ニューコスモセンター

青森でコスモスというバンドで歌ったり詩書いてる人の痛々しい日々の挙動

盲人書簡(新曲の仮詩)

2014-03-15 23:17:07 | 
盲人書簡


君の中で泳ぐ夢を見た気がするよ
今日も終わり 明日も終わり 明後日も終わる
思いだけが 暗闇で君を象って
夢を見ているだけの気がするよ

真夜中の町で良いなら
手を繋いで君を連れて行くよ
光なんていらないなら
手を繋いで 瞳を閉じて

水がめに滴る僕らの月を見た気がするよ
太陽が消えて 地平が消えて 日々も消える
感触だけが 暗闇で君を象って
夢を見ているだけの気がするよ

真夜中の町でいいなら
手を繋いで君を連れて行くよ
光なんていらないなら
手を繋いで 瞳を閉じて

終わりの日が来るまで
話をしよう
終わりの日が来るまで
世界から逃げよう

真夜中の町でいいなら
手を繋いで君を連れて行くよ
光なんていらないなら
手を繋いで 瞳を閉じて



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2 コメント

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Unknown (yellow-snow)
2014-03-21 09:15:02
盲人書簡と表記された、離反概念を内包する言語接合の実践による擬似的な意匠とでも呼称すべきクオリアを観察者に発現せしめんとしているかに直感される標題を冠した新曲の詩について思いを巡らせば、洗練された穏健な恋愛詩、という脳内電流効果としてのイメエジを個としての存在レベルで抱いてしまう、ということはあながちレアなケエスではないのではないか、という自問にとりあえず留保を与えておくとして、変態性・暴力性などと言明されるところの、従来コスモスが逆説的ディグニティーとして保持してきたとされている表現上の観念が、オレンヂジウスほどの弱酸性にまで希釈したとしてもそれが顕在していないという蓋然性を否定できない事象の地平線への限りない近接を明示しているのではないか、という妄想の中で、詩に相応しい楽曲を想定してみるに、ヘヴィ・メタル、テクノ、グランジ、パンク等が手法として適用されることの不確定性は量子論的に実証可能であるとの断定に近い推定を下すことには一定の合理性が認められるとすれば、即ちメロディアスなバラアド、あるいはミディアム・テムポの楽曲となる公算が相当程度高いという結論にゆるやかに収束していくことについて首肯せざるを得ず、当該の暫定的判断からコスモスが所謂メインストリーム・ミュージックにカテゴライズされる方向性を志向しているという流れを見てとるのは些か時期早尚かもしれないし、あるいはそうでないのかも知れず、その動向を注視していくことが、何らかの語り得ぬものによって促されている、ということなのであろうか。耐えがたき積雪を耐えつつも。
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Unknown (コスモスチバ)
2014-03-24 00:12:56
僕は僕の内実を実は全然話していなくて、なぜならそれは、真実の吐露はマジックの種明かしのような気がして羞恥してしまうからです。この詩の本位は実はある意味を込めているのですが凄く個人的な内実であって、まあそれはもう射精してしまったゴメンっていう衝動的に出来た曲と詩であります。とユーチューブの裸すぎる原曲を聴かれた感じがするので言い訳がましく泣
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