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~東京大衆歌謡楽団の活動や、楽しいエピソードなどを紹介するブログです~

2020年3月2日 「十九の春 」を、訂正します。

2020年03月05日 | 演奏・あの歌、この歌

 東京大衆歌謡楽団さんの「十九の春」の演奏を、YouTubeで聞いていて、あれっと思って、自ら編集している演奏リストを見て、間違いに気づきました。
 演奏リストでは、
  「十九の春」私があなたに ほれたのは ちょうど 十九の春でした(田端 義夫)
 と表示していましたが、楽団さんが演奏していたのは、
  十九の春」ながす涙も 輝きみちし あわれ十九の春よ春(ミス・コロムビア)
  (1933年・昭和8年)
 でした。
 お詫びして、次の通り訂正させて頂きます。
「十九の春」1933年(昭和8年)歌手:ミス・コロムビア 作詞:西條八十  作曲:江口 夜詩
 ながす涙も 輝きみちし あわれ十九の春よ春
 すみれつみつつ 散る白露に 泣きし十九の春よ春
 君はやさしく 涙は甘く 唄をうたえば花散るぬ

 乙女振袖 ゆく白雲も われを眺めて流れゆく
 我世さみしと 嘆くな小鳥 春はまたくる花も咲く
 愛の光に 夜はほのぼのと 明けて十九の春よ春
  覆面歌手「ミス・コロムビア」としてデビュー。
昭和8年、松竹映画「十九の春」で、同名の主題歌が、ミス・コロムビアの歌で発売されると大ヒットしました。その後もヒットを飛ばしていました。
昭和11年に病気のため、療養を余儀なくされました。翌、昭和12年には復帰を果たしました。
昭和12年7月、女性歌手が総出演する、NHKの特別番組に出演中、番組が中断され、中国で「盧溝橋事件勃発」の臨時ニュースが流されました。それから軍事色が強まると、内務省からのカタカナ名前の芸名を禁じる指令の対象となり、以降は「松原 操」として活躍しました。
昭和13年、松竹映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」が、霧島昇とミス・コロムビアで歌われ、大ヒットしました。それ以降、霧島昇さんとの共演が多くなり、親密さを増して行きました。
昭和14年、人気歌手同士の結婚が成立しました。
昭和15年、結婚後も「目ン無い千鳥」などのヒットを続けました。
昭和23年、「三百六十五夜」を、夫・霧島昇さんとレコーディングを行い、これを最後に完全引退しました。
昭和56年、霧島昇さんの歌手生活45周年を記念して発売された「妻よ」に、松原操として台詞を入れて、これが30数年ぶりのレコーディングになりました。
昭和59年、4月、霧島昇さんが、69歳で逝去。
昭和59年、6月、霧島昇さんの後を追うように、松原操さんも、この世を去りました。73歳でした。
(出典:ウィキペディア)
 73歳と云えば、ブログ編集者の私と、同い年。身につまされる思いがします。東京大衆歌謡楽団さんの演奏で、様々な方々の人生の一端を知る事ができます。



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