小学生くらいまでの子ども時代、大人の目からは何の意味もないような遊びに、無心に没頭したことがだれしもあるはず。「~あそび」とか「~ごっこ」とかいう名前もない、ただその場で、なんということもなしにはじまる「あそび」である。
ああいう遊びの時間は、ほかにたとえようもない、まったく独特の経験だった。あの時間をもたなかったなら、どれほど貧しい人間になったろう。
さて、一部のヒンドゥー教徒によると、この宇宙ができたのは神の遊びによるのだそうだ(そう見えるのは出来上がった世界の側から「見上げる」からで、本当は神より前に、いちばんはじめに「遊び」があったのだと私は思う)。
子どもの無心の遊びが、あれほど貴重な、得難い経験だったのは、宇宙のはじまりを追体験していたからではなかろうか。いや、もしかすると、子どものぼくらは神と一緒に遊んでいて、世界ができたのは実はそのときだったのか。もしかすると、子どもたちこそが神なのか。
ああいう遊びの時間は、ほかにたとえようもない、まったく独特の経験だった。あの時間をもたなかったなら、どれほど貧しい人間になったろう。
さて、一部のヒンドゥー教徒によると、この宇宙ができたのは神の遊びによるのだそうだ(そう見えるのは出来上がった世界の側から「見上げる」からで、本当は神より前に、いちばんはじめに「遊び」があったのだと私は思う)。
子どもの無心の遊びが、あれほど貴重な、得難い経験だったのは、宇宙のはじまりを追体験していたからではなかろうか。いや、もしかすると、子どものぼくらは神と一緒に遊んでいて、世界ができたのは実はそのときだったのか。もしかすると、子どもたちこそが神なのか。