今日ご紹介するのは「ロシア人墓地」です。

日露戦争のとき、松山には全国で初めて捕虜収容所が設置され、多いときには4千名を超える捕虜がいました。
捕虜収容所というと暗いイメージですが、当時の日本政府は日本が未開国ではないことを世界に知ってもらいたいという理由もあり、国際法を遵守し捕虜を優遇したそうです。
松山では、比較的自由な生活が許されており、道後温泉入浴、三津浜や五色浜での海水浴などの楽しみが与えられ、その一環として道後公園で「兵士を乗り手に自転車競技会をやろう」という案が出て、明治38年8月には多くの来賓とロシア人兵士、そして市民の応援を受けて道後公園でにぎやかに「競争会」が開催されました。

傷病や松山へ来る途中の船内で亡くなった者は丁寧に埋葬され、ここロシア人墓地には98名の墓があります。
そしてこの墓地は、地元の老人会や婦人会、勝山中学校生徒会が供養と清掃活動を続け保存に努めてきました。

この尊い行為に感謝するため、捕虜の精神的支柱であったボイスマン大佐の胸像がロシアの有志から寄贈されました。

地元ではこれを「日露友好のかけ橋」として受け入れ、多くの方々の援助でロシア人墓地に建立されました。
(Shiba)

日露戦争のとき、松山には全国で初めて捕虜収容所が設置され、多いときには4千名を超える捕虜がいました。
捕虜収容所というと暗いイメージですが、当時の日本政府は日本が未開国ではないことを世界に知ってもらいたいという理由もあり、国際法を遵守し捕虜を優遇したそうです。
松山では、比較的自由な生活が許されており、道後温泉入浴、三津浜や五色浜での海水浴などの楽しみが与えられ、その一環として道後公園で「兵士を乗り手に自転車競技会をやろう」という案が出て、明治38年8月には多くの来賓とロシア人兵士、そして市民の応援を受けて道後公園でにぎやかに「競争会」が開催されました。

傷病や松山へ来る途中の船内で亡くなった者は丁寧に埋葬され、ここロシア人墓地には98名の墓があります。
そしてこの墓地は、地元の老人会や婦人会、勝山中学校生徒会が供養と清掃活動を続け保存に努めてきました。

この尊い行為に感謝するため、捕虜の精神的支柱であったボイスマン大佐の胸像がロシアの有志から寄贈されました。

地元ではこれを「日露友好のかけ橋」として受け入れ、多くの方々の援助でロシア人墓地に建立されました。
(Shiba)