2014/7/12
「重要伝統的建造物群保存地区散策」 旅行記録
天草・島原方面への旅行から帰ってきてから、約3週間ほど過ぎた。
旅行中に考えたことは、「原城跡」(天草四郎終焉の地)のことを中心に、「天草・島原の乱」に触れて記録した。(6月20日と23日のブログ内容)
それらの記録に加えて、すばらしい町並みについても記録しておきたい。
今回の旅行で訪問した「重要伝統的建造物群保存地区(重伝建保存地区)」は、長崎県雲仙市と佐賀県嬉野市・佐賀県有田町の3箇所である。重伝建保存地区としては、(現在のところ)未認定であるが、島原市内の町並みはすばらしかった。今回の旅では、それらの重伝建保存地区3箇所よりも、島原市の町並みに感動した。その町並みも紹介したい。
島原市としては、観光のメインとして「島原城」や「しまばら水屋敷」などに力を入れている感じである。「島原武家屋敷街=水路(全長400m)が道の真ん中を流れている町並み」については、あまり力を入れていないように思われた。「武家屋敷」への案内はあるのだが、「街並み(町並み)」については、さっぱり案内がない。だから、その町並みを探し当てるのに、苦労した。町並みの案内表示がほとんどなかったから。島原市としては案内表示しているつもりなのだろうが、私は苦労して、(探すのをあきらめかけていたぐらいだったが、なんとか)やっと見つけることができた。「重伝建保存地区」に認定されていないので、町並み表示に力を入れていないのであろう。もったいない。
(たぶん、島原城や水屋敷だけを見て、「島原観光は終わった」と思った人は多いだろう。)
「こんなすばらしい町並みは重要伝統的建造物群保存地区になるはずだ!」と、私はピンときた。
全国に、現在104箇所が「重伝建保存地区」に認定されている。そのうち、約60箇所訪問し終えているが、「島原の町並み」よりもレベルが低い地区が意外に多く認定されている。認定基準は(専門家ではないので)わからないが、この「島原の町並み」を認定しないままでは、もったいない。
島原市もしっかり認定に向けて取り組んでほしいものである。「重伝建保存地区」に認定されたら、観光客は増加して、マスコミにも取り上げられて、大いに盛り上がるはずである。観光客を増やす取り組みは、市の財政を豊かにしてくれるはずである。「島原城」だけに力を入れても、月並みだ。島原の「島原武家屋敷街」は、「中央に水路のある町並み」として、すばらしい! めずらしいので、売り出すべき観光資源だと言える。水路が道路の端を流れている町並みはいろんなところにあるが、島原の町並みは月並みではない。すばらしい!
この町並みを歩いている人は、私一人だけであった。観光客はこの町並みの存在をあまり知らないらしい。(この日、妻は旅に疲れたらしく、島原市内の散策には行かずに、ホテルで休憩していた。)だから、このすばらしい町並みを私だけが水路に沿って歩いていた。端から端まで・・・400メートル。歩いている間、誰にも会わなかった。
それが、かえって私には「すばらしい道だなあ!」と感激できたのだった。
(ちなみに、あまりすばらしかったので、あくる日、妻と一緒にもう一度歩いた。妻も感激していた。)
その道には不思議な静けさがあった。水の流れる音だけが静かに響いていた・・・。
江戸時代の武家屋敷が数軒保存されていて、石の塀も続いている・・・。なんとすばらしい道なんだろう! と感激しながら歩いた。
島原 武家屋敷街(ぶけやしきがい)
江戸時代に島原藩の武士たちが居住していた地域の町並み。
石造りの塀が連なっていて、すばらしい。道の中央に水路があり、車は通行できない。こんなにすばらしい道・町並みにもかかわらず、まだ「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されていない。なぜだろう?
長崎県雲仙市国見町
雲仙市神代小路(こうじろくうじ)重要伝統的建造物群保存地区(平成17年に選定)
読み方の難しい地域である。私はまったく読めなかった。「小路=くうじ」と読む。不思議なカンジ。難読地名であろう。
佐賀県嬉野市塩田町
嬉野市塩田津(うれしのししおたつ)重要伝統的建造物群保存地区(平成17年に選定)
佐賀県南西部、有明海北西岸の平野部に位置する。旧長崎街道の「塩田宿」周辺の町並み。「津=みなと。船着場」という意味。ここでの「津」は、川のみなと・船着場。塩田津は、塩田川の水運で栄えたところだったようである。
塩田宿が再現されていた。長崎への往来でにぎわった街道の宿。
佐賀県有田町にある有田焼の鳥居
有田町有田内山(ありたうちやま)重要伝統的建造物群保存地区(平成3年に選定)
旅行中に考えたことは、「原城跡」(天草四郎終焉の地)のことを中心に、「天草・島原の乱」に触れて記録した。(6月20日と23日のブログ内容)
それらの記録に加えて、すばらしい町並みについても記録しておきたい。
今回の旅行で訪問した「重要伝統的建造物群保存地区(重伝建保存地区)」は、長崎県雲仙市と佐賀県嬉野市・佐賀県有田町の3箇所である。重伝建保存地区としては、(現在のところ)未認定であるが、島原市内の町並みはすばらしかった。今回の旅では、それらの重伝建保存地区3箇所よりも、島原市の町並みに感動した。その町並みも紹介したい。
島原市としては、観光のメインとして「島原城」や「しまばら水屋敷」などに力を入れている感じである。「島原武家屋敷街=水路(全長400m)が道の真ん中を流れている町並み」については、あまり力を入れていないように思われた。「武家屋敷」への案内はあるのだが、「街並み(町並み)」については、さっぱり案内がない。だから、その町並みを探し当てるのに、苦労した。町並みの案内表示がほとんどなかったから。島原市としては案内表示しているつもりなのだろうが、私は苦労して、(探すのをあきらめかけていたぐらいだったが、なんとか)やっと見つけることができた。「重伝建保存地区」に認定されていないので、町並み表示に力を入れていないのであろう。もったいない。
(たぶん、島原城や水屋敷だけを見て、「島原観光は終わった」と思った人は多いだろう。)
「こんなすばらしい町並みは重要伝統的建造物群保存地区になるはずだ!」と、私はピンときた。
全国に、現在104箇所が「重伝建保存地区」に認定されている。そのうち、約60箇所訪問し終えているが、「島原の町並み」よりもレベルが低い地区が意外に多く認定されている。認定基準は(専門家ではないので)わからないが、この「島原の町並み」を認定しないままでは、もったいない。
島原市もしっかり認定に向けて取り組んでほしいものである。「重伝建保存地区」に認定されたら、観光客は増加して、マスコミにも取り上げられて、大いに盛り上がるはずである。観光客を増やす取り組みは、市の財政を豊かにしてくれるはずである。「島原城」だけに力を入れても、月並みだ。島原の「島原武家屋敷街」は、「中央に水路のある町並み」として、すばらしい! めずらしいので、売り出すべき観光資源だと言える。水路が道路の端を流れている町並みはいろんなところにあるが、島原の町並みは月並みではない。すばらしい!
この町並みを歩いている人は、私一人だけであった。観光客はこの町並みの存在をあまり知らないらしい。(この日、妻は旅に疲れたらしく、島原市内の散策には行かずに、ホテルで休憩していた。)だから、このすばらしい町並みを私だけが水路に沿って歩いていた。端から端まで・・・400メートル。歩いている間、誰にも会わなかった。
それが、かえって私には「すばらしい道だなあ!」と感激できたのだった。
(ちなみに、あまりすばらしかったので、あくる日、妻と一緒にもう一度歩いた。妻も感激していた。)
その道には不思議な静けさがあった。水の流れる音だけが静かに響いていた・・・。
江戸時代の武家屋敷が数軒保存されていて、石の塀も続いている・・・。なんとすばらしい道なんだろう! と感激しながら歩いた。
島原 武家屋敷街(ぶけやしきがい)
江戸時代に島原藩の武士たちが居住していた地域の町並み。
石造りの塀が連なっていて、すばらしい。道の中央に水路があり、車は通行できない。こんなにすばらしい道・町並みにもかかわらず、まだ「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されていない。なぜだろう?
長崎県雲仙市国見町
雲仙市神代小路(こうじろくうじ)重要伝統的建造物群保存地区(平成17年に選定)
読み方の難しい地域である。私はまったく読めなかった。「小路=くうじ」と読む。不思議なカンジ。難読地名であろう。
佐賀県嬉野市塩田町
嬉野市塩田津(うれしのししおたつ)重要伝統的建造物群保存地区(平成17年に選定)
佐賀県南西部、有明海北西岸の平野部に位置する。旧長崎街道の「塩田宿」周辺の町並み。「津=みなと。船着場」という意味。ここでの「津」は、川のみなと・船着場。塩田津は、塩田川の水運で栄えたところだったようである。
塩田宿が再現されていた。長崎への往来でにぎわった街道の宿。
佐賀県有田町にある有田焼の鳥居
有田町有田内山(ありたうちやま)重要伝統的建造物群保存地区(平成3年に選定)
2014/6/23
「天草・島原方面への旅 続き」 旅行記録
「天草・島原の乱」は概ね「百姓一揆」と考えられる。なぜ、一揆が勃発したのか?
実は、小西行長(西軍側の大名の一人)が関が原の戦いにおいて、徳川家康ら(東軍側)と戦って敗れ、刑死したことが関係している。
小西行長(こにしゆきなが)という人物は、堺の薬種商人であった。彼は商人から大名になったという超珍しい人物である。
堺は1615年の大坂夏の陣で全焼するまでは、南蛮貿易や鉄砲生産などで日本一経済活動の盛んなところであった。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康ら、とにかく、この時代のすべての武将は、「堺を制する者が天下を治める」と考えていた時代であった。堺の何が魅力だったのか?
「財力(南蛮貿易)・鉄砲生産力・文化(お茶)」であったと思われる。この時代の武将は、武力+教養が求められた。その教養の代表は「茶の湯」であった。茶器が(今のお金で)何億円もの価値を持った時代である。「千利休」が認定した茶器となると、とてつもない価値を持った時代なのである。
「財力・鉄砲・茶の湯」で、堺(自由・自治都市)は「黄金の日々」だったのである。
そんな時代に、小西行長の父が、この堺の豪商の一人であった。その子である小西行長は父(=キリスト教徒)の影響で、幼いころに洗礼を受け、キリスト教徒になった。
行長は豊臣秀吉の御用商人であったが、秀吉に武将として取り立てられた。(秀吉は取り立てる人物のもとの身分にこだわる人ではなかったということがわかる。)
小西行長は武将として、秀吉の期待通りの大活躍をした。関が原の戦いで死んでしまうまでは、キリシタン大名として、肥後の宇土城主になり、天草の領主でもあったわけである。
この時代、島民の3分の2ぐらいがキリスト教徒になっていた。領主がキリシタン大名であり、島民も「安心して暮らせた」と考えられる。
しかし、小西行長は徳川家康と戦い、負けて死んでしまった。領主が死ぬと、違う領主がその地域を治めることになる。そして、島原・天草どちらの領地も、勝利した東軍側=徳川幕府が任命した領主に治められることになった。
島原・天草のどちらも、キリシタン大名から「アンチ・キリシタン大名」に代わってしまったのだ。
さて、どういう変化が起こってきたか・・・?
徳川幕府はキリスト教の禁教令を出した。
島原・天草の地域を領有することになった、それぞれの藩主は二人とも、年貢の取り立てとキリシタン迫害を過酷なまでに行うようになったのだ。
それはそれはひどい迫害だったらしい。雲仙での迫害や天草での迫害など、年貢を納められなかった者に対する凄絶・残忍な拷問などが記録として残されている。藁に巻いて、生きたまま焼き殺す、その他とにかく無茶苦茶な弾圧だった。
とうとう農民たち(小西行長らキリシタン大名の家臣たちは関が原の戦い後、浪人となってしまっていた。彼らの中に、農民の行動を支援する者が出始めていた。)は、弾圧・圧政に耐えられなくなり、一揆を起こすことになる。天草でも、島原でも・・・同じ動きは起こり、天草と島原との間にある小さな島(湯島)で、藩主たちに気づかれないように、一揆合同蜂起の相談(談合)が行われたのであった。
さて、誰を一揆の総大将にしたのか・・・(つづく)
【ここから、続きです】
皆さんご存知の「天草四郎」を天草・島原合同百姓一揆軍の総大将としたのです。それも16歳の若者です。
なぜ、16歳の若者が総大将に選ばれたのだろうか? 私にとっても疑問でした。今回の旅行で、その疑問が少しわかりました。説明が長くなりそうですが、できるだけ簡単に書いてみたいと思います。
実は、先に触れた堺の商人から大名になった「小西行長=キリシタン大名(宇土城主)」が関係していたのです。(当時、天草諸島は宇土城の領内でした。)
小西行長は1600年の関が原の戦いで死にました。しかし、その家臣たちは全員死んだわけではなく、生き残った家臣(武士)たちがいるわけです。小西行長の家臣たちは(領主がキリシタンゆえに)多くが洗礼を受け、キリシタンの武士として戦い、活躍していたわけです。
仕えていた大名が亡くなってからの家臣たちはどうなったか?
多くの武士たちは仕える大名を変更(肥後の細川藩主などへ)したようである。新しく領主となった大名から(優秀な武士ゆえに)誘われた武士たちがいた一方で、誘われても断った者たちがいた。彼らは「浪人百姓」となり、農業に携わって生きる道を選んだ。
その一人に、天草のキリシタン浪人百姓「益田甚兵衛(56歳)」がいる。
この男の息子が「益田四郎」。というわけで、小西行長と「益田四郎」とが父を通じてつながっていたしだいです。(ちょっと無理な説明だったかな?)
益田四郎は天草のヒーローになる過程において、『天草四郎』と呼ばれるようになった。
天草四郎が歴史の舞台に登場することになった要因は、「父=益田甚兵衛やキリシタン浪人百姓たちの存在」と大いに関係があったわけである。
1637年の秋ごろ、天草の民衆たちの間にうわさが流れ始めた。そのうわさは天草を追放されたバテレン(神父)が追放される前に書き残した内容が元になっていた。
どういう内容だったのか?
神父の名は「ママコス」と言った。そのママコス神父の書き残した予言は・・・
【 (私が追放されてから)26年後に天地異変が起こるようになり、人々は滅亡に向かって苦しむ事態になるだろう。その時、16歳の天童があらわれ、キリストの教えに従う人々を救ってくれるであろう。 】という内容であった。
(私自身は、「こういう予言は創作の可能性がある」と思って信用していないのだが・・・。)
この時代、天草や島原の人々はその予言内容を信じてしまったらしい。
一揆が起こる3、4年前から連続して「天候不順」が続き、凶作の年が3、4年も続くことになった。しかし、年貢の取立ては不作であろうが、凶作であろうが、おかまいなく厳しかった。1637年、異常気象発生、桜の花の季節はずれの開花や空に不気味な模様の発生などが起こった。民衆は「天地異変」の年になったのだ! と不安・恐怖の心理状態に陥りだした。
このような状況のときに、「ママコスの予言」の「16歳の天童」を待望する機運になってきたのだ。「16歳の天童が救ってくれるに違いない!」という待望が民衆の心に短期間で広まっていった。
そんな少年が、果たしてこの天草にいるのか!?
実はママコスの予言に当てはまる「少年」がいたのである! いた、いた!
というような経過があって、「益田四郎に違いない」と、確信するようになったのである。
天草育ちの益田四郎は、幼い頃から神童(天才少年)のごとく、儒学・仏学・神学・南蛮学を習い、身につけていった。(天草からは近い)長崎に行って、中国商人のもとで働きながら、宣教師の教えを受けていたそうである。その上、美少年でもあった。彼は長崎から民衆の待つ天草へ。民衆にとっては、『救い主の誕生』であった。
益田四郎の存在が、天地異変の状況・凶作の連続・厳しい年貢の取り立て・キリシタン迫害・・・の状況のもとで、クローズアップされていくのに時間はかからなかった。あっという間に、益田四郎は『救世主・天草四郎』に祭り上げられたのである。
(ちなみに、私は、この流れを作った「陰の人物」がいるに違いない、と思っている。四郎の父、または父と同じ立場のキリシタン浪人たちかもしれないと・・・。そして、たぶん、ママコス神父の予言も彼らの創作のような気がする。予言が当たる、なんてことはあまり信じない私。)
天草・島原、どちらの一揆指導者たちも「総大将は天草四郎」ということで、二つの地域の百姓たちが力を合わせて「百姓一揆のパワー」をアップさせていったことは事実である。
天草や島原で一揆を起こし、徳川幕府側藩主たちへ「年貢の取立てへの不満・キリシタン弾圧への不満」を爆発させた。
一揆のパワーはすごかった。藩主軍を撃破していくパワーを持っていた。
しかし、完全に撃破することはできなかった。相手は、武士軍団である。百姓中心の軍には、限界があった。
戦いに苦戦し始めたわけである。
そして、どうなっていったか・・・?
攻めていた一揆軍は退却し始めた。逃げ出したのである。どこへ逃げるか・・・。
島原半島南部にある原城に逃げ込む作戦に出たのである。このとき、原城は徳川幕府の「一国一城」の命により、廃城となっていた。島原地方は「島原城」だけが幕府によって認められて、その他の城はすべて天守閣などをつぶし、廃城にしたわけである。(このとき、全国的に廃城になった城が多い。徳川幕府の方針だったわけである。)
原城は天守閣はなく、城主ほか誰も住むものはいないところだったのである。「原城跡」の状態であった。そこへ、島原一揆軍ならび天草一揆軍が合同で立てこもることになった。
天草地方の一揆軍は船で大移動ということになった。男・女・子どもすべての民衆が「原城跡」に立てこもった。
島原・天草合同一揆軍の規模は約3万7千人。全員が立てこもることが出来た「原城跡」。
ほんとうにそれだけの人数が生活できたのであろうか?
今回、実際に「原城跡」を訪れ、この目で見たのだが・・・、「37000人が立てこもることができたに違いない!」と実感できた。
百聞は一見にしかず。「実際に目で見ることは大切だなあ。歴史を感じるためには、現地へ行って当時を想像してみることも大切だ。」と、つくづく思った。
島原半島南部地域の住民+天草諸島地域の住民は、ほとんどキリスト教徒であった。そして、一揆軍として、原城跡に立てこもって、徳川幕府の藩主軍と戦うことにしたわけである。
37000人のうち、戦える男は約3分の1(約12000人)、残り3分の2は女や子どもであった。総大将、天草四郎。実は、この一揆軍の戦闘面のリーダーは百姓たちではなかったのだ!
天草四郎の父(益田甚兵衛)同様の、元戦国武士たちであったのだ。「浪人百姓」として、農業に従事していたとはいえ、戦にかけてはプロ集団。彼らが、たてこもった百姓たちを「戦闘要員」に鍛えていたのだ。だから、普通の百姓一揆集団とは戦闘レベルが違ったようである。
島原藩主+唐津藩主たちが原城を攻め立てて、天草・島原の「百姓一揆」を鎮圧しようとしたのだが、失敗、失敗の連続で、あせってしまうことになった。藩主軍の武士たちに死者が続出。 その苦戦の状況が江戸城に伝わることになった。徳川幕府としては、「幕府に刃向かうやつらをいつまでもそのままにしておいては示しがつかない! 地元の藩主たちに任せていてはらちがあかない!」と、激怒したらしい。その激怒振りが、原城攻撃にかり出された追加幕府軍の人数に表れている。一揆軍の戦闘員(約12000人)に対して、徳川幕府軍は(全国の大名から武士たちを集め)12万4千人を原城目指して動員したのだ。なんと、一揆軍の10倍もの軍勢で、原城を攻めた。
いくら強くて、神がかり的な総大将『天草四郎』率いる一揆軍といえども、とうとう陥落してしまった。
徳川幕府軍は、キリシタンたちの武勇、反抗心の復活を恐れたらしい。
なんと、原城跡に立てこもった37000人(男・女・子ども全員)虐殺してしまったのだ。「キリシタン恐るべし」という(徳川側武士たちの)恐怖心を全員虐殺することによって取り除きたかったのであろう。また、「キリスト教を信じていると、こうなるぞ!」と、全国民に知らしめたかったにちがいない。
このときの戦いで、徳川幕府軍の戦死者1115名、負傷者6761名となっている。
負傷者の一人に、あの有名な「宮本武蔵」がいた。宮本武蔵は大怪我をしている。武蔵は大坂の陣(1615年)でも徳川幕府側武士として戦い、天草島原の乱(1637年~1638年2月)においてもリーダー的武士の一人として戦っている。この乱の7年後の死亡している。
この乱の後、徳川幕府はキリスト教を拒絶するためもあって、「鎖国」政策に突入した。
バテレン(神父)たちの完全追放。さらに踏絵による「キリシタンあぶり出し」の徹底、キリシタン拷問、虐殺など。日本国内からキリスト教徒は一掃されていったのである。
しかし、ほんの一部の人は「隠れキリシタン」して生きていくのだが・・・。
原城跡に立てこもった者の中で、たった一人だけ生き残った者がいる。
その人物は、実は「裏切り者」だったのだ。「原城内部の状況を密かに徳川幕府側に密告した人物」が存在したのだ。その人物は、「密告」という働きゆえに、殺されなかった。
約37000人全員が殺されてしまったのに、一人だけ生き残った。
その人の「その後の人生」は、どんな人生であったのだろう? (私個人は興味ある問題だが)その人生は書き残されていない・・・・・・
どの時代にも、現代にも、「裏切り者」は、出現するのだろう。しかし、私は「裏切り者」にはなりたくない。
それにしても、「組織・集団」とは・・・難しい存在である。
実は、小西行長(西軍側の大名の一人)が関が原の戦いにおいて、徳川家康ら(東軍側)と戦って敗れ、刑死したことが関係している。
小西行長(こにしゆきなが)という人物は、堺の薬種商人であった。彼は商人から大名になったという超珍しい人物である。
堺は1615年の大坂夏の陣で全焼するまでは、南蛮貿易や鉄砲生産などで日本一経済活動の盛んなところであった。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康ら、とにかく、この時代のすべての武将は、「堺を制する者が天下を治める」と考えていた時代であった。堺の何が魅力だったのか?
「財力(南蛮貿易)・鉄砲生産力・文化(お茶)」であったと思われる。この時代の武将は、武力+教養が求められた。その教養の代表は「茶の湯」であった。茶器が(今のお金で)何億円もの価値を持った時代である。「千利休」が認定した茶器となると、とてつもない価値を持った時代なのである。
「財力・鉄砲・茶の湯」で、堺(自由・自治都市)は「黄金の日々」だったのである。
そんな時代に、小西行長の父が、この堺の豪商の一人であった。その子である小西行長は父(=キリスト教徒)の影響で、幼いころに洗礼を受け、キリスト教徒になった。
行長は豊臣秀吉の御用商人であったが、秀吉に武将として取り立てられた。(秀吉は取り立てる人物のもとの身分にこだわる人ではなかったということがわかる。)
小西行長は武将として、秀吉の期待通りの大活躍をした。関が原の戦いで死んでしまうまでは、キリシタン大名として、肥後の宇土城主になり、天草の領主でもあったわけである。
この時代、島民の3分の2ぐらいがキリスト教徒になっていた。領主がキリシタン大名であり、島民も「安心して暮らせた」と考えられる。
しかし、小西行長は徳川家康と戦い、負けて死んでしまった。領主が死ぬと、違う領主がその地域を治めることになる。そして、島原・天草どちらの領地も、勝利した東軍側=徳川幕府が任命した領主に治められることになった。
島原・天草のどちらも、キリシタン大名から「アンチ・キリシタン大名」に代わってしまったのだ。
さて、どういう変化が起こってきたか・・・?
徳川幕府はキリスト教の禁教令を出した。
島原・天草の地域を領有することになった、それぞれの藩主は二人とも、年貢の取り立てとキリシタン迫害を過酷なまでに行うようになったのだ。
それはそれはひどい迫害だったらしい。雲仙での迫害や天草での迫害など、年貢を納められなかった者に対する凄絶・残忍な拷問などが記録として残されている。藁に巻いて、生きたまま焼き殺す、その他とにかく無茶苦茶な弾圧だった。
とうとう農民たち(小西行長らキリシタン大名の家臣たちは関が原の戦い後、浪人となってしまっていた。彼らの中に、農民の行動を支援する者が出始めていた。)は、弾圧・圧政に耐えられなくなり、一揆を起こすことになる。天草でも、島原でも・・・同じ動きは起こり、天草と島原との間にある小さな島(湯島)で、藩主たちに気づかれないように、一揆合同蜂起の相談(談合)が行われたのであった。
さて、誰を一揆の総大将にしたのか・・・(つづく)
【ここから、続きです】
皆さんご存知の「天草四郎」を天草・島原合同百姓一揆軍の総大将としたのです。それも16歳の若者です。
なぜ、16歳の若者が総大将に選ばれたのだろうか? 私にとっても疑問でした。今回の旅行で、その疑問が少しわかりました。説明が長くなりそうですが、できるだけ簡単に書いてみたいと思います。
実は、先に触れた堺の商人から大名になった「小西行長=キリシタン大名(宇土城主)」が関係していたのです。(当時、天草諸島は宇土城の領内でした。)
小西行長は1600年の関が原の戦いで死にました。しかし、その家臣たちは全員死んだわけではなく、生き残った家臣(武士)たちがいるわけです。小西行長の家臣たちは(領主がキリシタンゆえに)多くが洗礼を受け、キリシタンの武士として戦い、活躍していたわけです。
仕えていた大名が亡くなってからの家臣たちはどうなったか?
多くの武士たちは仕える大名を変更(肥後の細川藩主などへ)したようである。新しく領主となった大名から(優秀な武士ゆえに)誘われた武士たちがいた一方で、誘われても断った者たちがいた。彼らは「浪人百姓」となり、農業に携わって生きる道を選んだ。
その一人に、天草のキリシタン浪人百姓「益田甚兵衛(56歳)」がいる。
この男の息子が「益田四郎」。というわけで、小西行長と「益田四郎」とが父を通じてつながっていたしだいです。(ちょっと無理な説明だったかな?)
益田四郎は天草のヒーローになる過程において、『天草四郎』と呼ばれるようになった。
天草四郎が歴史の舞台に登場することになった要因は、「父=益田甚兵衛やキリシタン浪人百姓たちの存在」と大いに関係があったわけである。
1637年の秋ごろ、天草の民衆たちの間にうわさが流れ始めた。そのうわさは天草を追放されたバテレン(神父)が追放される前に書き残した内容が元になっていた。
どういう内容だったのか?
神父の名は「ママコス」と言った。そのママコス神父の書き残した予言は・・・
【 (私が追放されてから)26年後に天地異変が起こるようになり、人々は滅亡に向かって苦しむ事態になるだろう。その時、16歳の天童があらわれ、キリストの教えに従う人々を救ってくれるであろう。 】という内容であった。
(私自身は、「こういう予言は創作の可能性がある」と思って信用していないのだが・・・。)
この時代、天草や島原の人々はその予言内容を信じてしまったらしい。
一揆が起こる3、4年前から連続して「天候不順」が続き、凶作の年が3、4年も続くことになった。しかし、年貢の取立ては不作であろうが、凶作であろうが、おかまいなく厳しかった。1637年、異常気象発生、桜の花の季節はずれの開花や空に不気味な模様の発生などが起こった。民衆は「天地異変」の年になったのだ! と不安・恐怖の心理状態に陥りだした。
このような状況のときに、「ママコスの予言」の「16歳の天童」を待望する機運になってきたのだ。「16歳の天童が救ってくれるに違いない!」という待望が民衆の心に短期間で広まっていった。
そんな少年が、果たしてこの天草にいるのか!?
実はママコスの予言に当てはまる「少年」がいたのである! いた、いた!
というような経過があって、「益田四郎に違いない」と、確信するようになったのである。
天草育ちの益田四郎は、幼い頃から神童(天才少年)のごとく、儒学・仏学・神学・南蛮学を習い、身につけていった。(天草からは近い)長崎に行って、中国商人のもとで働きながら、宣教師の教えを受けていたそうである。その上、美少年でもあった。彼は長崎から民衆の待つ天草へ。民衆にとっては、『救い主の誕生』であった。
益田四郎の存在が、天地異変の状況・凶作の連続・厳しい年貢の取り立て・キリシタン迫害・・・の状況のもとで、クローズアップされていくのに時間はかからなかった。あっという間に、益田四郎は『救世主・天草四郎』に祭り上げられたのである。
(ちなみに、私は、この流れを作った「陰の人物」がいるに違いない、と思っている。四郎の父、または父と同じ立場のキリシタン浪人たちかもしれないと・・・。そして、たぶん、ママコス神父の予言も彼らの創作のような気がする。予言が当たる、なんてことはあまり信じない私。)
天草・島原、どちらの一揆指導者たちも「総大将は天草四郎」ということで、二つの地域の百姓たちが力を合わせて「百姓一揆のパワー」をアップさせていったことは事実である。
天草や島原で一揆を起こし、徳川幕府側藩主たちへ「年貢の取立てへの不満・キリシタン弾圧への不満」を爆発させた。
一揆のパワーはすごかった。藩主軍を撃破していくパワーを持っていた。
しかし、完全に撃破することはできなかった。相手は、武士軍団である。百姓中心の軍には、限界があった。
戦いに苦戦し始めたわけである。
そして、どうなっていったか・・・?
攻めていた一揆軍は退却し始めた。逃げ出したのである。どこへ逃げるか・・・。
島原半島南部にある原城に逃げ込む作戦に出たのである。このとき、原城は徳川幕府の「一国一城」の命により、廃城となっていた。島原地方は「島原城」だけが幕府によって認められて、その他の城はすべて天守閣などをつぶし、廃城にしたわけである。(このとき、全国的に廃城になった城が多い。徳川幕府の方針だったわけである。)
原城は天守閣はなく、城主ほか誰も住むものはいないところだったのである。「原城跡」の状態であった。そこへ、島原一揆軍ならび天草一揆軍が合同で立てこもることになった。
天草地方の一揆軍は船で大移動ということになった。男・女・子どもすべての民衆が「原城跡」に立てこもった。
島原・天草合同一揆軍の規模は約3万7千人。全員が立てこもることが出来た「原城跡」。
ほんとうにそれだけの人数が生活できたのであろうか?
今回、実際に「原城跡」を訪れ、この目で見たのだが・・・、「37000人が立てこもることができたに違いない!」と実感できた。
百聞は一見にしかず。「実際に目で見ることは大切だなあ。歴史を感じるためには、現地へ行って当時を想像してみることも大切だ。」と、つくづく思った。
島原半島南部地域の住民+天草諸島地域の住民は、ほとんどキリスト教徒であった。そして、一揆軍として、原城跡に立てこもって、徳川幕府の藩主軍と戦うことにしたわけである。
37000人のうち、戦える男は約3分の1(約12000人)、残り3分の2は女や子どもであった。総大将、天草四郎。実は、この一揆軍の戦闘面のリーダーは百姓たちではなかったのだ!
天草四郎の父(益田甚兵衛)同様の、元戦国武士たちであったのだ。「浪人百姓」として、農業に従事していたとはいえ、戦にかけてはプロ集団。彼らが、たてこもった百姓たちを「戦闘要員」に鍛えていたのだ。だから、普通の百姓一揆集団とは戦闘レベルが違ったようである。
島原藩主+唐津藩主たちが原城を攻め立てて、天草・島原の「百姓一揆」を鎮圧しようとしたのだが、失敗、失敗の連続で、あせってしまうことになった。藩主軍の武士たちに死者が続出。 その苦戦の状況が江戸城に伝わることになった。徳川幕府としては、「幕府に刃向かうやつらをいつまでもそのままにしておいては示しがつかない! 地元の藩主たちに任せていてはらちがあかない!」と、激怒したらしい。その激怒振りが、原城攻撃にかり出された追加幕府軍の人数に表れている。一揆軍の戦闘員(約12000人)に対して、徳川幕府軍は(全国の大名から武士たちを集め)12万4千人を原城目指して動員したのだ。なんと、一揆軍の10倍もの軍勢で、原城を攻めた。
いくら強くて、神がかり的な総大将『天草四郎』率いる一揆軍といえども、とうとう陥落してしまった。
徳川幕府軍は、キリシタンたちの武勇、反抗心の復活を恐れたらしい。
なんと、原城跡に立てこもった37000人(男・女・子ども全員)虐殺してしまったのだ。「キリシタン恐るべし」という(徳川側武士たちの)恐怖心を全員虐殺することによって取り除きたかったのであろう。また、「キリスト教を信じていると、こうなるぞ!」と、全国民に知らしめたかったにちがいない。
このときの戦いで、徳川幕府軍の戦死者1115名、負傷者6761名となっている。
負傷者の一人に、あの有名な「宮本武蔵」がいた。宮本武蔵は大怪我をしている。武蔵は大坂の陣(1615年)でも徳川幕府側武士として戦い、天草島原の乱(1637年~1638年2月)においてもリーダー的武士の一人として戦っている。この乱の7年後の死亡している。
この乱の後、徳川幕府はキリスト教を拒絶するためもあって、「鎖国」政策に突入した。
バテレン(神父)たちの完全追放。さらに踏絵による「キリシタンあぶり出し」の徹底、キリシタン拷問、虐殺など。日本国内からキリスト教徒は一掃されていったのである。
しかし、ほんの一部の人は「隠れキリシタン」して生きていくのだが・・・。
原城跡に立てこもった者の中で、たった一人だけ生き残った者がいる。
その人物は、実は「裏切り者」だったのだ。「原城内部の状況を密かに徳川幕府側に密告した人物」が存在したのだ。その人物は、「密告」という働きゆえに、殺されなかった。
約37000人全員が殺されてしまったのに、一人だけ生き残った。
その人の「その後の人生」は、どんな人生であったのだろう? (私個人は興味ある問題だが)その人生は書き残されていない・・・・・・
どの時代にも、現代にも、「裏切り者」は、出現するのだろう。しかし、私は「裏切り者」にはなりたくない。
それにしても、「組織・集団」とは・・・難しい存在である。
2014/6/20
「天草・島原方面への旅」 旅行記録
6月17日~19日(2泊3日)、天草・島原方面へ旅行していた。旅行できる(健康な)間に「天草と島原と種子島、この3箇所へ行っておきたいなあ・・・」と、日ごろから思っていた。鉄砲伝来の地「種子島」へ行くことはまだできていないが、今回の旅で「天草」と「島原」へ行くことができた。天気は、毎日雨でたいへん悪かったが、目的地を見て回ることができて、満足した。格安航空(ピーチ)と格安レンタカー(ニコニコレンタカー)利用の旅だったので、経済的な旅をすることができた。(お金に余裕のない方には、どちらもお勧めである。)
今回の旅行で考えたことを少し書いておきたい。
天草は熊本県だが、島原は長崎県。
陸地の「道路」を中心に考えると、どちらも車での移動地としては「不便な所だった」。しかし、海の「海路」を中心に考えると、「天草と島原は近い」。そのことを実感できた旅であった。
教科書では、「島原の乱」という表記だが、天草市立天草キリシタン館では、「天草・島原の乱」と表記されていた。(細かいことにこだわっているのかもしれないが)私も「天草・島原の乱」という表記に賛成である。
なぜなら、天草の人たちと島原の人たちが合流して起こした「一揆=乱」なのに、教科書に表記されている「島原の乱」では、天草の民衆の存在が薄れてしまうことになるから。
島原と天草は船(フェリー)を利用すれば、約30分で結ばれている。高速艇ではなく、普通のフェリー。昔の船であっても「お互いに近い存在」であっただろう。
天草民代表と島原民代表たちが「一揆の合流のために相談(密談)」をしたのは、天草と島原との間に位置する、小さな島であった。
(つづく→ 次の6月23日ブログへ)
天草四郎メモリアルホール(天草五橋の近く)
天草キリシタン館(天草市本渡=天草の中心地近く)
崎津(さきつ)天主堂
天草五橋(天草諸島の入り口付近にかかっている五つの橋)から約3時間ほどかかる、遠いところ(天草地方南端に近い位置)にある教会だった。雨天だったためか、かなり遠く感じられた。しかし、すばらしい「ゴシック様式の教会」を見ることができて感動、満足しました。
歩いてしか行けない(約1000段の階段を登る)展望台=住民の津波避難場所からの眺め。雨の中、がんばって一人で登っていきましたよ、この写真を撮るために。
この教会は『海の天主堂』とも言われている。海のすぐ近くの教会である。
大江天主堂 こちらも魅力的な教会であった。
天草四郎の墓
(長崎県)島原半島の原城跡にある。原城跡から、天草(熊本県)は海路で間近だ。
「天草・島原の乱」で、天草四郎(16歳)をリーダーとしてたてこもり、幕府に抵抗した一揆参加者約37000人(女子どもを含む)。日本史上最大規模の一揆といわれている。一揆参加者は誰一人容赦なく全員殺された。一揆の総大将、天草四郎(16歳)をはじめ37000人全員が殺された地が「原城跡」。そこに、天草四郎の小さな小さな墓があった。この時代、権力者側(徳川幕府側)は女や子どもまで「虐殺」しているが・・・、その行為はどうなんだろう? 考えさせられる「原城跡」の歴史である。
今回の旅行で考えたことを少し書いておきたい。
天草は熊本県だが、島原は長崎県。
陸地の「道路」を中心に考えると、どちらも車での移動地としては「不便な所だった」。しかし、海の「海路」を中心に考えると、「天草と島原は近い」。そのことを実感できた旅であった。
教科書では、「島原の乱」という表記だが、天草市立天草キリシタン館では、「天草・島原の乱」と表記されていた。(細かいことにこだわっているのかもしれないが)私も「天草・島原の乱」という表記に賛成である。
なぜなら、天草の人たちと島原の人たちが合流して起こした「一揆=乱」なのに、教科書に表記されている「島原の乱」では、天草の民衆の存在が薄れてしまうことになるから。
島原と天草は船(フェリー)を利用すれば、約30分で結ばれている。高速艇ではなく、普通のフェリー。昔の船であっても「お互いに近い存在」であっただろう。
天草民代表と島原民代表たちが「一揆の合流のために相談(密談)」をしたのは、天草と島原との間に位置する、小さな島であった。
(つづく→ 次の6月23日ブログへ)
天草四郎メモリアルホール(天草五橋の近く)
天草キリシタン館(天草市本渡=天草の中心地近く)
崎津(さきつ)天主堂
天草五橋(天草諸島の入り口付近にかかっている五つの橋)から約3時間ほどかかる、遠いところ(天草地方南端に近い位置)にある教会だった。雨天だったためか、かなり遠く感じられた。しかし、すばらしい「ゴシック様式の教会」を見ることができて感動、満足しました。
歩いてしか行けない(約1000段の階段を登る)展望台=住民の津波避難場所からの眺め。雨の中、がんばって一人で登っていきましたよ、この写真を撮るために。
この教会は『海の天主堂』とも言われている。海のすぐ近くの教会である。
大江天主堂 こちらも魅力的な教会であった。
天草四郎の墓
(長崎県)島原半島の原城跡にある。原城跡から、天草(熊本県)は海路で間近だ。
「天草・島原の乱」で、天草四郎(16歳)をリーダーとしてたてこもり、幕府に抵抗した一揆参加者約37000人(女子どもを含む)。日本史上最大規模の一揆といわれている。一揆参加者は誰一人容赦なく全員殺された。一揆の総大将、天草四郎(16歳)をはじめ37000人全員が殺された地が「原城跡」。そこに、天草四郎の小さな小さな墓があった。この時代、権力者側(徳川幕府側)は女や子どもまで「虐殺」しているが・・・、その行為はどうなんだろう? 考えさせられる「原城跡」の歴史である。
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2014/5/18
「キャンピングカーで宿泊 初体験」 旅行記録
5月17日(土)~18日(日) 友人所有のキャンピングカーに乗せていただき、若狭湾周辺を一泊で旅行することができた。
車の中は、生活に必要な(ほとんど手作りの)用具・用品が積まれていて、車内は創意工夫があちらこちらに。たいへん便利な車だなあと感心した。
大人二人が寝泊りできるようになっていて、「工夫に満ちた車」であった。
宿泊場所は若狭湾に面した、ある「道の駅」駐車場。
今回のキャンピングカー旅行、いい経験をさせていただいた。旅行コースも私の希望をふんだんに入れてくださっていた。おかげさまで、(私だけだったら行くことのないだろうと思われる)おもいがけないところへ行くことができた。
今回訪れた主なところ。
音海(おとみ)大断崖・押回(おしまわし)埼灯台・小浜西組地区(福井県にある重要伝統的建造物群保存地区)・常神(つねがみ)岬灯台・立石(たていし)岬灯台・板取(いたどり)宿など。どこも、初めての地であったから、興味津々。感動も大きかった。
特に音海大断崖や灯台などは、私一人だけだったら、行くことはなかっただろう。それらの地は、有名な観光地ではない。灯台に興味のない人はだぶん行かないところであろう。キャンピングカー所有の友人(灯台巡りの達人?)に感謝しています。
灯台からの眺めに感動し、心惹かれる私。たくさんの灯台巡りをしているわけではないが、灯台は「やはり魅力的だなあ!」と認識できた旅になった。
音海(おとみ)大断崖(海面との落差200メートル以上の断崖)
隠れた断崖景勝地と言えるであろう。木々が邪魔して、断崖が見えにくいので、木々を伐採すると「若狭湾での人気観光地」になるであろう。その点が、残念である。しかし、見事な断崖である。断崖の真上へ行くルートはない。)
音海大断崖から、さらに道を行くと「押回埼(おしまわしざき)灯台」にたどり着いた。
小浜市の「小浜西組地区」
この一帯が、伝統的建造物群保存地区に指定されている。商家町・茶屋町に分類される保存地区である。立派な格子のある家が多く、伝統的日本家屋の雰囲気をかもし出している街並みであった。福井県にある「重要伝統的建造物群保存地区」は、この小浜市と鯖街道の宿場町「熊川宿」である。福井県は2箇所だけである。
全体的には電柱を隠している街並みだが・・・、少し見えた。残念。
常神(つねがみ)岬からの眺め
常神岬灯台 海抜239メートルの位置に設置されていた。海から歩いて登っていかねばならなかった。徒歩で往復1時間。片道1.2キロだが、ほとんど行く人はいない灯台のようであった。上り口を住民に聞いたので、見つけることができた。住民がいなければ、灯台への登り道を見つけることができたかどうか・・・? ややこしい登り口であった。登り始めたら、一本道だった。この灯台は、「観光地」になれるかな? たぶん、無理でしょう。こういう見つけにくい灯台に到達できることが、「灯台巡りの達人たち」にとっては、至福の喜びなのであろう。今回、常神岬にたどり着けたことは、灯台巡り達人たちの「至福」の一端に触れることができたのかもしれない。
日本一「低い山」の一等三角点はどこの山に設置されているのか、ご存知でしょうか? 実は、堺市にある山なのですよ! 南海本線堺駅の近くに「大浜公園」というところがあるのですが、その公園に「蘇鉄山(そてつやま)」があるのです。その蘇鉄山の頂上に「一等三角点」が設置されています。ここが、「日本一低い一等三角点」が設置されているところなのです。
三角点に興味のある方は、蘇鉄山登山を経験してみてください。標高ですか? 6.96メートル。7メートル未満なのですよ。笑ってはいけませんよ、ちゃんと国土地理院が認定している山ですからね。
一般に「日本一低い山=天保山(大阪港にある)」と言われていますが、天保山に設置されている三角点は、『二等』です。ですから、一等三角点で、「日本一低い山=蘇鉄山」なのです。
以上、「三角点こぼれ話」でした。
美浜原発近くの「水晶浜」 写真中央部に美浜原発が写っている。
原発事故が起これば、この「美しい浜」の命は終わってしまうであろう。放射能は「見えない・におわない」ので、おそろしい! 福島原発地域のようになってしまう危険性のある地域である。
立石岬灯台入口
どっしりとした「立石岬灯台」全景
板取宿 現在、4軒のかやぶきの家(かぶと型の家が特徴)が保存されていた。
関所があった宿で、昔は栄えていたらしい。板取宿は「木の芽峠(北国への街道)」に近いのだが、現在はトンネルで通過できるので、木の芽峠へ行く人はほとんどいない。(木の芽峠へは、車で行く道はなかった。)
車の中は、生活に必要な(ほとんど手作りの)用具・用品が積まれていて、車内は創意工夫があちらこちらに。たいへん便利な車だなあと感心した。
大人二人が寝泊りできるようになっていて、「工夫に満ちた車」であった。
宿泊場所は若狭湾に面した、ある「道の駅」駐車場。
今回のキャンピングカー旅行、いい経験をさせていただいた。旅行コースも私の希望をふんだんに入れてくださっていた。おかげさまで、(私だけだったら行くことのないだろうと思われる)おもいがけないところへ行くことができた。
今回訪れた主なところ。
音海(おとみ)大断崖・押回(おしまわし)埼灯台・小浜西組地区(福井県にある重要伝統的建造物群保存地区)・常神(つねがみ)岬灯台・立石(たていし)岬灯台・板取(いたどり)宿など。どこも、初めての地であったから、興味津々。感動も大きかった。
特に音海大断崖や灯台などは、私一人だけだったら、行くことはなかっただろう。それらの地は、有名な観光地ではない。灯台に興味のない人はだぶん行かないところであろう。キャンピングカー所有の友人(灯台巡りの達人?)に感謝しています。
灯台からの眺めに感動し、心惹かれる私。たくさんの灯台巡りをしているわけではないが、灯台は「やはり魅力的だなあ!」と認識できた旅になった。
音海(おとみ)大断崖(海面との落差200メートル以上の断崖)
隠れた断崖景勝地と言えるであろう。木々が邪魔して、断崖が見えにくいので、木々を伐採すると「若狭湾での人気観光地」になるであろう。その点が、残念である。しかし、見事な断崖である。断崖の真上へ行くルートはない。)
音海大断崖から、さらに道を行くと「押回埼(おしまわしざき)灯台」にたどり着いた。
小浜市の「小浜西組地区」
この一帯が、伝統的建造物群保存地区に指定されている。商家町・茶屋町に分類される保存地区である。立派な格子のある家が多く、伝統的日本家屋の雰囲気をかもし出している街並みであった。福井県にある「重要伝統的建造物群保存地区」は、この小浜市と鯖街道の宿場町「熊川宿」である。福井県は2箇所だけである。
全体的には電柱を隠している街並みだが・・・、少し見えた。残念。
常神(つねがみ)岬からの眺め
常神岬灯台 海抜239メートルの位置に設置されていた。海から歩いて登っていかねばならなかった。徒歩で往復1時間。片道1.2キロだが、ほとんど行く人はいない灯台のようであった。上り口を住民に聞いたので、見つけることができた。住民がいなければ、灯台への登り道を見つけることができたかどうか・・・? ややこしい登り口であった。登り始めたら、一本道だった。この灯台は、「観光地」になれるかな? たぶん、無理でしょう。こういう見つけにくい灯台に到達できることが、「灯台巡りの達人たち」にとっては、至福の喜びなのであろう。今回、常神岬にたどり着けたことは、灯台巡り達人たちの「至福」の一端に触れることができたのかもしれない。
日本一「低い山」の一等三角点はどこの山に設置されているのか、ご存知でしょうか? 実は、堺市にある山なのですよ! 南海本線堺駅の近くに「大浜公園」というところがあるのですが、その公園に「蘇鉄山(そてつやま)」があるのです。その蘇鉄山の頂上に「一等三角点」が設置されています。ここが、「日本一低い一等三角点」が設置されているところなのです。
三角点に興味のある方は、蘇鉄山登山を経験してみてください。標高ですか? 6.96メートル。7メートル未満なのですよ。笑ってはいけませんよ、ちゃんと国土地理院が認定している山ですからね。
一般に「日本一低い山=天保山(大阪港にある)」と言われていますが、天保山に設置されている三角点は、『二等』です。ですから、一等三角点で、「日本一低い山=蘇鉄山」なのです。
以上、「三角点こぼれ話」でした。
美浜原発近くの「水晶浜」 写真中央部に美浜原発が写っている。
原発事故が起これば、この「美しい浜」の命は終わってしまうであろう。放射能は「見えない・におわない」ので、おそろしい! 福島原発地域のようになってしまう危険性のある地域である。
立石岬灯台入口
どっしりとした「立石岬灯台」全景
板取宿 現在、4軒のかやぶきの家(かぶと型の家が特徴)が保存されていた。
関所があった宿で、昔は栄えていたらしい。板取宿は「木の芽峠(北国への街道)」に近いのだが、現在はトンネルで通過できるので、木の芽峠へ行く人はほとんどいない。(木の芽峠へは、車で行く道はなかった。)
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2014/4/7
「青春18切符で美濃市へ」 旅行記録
残り一枚の青春18切符利用で、岐阜県美濃市へ行ってきた。日帰り格安一人旅。
4月10日が使用期限の切符だったので、「使用する機会がなくて、損することになるかも・・・」と、気になっていた切符だった。今日、使用できてよかった。
堺市駅から美濃太田駅まではJRなので(追加の)切符代はまったくいらないのだが、美濃太田から美濃市までは、私鉄なので切符代が必要であった。往復1260円。それほど遠くではないのだが、片道630円かかった。(大阪近辺の私鉄料金なら、400円ぐらいかな?)「地方の私鉄は高いなあ・・・。でも、この料金でも赤字なのかも・・・」と思ったしだいである。長良川鉄道の経営状態は知らないが、料金の高さから想像してみた。
地方の私鉄料金の高さはさておいて、美濃市についての印象を書いておきたい。
美濃市美濃町は平成11年に「重要伝統的建造物群保存地区」(重伝建保存地区)に指定されている。
岐阜県には重伝建保存地区がたくさんある。白川村・高山市(2地区)・恵那市・郡上市郡上八幡、そして(今回訪れた)美濃市である。岐阜県には、6地区が保存地区に指定されている。たいしたものだ。町や村の人たちがきちんと昔の建物を残してきた結果であろう。
美濃市美濃町は商家町で、美濃和紙と長良川の水運などで栄えた町である。江戸時代の頃から「美濃和紙」で大儲けした商家群が町並みを形成していた。重伝建保存地区としての町並みは一級品だと思った。二筋の通りとその通りをつなぐ4本の道。漢字の「目」の形をしている道筋に商家群が連なっていた。家(屋根)と家(屋根)との間には、うだつ(火災の延焼防止壁)が上がっており、立派な家が多かった。
「うだつ」は、もともと「火災の延焼を防ぐための袖壁(そでかべ)」であったが、いつしか「富の象徴」となっていった。「財を成した家=うだつのあがっている家」という評価からきたのであろう。防火用のうだつは、しだいに装飾の凝った豪華な瓦を載せた壁になり、「立派な装飾うだつ」になっていった。そこで、「うだつの上がっている家=財を成した家・成功者」をイメージするようになっていったようである。
「うだつがあがらない」という言葉が使われるようになった語源に関係しているにちがいない。「うだつがあがる → 成功者」のイメージから、「うだつがあがらない」=「地位や生活がよくならない、ぱっとしない」という意味に。
「うだつの上がる町並み」は和紙産業で財を成した歴史を物語っていた。数年前から「訪れて見たい重伝建保存地区」に挙げてきたのだが、なかなか機会がなかった。今回、やっと訪問できたわけである。「1回分残っていた青春18切符」のおかげで、うれしい小旅行をすることができた。
うだつの残る家が19軒とのこと。。たいしたものだなあ、と感動しながら町並みを散策した。写真右手の家々はずらっと連続でうだつが上がっていた。
上の町並み写真とは違う通り。この通りの家々にも「立派なうだつ」があがっていた。どちらの通りもすばらしかった! 江戸時代、美濃和紙で儲けたことを商家群が物語っていた。歴史を感じながらの町並み散策は、こたえられない至福の時間となった。
この「うだつ」は、隣の屋根との境目にあげられていて、「わかりやすいうだつ」になっていたので、写真に撮っておいた。めずらしいうだつであろう。
以上 美濃市の町並み
美濃市からの帰りに大垣駅で途中下車した。 松尾芭蕉「奥の細道・むすびの地」を見ていなかったので、周辺地域を散策・見学することにした。桜並木の花が大垣城の堀(運河)に咲き乱れ、その下を(観光用)和船が進んでいく風景は、のどかな春そのものであった。
奥の細道 むすびの地(大垣でした)
ちなみに、松尾芭蕉が後年、死去した地は「大坂」。最期の句は、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」でした。
4月10日が使用期限の切符だったので、「使用する機会がなくて、損することになるかも・・・」と、気になっていた切符だった。今日、使用できてよかった。
堺市駅から美濃太田駅まではJRなので(追加の)切符代はまったくいらないのだが、美濃太田から美濃市までは、私鉄なので切符代が必要であった。往復1260円。それほど遠くではないのだが、片道630円かかった。(大阪近辺の私鉄料金なら、400円ぐらいかな?)「地方の私鉄は高いなあ・・・。でも、この料金でも赤字なのかも・・・」と思ったしだいである。長良川鉄道の経営状態は知らないが、料金の高さから想像してみた。
地方の私鉄料金の高さはさておいて、美濃市についての印象を書いておきたい。
美濃市美濃町は平成11年に「重要伝統的建造物群保存地区」(重伝建保存地区)に指定されている。
岐阜県には重伝建保存地区がたくさんある。白川村・高山市(2地区)・恵那市・郡上市郡上八幡、そして(今回訪れた)美濃市である。岐阜県には、6地区が保存地区に指定されている。たいしたものだ。町や村の人たちがきちんと昔の建物を残してきた結果であろう。
美濃市美濃町は商家町で、美濃和紙と長良川の水運などで栄えた町である。江戸時代の頃から「美濃和紙」で大儲けした商家群が町並みを形成していた。重伝建保存地区としての町並みは一級品だと思った。二筋の通りとその通りをつなぐ4本の道。漢字の「目」の形をしている道筋に商家群が連なっていた。家(屋根)と家(屋根)との間には、うだつ(火災の延焼防止壁)が上がっており、立派な家が多かった。
「うだつ」は、もともと「火災の延焼を防ぐための袖壁(そでかべ)」であったが、いつしか「富の象徴」となっていった。「財を成した家=うだつのあがっている家」という評価からきたのであろう。防火用のうだつは、しだいに装飾の凝った豪華な瓦を載せた壁になり、「立派な装飾うだつ」になっていった。そこで、「うだつの上がっている家=財を成した家・成功者」をイメージするようになっていったようである。
「うだつがあがらない」という言葉が使われるようになった語源に関係しているにちがいない。「うだつがあがる → 成功者」のイメージから、「うだつがあがらない」=「地位や生活がよくならない、ぱっとしない」という意味に。
「うだつの上がる町並み」は和紙産業で財を成した歴史を物語っていた。数年前から「訪れて見たい重伝建保存地区」に挙げてきたのだが、なかなか機会がなかった。今回、やっと訪問できたわけである。「1回分残っていた青春18切符」のおかげで、うれしい小旅行をすることができた。
うだつの残る家が19軒とのこと。。たいしたものだなあ、と感動しながら町並みを散策した。写真右手の家々はずらっと連続でうだつが上がっていた。
上の町並み写真とは違う通り。この通りの家々にも「立派なうだつ」があがっていた。どちらの通りもすばらしかった! 江戸時代、美濃和紙で儲けたことを商家群が物語っていた。歴史を感じながらの町並み散策は、こたえられない至福の時間となった。
この「うだつ」は、隣の屋根との境目にあげられていて、「わかりやすいうだつ」になっていたので、写真に撮っておいた。めずらしいうだつであろう。
以上 美濃市の町並み
美濃市からの帰りに大垣駅で途中下車した。 松尾芭蕉「奥の細道・むすびの地」を見ていなかったので、周辺地域を散策・見学することにした。桜並木の花が大垣城の堀(運河)に咲き乱れ、その下を(観光用)和船が進んでいく風景は、のどかな春そのものであった。
奥の細道 むすびの地(大垣でした)
ちなみに、松尾芭蕉が後年、死去した地は「大坂」。最期の句は、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」でした。
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2014/3/9
「富田林市・寺内町散策」 旅行記録
富田林市寺内町は、大阪府内で唯一の「重要伝統的建造物群保存地区」(略して、重伝建地区)である。重要伝統的建造物群保存地区は(全国に)104地区ある。
東京都は0。大阪府は1。つまり、ここだけである。ということは、当然、私が住んでいる堺市や(大都市)大阪市にもない。
堺市は「歴史のある環濠都市・自治都市」なのであるが、残念ながら寺内町(土塁に囲まれた自治都市であった)のような「歴史ある立派な建造物群」が残っていない。
原因は、過去3回の堺に壊滅的被害をもたらした大火にある。
1回目=室町時代・1399年「応永(おうえい)の乱」によって、堺は大火になり、建造物群が消失した。
2回目=江戸時代・1615年「大坂夏の陣」により、堺は(自治都市を形成していた地域の)ほぼ全戸が焼かれてしまい、建造物群が灰燼に帰した。
その後、堺の町は徳川幕府の援助や商人たちの力によって、環濠や町並みを復活・復興していったのだが・・・。
3回目=1945年・太平洋戦争の米軍空爆によって、堺の中心部(環濠都市地域)は焼かれてしまった。またまた「旧堺市地域=環濠都市」は壊滅状態となり、主な建造物群が消失してしまった。
以上の歴史により、中世や近代には、大繁栄していた堺なのだが、その跡形はほとんど残っていない。
現在、ビル建設などの基礎工事(地下を掘っている時)において、「昔の堺の証拠」が発見されることが多い。その地下の地層から「昔の堺の繁栄ぶり」が証明されはじめている。新しいものが発掘され、昔の堺の様子が証明・認定され始めているようである。
米軍の空爆被害にあっていない京都や奈良などには、何百年も前の建造物群がたくさん残っている。
現在、石川県には8地区の「重伝建地区」があるのだが、数としては日本一である。ほとんど空爆にあっていない伝統的建造物群が多い県なのであろう。
参考までに、写真を少しだけ載せておきます。
旧杉山家住宅(重要文化財) 石上露子(いそのかみつゆこ・歌人)1882~1959=本名・杉山孝(たか)の生家
伝統的建造物が町並みを形成していて、すばらしい
東京都は0。大阪府は1。つまり、ここだけである。ということは、当然、私が住んでいる堺市や(大都市)大阪市にもない。
堺市は「歴史のある環濠都市・自治都市」なのであるが、残念ながら寺内町(土塁に囲まれた自治都市であった)のような「歴史ある立派な建造物群」が残っていない。
原因は、過去3回の堺に壊滅的被害をもたらした大火にある。
1回目=室町時代・1399年「応永(おうえい)の乱」によって、堺は大火になり、建造物群が消失した。
2回目=江戸時代・1615年「大坂夏の陣」により、堺は(自治都市を形成していた地域の)ほぼ全戸が焼かれてしまい、建造物群が灰燼に帰した。
その後、堺の町は徳川幕府の援助や商人たちの力によって、環濠や町並みを復活・復興していったのだが・・・。
3回目=1945年・太平洋戦争の米軍空爆によって、堺の中心部(環濠都市地域)は焼かれてしまった。またまた「旧堺市地域=環濠都市」は壊滅状態となり、主な建造物群が消失してしまった。
以上の歴史により、中世や近代には、大繁栄していた堺なのだが、その跡形はほとんど残っていない。
現在、ビル建設などの基礎工事(地下を掘っている時)において、「昔の堺の証拠」が発見されることが多い。その地下の地層から「昔の堺の繁栄ぶり」が証明されはじめている。新しいものが発掘され、昔の堺の様子が証明・認定され始めているようである。
米軍の空爆被害にあっていない京都や奈良などには、何百年も前の建造物群がたくさん残っている。
現在、石川県には8地区の「重伝建地区」があるのだが、数としては日本一である。ほとんど空爆にあっていない伝統的建造物群が多い県なのであろう。
参考までに、写真を少しだけ載せておきます。
旧杉山家住宅(重要文化財) 石上露子(いそのかみつゆこ・歌人)1882~1959=本名・杉山孝(たか)の生家
伝統的建造物が町並みを形成していて、すばらしい