2017/10/24
「畑の被害状況・大和川の歴史」 晴耕雨読
本日、畑の被害状況を見るために、畑へ行ってきた。概ね大きな被害は免れていた。
(季節外れの)トマトが3株ほど、支柱を倒されていた。トマトは「そろそろ終了だな」と思っていたので、さほど気にならない被害であった。
幼い苗の状態だった白菜・キャベツ・ブロッコリー。ブロッコリーの苗が数株、強風でぐらついたらしく、吹き飛ばされていた。補助的に残しておいた苗を植えなおすことにした。
夜間、畑全体が冷たい強風に長時間さらされたようで、ナスの一部は枯れていた。さらに、秋じゃがの一部も萎れてしまって、元気がなくなっていた。さて、枯れてしまうのであろうか…? ジャガイモは寒風に弱いから。
全体的には、以上のような被害状況だったので、一安心したしだいです。
今朝になり、大和川に合流する(JR浅香駅近くの)狭間川の水位は普段の高さに戻っていました。水害地域の家々も落ち着きを取り戻し、普段の生活にもどっていた。大和川もいつもの水位に戻っていました。
ところで、大和川について、その歴史を振り返ってみますと・・・。
現在の大和川(堺市と大阪市の境界になっている部分)は、江戸時代に掘られた「人工の川=運河」です。運河が完成したのは、1704年のことで、それ以前の(旧)大和川は東大阪市や八尾市方面にのみ、流れていました。大雨が降るたびに、水害が発生していましたので、現在の大和川(運河)を掘り、大阪湾の方向へ流れるように川筋を変えたわけです。江戸時代中期の大工事でした。 狭間川は歴史的にはたいへん古い川で、大阪湾・住吉方面に流れていた川でした。1704年以後は大和川ができましたので、狭間川の水はすべて大和川に流れ込むことになったのです。
大和川の支流になってしまったので、大和川(本流)の影響を大きく受けることになりました。今回の台風で、大和川支流の河川(数はすごく多い)のいくつかで、被害が出ました。
その一箇所が、浅香駅近辺でした。
大和川本流の水位が高くなり、流れが速くなると、支流の河川は合流地点でうまく流れません。その結果、支流の水位はどんどん上昇し、低い土地の下水は地上にあふれてきます。道路が川のようになりはじめ、水害を起こしたわけです。
浅香駅近辺の水害の原因は、1704年完成の新大和川(当時はそう呼ばれていた)と狭間川との「合流時の危険性」にあったようです。(鬼井江の分析ですが・・・あたっているかな?)
この地点が水害を起こしたのは、約50年ぶりだとのこと。また起こる可能性のある地点です。
江戸時代までは、堺の町のほぼ真ん中に国境がありました。大小路筋という一本の道が国境でした。この道よりも北側が「摂津の国」で、南側が「和泉の国」でした。江戸時代以前から「摂津の国」と「和泉の国」の両地域が「堺(=境)」という地名の語源となったようです。
ところが明治になり、摂津の国と和泉の国との境は(堺の街中から)「大和川」に変えられました。
その影響が、今日にも及んでいる。堺市地域は、すべて「泉州=和泉の国」になってしまいました。
大和川下流部には(初めからあった一つの)村が「新大和川建設」によって、分断されたところもできた。遠里小野(おりおの)村がその一つです。
【ここから続きです。】
資料によると、遠里小野村について、次のように記されている。
「もとは摂津国住吉郡遠里小野村のみであったが、明治初期に大和川以南 を和泉国大鳥郡遠里小野村として分離した。後者は現在の堺市堺区遠里小野町・・・」
要するに、大和川(新大和川・運河)が1704年に完成したことによって、遠里小野村は大和川より北側地域と南側地域に分かれた。江戸時代までは、どちらの地域も「摂津国」であったが、明治になり、大和川が国境になってしまった。
大和川以北が「摂津国」で、大和川以南が「和泉国」になった。さらに、国名が府県名に移行した。そして、「堺県」が誕生した。
堺県が誕生したとき、「和泉国」「河内国」「大和国」が合わさったのだから、堺県の範囲は無茶苦茶広かった。現在の奈良県全域は「堺県」に含まれたので、広い広い県であった。奈良の山奥にお住いの方々は「堺県庁(現在の堺東駅近くにあった)」へ行くときは、さぞや不便であったであろう。明治20年ごろ(?)だったか…、やっと「奈良県」が誕生したようだ。
現在、江戸時代の遠里小野村は、大阪市住吉区に「遠里小野1丁目~7丁目」と住所表記され、堺市堺区にも「遠里小野町1丁~4丁」と表記されている地域がある。ただし、大阪市は一般的な住居表記で、「1丁目・2丁目・・・」と「目」を入れて標示しているが、堺市は特別で、「目」は入れない。堺市は(近年合併した美原区は別だが)すべて町名の後、「1丁・2丁・3丁・・・」と「目」を入れない表記をしている。
理由は、江戸時代からの堺の街づくりに根拠・歴史があるから。(詳しくは、このブログに以前に書いたので、ここでは省略)
堺の人間は、「堺のことは堺が決める」という意識が歴史的に強い。大阪市や大阪府に干渉されることを嫌う。「自由自治都市・堺」のプライドゆえであろう。
話のまとめ具合が悪くなってしまいました・・・お許しを。
要するに、新大和川が掘られたことによって、河川の合流地点に危険性が生じたり、一つの村が分断されたり、国境が変更になったり・・・といろいろ悪影響が出てくることになった。その歴史をふまえて物事を考えることが大切だと思った次第です。
(季節外れの)トマトが3株ほど、支柱を倒されていた。トマトは「そろそろ終了だな」と思っていたので、さほど気にならない被害であった。
幼い苗の状態だった白菜・キャベツ・ブロッコリー。ブロッコリーの苗が数株、強風でぐらついたらしく、吹き飛ばされていた。補助的に残しておいた苗を植えなおすことにした。
夜間、畑全体が冷たい強風に長時間さらされたようで、ナスの一部は枯れていた。さらに、秋じゃがの一部も萎れてしまって、元気がなくなっていた。さて、枯れてしまうのであろうか…? ジャガイモは寒風に弱いから。
全体的には、以上のような被害状況だったので、一安心したしだいです。
今朝になり、大和川に合流する(JR浅香駅近くの)狭間川の水位は普段の高さに戻っていました。水害地域の家々も落ち着きを取り戻し、普段の生活にもどっていた。大和川もいつもの水位に戻っていました。
ところで、大和川について、その歴史を振り返ってみますと・・・。
現在の大和川(堺市と大阪市の境界になっている部分)は、江戸時代に掘られた「人工の川=運河」です。運河が完成したのは、1704年のことで、それ以前の(旧)大和川は東大阪市や八尾市方面にのみ、流れていました。大雨が降るたびに、水害が発生していましたので、現在の大和川(運河)を掘り、大阪湾の方向へ流れるように川筋を変えたわけです。江戸時代中期の大工事でした。 狭間川は歴史的にはたいへん古い川で、大阪湾・住吉方面に流れていた川でした。1704年以後は大和川ができましたので、狭間川の水はすべて大和川に流れ込むことになったのです。
大和川の支流になってしまったので、大和川(本流)の影響を大きく受けることになりました。今回の台風で、大和川支流の河川(数はすごく多い)のいくつかで、被害が出ました。
その一箇所が、浅香駅近辺でした。
大和川本流の水位が高くなり、流れが速くなると、支流の河川は合流地点でうまく流れません。その結果、支流の水位はどんどん上昇し、低い土地の下水は地上にあふれてきます。道路が川のようになりはじめ、水害を起こしたわけです。
浅香駅近辺の水害の原因は、1704年完成の新大和川(当時はそう呼ばれていた)と狭間川との「合流時の危険性」にあったようです。(鬼井江の分析ですが・・・あたっているかな?)
この地点が水害を起こしたのは、約50年ぶりだとのこと。また起こる可能性のある地点です。
江戸時代までは、堺の町のほぼ真ん中に国境がありました。大小路筋という一本の道が国境でした。この道よりも北側が「摂津の国」で、南側が「和泉の国」でした。江戸時代以前から「摂津の国」と「和泉の国」の両地域が「堺(=境)」という地名の語源となったようです。
ところが明治になり、摂津の国と和泉の国との境は(堺の街中から)「大和川」に変えられました。
その影響が、今日にも及んでいる。堺市地域は、すべて「泉州=和泉の国」になってしまいました。
大和川下流部には(初めからあった一つの)村が「新大和川建設」によって、分断されたところもできた。遠里小野(おりおの)村がその一つです。
【ここから続きです。】
資料によると、遠里小野村について、次のように記されている。
「もとは摂津国住吉郡遠里小野村のみであったが、明治初期に大和川以南 を和泉国大鳥郡遠里小野村として分離した。後者は現在の堺市堺区遠里小野町・・・」
要するに、大和川(新大和川・運河)が1704年に完成したことによって、遠里小野村は大和川より北側地域と南側地域に分かれた。江戸時代までは、どちらの地域も「摂津国」であったが、明治になり、大和川が国境になってしまった。
大和川以北が「摂津国」で、大和川以南が「和泉国」になった。さらに、国名が府県名に移行した。そして、「堺県」が誕生した。
堺県が誕生したとき、「和泉国」「河内国」「大和国」が合わさったのだから、堺県の範囲は無茶苦茶広かった。現在の奈良県全域は「堺県」に含まれたので、広い広い県であった。奈良の山奥にお住いの方々は「堺県庁(現在の堺東駅近くにあった)」へ行くときは、さぞや不便であったであろう。明治20年ごろ(?)だったか…、やっと「奈良県」が誕生したようだ。
現在、江戸時代の遠里小野村は、大阪市住吉区に「遠里小野1丁目~7丁目」と住所表記され、堺市堺区にも「遠里小野町1丁~4丁」と表記されている地域がある。ただし、大阪市は一般的な住居表記で、「1丁目・2丁目・・・」と「目」を入れて標示しているが、堺市は特別で、「目」は入れない。堺市は(近年合併した美原区は別だが)すべて町名の後、「1丁・2丁・3丁・・・」と「目」を入れない表記をしている。
理由は、江戸時代からの堺の街づくりに根拠・歴史があるから。(詳しくは、このブログに以前に書いたので、ここでは省略)
堺の人間は、「堺のことは堺が決める」という意識が歴史的に強い。大阪市や大阪府に干渉されることを嫌う。「自由自治都市・堺」のプライドゆえであろう。
話のまとめ具合が悪くなってしまいました・・・お許しを。
要するに、新大和川が掘られたことによって、河川の合流地点に危険性が生じたり、一つの村が分断されたり、国境が変更になったり・・・といろいろ悪影響が出てくることになった。その歴史をふまえて物事を考えることが大切だと思った次第です。
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