cowboy-平松の部屋

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HRCの設計者 工藤君 への私からの追悼文です。

2022-05-22 15:33:39 | 私を育ててくれた人ー
HRCの設計者工藤隆志君が2020年死去され、追悼文を工藤君の弟さんにお送りしました。

以下 工藤隆志君の弟さんにあてたメールです。

私、平松絹男は1949年(昭和24年)生まれで、工藤君より6歳ほど年上だと思います。
スズキ、カワサキを経て、32歳の時にHRC(工藤君と同じ)に中途入社しました、ロードレースのフレーム設計者です。
雑誌記事(平松絹男でHITします)も書いており、また、ブログ(平松の部屋・COWBOY-平松)も書いており、
読んでいただけたら、私なりが解ってもらえると思います。
そんな私が同業者(フレーム設計者)で面白い設計者、特異な設計者、技術者だなと感じたのは工藤君でしたね、
私に持ってないモノを沢山持っていましたね、次に何やらかすんだと注目していました。
HRCは工藤君の個性を引き出しきれたのかな、またHGAで訳の解らん(私にとって、失礼)組織の中でのカツヤクはちょっとは
伝わってきていましたが、会社側から見ると、工藤君より思考的(技術的)に上位の人間がいなかったので、
使いきれなかったと思います。 工藤君は素晴らしい技術者でした。

工藤君と付き合いのあったライダーに訃報を伝えると、えっうそー、工藤さんの作ってくれたVF400のプロアーム
の剛性は的確でスムーズにスライドが出来、ENGもキャブもSTDだけど、タイム出ましたよ、又アジャストのたくさん付いた
RRサスも嬉しそうに持ってきてくれましたよ、と私に話してました、ライダーの要求するマターが解っていたんでしょうね。
それ、設計者にとって非常に重要なマターなんです、私は阿部ちゃん、利一さんから叩き込まれましたが、
工藤君は何処からそのマターを得られたのか、一度飲みながら聞き出したかったです。
そのライダーが言ってました、工藤さんテスト中なのに鈴鹿のスタンドで飲んでましたよ、いいのかなー。いいです,時効です,
工藤さんいろんな意味でセンス(マターを持ってる)のある素晴らしい設計者でした。

私がカーボンフレーム(ツインチューブ)を提案して、(カーボンの)作り方に四苦八苦しているの見て、工藤君はアルミの日の字、目の字
の押出材をさっさと作り(型費が40万ぐらいです、高くないですね、でも私はそのような発想はその時まだ無かったです)
さっさとアルミのツインチューブを作ったのは工藤君でしたね、当初はVFR400だったとおもいます。それから
NF5で、私の機種ですがアルミツインチューブフレームの設計を彼に依頼しました。
VFR系のプロアームもとんでもない、仕様で、加工屋さん泣かせでした、ブロックから薄い壁を削りだすという難技術でしたが、
加工屋さんの加工技術の修練の末、軽量のとんでもないプロアームが出来たようです。(出来るのが解っていたようでしたね)
上記のライダーとはBBの小園さんです。仕様ががぴったり合ったんでしょうかね。リヤのスライドがスムーズだと言ってました。
そして小園さん(ライダー、試作屋さんでもある)は、0.4mmの Ti チャンバー、EXhだったかな作らされたようで、
今でも、苦労した記憶があるとのことでした。

工藤君の設計は、2Kテストで壊れた箇所を設計修正するやり方でしたね。2K担当者が嫌な顔で報告すると、
工藤君は、やっぱりねって顔してました。予測していたようです。私は安全率1.25位で設計しようとしてますので、軽量化は
苦手でした。工藤君は安全率1.1~0.9位を目標にしていたようですね、軽いフレーム、スイングアームが出来たようです。
どこを根拠にそんな設計が出来るのか、不可思議な奴でしたね。質問しても、いつもニタニタ、私から見ても不可思議で
私には無い物を持った設計者でしたね。

10~12年前に私が定年後も開発していた(上記のライダーと共に、茂木のW-GPの参戦した)、Wスイングアームの
英文の資料(カワサキ時代の)を工藤君が興味があるとのことでお渡ししたことがあります、
在職中に知りえた技術がどうのこうの言いたい奴もいましたし、もしありましたら、平松まで返送していただくか
焼却処分ください。もし返却していただけたら、そのライダーと私と工藤君(写真)と飲みます。
このWスイングアームに興味を示したのはHONDAでは工藤君と,宮腰さん(W-スイングアームの出願多数あり)でしたね。
HGAの連中は、スイングアームが一本増える、コストが上がるから要らんでした、(ノーノー)技術集団でしたね。
私が退職後小園さんに開発したいと話したら、私財でWスイングアームの開発にのってくれたんですよ、W-GPに出場しましたね。
W-スイングアームは私のブログ(平松の部屋)に記してあります、お読みください。何かヒントありますよ。

速いBIKEのコーナー出口写真を見ると後輪がアウト側にスライドしています。各フレーム部位の剛性バランス、エンジンの出力
とのバランス等、ライダーが感じコントロールしなければなりません。レースBIKEを設計するのにはセンスが必要ですね
工藤君はユラリノラリと我をトウシていたようですが。センス(マターを持ってる)のある不可思議な設計者でしたね。

COWBOY-平松


阿部ちゃんと共に自分達のもっているものを研鑽しながらレースBIKEを

2021-03-27 18:25:17 | 私を育ててくれた人ー
私を育ててくれた人  7 阿部孝夫

阿部ちゃんと共に自分達の もっているもの を研鑽しながらレースBIKE
を創りました。

 ブログ(平松の部屋)『お前は乗るのがヘタクソだからオレのBIKEを
設計しろ』 から
阿部ちゃんと出会えて幸せでした、お互いの出来ること、出来ないこと、
知りたいことを二人で考え、オレには乗るセンスがある。お前には乗る
センスがないからからオレのBIKEの図面を画け。 まあ阿部ちゃんが、こんな
BIKEを作ろうぜといったとき、その阿部ちゃんのコンセプトを具現化出来る
設計センスは必要ですけどね。
 ブログ『TR500-Ⅱ、アエルマッキ かっこいいな』 から
アエルマッキのパイプフレームの構成(写真)から、スイングアームとピボット
部はタイヤの挙動(すべり)がお尻で感じられるようにしっかりと、そして、
ヘソの下あたりでフレームを捩じらせろとの指示が 私の頭の中で
設計基準がすごく明確になりましたね。
 ブログ『TR500-Ⅱ 流してたら26.2出たぞう』から
阿部ちゃんも私もこのTR500-Ⅱの開発で、開発ライダーとしてフレーム
設計者として、自信を持つことができました。
 ブログ『プルプルは最高なステダンなんだ、ヒューエルタンクの形状も重要
なんだよ』から
ライディングポジションの重要性は叩き込んでくれましたね。タンク形状は
私自身で発砲型や木型をライダーの気持ちになってハングオンしたりして
削りました。
 ブログ『601C(KR250-Ⅲ)は高速コーナーでタイムが出せるマシンを作ろう
ロングホイルベースにしよう』から
阿部ちゃんの指示をベースに、部品一つ一つを見直し(キャリパーの
自前化、RRサスのリンク採用等)キレイに作りました。キレイなBIKEは速い
そして納得して設計した部品は正しく動作しますし、壊れません。
阿部ちゃんがドラフターの後方で目を細めて見てましたね、K-バリントン
A-マングを擁して計8回 W-GPのタイトルを獲得したBIKEを作りました。
 ブログ『オレのBIKEを作れ、勝ってやる』 では
私はHRCで市販レーサーを担当しましたので、阿部ちゃんのBIKEを設計
してません。RS250Rの16インチで四苦八苦している時に、『オレのBIKEを
作れ勝ってやる』と言って勝ってくれました。阿部ちゃんは私の仕事をじーっと
見ていてくれたんですね。
 ブログ『NF4(RS125R,)のジオメトリー解らん,飯田さんに聞け』 
W-GP125クラスが単気筒に変更されるのを機に新規開発NF4をキレイに
作り、市販車でW-タイトルを狙ってました。設計者たる者、当然ですよね。
阿部ちゃんはジオメトリー・オレにも解らん、そのクラスのオーソリティー
飯田さんに聞け、そして、平松、あいつはスゲーぞ、オレのないものもってる
飯田さんに聞けと助言してくれました、阿部ちゃんは他の人の良いところを
見出す感覚に長けてましたね。
NF4は’87年に市販され、’90、’91年R-カピロッシがW-GPチャンプを獲得
し、’93 ラウディスもチャンプを獲得してます。日本人ライダーもこのNF4で
活躍していますね。
HONDAが ’66年にR-タベリがライドし125クラスのタイトルを
125cc5気筒で獲得して以来です。NF4は70万円台の市販レーサーでですよ。
 KからHRCに移籍するにあたり、阿部ちゃんに相談しました、東京R&Dの
小野さん(KE時代の知人)のところもあるぞ、でも私はW-チャンプを狙いた
いので、HRCを選択しました(ちゃんと試験受けましたよ)。

 阿部ちゃんと出会えなければ、そして、意気投合しなければ、このような
ブログもなかったですね
 そして、ブログ『阿部ちゃんの葬儀』
千恵子さんを助けて、阿部ちゃんの葬儀をサポートできました。
COWBOY-平松

小島松久さんは私の技術のスポンサーです

2020-11-06 18:20:08 | 私を育ててくれた人ー
私を育ててくれた方 - 7 

小島松久さんは私の技術のスポンサーです

私には、F-1(4輪)の技術を見にこい、見て考えろと機会を与えてくれた師が
おります。(技術のスポンサー)小島松久(KE)さんです。

2輪のヨーロッパGP(W-GP)は、60年から後半にかけて、日本車はエンジンの
多気筒化により圧倒的なパワーでヨーロッパ勢を圧巻し技術の優秀さを示した。
そして、多気筒化から締め出され、技術は習得したとしてW-GPから撤退した。
Y社のみが市販レーサーを継続販売していた。またKawasakiの125・2気筒
(69にD・ブラウンがチャンプ)Suzukiの125/2気筒(70にD・シモンズがチャンプ)
が個人ライダーに貸与されて活躍してました。B・シーンもスズキ125・2気筒
に乗ってましたね。B・シーンは私より一歳年下で将来チャンプを期待され
スズキ車を貸与されていたようです。その時代に私も阿部もは2輪レース界に
入りました。確かに2スト50cc3気筒/125㏄4気筒だ、4スト125㏄5気筒だ、
250/350㏄6気筒だと、エンジンだけは素晴らしいものがありました。でも
フレーム系の進化はなかったかなと思いますが、入社早々の我々はまだ
解っておらず、ただ、過去の栄光に慕っている、井の中の蛙状態でしたね。
 F-1の世界はコンストラクターも開発しているから技術の展開が早いですね、
特許で抑えて10年間は相手に使わせないぞ的な世界ではなく、天才デザイナー
(C・チャップマンみたいな)が毎年アイデアを投入し,速さを競っている純粋なる
技術の世界が雑誌の中で見られ、憧れてました。
F‐1の富士に手伝いに来い、そして、F1の技術をよーく見ろ、井の中の浜松で
タラタラしてるんじゃないと小島さんに阿部と私は呼び出されました。
詳細は 阿部語録 Kawasaki編ー4 (私のブログ)
ブラバムBT-45のリンクサスを見て、これパクロウゼー(KR250のリヤリンクサスに応用
を参照ください。
そしてKR250のRRリンクのサス、スプリングは小島さんからお借りしました、F-1の
フロントサス(コニ製のSPL-D、自由長305mm)でプロト走行しております、我々
ではサスの開発が出来ませんので選択肢を広くF-1の技術(部品)と共通にしま
した。
 F-1のフロントキャリパーもお借りしました、ロッキードの対向4ポッドです、
K・バリントン用のKR350の性能アップの為に作りましたが、E⋰ローソン用に
AMAのスーパーBIKE・KZ1000に 又、仏の耐久レースにも使われてます。
詳細は おもしろパーツ・KAWA編(私のブログ)・四角いキャリパーに記載
しました、参照ください。
 DFV(当時のF-1のコスワース・エンジン)もお借りしました、本田くんの要請で、
たぶん、Z1000のNEXTモデルの開発でしょう。OKです。でもCUTするなです。
 ケニング、(ケーニッヒかな、2ストローク、4気筒、500cc)のボート用
レーシングエンジンも見せてもらいました。背面ロータリーDISKバルブだったと
思います、実際W-GPに出てまして、ドイツのニュ‐カムがドライブしてました。
 FJ1300で輸入したブラバムやマーチのフレーム車体が入荷したら、浜松
(スズキ)に寄って必ず、見せてくれました。スペースフレームからモノコックへの
変遷の理由も容易に理解できました。
 実際にKE009(小島さんのF-1)のモノコックを製作している現場を見せても
らいました、航空機のアルミパネル接着、リベット止めする手法を見学しました。
詳細はおもしろパーツ全般-2(私のブログkawasakiKR500,モノコックの勉強を
参照ください。
KR250でリアリンクサスを提案し、その後プログレ理論なるものをセッティングツール
として考えるようになりましたね。  KR250→KX250→プロリンク(HRC)に影響を
あたえました。プロリンクの詳細は私を育ててくれた人(私のブログ)、Rテーマを
指示する役員(M腰さん)に記載しておきました、ちょっと楽しいですよ
今では、ブレーキ専門メーカーが4ポットや6ポットだと供給してくれますが、F-1から
学んだ自社製(kawasaki)の専用キャリパー(ブレーキ系)が安定していたから、W-GPへ
参戦できたと思います。
HRCではモノコックを作り易く構成したカーボンフレームからツインチューブフレームも
提案出来ました。
このように、小島さんから、F-1(4輪)の技術や、他の世界の技術を見にこい、
そして、見て考えろという機会をもらって、スズキ、Kawasaki、HRCとロードの
フレーム設計でトータル40年、よくやりましたね、自分を誉める事が出来ますよ。

伊藤利一さんに、鍛えてもらいました。

2020-09-06 16:10:35 | 私を育ててくれた人ー
私を育ててくれたくれた人(スズキ時代)-6
メカニックGrでしっかりと伊藤利一さんに、鍛えてもらいました。

私がスズキ自動車に入社して 研修→生産技術部(本社→富山工場)へ配属になりました。でも
どうしてもレースがしたくて、上司(課長)にレースGrでレースをしたいと直接談判しました。そして
人事課を飛び越えて課長→課長間でニレ(2輪レースGr)にトレードしてもらえました。
転属になった時のニレの新入社員の定期配属(MXGrにENG,FRAに各1名)は終了しておりま
したので、とりあえずロードレースのフレーム設計担当になりました。が、骨のありそうな奴が来る
それならば図面を書く前に、手を動かす事から仕込んでやるわで、メカニックGr(利一さんが親分)
で丁稚奉公することになりました。ここで、利一さんから教えていただいた事が、私のこの世界
で生きていける糧となりました。(実は、阿部孝夫も同期で利一門下生です、この話後ほど)
 1970年JAFGPのFLクラスで、スズキFL500(水冷500㏄3気筒、5速)が予選周回数不足で本戦
出場できなかったのですが、富士スピードウエイの6Kmコースを2分10秒台で走れるミニモン
スターだったようです(TZ350より速いかな)。この同じENGを搭載したGr7(2座席オープンタイプ)
が開発されてました。そのクレイモデルを目の前にして、よーし、このレーサーをお前と作るぞ
 第一にクレイモデルからFRP製のフロント、リヤのボディーカウル、左右のドアーを製作する事
からスタートです。私は高専の自動車部でFRP成型作業の経験(方法だけ)があり、又会社に
に入ってから工場研修で4輪塗装の水研ラインで研磨作業は習得してましたので、反転型製作
ミガキ作業、ワックス塗布作業、本FRP成型作業とキレイ作るのに苦戦はしましたが楽しい作業
でした。利一さんはいつも横で、よしよしとチェックしてました。(以外にやるなと思ってくれたかな)
 次はスクリーンを作る作業です。工場内にスズキ販売店の大きな”S"の看板を作る真空成型機
があり、1.8M×1.8Mに”S"のマークがプリントされた樹脂板を熱しておいて、枠に当て真空
(負圧)で引っ張ると看板の半分が出来る訳です、利一さんとこの工程を見に行き、スクリーンを
をこの真空成型機で製作するのに必要な、枠型の寸法や注意事項を作業者(職人さん)と打ち
合わせて来いと指示されました、、利一さんは、お前たちはまだ何にも知らないのだから、現場を
よーく見て、職人さんに教えてもらってこいと段取りをつけてくれてました。真空成型でスクリーン
を作るのにFRP型にジカ当てでしたので、温度差でスクリーンの表面が凸凹になってしまいまし
たが、得意の水研ぎで表面を研磨しました。利一さんから、ロードレースのスクリーンは長円
の中空の枠だけで真空で引っ張り、スクリーンの高さをコントロールし可視部は型に当てないの
だと、教えてもらいました。MXのフェンダーもこの真空成型で割れにくい材料で作っているのだとも
ここで終わらないのが利一教室で、スクリーンを加工するには、先細のリューターを使え、又は
大容量ハンダゴテの先を薄く加工して熱でカットしろ、クラックが入ったらクラックの先に穴を空けて
進行を止めろ、ドリルの先端から10mmほどのところにテープを巻いておけ、クラックの穴加工時
穴が空いた瞬間ドリルがストロークするからストッパーだ。MXのフェンダーを切り出すには板金鋏
をバイス(万力)に銜えてカットせよ。とにかく実践させられました。
 ロストワックスも社内にありました、機密部品を作っているのだけど、利一さんは俺は通行手形は
要らないから付いてこいと言って、ロストワックスの工程を見せてもらいました。後にフロンテの
レーシングKITのV型リードバルブを製作するのに、アライ製作さんと打ち合わせ(後工程のゴム
焼付、研磨工程)がスムーズに理解でき、図面が書けましたね。10年後、HRCでNF4を作った、
時もロストワックスを扱う知識はもってました。
 2サイクルのチャンバー作れますか、板厚0.8~1.0の鉄板を溶接できますか、酸素、アセチレン
の微妙な圧力調整、トーチの火口番手、すべて実践で習得致しました。
 残念な事にこの年にGr7がレースカテゴリーから無くなってしまいました、でも私はこのワークス
セヴンを借り出して、ジムカーナレースに出場してました、すごーく速かったです、2位を一回
GETしたかな、クラスは“最速クラス“で相手はS800やフェアレディー2000でした。

 阿部も私も、スズキを辞めてカワサキに移りました。二十歳からの5年間でした。利一さんに
退職の挨拶に行ったら、マーお前らの事だ何かあったんだろうな、でもまだお前らはヒヨッコだ
一人前の顔するな、辞めるんなら辞めると早く言え、お前らに教えることはまだまだ有ったんだぞ
とは言ってもムコウに行っても頑張れよ、お前はセセル(いじくる)事が好きだったなー
 もう、涙しかありませんでした。

Rテーマを指示する役員(M腰さん)の技量、私のHRCでの指針となりました。

2019-12-20 16:55:40 | 私を育ててくれた人ー
私を育ててくれた人ー5

 Rテーマを指示する役員(M腰さん)の技量,私のHRCでの指針となりました。

役員の方から将来役に立ちそうなテーマ(これをRテーマという)が与えられました、”軽いフレームを作れ”
でした、我々のチームはRS500(NS500の市販車)の開発チームでしたので、ENGは3気筒をチョイスし
この時期カーボンが優勢(カーボンホイール等)で、チーム内の材料屋もカーボンのエキスパートですからカーボンに
特化したテーマを与えられたようです。その結果は カーボン・ツインチューブフレーム という結果が
我がチームの答えでした
…その指示に答える方も実力がないとね、Rテーマ+カーボン屋(特性や作り方を知ってる)+平松で
そのコラボでツインチューブと予測していたかも、そうなら指示した役員(M腰さん)の方が一枚も二枚も
上手ですね。役員の技量で将来の技術を開発指示する事になりますから、大変な役です

 カワサキで1本サスのレーサーKR250を作ってから、Kのモトクロス設計者がこのリンクサス、モトクロスに使かえな
いかと相談がありました、サスの熱ダレ(当時のレイダウンの最大のネガ)、バネ下重量軽減、マスの集中
等で従来のコンベサスより優位性があり、モトクロスに最適ですと返答し そしてリンク比(プログレ)等伝授し
ました。このプロト車に私(腕前はノービス程度)も試乗し能書きをタレてます。低速の接地感良好、
綺麗にトレースし くるっと 回れるだったと記憶してます。
このカワサキの1本サス・モトクロッサーが、HONDAの地元 桶川大会に出場し 福本(カワサキ)がブッチギリ
ました、役員(M腰さん)はそうとう悔しがったと聞いております。技術屋としてはボコボコに殴られたの
と同じです、熱ダレ、バネ下重量軽減、マスの集中、等に優位性があると気付いたようで、HRC内に
KAWAの一本サスに対抗する技術(超Rテーマ)を開発せよと大号令が出されたようです、
殴られたら即 殴り返す。レースに特化し、結果に直結する開発、HRCならですよね、HGAジャーネーヨ
そこで、HRCの若手が一生懸命考えて ”プロリンク” が考案されたそうです。
その。指示を出した役員が”M腰さん”だそうです。この方は6気筒のENGの図面を画かれて方だと
聞いてます、特許もたくさん取得されてる技術屋さんですね、私は技術屋の証明は取得した特許の
数だとも思っております。そして、ビックリしたのはWスイングアームの出願もしてました、後に特許公報
を閲覧して分かりました。
 こんな事も経験させていただきました
 HRCを転籍された役員が方(M腰さん)がある飲み会の席で私に言うんです、HRCをなんとか
してくれって、暫くしてHRCを外からみると、そう思われたんでしょうね。私は32歳でカワサキから
HRCへ(定年、60歳まで)28年間アウエイ(私のメインは市販ロードレーサー、ワークスの担当は2度ほど)の中
で頑張りましたが、生涯研究員(組合員)です、位(クライ)を与えないで、何とかしろ、虫が良すぎますよ、
無理、無理
 こんな事も経験させていただきました
私はHRC営業にU・ターンしてからもモトクロスの応援で全日本MXを観戦してました。息子が龍一郎の
オッカケだと言って、バンに寝袋と酒を積み込んで、スズカ、名阪、コングランド、菅生、でサインボードに”L1-
ガンバ”。(サインボードを出してた息子、今 研究所に勤めてます) 桶川MXでヤマハの市販MX車に乗る 
M木(前年はHRCワークス)にHRCのジャンパーを脱いで私はサインボードに”P5 L3 前追え”と M木 を
応援してました、すると、M腰さんに”他社のライダーを応援するとは何事か”と怒鳴られました。この
M腰さんモトクロスが好きで桶川に観戦に来られていました。M腰さんがHRC・MXの親分の時代に、雨の
泥泥レースのスタートグリッドまで、メカニックに泥が着かぬよう担いで運ばせたとの逸話を聞いております
……(当時の事はライダーに聞いて下さい)。   そして 私が M木 をクビにした訳でないし
(ペーペーじゃクビにする権限はありません)、今でも M木 と友人だし、ライダーとして好きだし、HRCの
ジャンパーを脱いで応援して何が悪いんですか。と言い返しました。M腰さんは”時代は変わったな”
と言ってました。でもM腰さんはHONDA一筋(宗一郎さんとかな)ですね、私はスズキ、カワサキ、HRCと
3社を渡り、BIKEを作る事、ライダーとテストする事が好きなんです。退職後、BIKEを作らせてくれれば、
どのメーカーにも行きますよ。

とにかく、M腰さんは技術者として指導者(?)として私の指針となりました。