロなんだってさ、んだば
僕から一番遠くにいる人は常に2万キロしかないんのさ。
車で時速100キロで飛ばせば、200時間で誰とでも会える距離なのさ。
八日間あれば世界中のだれとでも必ず出会えるってことなのさ。
思ったよりも結構、近いよね。
大げさなパチンコ屋のネオン管の点滅がさ
偶然モールス信号になっててさ
翻訳したら、パンドラの箱ぶちまけたような
絶望のすべとの言葉の羅列だったおん
寒いな。まんず。
たまごネブタ、あれ本当はサントネブタって言うんだったな。
まだあのロープの中に入って、母親と手をつないで
不安定な真夜中の町内ば、どきどきしながら歩きたがったなあ。
祭りだの、糞だって思ってたけど、あのネブタだけいまだに復活しねえんだもんな。
あのダラシナイ球面のネブタってさ、クドパンの帰り道にみた太陽と同じでさ
弱くだらしない光だったんだべな
だから思いだすんだべな
じんらいカーバー!ってさ
お囃子がいづまでも聞こえてさ。
世界中で色んなネブタ祭りやってるって思ってたからさ
リオのカーニバルはブラジルのネブタだべなとかさ
スフィンクスは動かないネブタだったんだべな
とかさ
一人で妄想していたもの
命は和紙で覆われた光で
少しだけ熱を帯びていてさ
友人の死体を運ぶときの窓辺に
妄想で映りこんでたもの
小さな光が遠い場所へと帰る人間の儀式とさ
わあの、吐き気の原因を許してもらえる言い訳にとかさ
わあ確かに実存で見えたもの
小さな光っこ 現実に見えたもの