小千谷から(Ojiya kara)

新潟県中越大震災の、とある被災者からのメッセージ
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自助 共助 公助

2005年10月26日 00時48分47秒 | 新潟県中越大震災・地震
一年前の自分と今の自分を比べてひとつだけお利口になったことがある。
それは「震災時に行政を頼ることはできない」ということがわかったことだ。
あの頃の私は「市民の私たちが困ってるんだから市役所がなんとかしてくれる」と思いこんでいた。
市の職員もみな被災者。大変なのはよくわかる。
でも、市でまわらないのなら県に国に自衛隊に「困ってます」って訴え続けてくれると信じていた。
でもそうじゃなかった。
そんな簡単なことじゃなかった。

なぜそこまで公助にこだわったのか。
それは私が小千谷の中でもコミュニティの希薄な地域に住んでいることと、まわりに頼れる親きょうだい親戚ってーのが全くいないから。
近くの親戚やきょうだいと連絡をとりあっている人たちのことがうらやましくてしょうがなかった。
どこの人も自分ちのことだけで精一杯。
遠くからポンと嫁にきた私。ひとりぼっち。
夫の親戚も小千谷じゃない。
電話は通じない。ラジオも欲しい情報は流していない。
となると誰と助け合う?っていう話。
そこで隣人がいちばん頼れるということを痛感する。
私と同じように遠くからここへポンと嫁にきた奥さんとかね。
極限状態で道路情報を共有しあい、どこでガソリンが買えたとか誰誰はどこに避難したよ、とかこれから先どこで避難するのか、などの情報を交換しあった。
震災直後に寄り合って助け合うことができるのは間違いなく遠くの親戚より近くの他人なのだ。

違う地域からポンと引っ越してきたお年寄り夫婦なども災害弱者だ。
とり残され感で孤独になるのは仮設住宅に限ったことではない。

あのとき知らない人同士で携帯の番号を交換しあって助け合った。
十日町が通れたらメールしますから!(実際は通じなかったけれど)
山でなにか困ったことあったら電話して!すぐに助けに行くから!
ライフラインが通ったら教えるから。
これ食べて、と冷凍していたお肉や魚やペットボトルに入っている水を置いていく。
ガスコンロもフライパンも「よかったら使ってね」とどこにも逃げずに車中泊をするという人のために置いてきた。

みんなそれぞれに避難場所を選択し、私たちは散り散りばらばらになった。

あのとき助け合った人たちともまた以前と同じようにドライな関係に戻った。
そしてまた雪が降れば助け合う。
ここぞというときに人間は捨てたもんじゃないんだよ、と都会暮らしで震災におびえているあなたに伝えたい。

そして行政に言いたいことは、
できないことはできないとハッキリ言ってほしい、ということ。
大体のメドがついたら市民に知らせてほしい、ということだ。