きみの靴の中の砂

手本




 詩人の松下育男さんの一昨日のブログに興味ある事が書いてあった。タイトルは『脇道ばかり』。一部だけ抜粋するわけにはいかない文章なので、丸ごと引用すると....、

 当たり前のことだけど、一度書いたものを、再び書くことはできない。処女詩集が優れて見えるのは、だから当然だと思う。二冊目、三冊目と、どんどん輝きが失われてゆくのは、同じ思いを表現するのに、同じ道をたどれないから。って、ちょっと脇道にそれるだけなんだけどね。だから二冊目、三冊目は、草深い脇道ばかり。四冊目からは、見渡すばかりに草ぼうぼう。才能のある人は稀に、いつまでも輝いているように、一見みえることはあるけど、内実はそれほどに、違いはない。だったら処女詩集を出せば、それでもう、いいじゃないかと思う。まったくそう、思う。でも処女詩集を出しても、悲しいかな人生は終わるわけではないから、まだまだ続くわけだから、始めたものはニワカにはやめられない。ほかにやることも見あたらない。だから書き続けてしまうわけだけど、言ってみれば二冊目からは、とっかえひっかえの暇つぶし。だれもがみんなそうなんだけど、荒川さんの詩集を読んでいると、そこのところを隠さずに、アケスケに表しているから、ちょっと驚く。『空中のグミ』(グミは漢字なんだけど、朝の通勤電車の中で、auの携帯では、その漢字が見つからない)って詩集なんか、サスガという工夫がそこここに見えて、荒川さんの知識と、詩の技術が遺憾なく発揮されているんだけど、それでもやっぱり、というか、頑張っている姿が見える分、詩集を出すことの心の分岐点って、なんだろうって、思わずにいられなくなる。ことさら詩集を出すことに、価値を見いだすものではないけど、それでも詩集を出そうと決める瞬間って、オゴソカな気持ちになる。それが見渡すかぎり、草ぼうぼうの道であったと、してもね。

 松下さんは、このブログを殆ど通勤の電車の中で携帯を使って書き、ポスティングするようだ。そういう特殊な時間と場所で執筆しても、そこは詩人の書く文章 ---- 気取らず、平易な表現にも関わらず、端的で濃い内容のスタイルに目をひかれる。その上、毎日詩の事ばかり考えている姿勢も文体同様、手本にしたい。


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"Key Largo" Bertie Higgins


FINIS
 

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