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領土問題の基礎知識 : 先取の原則

2017年09月30日 | 日記
 学術調査のため、△諸島の魚釣島に上陸していた吸収大学の研究者たちからの連絡が途絶えた。捜索隊が島に向かったが、通信機に苦悶の声を残した後、消息を絶った。その声は「毒ガス」と聞こえた。これを受け、完全装備の特殊部隊が決死の上陸を果たすと、先に上陸した人々はみな、口から血を流して死んでいたのである。

 吸収大学グループの残した記録に、「やつらの恐るべき生物兵器」という走り書きのメモがあったことが分かり、マスコミは沸騰。政府は事態の把握に苦しんだ。「やつら」とは?

 収容された遺体を調べていた吸大医学部グループは、遺体の肺から毒性の胞子を発見、これが死因であると断定した。この胞子は、ナガエノスギタケというきのこのものによく似ていたが、成分が異なる。未知の胞子…となると、どこかの国が極秘に開発した「生物兵器」ではないのか?

 たまたま人事交流で台湾から来ていた老教授が、この胞子によく似たものを見たことがある、と言い出した。日本統治時代の台湾で、新種の毒キノコとして採取されたナゲエノスギタケの仲間のものだと言う。そして、このキノコに毒性を与えたのはタイワンモグラだと言うのだ。ナガエノスギタケは別名をモグラノセッチンダケといい、名前の示すとおり、モグラの巣の便所部分から伸びてくるという。冗談のようだが、まったくの事実である。そして、信じがたいことに、戦前の台湾でタイワンモグラたちは、意図的に毒キノコを、いわば栽培していたらしい。つまり、キノコが生え出すあたりに、特定の成分を含む希土類を、モグラたちが意図的に集めていたらしいのだ。

 何のために?人間を殺すためである。当時の台湾では、新来の日本人が肩で風を切って歩いていたが、それをふくめて人間どもの横暴がうるさくなったからだろうと推測されている。タイワンモグラにそんな知能があるのか?あるのだ。戦後の混乱で、この衝撃的な発見が世に出なかっただけなのだ。

 ところで話を魚釣島にもどす。ここには、タイワンモグラの親戚のセンカクモグラがいるのをご存知だろうか。そして彼らがタイワンモグラよりもいちだんと賢いことを。そして、この島に人間よりずっと前に定住したのが彼らであることを。

ああ筒井康隆

2017年09月29日 | 日記
AIに政治をやらせるなどという話が現実味をおびてきた今日このごろ、筒井さんの昔の短編「ホンキィ・トンク」なんてすごく面白がられると思うのだが。とても小さな独立国の王女さまが、日本からコンピュータを導入して、国の舵取りを任せてしまう話。もちろん普通に着地しません。この小説はたぶん、ハインラインの『月は無慈悲な夜の女王』に触発されてできたのだと思うが、同じ小説から筒井さんは、たぶん、「いじめないで」という怪作も生み出したと思う。ハインラインの方がとても長いので、ちょっと読み比べてみてくださいとは言いにくいけれど。

筒井さんの昔の短編で、今こそ読んでほしいと思うのは、ほかに「奇怪陋劣潜望鏡」。日本中のエスカレーターでスマートフォンのカメラが女子のスカートの中へ突入するなどという、トンデモナイ時代になったものだが、この小説の世界が現実になったのかもしれぬ。

あと、もちろん「アフリカの爆弾」は必読。

皿品日揮

2017年09月28日 | 日記
 四国山地の奥に住んでいたころは、テレビの民放チャンネルはわずかしかなく、ラジオも電波があまり届かず、本屋さんも映画館もないという生活でした。学校の先輩たちから聞くにっかつロマンポルノの話題にわくわくどきどきしていましたが、先輩たちの知識も断片的で、私はどうにかしてこの手の映画が見たいものだと、そればかり考えておりました。

 やがて父の転勤で引っ越すことになり、初めて土讃線に乗りました。汽車は深い山の中を走ります。私はうとうとして夢を見ました。私の乗った汽車は真っ暗な空中を飛んでいるのです。私の目の前には黒づくめの服を着た、髪の長い美しいお姉さんが座っています。お姉さんは私に言いました。「あとは一人で行くのよ、哲郎。」

 私は大阪の○○市に住むことになりました。やはり大阪にいた若い叔父のところに遊びにいくと、「すっかり大きくなったな。なかなか男前になったじゃないか。」と喜んでくれました。帰り際に叔父は、「何かお土産をやろう。何がいいかな。そうだ。」と言って、重たいダンボール箱を出してきました。中には雑誌 EIGA NO TOMO がぎっしり詰まっていました。この箱を自転車の荷台にくくりつけて帰るときの、天にも昇るような心地と言ったら。

 それからは部屋に鍵をかけて閉じこもり、一日中、夜も目覚めている限り、にっかつの世界に浸りました。未亡人もの、看護婦もの、痴漢電車シリーズ。王侯貴族になったとしても、これほどの満足が味わえるでしょうか。そんなころ夢を見ました。梅田のHデパートにいるのです。エレベーターのドアが開くと、上品なエレベーターガールのお姉さんが、ちょっと恥ずかしそうに微笑んで目で私を招き入れました。かなり短かいワンピースの制服です。ドアが閉まって二人きりになると、お姉さんは私に密着してきて、鏡を見せてくれるのです。そこには美しいチアガールたちに囲まれてちやほやされている若い男が映っていました。「どうですか?楽しそうでしょう?」今度は鏡の反対側の面を見せてくれました。「こっちはどう?うふふ。」お姉さんが私のほほにキスをしてくれたところで目が覚めました。

 それでも当時の私は不信心で、夢の意味もあまり考えもしませんでした。そして、年頃になれば私もきれいになる、セーラー服の似合う女子高生になって、××××で××××されたり、白衣の似合う看護婦さんになって××××に××××××××されたりするんだわなどと、そんなことばかり考えていたのです。考えの足りないことでした。
 

二百三高地の太陽

2017年09月26日 | 日記
 日露戦争の旅順攻略戦。難攻不落の要塞を前に屍の山を築くばかりの日本軍。正攻法だけでは旅順は落とせない。地下坑道を掘って要塞内部へ突入する作戦が立てられた。バルチック艦隊の来航が迫り、海軍からは工期について厳しい注文が。工事を請け負う熊谷組の社長は、軍の要求する期間で仕上げることは絶対に不可能だと言い張る。

 第三軍司令官乃木希典(滝沢修)は熊谷組社長に静かに、そして熱く語る。「今回の戦争で、私は二人の息子を二人とも失いました。なくして惜しいものはすべてなくしたのです。」苦渋の表情を浮かべる熊谷組社長。「わかりました。やりましょう。」

 下請け会社を率いる若い二代目社長(石原裕次郎)は、戦場に横行する非人間的な因習に真正面から立ち向かう。古参の下士官兵の反発を受けながらも、内地から無理やり運んできた沿岸防御用の28センチ砲を現場に投入。出水事故もあったが、ついに坑道は貫通した。児玉源太郎(丹波哲郎)が電話に向かって叫ぶ。「そこから旅順港は見えるかあ。

 戦後、二百三高地の頂に一人立ち、じっと戦の跡を見つめる明治天皇(三船敏郎)の姿があった。

古老夜這いを語る

2017年09月23日 | 日記
 わしらの若いころにはよばいをしたよ。山向こうの村に評判のべっぴんがおっての。夜ごとかよったものぢゃ。そりゃ、向こうの若いおとこたちはおもしろくないから、真っ暗な峠で待ち伏せしとる。それをたたきのめしていくのよ。ははは。

 むすめの家のそばまでいくと、こう身を低くしてな、よばうのよ。ほー、ほー、ってな。するとむすめが、寝ている親の目をぬすんで出てくる。ふたりで林の奥へな。むすめをだいて、こう、こういうぐあいぢゃ。むすめはもう、ゆめみごこちになってしまう。そこへ、おたふくさまがどこからともなくあらわれるのぢゃな。そのすがたは、とてもことばでは言えん。この世のものではないよ。おたふくさまは、若いむすめが好きでの。目をとじてよこたわっているむすめを、あれはやはり舌なんぢゃろ、なめまわすのよ。やがておたふくさまは、またどこへともなく消えてゆく。わしはそのおさがりをいただくというわけぢゃ。そうすると、体じゅうに豊年満作の気がみなぎるのよ。そんじょそこらの男にできることぢゃないよ。

 おたふくさまはもうおらん。どこにも気配もみえん。殿下がいらしたころからよ。この県にもご来駕を、というので代議士がさかんに運動して、鉄道が引かれる、市庁舎が新しくなる、公会堂ができる。ついに殿下がおいでになる。学童が整列してお出迎えぢゃ。おたふくさまがいなくなったのはちょうどそのころぢゃったな。

改元

2017年09月21日 | 日記
もうすぐ改元ですな。「平成」を発表したのは小渕官房長官で、あの人には何となく明るさがあってわるくなかった。今回、菅さんが発表、となるのだろうか。それではちと辛気臭いと思うのは私だけではなかろう。

今の元号に変わったころ、「平成には干戈が隠れている」という話が巷でささやかれたと記憶する。おそらく同時にいろいろな人が同じことに気付いただろうから、言い始めた人は各地にいるのだろう。私は、某女子大の先生がそう言っていると、そこの学生から聞いた。

「干戈を隠した平成」と見立てるのはあんまりなので、「干戈を改めて、世を平らかに成すのだ」と理解するようにしてます。ええもう、ホントに(笑)

壬申大乱

2017年09月19日 | 日記
 昭和11年は、十干十二支で言えば壬申の年であった。

 この年2月26日、未明に営門を出た歩兵第一連隊、同第三連隊の将兵は、夜来の雪を踏み分け要人たちを襲撃、一気に東京の心臓部を占領した。
 全国に衝撃が走るそのさなか、秩父宮が陸奥の国を脱出、東京に入った。「反乱軍」の首魁たちと宮とが、陸士で肝胆照らしあう仲になっていたことは、今日ではよく知られている。
 決起部隊の次の目標は、迅速に宮城を占拠することである。秩父宮をいただく彼らは、大挙して西を目指した。途中熱田神宮に参拝、草薙の剣に必勝を祈願。東国から呼応するもの多く、やがて大軍が関が原付近に集結した。
 
 都では天皇が激怒していた。

 すでに迎撃体制は整えられ、瀬田の長橋の橋板はすべて撤去されていた。東西両軍は宇治川をはさんでにらみ合い、そのまま膠着状態となった。
 満鮮を背後にもつ西軍には、ターチン油田がある。一方、東軍には樺太の天然ガスがある。どちらも一歩も引かず、持久戦のかまえ。もっとも、満州と樺太は間宮海峡をはさんで向かい合っている。この長大な海岸線のどこかで均衡が破れそうに思われた。しかしここに、米英蘇支の思惑が複雑にからむのである。それぞれが東西両日本国にさまざまのアプローチを取り、事態は長引くばかり。

 ○○市に本部をもち、皇室にも深く食い込んでいた××教の教祖が眼をかっと見開いて、「東軍の背後に平将門が見える」などと言い出したもので、話はオカルトめいてきた。

 どうなるのか。いったいどうなるのか。もはや収拾はつかない。

諸葛孔明南蛮征伐2

2017年09月17日 | 日記
 諸葛孔明はなぜ南蛮遠征を企てたのか。
 南方からゴムを入手しようとしたという説があるが、これは完全に時代考証を誤っている。我々はもっとまっとうな議論をしようではないか。
 入蜀第一世代にとって、大陸反攻は至上命題であったろう。しかし、姜維、鄧芝といった新世代がもっと自由に新天地をもとめたとしても不思議ではない。南蛮遠征は、魏との決戦のための布石、といったものではなく、四川を起点に南方へと大帝国を築くという、それ自体が目的の大事業であったのだ。
 四川から雲南。そこから?ラオス、タイ方面か。あるいはビルマ方面か。…諸葛孔明が手塩にかけた新世代がそれで満足するわけがない。
 インドである。
 四川からビルマを経て、ガンジス河の下流地域にいたるルートはとっくの昔にひらけていた。時代考証がおかしいとは言わせぬ。史記大宛列伝をよく読めば分かることだし、近年は仏教についても、このルートから長江沿いに伝わっていたことが知られている。ビルマから険しい山脈と深い密林を越えると、大河と大平原がひらけていることぐらい、蜀や呉の物識りには周知のことであった。
 魏や呉に対して蜀が劣勢であることは、火を見るよりも明らかだ。東方に活路はない。しかし四川に逼塞していても将来はない。
 南進、である。道は険しい。しかしそれが突破できない孔明ではないはずだ。援蒋ルートもインパール作戦も、諸葛孔明が先鞭をつけるのだ。
 インドは暑いぞ、孔明。その服装では相当無理がある。ここで、かつて趙の国で胡服騎射をめぐってくりひろげられたような、服装をめぐる大論戦がおこるのであった。あいにく史記世家のようにこれを伝える文献が残っていないのが残念だ。
 ところで、四川から出て新天地をひらくというなら、西方、というのはどうだろう。チベット方面だ。
 これについては、ひとつの伝説がなにかを語っているかもしれない。こんな話である。劉備玄徳があるとき単身車に馬を二頭つなぎ、西に向かった。馬の名はハヤタとハヤト。風のように走り、やがて崑崙山にいたった。玄徳はそこで西王母に出会い、彼女の歌に合わせて舞った。成都に帰ってからしばらくの間、玄徳はものも言わず魂の抜けたようなありさまだったという。この話は列子に残されている。

諸葛孔明南蛮征伐

2017年09月16日 | 日記
 諸葛孔明はなぜ南蛮征伐を企てたのだろう。一見すると無名の師だが、孔明ともあろう者が、戦争のための戦争をするはずもない。あれだけの大規模な遠征であった以上、それ相応の目的があったにちがいない。
 魏をたたきつぶすために、南方に領土を広げる必要があるのか。南方によほど欲しいものがあったのか。
 蜀では入手できない資源が南方にはあったのか。金属か何かの鉱産資源か。人的資源、と言えば聞こえはよいがつまり奴隷がほしかったのか。南方でしか入手できないもので、軍事的に重要な物資とは?
 それは、ゴムにちがいない。
 マレー半島では英国人がゴムノキのプランテーションを経営し、世界の天然ゴムの大半を産出していたのである。孔明の眼力が、雲南やらビルマやらまでしかおよばないと思うなら、素人考えもはなはだしいというものだ。
 ゴムがなぜそれほど必要なのかと不思議に思うだろうか。どうしてどうして、これが、蜀の劣勢をいっぺんにひっくり返すほどの威力を発揮するのだ。
 空気を入れたゴムタイヤがどれほど快適なものか、それ以外を知らない現代人にはピンとこないかもしない。しかし三国時代の支那では、ゴムタイヤを用いれば、車に乗った人間ばかりか、車を牽く牛馬だって天にのぼったような心地がしたものである。荷駄が軽い!輜重革命である。戦車が快速!車戦は圧勝だ。
 車だけではない。歩卒にはゴム底の履物を与えよう。南方のロームシャたち、リキシャマンたちが、東の島国で発明されたという地下足袋なるものを履いているぞ。これを取り入れようではないか、丞相。行軍の足取りの軽さと言ったらもう。意気上がる歩卒たち。
 天幕もゴム引きにする。軽くて雨に強い。居住性抜群である。野営も楽しくなってしまう。
 ゴムには別方面の用途もある。若い兵隊がぎっしり詰まった駐屯地の近郊には、遊郭が付きものだ。花柳病が心配ではないか。そこで、ゴム。諸葛孔明という人は、そういうことに特に目配りができる人だった。これで安心。意気上がる蜀軍。…「戦争」と「ゴム」で、そっち方面の連想はないだろうとお思いか。ところが、時代くだって、大日本帝国がマレー半島を占領した時には、豪放磊落を気取る陸軍将校たちの間で「これでサックも使い放題じゃ、がっはっは」というのが流行りの文句になっていたのである。
 というわけで、ゴム園の支配ひいてはゴム製品の独占を目的に、諸葛孔明は南方に軍隊を進めたのであった。急げ孔明。早くしないと呉の水軍が、海からマレーを制するぞ。