ニューコスモセンター

青森でコスモスというバンドで歌ったり詩書いてる人の痛々しい日々の挙動

コスモスチバ朗読「光を感じる」

2013-06-10 23:39:12 | コスモス音源映像
2013年6月6日青森まんぶるず「ナチェ」

「光を感じる」

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例えば友人の死体があってさ

その肉肉が、僕の古い時代から知っていた母親だとしてさ
暖かくていいにおいの弾力の皮ふを何回も触って
遠い記憶に記憶の皮ふをすりあわせたり重ね合わせたりして
異動を促す念動力の塊が地獄だと何度も叫ぶ現実の底辺の絡め取られる生活と
瞬きを繰り返す無い知識の寒気の触れなさ見たいな切なさだとしてもさ

僕は優しくて正しい人だから人に踏みつけられてしまっているんだと言う
もしかしたら言い訳めいた事なのか、それともその言葉さえも
自分を温めるための鍵穴をべろべろ舐めつけている玉子脳だとしてもさ
それでも親しい友達が死んだのを観てもさ、ボンネットに入れて
どこか遠い霧深い奥の様な遠い静かな場所へ、連れて行こうなんて
思わないわけ。

それをやってしまったのは、誘惑で
鳥の目の僕が僕を見てさたまたま、その情景をなんだか
美しいかけがえのないものに感じてしまったわけでも
それは幼稚で、抒情的な自己陶酔の様なものの遍歴の気まぐれで
そういうボンネットに母親の死んだ匂いごと死体を入れて
どこかに連れ立ちたいなんて事を死体と思わないわけ

それでも車輪が回り、ヒーターが僕の上半身を暖かく保り
アクセルは適度な緩い速度を保つ踏み加減で
当て所のない宛へ僕だけの魂を、運搬してニコチンを吸引するの

それで精神を美しく保ち、アスファルトを削るスタッドレスタイヤが
取り替えるお金を積むことのできぬ、溶けてこぼれるゴムの離別と、
ガス欠になりかけの針のふりが、僕をすぐに
死体を運ぶ僕をすぐに、眩しい瞼と景色を、自慰行為を
美しい行為のような、姿として母親の匂いで包み込むの

5千800回の、天国は手淫の地獄かもしれないと
快楽と同じ分だけ痛覚が同時に過敏に犯され
でもこれまでの、僕の全部の行為が人の人型の習わしとは
違う動機づけを持ち笑っているので、世界は僕を笑うの

人差し指を刺す方角は常にパソコン上で、エロい女を探す動機の電気信号を流して
なんどもほとんどのすべてが、その方向に時間を費やしてきたの

それで精神をホワイトアウトしたみたく破裂させんの

ぼぐがさ昔幼稚園くらいの時のねぶたっていったら
町内会のねぶたが主体で、今みたいに大変な観光化されてなかったのさ
んでもだからと言って、今のねぶたが嫌だとかまったくないんだけどさ。

美しいじゃん。針金に貼った紙越しの光がさ。墨の滲んだ色んな色と
混ざり合ってさ。綺麗だよね。それと邂逅の思念が混ざり合ってさ。
県民だばさ、せつなぐなってウットリするよね。

津軽の人だからさ、切ないこととかってウットリしてしまうんだよね。

それにニコチンとか過剰摂取しながらさ、理不尽に高額な冷えた焼き鳥とさ
ビールのみながら、立ち尽くして路上で見るあの光景はさ
好き嫌い超えて県民ならさ、何らかに捉われた感動を抱いて心中したくなるよね。

んでそういう感情をさ、脳内のぐらいだーが乱気流しながらさすぐに
負けてしまって、ああやっぱりこの場所で生きていかなくてはって肯定的に
おもいこむ美しい契機になるおん。言い訳をさ、善悪まぜこぜで肯定してくれる光景がさ
毎年、訪れるからさ。人嫌いでもそれでもみれば、なんだか納得させられてしまうもの。
明日からも生きていかなくてはダメだべなってさ。

僕が体感したねぶたで今はさ。もう亡くなったのでさ。
みんなまだ覚えているのかなって思うんだけど、タマゴねぶたってのがあってさ。
妊娠した母親の、安産祈願だったと思うんだけどさ、
胎盤みたいなねぶたあったよね、提灯と一緒にさ、
もしかしたらうちの町内会だけだったのかもしれないけど、
そんなことないよね。あったよね、

今でも、ひとりで夜に集団についていく光景思い出すもん
幼稚園の時のさ。

ジンライカーバー!!って
皆叫んでてさ、懐かしいよね、あの玄孫踊りで足と手一生懸命動かした記憶あるおん。

津軽の真夜中にさ。みたわ。まるでいくつものだらしないショボイ太陽が、夜中に
去勢張って いきがっているみたいでさ。
それから何十年もたってまったけどさ。

私の思いはいまだに変わらなくてさ。

この前、工藤パンの春彼岸の臨時バイトで、餅運んで手で切って
モチつくり機に投入するってバイトしててさ。

その時の仕事開けに帰る時にみた、青森ベイブリッジの朝の太陽とかさ
ダラダラしてて美しくてさ、蜃気楼に犯された星みたいでさ。
5件目の場末の飲み屋の
ウズラの卵みたいなダラシナイ太陽でさ。

現実なんだここはって思ってさ。
時折脳みその画面を汚してさ。

全然美しくないんだけどさ、それでも
夜8時から朝8時まで働いた帰り道だったから、すごく美しく見えたの。
ビックりしてしまってさ。覚えてるんだわ。
だって精神は死んでいて景色さえさ、だらしなく脳に感光するのにさ
なんだか美を感じでまったのさ。
金ばもらえる充実した仕事って、素晴らしいなと思ったのさ。

わあの信じてきたものなんて、本当に簡単に糞でさ。
子どもに飯食べさせてやれないし、奥さんも呪いの言葉を時折吐くからさ。
なんだかリアルなライフ伊豆ビューティフル見たくなったのももう通り越してしまってさ
飴とムチば使い分けた、変な洗脳教育の、末のカルト愛情みたくなってまってるもん。
俺地獄地獄と何回もしゃべるもん。

愛しているにこの様って、半身不随みたいだぜ。
自殺する勇気もないしさ、んだからかといって命がけで
なにか作品なりばさ作り出すかって言ったら全くそんなことなくてさ
有限に死を待つ津軽の無色に簡単に成り上がってさ。

わあの書く詩なんて金になるわけねえし。そもそも詩が金になるのならばさ
俺なんてこの場所でなんかしゃべってたりしないって。

あんたらとおれの距離何て何メートルしかないのにさ。
地球の一周の距離って4万キロなんだってさ、んだば
僕から一番遠くにいる人は常に2万キロしかないんのさ。
車で時速100キロで飛ばせば、200時間で誰とでも会える距離なのさ。
八日間あれば世界中のだれとでも必ず出会えるってことなのさ。
思ったよりも結構、近いよね。

大げさなパチンコ屋のネオン管の点滅がさ
偶然モールス信号になっててさ
翻訳したら、パンドラの箱ぶちまけたような
絶望のすべとの言葉の羅列だったおん

寒いな。まんず。
たまごネブタ、あれ本当はサントネブタって言うんだったな。
まだあのロープの中に入って、母親と手をつないで
不安定な真夜中の町内ば、どきどきしながら歩きたがったなあ。
祭りだの、糞だって思ってたけど、あのネブタだけいまだに復活しねえんだもんな。

あのダラシナイ球面のネブタってさ、クドパンの帰り道にみた太陽と同じでさ
弱くだらしない光だったんだべな
だから思いだすんだべな

じんらいカーバー!ってさ
お囃子がいづまでも聞こえてさ。

世界中で色んなネブタ祭りやってるって思ってたからさ
リオのカーニバルはブラジルのネブタだべなとかさ
スフィンクスは動かないネブタだったんだべな
とかさ

一人で妄想していたもの

命は和紙で覆われた光で
少しだけ熱を帯びていてさ

友人の死体を運ぶときの窓辺に
妄想で映りこんでたもの

小さな光が遠い場所へと帰る人間の儀式とさ
わあの、吐き気の原因を許してもらえる言い訳にとかさ

わあ確かに実存で見えたもの
小さな光っこ 現実に見えたもの











7月7日のライブ詳細「Naked Vol.1」

2013-06-10 22:18:29 | イベント告知
7月7日「suisou」さん企画のイベントです。
普段、一緒にあまりやる事のない方々とのライブ企画なので
楽しみです。なんとか良いものが出来ればと練習練習です。

今回のライブは、コスモスのメンバーだった、工藤さんが復活しましす。
スポット参戦かと思われますが、このライブと、8月17日のどくんごプレイベントライブ出演してもらえます。
久しぶり。

7月7日(日曜)

「Naked Vol.1」

開場17:30開演18:00
前売1000当日1500
(ドリンク別)
出演
コスモス
suisou
序二段葛西航太
にいやま
きむらみほ

ライブ「ナチェ」いんまんぶるず

2013-06-10 22:13:31 | 日々の生活
6月6日 「ナチェ。」

福原君企画インまんぶるず

詩の朗読での出演だったので余裕こいてたんだけど
結局ぎりぎりになって前日色々、悶々とし
やり方を考えたりしていたのであったが、まずまずシンプルな感じで。

スーツ忘れたので、そのままの衣装で。

一番目、ハセガワギターさん。ハキダメのバッキングギターのお方。
すごくロックロックしたギターの旋律は実は、ハキダメとあまり変わらない
のであるが、歌詞や歌自体の投げかけやモチーフがハセガワギターという
アーティストたる独特の世界観を構築している。

チャボのココナッツバターとか、あの辺の感じか。
チャボの世界観側のRCっぽさが、なんとなく見受け。

過去のバンドブーム終焉期に、
残り始めてきた次世代とノスタルジーに変容する狭間の
ちょうど良い醸造ロック。彼と同世代に音楽道を歩んできた人々は
みんな心地良かったのではないか。

ハキダメでも渡辺君の鈍器武器歌メロに、
ハセガワギターの醸造ロックが被さる事によって
殺伐とした武器じゃなく、どこか懐古的やさしさが篭り、
聴きやすさのようなものが
増幅しているのかもしれない。

そうならば、れんたさんは、もっと狭く深く先端を針のように尖らせ
暗闇に穴を開けることに専念できる、

その穴から投射される光こそ、ピンホールカメラのように、明確な虚像を
現実世界へと映し出せる答えなのかも。

安心して、深く狭い暗部へと彼がもっと進んでも、ハセガワギターが
確かな照準と美的感覚を伴った、必要なポップさのような安心感が備わっているのかもと。
うらやましくも思った。

二番目 ただそこにいるさん

後ろ向きで暗い歌ばかりと話していたのですが
哀しい事を態々歌にするのは前向きな事だと思う。

ボーカルラインが結構好き。どうせなら歌詞をもっと暗くして
一人洞穴の中の住人のような様相をライブで見せ付けて
お客さん多少引く位のインパクトがあっても良いのかなと思った。

バンド形式が上手く機能しなかったのであれば、太鼓の方と
二人でやってみるとか、なんかそんなのも見てみたいな。

3番目 コスモスチバ僕

あいぱっどに、何曲かいれて、それをタイミングで再生しながら朗読。
「アクセサリー」と「愛の22」と「サントネブタの思い出」の三篇。

mc兎に角、やわらかく優しい感じで、ハードルを下げる試み。
普段、普通に生きている人たちは詩の朗読など基本聴かないのだ。

変なおっさんが、小難しい詩をどや顔で朗読してもかったるいだけなので
詩もわかりやすいめのやつを。

僕は兎に角、面倒くさがりなので怖がりなので、人の挙動をすごく気にするというか
それ以前に、人が気にする挙動をさせないような用意や、演出を配置するのだ。

ラストのサントネブタの詩は、後半完全に口語体の、一人芝居じみた聞き触りに
なってくんだけど、まあ、詩としてはもうちょっと、いじった方が良かったかもなと
下手すればただの日々の悲しみの羅列のほうが強くなってしまった気もする。

まあ25分位、一人、詩の朗読だけで引っ張れたような気がするので
初めてにしては良かったのではないかと。

4番目 エイイチロウ

青森ギター引き語りの良心みたいな好青年で、歌も上手いし
彼でしか取得し得ない世界観がしっかりと立ち上がっていて、
失礼な言い方かもしれないが、売れたら売れるアーティストって感じ。

mcから曲への流れも綺麗で、観客を不安にさせない。
次々と彼の歌の世界に引き込まれる。

祖母の詩との合作曲が、意外な女の部分な歌詞で、その寂しさやノスタルジーさと
エイイチロウ氏の、まっすぐで真摯な曲や歌の表現力が、独特の快活さで噛み合い
都会の空中から襟を立てる祖母の姿やらが、幽波紋のように現れてしびれた。
引き込まれるってこういうことなんだと思う。

5番目 飛び入りふきた

ふきたさん急きょ、アルバムプロモーション的な感じで3曲演奏。

見世物小屋(題名失念すいません僕の大好きな曲)。
プルトニウム。グルグル。3曲。

だいぶ酔っ払っていて妖しい箇所もあったのだが、
しっかり孤高の歌唄いふきた節炸裂な感じで。

僕はふきた氏の真骨頂は生ギターとボーカルだと思ってる。

情念や怨念のようなものが、エレキギターのソリッドでノイジーな手法に
たどり着かないほうが、その分、歌と間(!)に篭っているように感じるからだ。

しかしそれでも、激しく鳴り響く、たどり着かない終末であがく彼の歌とアンプの
怖さ。や凄みのようなものも、確かに彼の表現の一翼を担っているのだ。

孤独すら生ぬるい、追い立てられた命の逃げ場は、闘技場でしかなかった。
選択肢などなく、彼の脳髄と原始との記憶が彼を戦うしかない場へと駆り立てる。

ふきた氏は、死ぬまでその円環をうろつき迷走し、アルコールで自分を満たし隠し
戦い続ける。何かにたどり着く事などないのかもしれない。

もしくは、すでに彼はたどり着いているのだ。答えに。

その答えが絶望だったから、彼の歌は純化し、時折、神から授かったギフトのように見えるのだ。
すばらしい歌を作り出し、歌い続けるという事は本当は、楽しくなく過酷な事なのかもしれない。

もっと色んな人に聴いてもらいたいものだ。

トリ らりへたれ

主催者さん、ふくはら君率いるらりへたれ。

今日は一人での登場。朴訥とした風貌でかもし出される歌の一つ一つに
ふくはらエフェクトが加わり独特の世界観を築く。

眼が見えないくらいまでにニット帽をかぶり、
淡々とギターを奏でながらもある何かの願いのようなものを
ひたすら握り締めて唄うように見えて、なんだか切ない空気を作る。

彼の見ている世界はここにはなく、だから視界は必要無いのだ。

彼女が馬鹿みたいに笑うと風鈴がリンとなるカバー曲などはその真髄で
彼が歌の世界や、ライブ空間から離れようとすればするほど、歌の存在感が
距離を縮めだし観客の眼前に、センチメンタルな宇宙を構築する。

彼が自分自信を作品に入れ込まず、その感動をそのままに取り出そうとするのは
自分の好きなものや、愛しているものを、
誰よりも純粋に信じているやさしさの表れなのかもしれない。

彼にとって「ナチェ(裸体)」は、自分を裸にさらす行為ではなく
自分の信じている音楽を披露する。その音楽自体を指しているのだ。

美しい裸体と出会えたならば、服を着せたり、化粧させず
ただその裸体を、この奴隷市場のような世界で、さらせば良いのだ。

彼は信じているのだ。
本当に美しいものに、自己や世界が歪む契機がある事を。

自己愛の前に、美しいものに出会える自分を。