このように、『バカボン』人気の再熱により、再び児童漫画の世界に舞い戻って来た赤塚だったが、実は、その少し前に、そうした原点回帰の試金石となった位置付けの作品があったことも追記しておきたい。
「こどもの光」87年10月号に、単発で掲載された『おむすびくん』である。
往年の名キャラクター・たまねぎたまちゃんの系譜を受け継ぐ、おむすび型ファンシーキャラのおむすびくんを主人公としたこの短編は、日常空間に浮かび上がった非日常の寓話的世界を表出しつつも、現実を大きく逸脱しない、子供達の等身大の生活に依拠したシチュエーションコメディーとして描かれており、赤塚が想い描く子供同士の理想的な友情の在り方が、そのテーゼの中に然り気無く盛り込まれている。
『おむすびくん』は、翌88年6月号、8月号別冊付録に続編が執筆されている点から察するに、「こどもの光」編集部が、本作のシリーズ化を意識していたであろうことは、充分考えられる。
だがこの時、テレビアニメとのタイアップで、「コミックボンボン」、「テレビマガジン」「月刊少年マガジン」「なかよし」といった講談社系列誌でのリバイバル連載が連続して立ち上がり、それまで不活発であった赤塚のレギュラー執筆が、再度タイトを極めるようになっていた。
そんな嬉しい悲鳴が、『おむすびくん』がシリーズ化されなかった遠因にあったのかも知れない。
ドラマそのものが重層性に欠けるきらいがあるため、傑作、佳作の部類には入ることのない、まさに埋もれた一作だが、ギャグ漫画家としての顔とはまた違った、童話作家としての赤塚のもう一つの側面をクリアに浮かび上がらせた貴重なタイトルだけに、連載の運びに至らなかったことが、忍びなくもある。
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91年、赤塚アニメのリバイバルラッシュは終焉を迎え、『バカボン』&『おそ松』ファミリー総出演のスペシャル・アニメ『バカボン おそ松のカレーをたずねて三千里』(10月19日、10月26日)の放送を最後に、一旦テレビメディアより撤退するが、リメイク版『へんな子ちゃん』、『赤塚不二夫のギャグ屋』と、週刊誌での連載も二本同時にスタートするなど、その後も仕事量は途切れることなく、レギュラー、イレギュラーを合わせ、月産平均枚数七十枚をキープしていた。
しかし、赤塚が現役漫画家のイメージを保っていたのは、質量ともにこの時代までだった。
テレビアニメが終了すれば、タイアップで始まったリバイバル連載の方も当然打ち切られる。
すると、新たな仕事への意欲は失われ、暇を持て余すことにより、酒と向き合う時間だけが悪戯に増えてゆくという最悪の事態へと陥るようになった。
この頃から既に、朝起床してから夜就寝するまで、のべつまくなしに酒を飲み、執筆に対する取り組みが段々投げ遣りになってきたという。
アルコール依存において、最も恐ろしいことは、脳の萎縮によって、知能低下や感受性の鈍化を著しくもたらすことだ。
知能が低下すれば、当然正常な判断力が喪失し、その結果、創作活動にも多大な悪影響を及ぼす。
取り分け、感受性の鈍化は、先鋭的センスだけが創作のナビゲーターとなる、アバンギャルド型のクリエーターにとって、悲劇以外の何物でもない。
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1992年、掲載誌を「デラックスボンボン」に移した『平成天才バカボン』の連載が終了。そして、長年赤塚のアイデアブレーン、時にはゴーストライターとして苦楽を共にして来た長谷邦夫との訣別が訪れ、漫画家・赤塚不二夫にとって一つの時代が終りを告げる。
長谷は、過度の飲酒により精神が不安定となり、創作に支障をきたすようになった赤塚に見切りを付け、自らが絶交を決意したというが、赤塚と近しい業界関係者や両者をよく知る人物らに話を伺うと、長谷の性格上の問題が原因で、当時、フジオ・プロの代表取締役を務めていた眞知子夫人や、その番頭役であった元虫プロ常務・桑田裕専務との間で確執が生じ、そのことにより、フジオ・プロを退社せざるを得なかったと、双方が語る事情はかなり隔たっている。
また、長谷は自らを引き留めてくれなかった赤塚に、全てを転嫁し、澱んだ感情を赤塚にだけぶつけるようになったとも言われている。
筆者には、どちらの言い分が真実なのか、当然ながら知る由もない。
ただ、多くの見巧者が指摘しているように、長谷は、漫画家として赤塚に匹敵する天才的な才能を持ち合わせてはいなかった。
したがって、藤子不二雄のコンビ解消とは次元が違うと、侮蔑を込めて言われることもある。
しかし、自らを赤塚不二夫依存症と自嘲的に笑い、長年赤塚の女房役を務め、陰に日向に支えてきた長谷との別れは、赤塚漫画をこよなく愛する一人として胸を抉られるようで辛い。
それが何処まで反映されていたのかはともかく、長谷の持てる限りの能力も、赤塚漫画の血と肉になったことは、紛れもない真実だからだ。
長谷が赤塚との出会いから袂を分つまでを自伝的に綴った『漫画に愛を叫んだ男たち』という著作がある。
記憶違いによる事実誤認や悪意に基づく誹謗中傷が多いため、資料性、内容性ともに、正確性、客観性に幾分欠けるきらいのある回顧録だが、この本の終盤で、次のような一文が綴られており、筆者はここを読む都度、無性に涙腺が緩んでくる。
「お互い(名和註・赤塚と長谷)の想いや絆は、これまでフジオ・プロを巣立っていってしまった漫画家たちより、強く太いものであると信じている。一方的にぼくがそれを太いと決めつけて、幻想に過ぎないロープにぶら下がっているのだろうか。」
(『漫画に愛を叫んだ男たち』清流出版、04年)
当人達だけにしかわかり得ない事情もあっただろう。
その後、赤塚と長谷は絶縁したまま、今生の再会を果たすことはなかったという。
その他の漫画家の方々に於いては、長谷氏に全くノータッチ。
河口仁氏の絵に於いて、長谷氏を登場させなくても別段問題はなかったが、個人的に世話になった所があるのかも知れません。
コメントありがとうございます。
長谷氏の場合、人間性に色々問題があったとのことで、その辺りも回顧の対象として避けたかった要因だったのかも知れません。
漫画家仲間や以前取材させて頂いた方々からも、あんまり芳しいお話は伺えませんでした。
特に、袂を分つことになった赤塚不二夫への忖度とか、そういった問題ではないとは思いますね。
長谷氏の作品は、赤塚代筆も含め、個人的に面白いと思えた作品は皆無に近いのですが、『桜三月散歩道』の歌詞だけに関しては、心より素晴らしいとリスペクトしております。