陰陽の生成 投稿者:うさぎ 投稿日:2013年 2月 5日(火)22時04分45秒 返信・引用
練拳時には、よく無極から太極へという話をします。
陰と陽があるから、成長するのだという話。男と女がいるから生命が生まれるし、プラスとマイナスがあるから電子は流れる。温度の高低があるから風は吹く。
土佐の川えびさん、いろんな話をしていくってこと、思いついたことを口にしてみること、って大事ですよね。それが正しいか、高尚であるかそうでないかなんてことよりも、口に出して表現するからこそ、この文章を読んでいる人達って感じたり、意見を持ったりすることができる。いろんな意見がある。受け取り方もいろいろだったりする。それだからこそ
成長していく。私自身も、掲示板にいっぱい書き込みながら、成長してきたと思っています。赤っ恥をかくようなことも、いっぱい書いてきた。一番の成長は、王先生に学んできたことです。次は、学んでくださる方へ教えていくこと。何番目かはわからないけれども、この掲示板に書き込んできたことというのも大きいです。言霊というように、口に出したことは、それ自体命を持ち、人に影響を与えるだけでなく、それを発した人をも成長させてくれると思います。
何はともあれ、おしゃべりできるって楽しい。
腎気の話 投稿者:うさぎ 投稿日:2013年 2月 6日(水)00時11分40秒 返信・引用
腎精は,陽気となって身体をめぐる。腎が虚してくると、いろいろな症状が出てくるわけですが、ひとつの現象は、おしゃべりになったりします。おしゃべりだけど、まとまりがないおしゃべり。(腎精の話とはいっても、基本的なきちっとした話ではなくてすみません!!)
私自身、親からもらった腎気は弱いですね。武術家でこの人、腎虚だなと思われる人って多い。幼い時から病弱な武術家って多い。だから強くなろうとするし、武術は人を強くしていくものをいっぱい内蔵している。
それはさておき、腎虚とおしゃべりの話でした。腎は水に属しますから、水の性質は、どんなところにも、流れていきますから、腎の要素が強い人は社交的な人が多いですよね。特に心(五臓の心<シン>)は火に属しますから火によって温められた水は、上へ上へと上昇していく。陽気となって循環し自分自身を温めますし、周りの人ともコミュニケーションがうまかったりします。あるときは機転が効いたり、あまり人にはない天才的なひらめきがあったりします。
しかし、腎が虚してくると、水の性質により、下にタラタラと流れやすくなる。自分自身の中では、腹が下ったり、足がむくんだりするし、血行が悪くなったり、記憶力も低下したりもする。
おしゃべりの話でした。腎が虚してくると、おしゃべりに論理性がなくなって筋が通らなくなったりします。
なんでこんな話をしているかというと、さっきの掲示板の話なんです。もともと腎精が十分でない人間は、人には思いもつかないことをしてみたり、変わりものであったり、おしゃべりであったりするのですが、何か物事を仕上げていくことって苦手な人が多いんですね。
よく、天才的な人って変わり物が多いって言いますよね。バカと天才は紙一重だと。今の
見方からすると、LDだとかADHDだととか、いわゆる一般常識から離れた人という人が多いわけです。ほとんどの人は天才的な能力は発揮されないまま、ただの変わり者として一生を終わっていく人が多いんだと思います。
天才的な人の中には、陰陽五行の考え方からすると、腎虚の人って多いと思います。いわゆる変わり者。アインシュタインだとかピカソとかモーツァルトとか。
腎虚の人は、幼い頃は、いろんなことを考えても散漫ですよね。気が散りやすい。いろんなことに興味はあっても何一つ最後までできないうちに気がそれてしまう。ADHDというのは、注意欠陥多動性症候群の名のとおり、注意が継続せず散漫になるから多動性になってしまうわけです。こうなってこうなるからこうすればよいという論理性や段取り力、見通しが育ってくれば、筋道を追って行動できるようになるから、多動ではなくなる。
腎虚である人は、腎精を養う必要があるし、精を気と化し、体内を巡らせることができるようになれば、その人の能力は開花していく。
腎虚である人に、必要なものは、どこでも流れていく水の性質を一定の方向に導いていく強さ(金)と変わり者でも包み込んでくれる包容力や母性的な無条件の愛だったりする。
天才的な人は、変わり者であったりするのだけれど、周りには、包容力のある人や導いてくれる人あるいは環境の両方が存在していることが多いと思います。
私にとっての掲示板の話でした。私は全くの凡人ですが、腎虚の体質の傾向は強い。よく
おしゃべりですが、散漫です。調子がいい時は論理的なのですが、気が散りやすい。
はーーーーやっと掲示板の話なのですが、私のような人間が、書籍っといった、論理性が
必要とされるものを作り上げていくというのは、やはり至難の業でした。こんな話は良くないのかもしれませんが、もし師父が長生きをしてくださっていれば、あの本はまだ完成していないかもしてません。師父がなくなってしまうという差し迫ったものがあって、亡くなる前にぜひ完成したものを見せたいという喫緊のものがあったからこそ、完成したのだと思います。その意味では、「戴氏心意六合拳 技擊精要」という書籍は、師父が私に遺してくれた「かたみ」なのだと勝手に私は思っているのです。
あーーー掲示板の話でした。
だんだん掲示板の話はどうでも良くなってきた思いもあるのですが。
掲示板は、私のような散漫になる思考をする者にとっては、ちょうどいい加減の成長ツールだと思っています。散漫な話を聞いてくれる、そして散漫な思考をある程度まとめてくれるツールなんです。そんな理由でブログやホームページとかよりも私にとっては相性のいいツールだと感じています。
Re: kさん、うさぎさんへ 投稿者:k 投稿日:2013年 2月 6日(水)20時07分10秒 返信・引用 編集済
> No.297[元記事へ]
土佐の川えびさんへ
> 雑誌の件、丁寧にありがとうございます。
こちらこそご迷惑をおかけしましたm(_ _)m。
> 肘を~の件は、あれでよかったのか?とも思ってます。これから戴氏の技を深めればいいのかな。
前にも投稿しましたが、戴氏の練拳で大切なことは、 解ったつもりにならずに常に疑問を持って、謙虚に練拳を続ける ことで、それが「戴氏の技を深める」ことに直結すると思います。
お互いに頑張りましょう!
川えびさんの投稿された「老師の五行拳はとても、繊細でデリケートに感じました。付録映像の套路で力強く発勁するときも、その繊細さはまったく変わらぬ様に見えました。霊動の一つの答えでしょうか?」に関しては週末にでもまとめて投稿しようと思っています
そこを、投稿されたかった! 投稿者:土佐の川えび 投稿日:2013年 2月 6日(水)23時19分36秒 返信・引用
> No.300[元記事へ]
kさんへのお返事です。
>「老師の五行拳はとても、繊細でデリケートに感じました。付録映像の套路で力強く発勁するときも、その繊細さはまったく変わらぬ様に見えました。霊動の一つの答えでしょうか?」に関しては週末にでもまとめて投稿しようと思っています
>
>これは、わたし川えびの書き込み、主観ですよ~。(^o^)/
1/3kさん書き込み「これが丹田」の、「虎歩を行ってみると地面を押さないのに足に力が入っているのです」 私の映像での感想が、このイメージに近い。
また、「エネルギーを爆発させる」のと「エネルギーを微調整」するのは、相反することのような…。
ぜひ、よろしくお願いします。
内意(その1) 投稿者:k 投稿日:2013年 2月 8日(金)22時57分20秒 返信・引用 編集済
霍先生が「武術」(おそらく土佐の川えびさんの投稿が正しくて2002春号が初出だと思います)のインタビューの中で次ぎ様に発言されています。
「刑意拳では架式、動作の要求が非常に厳格です。戴氏心意拳ではどうですか」という質問に対して、「戴氏心意拳でも同じだ。ただし、不意な偶発的なことにも自然に自由に反応できなくてはならない。これはすべて内意によるところの反応だ。」と答えられています。
これは「動であれば武芸」(22ページ)の霍先生流の表現だと考えられますので、今回この点について投稿してみたいと思います。
ただし、以前に投稿した通り私自身は「動けるようになっていない」ので以下の投稿は私の体感に基づくものではなく単なる推測です。
戴氏の動きは動作の起点(含胸、股の締め、肛締、丹田の回転)に伴い、身体の他の部分は「股の締めと丹田の回転」に誘発されて自然に動くことが理想なので(94ページ)、具体的な動きは肘の位置等の条件によって必然的に決まってきます。
この「自然な動き」は「赤子の戯れ(フェルデンクライスの用語を使えば運動感覚学習)」と共通部分が多く(全く同じではないと思いますが、この点については後日投稿したいと思っています)、これが、「六合の形は、自在に変化し尽きるところがない。」が「赤子の戯れの原理で動けば、打法の真の形になる」(17ページ参照)ということではないかと思います。
内意(その2) 投稿者:k 投稿日:2013年 2月 8日(金)23時03分26秒 返信・引用 編集済
「私が霍先生に発頸をした時はどんな感じなのですか」とお尋ねた時、少し考えてから「ドアを開けたら目の前に熊が立っていたような感じだ」と仰られました。
その後両腕を上げ熊のまねをした後で、首を縮めて丹田功風のびっくりして怯えたまねをしました。
余談ですがこの時、この様な動作こそが「丹田功の原型」ではないかと思ったのでが、その後頭の悪いなりに色々考えて「やっぱり荷車押し!」となりました(^_^;)。
つまり、びっくりした時本能的に丹田功の縮の動作を行い(実際の動作はその時の状態によって横拳であったり壁拳であったりしますが)、その後その流れの中で(横拳なり壁拳なりの)展の部分の動作を行なう ということが「動であれば武芸」の意味するところではないかと思います。
霍先生のところでは、束が終了した後に発頸を行なう練習がある程度進んだ段階で、束が終了する寸前に弾みをつけて展、つまり、発頸を行なう練習があります。「起落はバネ似て」(43ページ)の部分になるかと思いますが、これで「びっくりして縮こまる動作」と「その後の動作」が一体になるのではないのでしょうか。
蛇足ですが、霍先生の言う「びっくり」は「鳥肌(54ページ)が立つ」という意味ではないと思います。もちろん反射的に熊を殴ってしまった後では、色々な意味で鳥肌は立つことになるのでしょうが(^_^;)。
個人的には、「このビックリした時の丹田の動き」が「内意」であり、この内意に導かれる動作の中の「バネ」の部分が軽動ではないかと思っています。この「バネ」の無い動きでも、つまり、重動だけでも、束で相手を崩し、展で打つことは可能だと思いますが、「びっくりして反射的に相手を崩して打つ」、つまり内意による霊動にはこの「バネ」、つまり、軽動の要素がないと無理なような気がするのです。
「動であれば武芸となり、静であれば道となる」(22ページ)の動、静は身体の動きというよりはむしろ丹田の動きを意味しているのではないかと思います。ここで言う「静」は「静功とは動かないということではなく、心静かに入静するということです」(2004年冬号の岳先生のインタビューより)ということではないでしょうか。
以上私見ですが「「老師の五行拳はとても、繊細でデリケートに感じました。付録映像の套路で力強く発勁するときも、その繊細さはまったく変わらぬ様に見えました。霊動の一つの答えでしょうか?」」に関してのコメントです。
土佐の川えびさんの「「エネルギーを爆発させる」のと「エネルギーを微調整」するのは、相反することのような…。」はまだインターネット上にはアッブされておらずDVDのオープニング映像でしかみられない霍先生の映像をもとにしたコメントを明日の夕方にでもアッブしと思っています。
内意(その3) 投稿者:k 投稿日:2013年 2月 9日(土)06時28分6秒 返信・引用 編集済
下の投稿は相手と触れた状態を想定しています。
離れた状態については「DVDのオープニング映像」がこの答えではないかと思います。私の「武術スペシャル」では「ランニングシャツに短パンで最後に相手を突き飛ばしている一連の写真」がこのオープニング映像からの抜粋だと思います。
東京講習会ではこの映像の様に相手に飛びかかるようにして、相手の反応、状態により「肩で打った後肘で打ったり、肘で打った後肩で打った」りするまねをして、「反応できないだろう」と言っておりました。
これがインタビュー記事の「高いところも低いところも自由自在に打てるようになる」の意味ではないかと思っています。
つまり「展の時丹田に集めた体液が元に戻る形で逆流し、この頸を肩、肘、股等の節を通して相手に浸透させる」ことが、「全ての節で発頸することができる」ことだと思います。
インタビュー記事では「(発頸と爆発力は)違いがある。(中略)発頸はコントロールすることが出来る」となります。
「体液が丹田に流れ込めば、筋肉が収縮し力が出る」わけですが、逆に言えば「筋肉に体液が流れ込めば筋肉は緩んだ状態」になります。
相手を崩して片足にすれば、この収縮した足の体液が身体の他の部分に流れ込みます。
この崩しを高度なレベルで行なえれば「相手の気を上げて(上体に体液を流し込み弛緩した状態にして)、そこを打つ。(自分の中の気、つまり体液の流れが相手に伝わり相手の体液、つまり)気血が乱れて内蔵を破壊する」(インタビュー記事から。ただし()の部分は私の挿入です)ことも可能かもしれません。
ただし、離れた状態の相手をこの状態に持って行くことが可能かどうかは今の私には解りません。
この部分は可能ならばDVDで観て頂いた方が良いと思います。土佐の川えびさんの練拳仲間でしたら、借りることも出来るのではないでしょうか。
生々しい話で恐縮ですが、川えびさんは七千円を出して購入しているので、借りた方は牛丼くらいは奢りましょう(^_^;)。
川えびさんは世に稀な明師になる可能性を秘めた武芸修行者だとお見受けしますが、やはり不三教の教えに従い「義のなき者」には教えないと思います(^_^;)。
合 投稿者:うさぎ 投稿日:2013年 2月 9日(土)09時33分42秒 返信・引用
「エネルギーを爆発させる」「エネルギーを微調整」も
「動であれば武芸となり、静であれば道となる」も
陰陽一体、互根ですし、その様に練拳する。
精度が高まるから、大きな爆発をすることができるし、道を歩んでいくからこそ武は藝術になっていくことができる。
kさん 荷車押しというのは、「背中を丸めて押す」ことを指していますか?
丹田功で言えば束身のことですか?
Re: 合 投稿者:k 投稿日:2013年 2月 9日(土)15時51分37秒 返信・引用
> No.305[元記事へ]
うさぎさんへ
ご質問有り難うございました。
> kさん 荷車押しというのは、「背中を丸めて押す」ことを指していますか?
> 丹田功で言えば束身のことですか?
その通りです。
他にも、解りにくい点、疑問点、そして、誤っているのではないかと考えられる点がありましたら、遠慮なくご指摘下さい。
「未来の明師である川えびさん」の投稿も勿論ですが、「現在の明師であるうさぎさん」の投稿も得ることが多いと思いますので、よろしくお願いしますm( _ _)m。
内意(その3) 投稿者:土佐の川えび 投稿日:2013年 2月10日(日)07時25分55秒 返信・引用
> No.304[元記事へ]
kさんへのお返事です。
軽動のバネの働きにより、霊動が導かれるのでは…ですが、重動、軽動、霊動(バネ)と霊動のなかにバネが含まれるのではと感じました。なぜか?勘です。すんません。これは練拳の中で味わっていこうと思います。軽動は純粋に軽いもので、磨手の重要な練習ツールにもなるものかなと思ってます。
ちなみに、技撃精要P215では「軽動是柔勁品嘗動作与勁節、意念、気血運転的主要方法、如同伸舌嘗味一様」「軽動は柔勁を用いて動作や勁節、意念、気血の流れを運用する重要な方法である。舌で口に入れたものを味わうように練っていく」とあります。
ランニングシャツに半パンを取り上げてくれたのは、うれしかったです。付録映像と共に興味をもってました。
10秒ぐらいの映像で技としては3つ、老師は非常にしゃべってますよね。気になる。最後は、双推掌的?な技で後に自分の肘をたたきながら、何か説明している。両手で押したハズなのに。気になる…。まず、相手の両腕に自分の両手をのせ(その時は自分の手のひらは上向き)、相手の腕を下に払う(手のひらを下、この時ひじは動く?)、そして双推掌。押すこと自体は体幹を使う?
正鵠を得たというか、全般的に知りたい情報でした。ありがとうございました。
DVDはもともと購入しようと思ってましたので。
明師となれるんでしょうか?ぜんぜん分かってないんで。冬練三九P47を意識しようかなと思った所ですが、土佐の冬は暖かい。いつの間にか節分も過ぎ、練拳後アー気持ちよかったと家路についているエビです。
Re: 内意(その3) 投稿者:k 投稿日:2013年 2月10日(日)10時29分0秒 返信・引用 編集済
土佐の川えびさんへ
> 軽動のバネの働きにより、霊動が導かれるのでは…ですが、重動、軽動、霊動(バネ)と霊動のなかにバネが含まれるのではと感じました。
誤解を与える様な書き方になってしまいましたが、「突発的な事態に対する丹田の反射的な反応で導かれる動作」が「霊動」かなぁ と漠然と想像しています。この霊動の要素として「丹田の反射的でない動きで導かれる束と展」が「重動」(相手を飛ばす時はある程度の早さで動くこともあるので必ずしも慢練とは同じではないと思います)、「束と展を一体化するバネ的な要素」が「軽動」ではないかと想像しています。
私自身も現在の段階では「軽動のバネの働きにより、霊動が導かれる」とは考えておりません(先のことは解りませんが)
>老師は非常にしゃべってますよね。気になる。最後は、双推掌的?な技で後に自分の肘をたたきながら、何か説明している。両手で押したハズなのに。
霍先生の話した内容の記録があるか調べてみます。ただ、記録を取った記憶がないのでおそらくメモは残っていないと思います(^_^;)。
ただ、両手で押すのはある程度癖になっているパーフォーマンスではないかと思います。東京での講習会ではベットがなかったのでこのパフォーマンスはありませんでした。
>正鵠を得たというか、全般的に知りたい情報でした。
川えびさんの投稿がきっかけとなって「炮拳」について見落としている点について認識できました。いずれ五行拳を練験するようになれば自分で気づいたかもしれませんが、早くから問題意識を持っていると練拳効果は全く違ってくるのでありがたかったです。お礼の意味も兼ねての投稿でしたが、何かのきっかけになれば私としても有り難いです。
>明師となれるんでしょうか?
それは私も同じです。
お互い頑張りましょう。