daddy-kのいきあたりばったりⅡ

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サンタルベツ1955

2024-04-14 | 札幌街ブラ

新聞の紹介で手稲区の「三樽別」地区を描く細谷きよ子さんと、水彩の塩見アイ子さんお二人の作品展とあり、三樽別って今もある細い川だよね?と思って行ってみることに。

三樽別は今の手稲区富丘辺りを指す地名でしたが、細野さんの「1955三樽別の片隅で」は、そこで暮らしていた細野さんの5~8歳の思い出を絵にしたそうで、まさに私と同年代の方でした。

私の住んでいた太平洋岸の田舎町とはかなり離れているのですが、絵の内容の大半が私の思い出とも重なります。都会と思っていた札幌と私の舎住んでいた田舎が、子供達は同じような生活をしていたんだと思うと嬉しくなって。

こちら「モミの木」の絵の部分で、モミの木を担ぐお父さんと、ミズキをかついだ女の子。この頃からのクリスマス飾りはハイカラなお宅ですね、我が家はモミの木は覚えが無いのですが、歳の暮れには正月飾り用のミズキは採って来ました。

野ウサギにも思い出があり、小学生の頃になると通り道に罠を仕掛けて捕まえました。 あの頃ウサギの耳を持っていくと百円位?の金になり、造林した苗木が齧られてしまうのでその対策です。むろん肉もいただき、味は記憶が無いのですが貴重な「お肉」でした。

子供達が♪ローソク出せ出せよ~と言って家々をまわります。♪出さないとかっちゃくぞと囃し立てるところなど、後年輸入(?)されたハロウィンの遊びがそっくりで驚きましたが、子供の遊びは世界共通?なのかも知れませんね。北海道は一部を除き八月が七夕。

ここの子供たちは提灯を下げていますが、私達は空き缶と古釘と針金を使い、自分たちで作りました。明るいうちから集まり、ワイワイ言いながらの缶提灯作りも楽しみのうち。その僅かな蝋燭の灯でも道を歩くには充分でした。昔は星が多かったから…

藁の布団(中央)も母親が作ってくれました。マットレスの普及していない時代、この上に敷布団を重ねると温かで、寒い夜もしのぐことが出来たのは藁布団と母の愛情のお陰。

泥炭(左)は乾燥させて燃やすと冬場の暖房源となり、手稲から石狩にかけて住む人達はこの泥炭を利用したそうです。

私の住んでいた地方は泥炭が無く、家では薪ストーブなので、冬が来る前に木を切って薪にし、子供が薪小屋まで運びましたが、きっと泥炭堀も夏場の家族総出の作業だったのでしょうね。

 

水彩画の塩見アイ子さんをご紹介する余裕がなくなりましたが、淡い水彩でシラネアオイとか北海道の花を描かれていて素敵でした。そして会場の様子です。

撮影も快く了解いただきましたが、気にいったポストカードを何枚か求めた後に、お伺いを立てられると断りにくいですよね?多分… と思うと、その時はきっと北海道弁で言うところの "へなまずるい” 顔になっていたのではないかと…

※「かっちゃく」は引っ搔くこと。「へなまずるい」はずる賢いの意味になり、「ズルい」、「なまずるい」に続く最上級の?悪口。以上、北海道弁講座でした。



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