深は僅か10歳の時に主家・広瀬家の跡継ぎである6歳年上の秋信(あきのぶ)に凌辱され、それ以降、夜昼問わず伽を秋信に強要される内に周囲に知れますが誰も深を救おうとはしませんでした。それどころか、広瀬夫妻は子を孕むことのない同性ならば図々しく妾の座を要求することもあるまい、そして、思春期の秋信が性の捌け口を求めるのは仕方のないことだと深を秋信の性の玩具として与え、深の両親も我が身可愛さに深を守るどころか差し出してしまいます。幾ら、主人の命令は絶対であり使用人は逆らうことを許されないのが当然の時代でも酷すぎますね。
しかも、我が子を守るべき両親が自分たちと下の子供たち(深の弟妹)が生きていけなくなるからと、同じ我が子である深を人身御供に差し出した挙げ句に母は良心を持っていたらしく深を案じて他界しますが、父親の方は次期当主たる秋信を誑かす淫売だと深を侮蔑し見捨ててしまいます。自分たちが人身御供にしたくせに何という身勝手すぎる、醜い輩か!人の心を深の父親は持っていなかったのです。
BlogPet 今日のテーマ ファーストフード!「ファーストフードと聞いて今一番最初に思い出したのは?」
北の湖理事長“寄り切られて”両成敗(日刊スポーツ) - goo ニュース
誰が見ても朝青龍が悪いのに、何故、北の湖陣営は奴を庇うのか?睨み合いの失態を演じた白鵬と朝青龍が睨み合いの失態を演じた今回も白鵬の義父である親方に注意して白鵬を悪者扱いし、朝青龍には注意しないと言い張り度重なる朝青龍の愚挙を逆に褒めるなんて、これで「国技」と言えるのだろうか?
《スポーツ評論家の玉木正之氏の話》“いつも勝負がついてから駄目押しする朝青龍は見苦しい。対抗してにらみ返した白鵬も同罪で、どちらが良い悪いではなく、両横綱の品格が問われている。横綱審議会の進言は当然のことで、それを言えない相撲協会は情けない。相撲はスポーツ化しているが、本来は神道に基づき五穀豊穣(ほうじょう)を祈る神事だ。朝青龍に肩入れした北の湖理事長の感覚の鈍さには驚かせられる。理事長としてふさわしくないのではないか”という、北の湖に対する当然の意見が噴出しています。
BlogPet 今日のテーマ 食堂車に乗ったことありますか?「今日は食堂車の日だそうです。もうほとんど見かけることはありませんが、あなたは食堂車に乗ったことはありますか?」
ロバートに半ば脅されて(自覚を促すためのお芝居)漸くアレクに対する恋心を自覚し己の想いを認めて受け入れたジェイルは、自分の罪を悔い改めてアレクと今度こそ共に幸福に生きていきたいと願いますが、ジェイルを愛してはいても身も心も捧げたジェイルは自分を道具として利用しただけだと、藍家の牢獄で自分に献身的に尽くし激しい情熱を傾けて恋い焦がれて求めてくれた姿は…激しい情熱で自分を求め、深く慈しんでくれた心はアレクを篭絡するための虚偽でしかなかったと知ってしまい、ジェイルを信じられなくなっていたアレクはなかなかジェイルが自分を愛してくれているとは信じられませんでした。
甲斐甲斐しく世話を焼き愛していると必死に掻き口説いて漸くジェイルの想いはアレクに信じて貰えて良かったですね。しかし、おまけの「恋する誕生日」は最初はラブラブだなぁと思ったのも束の間、“お前、本当にアレクを愛しているのか?道具扱いして楽しんでいるだけだろうが。”と突っ込みたくなる辱めのオチになっていたのは残念でした。プラチナ文庫・あさひ木葉先生の『虜は愛に身を焦がす』のオマケの「はじめて」みたいに夫婦(めおと)の営みを始める求婚と2人だけのベッドの中の結婚式&真の意味での初夜をきちんと描いて欲しかったです。
それにしても、長衫(チョンサン)とか香港人(って何?)らしい装いとかをしていると書かれていますが、チャイナらしさが皆無です。敢えて、舞台を香港に設定する必要があったのかしら。
魔窟に堕ちたアレクは春をひさぐ日々を過ごしていました。しかし、ジェイルの激しく情熱的な恋の迸りを真実だと信じて囚われ、恋の奴隷に貶められた我が身を気づかずに一時の幸福に酔いしれたアレクを絶望のどん底に叩き込むための悪逆な罠でしかなくても、アレクの生涯ただ一度の恋になるかもしれなかったジェイルへの想いはアレクだけのものであり、ジェイルにもエドモントにも、いいえ、誰にも理解できる筈もないし、されたくもないでしょう。アレク自身にしかわからないのですから。
欠片も罪のないアレクが魔窟に堕ちた元凶のジェイルは意気揚々とかねてからの計画通りに猗グループ買収劇を成功させ新会長として大々的にメディアに取り上げられ晴れ舞台にのぼり、時折、アレクのことが心を痛めてもその“痛み”の正体から目を背けて“我が世の春”を謳歌していたなんて最低ですね。自分もアレクに恋していることを、それに気づいていたのは義兄弟の契りを交わした義兄であり黒社会(香港マフィア)のロバート・費(フェイ)だけでしたが、さり気なくアレクが男娼になっていたことを知らせたりするなんて、いい兄貴ですね。
しかし、油断は禁物です。ロバートはたとえボスに背いても義弟であるジェイルとその最愛の伴侶アレクの幸福を守ってくれるでしょう。しかし、ロバートのボスがジェイルの手腕を利用しようと企んだり、ボスがアレクを自分のスケにしようと画策したり売春させない保証は何処にもないのです!ましてや、兄弟分や兄貴分、そして舎弟たちがアレクに欲望を抱かないとどうして言えるでしょうか。
贅沢に囲まれても拉致監禁を歓ぶ人間はいません。アレク自身もジェイルも幽閉されてからの12年間、アレクは何もしなかった、逃げるという形でも闘おうとはしなかったと蔑んでいますが、アレクは幾度となく脱獄を図っているではありませんか!自分を卑下するようなことをアレクに言わせないでよ!!12年間も“籠の鳥”だったのも娼婦に堕ちたのもアレクに咎は一つとしてない。脱獄して日本に還ろうとしたけれど失敗しては連れ戻され監視は厳しくなるばかりで日倉の両親を殺すぞと脅迫され、唯一の心の支えであるアレクの養父母は既に惨殺されていたことを隠蔽されて自由を諦めざるを得なくなり《藍家の巫女》として託宣を告げる日々を強要されていたのに。何故、非難されなければいけないの?
そんな或る日。新しい世話役兼監視役として近づいたジェイルの腹黒い思惑も知らずに一族とは違って思い遣りのある優しい男で、そして、自分と同じように愛してくれるとアレクは騙されてしまった。一緒に逃げようと駆け落ちした先の安宿でも結ばれて漸くアレクは幸福に…と思ったら、ジェイルは《本物の日倉朋之》であると明かして醜い本性を現し“お前は藍家と猗家を滅ぼすための道具だ。騙されるお前が愚かなのさ!その淫乱な体を群がる男どもにくれてやれば立派に娼婦として食っていけるぞ!!むしゃぶりつく男どもを名器で弄べば稀代の毒婦にさえなれるだろうよ”と憎悪と侮蔑を叩きつけて猗家の次期当主でありアレクを愛玩動物として嘗め尽くそうとしていたエドモント・猗に居場所を密告し、そいつに引き渡してしまった。ジェイルが教えてやらなければエドモントはアレクが何処にいるのかさえ、わかる筈もないですよね。
ジェイルはただ既定路線だったエドモントの愛玩奴隷に囲われるだけだと軽く考えていたようですが、当のエドモントは“他人のお古なんぞいるか!”と殴る蹴るの暴行を加え、アレクはエドモントの手下どもに輪姦されてしまった。しかし、エドモントの手下どもは、ただ、フェラチオを強要し秘孔の抽挿を繰り返すだけの欲望を叩きつけて貪るのではなく、乳首を捏ねたり男根を嬲り睾丸を揉みしだいたり擦り合わせたりして、アレク自身にも性の快楽を湧き上がらせ、そんな自分を嫌悪するのも含めて感じたアレクの“名器”を味わったのです。阿呆のエドモントの手下にしては頭の回転が良いような…欲望を満たすのにどうすれば良いか、本能が働いた結果に過ぎないのかはよくわからないけれど。
B-PRINCE文庫・いとう由貴&絵/杉原チャコ(イラストレーター失格の下手くそ)『月に濡れる蜜約』の主人公カップルの片割れ、“日倉朋之”としての13年間がいまいちハッキリしない主人公、“アレッサンドラちゃん”と呼びたい《深窓の姫君》アレクシス・藍<藍英芳>は後の生涯の伴侶となる「ジェイル・真<真践蠡>の罠に嵌められ愛玩動物にしようとしていたエドモント・猗に“場末の売春宿”に売られて男娼になりますが、体を壊しても医者に診て貰えずにのたれ死んでいたかもしれない」という設定が弱いように感じられます。どうにも“場末の売春宿”にしては自由に外出できたりして待遇が良いような…監視役の売春宿のボスに雇われた用心棒とか、そういう奴らがいそうなのに影も形もありませんし、体調が悪くても客を取らされたと書いてあっても“本当にそうか?”と突っ込みたいくらいに実体がないようなので。売られてきた直後に洗脳セックスというか、性奴に仕立てあげるために“売春宿の用心棒たちが味見をし、複数の調教係が男娼の技巧や媚態を仕込む調教を兼ねた凌辱をした”とかがあれば、もう少し説得力があったように思います。
但し、アレクはロスト・バージンと輪姦と数知れない男の欲望に奉仕する性奴となっても、巫女としての力を失ってはいませんでした。その証拠にエドモントが逆恨みから爆弾でジェイルを殺そうとしたのをメモ一枚を見ただけで漠然とした予感を心を研ぎ澄まして永生銀行の通用口という心に「通用口」という言葉が浮かびジェイルを狙った爆弾からジェイルと実行犯にされかけた売春宿で自分を買った客を救い、爆殺が失敗して今度は自らの手でジェイルを殺そうと拳銃を手に現われたエドモントの凶弾から愛するジェイルの盾となって守ったのですから。古代シュメールの聖娼のように「処女ではないことは…性の営み(性の道具としての売春であっても)をすることは、巫女の力の有無とは無関係」ではないのでしょうか?私にはアレクが聖娼に見えます。誰のものでもないのが聖娼ですが、アレクは嘘偽りのない愛の契りを交わしたことにより、ジェイルのためだけにしか力が発動しない彼の女神になったのだと…。
赤児のすり替え事件(片方の母親による)により“2人の日倉朋之”である主人公カップルのアレク&ジェイルの2人ですが、ジェイルは老けていますね。10代の乙女のような老けていない方の25歳は1人は腰よりも長くしなやかな黒絹の髪と奥底に深い藍色が沈んでいる蒼みがかった夜の泉のような黒い瞳と処女雪のような白い肌のアレク、オールバックの短い黒髪と深く暗い森の瞳と浅黒い体躯の老けたジェイル。赤児の時にすり替えられたのですから同じ誕生日で同い年でしょうが、5~7歳くらい年齢差をつけた方が良かったのでは?ジェイルは少し老けすぎですよ。幾ら、同い年でも身長や体格、その他もろもろに個人差があるとはいえ。ところで、本来ならば、復讐の対象になり得ぬ筈のアレクの心を奪い、その身を犯して純潔を穢して捨てたのは“坊主憎けりゃ袈裟まで憎し”だけでないのは明白です。
13年目にお互いがすり替えられていた事実が発覚するまで、日本でアレクはごく普通の家庭で育ちましたが、ジェイルは「あの」藍家の牢獄で巫女としての力のないことに白い目を向けられながらも“傲慢で人を人とも思わぬ巫女”そのものだったがゆえに、あと数年もすればエディスも感情もなく他人を塵芥のように見下し何の感慨も抱かぬ人形に成り果てていた筈だったので人間らしい…と言うよりも感情そのものがなく、初めて芽生えた感情は自分自身も知らなかった素性が露見して自分を殺そうとした藍家と猗家に対する憎悪だった。先々代の巫女であったアレクの実母を含めた一部を除いて、藍家で生を受けて飼育された者が辿って当然の人形ゆえにジェイルは愛を知らなかったのでしょう。
ジェイルはアレクの身も心も弄び踏み躙った挙げ句に安宿でアレクを捨てました。しかし、アレクの後継として育成されていた8歳のエディス・藍をアメリカの在る夫婦の養女とすることで《藍家の巫女》の1人を排除したのは、殺してしまったら猗家や藍家と同じになってしまうからだと言いましたが、巫女という名の道具を骨の髄までしゃぶり尽くして悪用する奴らと同じようにアレクをロスト・バージン(処女喪失)により巫女の力を喪失させ、復讐の道具に利用したことでジェイルは自分が復讐する敵と“同じ穴の狢”でした。