きみの靴の中の砂

いずれもまた等しく酔狂な人達





 かつて、植草甚一さんが『ユリイカ』のインタヴュー(孤島へ行くとしたら本は何をもっていきますか)に答え、「そのとき吉田健一全集三十冊が出つくしていたら、それにしようかと思うでしょうが、結局は何でもいいわけで、さしあたり今なら...」なんて答えていたのを覚えている。

 そもそも吉田健一は嫌いなわけじゃないし、むしろ、そこで言及されている吉田健一全集全三十巻は、ぼくの本棚にも並んでいて、結構小まめに引っ張り出しては拾い読みしている。だけど今迄、それらを孤島へ持って行こうなんて思ったことはまったくない。理由は恐らく、もっと面白い本が他にあるから、あたりのことだろう。でも、それらを通読しつつ、歳を重ねてみると考え方に変化が生じた。植草さんの言っていることが飲み込めるようになってきたのだ。これは、いつだか辞任した農水相の捨て台詞同様「説明しても、わからない人にはわからない」というか、ぼく自身が、まだ巧く説明できる段階にないのかもしれない。

 さて、冒頭の写真 ----- 2006年10月号のこの一冊は、特集『吉田健一「常識」のダンディズム』という、わけのわからない特集だが、わたしが『孤島へ行くとしたら本は何を...』と聞かれたら、今ならこの『ユリイカ』の一冊だろう。全集を精通した者にとっては、全集そのものより、こちらの方が自由な思惟を導き出してくれそうな気がするから。

 この特集 ----- 特集された本人、関わった編集者、執筆者、読者は、いずれもまた等しく酔狂な人達であった。

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 吉田は、幼少時は父の赴任先のロンドンで英語を日常語としていた。日本に定住するようになってからも難しい話は英語で考え、それを日本語に置き換えて話すという苦役を強いられたという。漱石や荷風が日本人として外遊の経験をもとに近代日本を批評したのと違い、吉田は外見は日本人でありながら、批評眼の根底にある、英国人気質と日本の現実とのジレンマに陥りながら、『心情的』には、遂に無国籍の生涯を送ったように理解している。そこが他に代えがたい彼のなによりもの魅力で、それを納得するまでに我々凡人は、優に半世紀近くを費やさずには納まらなかったのである。




Declan Galbraith / Where Did Our Love Go


 

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