2015/5/10
「川平湾散策(5月9日)」 旅行記録
5月9日、路線バス利用で川平湾へ行ってきました。海の色が微妙に変化するところで、いつ見ても魅力的なところです。
海中を見たくなって、遊覧船(船底ガラス張り)に乗りました。遊覧船に乗るのは二度目です。サンゴの産卵が6月ごろに始まるようで、サンゴの先が青く輝いている様子が見えました。5月だから(先が)青いサンゴを見ることができたようです。毎年6月の「満月の夜」に産卵するとのことです。サンゴは卵を産むので、植物ではなく、動物に分類されます。サンゴ礁になってしまうと、死骸の塊ですので、カチンカチンの石灰質の塊になってしまって、とてもじゃないですが「動物」だったとは想像できません。不思議な動物ですね。
川平湾のサンゴは200種類もあるとか。「じゃがいもサンゴ」がいましたが、じゃがいもがゴロゴロとぎっしり岩にへばりついているサンゴでした。おもしろい形のサンゴがあるものです。名称は「ぴったり」で、私でもそう名付けたくなる形でした。
遊覧船乗り場は、ここから下っていく(真下の)海岸です。
シャコ貝 海底に(人工の)ブロックが一つ置いてあり、シャコ貝の大きさが分かるようになっていました。これらのシャコ貝は小さめだと思いました。これより大きなシャコ貝はいくらでもあります。食べごろサイズはもっと小さくて、握りこぶし大ぐらいです。
サンゴの産卵が近いようで、サンゴの先が青かったです。(写真では分かりにくいですが)
海中の様子です。
この浜が遊覧船乗り場です。波がなく、美しい浜そのものが船着場です。堤防はありません。これも魅力的な要素です。一般に、遊覧船は「堤防のある港」から出航する場合が多いですから。
川平公園からの眺めで、いつまでも眺めていたい風景です。海の色が深さによって違い、変化があって、「石垣島№1の観光地」になっています。一部の人は「世界一美しい海辺」と評しています。私は3回訪問していますが、その評価は「オーバーな表現」ではなさそうですよ。それに、石垣島の魅力に惹かれて、外国人がわんさと来るようになっていますから。
外国人観光客がおしかけているにもかかわらず、対応が遅れています。
たとえば、大きなバッグで旅行する外国人ですが、路線バスには荷物入れがありません、狭い入り口から巨大な荷物をバスの中に持ち込む様子を見ていると、気の毒に思いました。それに乗れる人間の数も少なくなります。バッグを置くところがなく、床を占領していました。巨大なバッグ一つが人間3人分ぐらいを占領している状況もありましたね。外国人旅行者でした。
路線バスとはいえ、バスの構造を荷物保管ができる車両に変えた方がいいでしょう。でも、やる気はなさそうですね・・・?
海中を見たくなって、遊覧船(船底ガラス張り)に乗りました。遊覧船に乗るのは二度目です。サンゴの産卵が6月ごろに始まるようで、サンゴの先が青く輝いている様子が見えました。5月だから(先が)青いサンゴを見ることができたようです。毎年6月の「満月の夜」に産卵するとのことです。サンゴは卵を産むので、植物ではなく、動物に分類されます。サンゴ礁になってしまうと、死骸の塊ですので、カチンカチンの石灰質の塊になってしまって、とてもじゃないですが「動物」だったとは想像できません。不思議な動物ですね。
川平湾のサンゴは200種類もあるとか。「じゃがいもサンゴ」がいましたが、じゃがいもがゴロゴロとぎっしり岩にへばりついているサンゴでした。おもしろい形のサンゴがあるものです。名称は「ぴったり」で、私でもそう名付けたくなる形でした。
遊覧船乗り場は、ここから下っていく(真下の)海岸です。
シャコ貝 海底に(人工の)ブロックが一つ置いてあり、シャコ貝の大きさが分かるようになっていました。これらのシャコ貝は小さめだと思いました。これより大きなシャコ貝はいくらでもあります。食べごろサイズはもっと小さくて、握りこぶし大ぐらいです。
サンゴの産卵が近いようで、サンゴの先が青かったです。(写真では分かりにくいですが)
海中の様子です。
この浜が遊覧船乗り場です。波がなく、美しい浜そのものが船着場です。堤防はありません。これも魅力的な要素です。一般に、遊覧船は「堤防のある港」から出航する場合が多いですから。
川平公園からの眺めで、いつまでも眺めていたい風景です。海の色が深さによって違い、変化があって、「石垣島№1の観光地」になっています。一部の人は「世界一美しい海辺」と評しています。私は3回訪問していますが、その評価は「オーバーな表現」ではなさそうですよ。それに、石垣島の魅力に惹かれて、外国人がわんさと来るようになっていますから。
外国人観光客がおしかけているにもかかわらず、対応が遅れています。
たとえば、大きなバッグで旅行する外国人ですが、路線バスには荷物入れがありません、狭い入り口から巨大な荷物をバスの中に持ち込む様子を見ていると、気の毒に思いました。それに乗れる人間の数も少なくなります。バッグを置くところがなく、床を占領していました。巨大なバッグ一つが人間3人分ぐらいを占領している状況もありましたね。外国人旅行者でした。
路線バスとはいえ、バスの構造を荷物保管ができる車両に変えた方がいいでしょう。でも、やる気はなさそうですね・・・?
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2015/5/8
「石垣島・無線LANつながりました」 旅行記録
無線LAN接続に自信がなかった私ですが、なんとかつながりました! 感動しましたよ。(ちょっと大げさですが)
帰りのチケットをネットで購入しようと思っていたので、ネット画面を確認できたときは、ほっとしました。有線でばかりネットに接続していた者にとって、今回の接続体験は「いい経験」になりました。
今日は、石垣島2日目の生活に入っています。今回は、「どこそこへ行きたい!」という旅ではないので、宿周辺の町を歩きながらのんびりと過ごしています。
残念なのは、「予想していた以上に暑い」ということで、歩き回っているだけで疲れています。それで、島内バス全路線5日間乗り放題チケット(2000円)を使って、バスに乗りまくる過ごし方をすることにしました。
2年前にできた「新石垣空港」と石垣市内中心部とは離れています。バスで40分かかり、バス代は540円。往復すると、1000円超します。タクシーだと2700円ぐらいです。多くの人がバス利用のようです。新しくて気持ちのいい空港になりましたが、移動費用は高くつく空港になりました。
5日間乗り放題のチケットはたいへん経済的で便利です。すでに、昨日と今日で3000円分ほどバスを利用しました。とにかく連日30℃前後あり、もう「真夏」なので、歩くのは控えめにして過ごしています。
こんなに暑いとは・・・! 私の予想がかなり外れました(悲)。
石垣島へ来たのは3度目ですが、冬の石垣島ばかり経験していたので、「5月の石垣島」を甘く見ていたようです。
それに、台風6号が・・・。湿度が高くなっており・・・。蒸し暑くて、クーラーをつけっぱなしにして寝ています。
というような状況ですので、早めに帰るかも?
格安航空利用で石垣島へ来る人が増えて、宿関係者は「多すぎて疲れる」らしく、困っているようなことを耳にしました。特に人気の「竹富島」の宿泊施設や観光関係者は忙しすぎてたいへんらしいようです。人口の少ない島ですから・・・。
観光客が来すぎて、(例えば)「トイレ」利用者が多くて(許容を越えると)たいへんらしい。「竹富島の良さ」が多すぎる観光客によって破壊されていくかもしれません。
(ちなみに、今回、私は竹富島へは行きません。石垣島をうろうろするだけになりそうです。)
(ネットがつながったので、格安チケットをネット購入する予定です。空港カウンターで購入すると、手数料が一人3000円ほどかかるので、ネット接続できて、ほっとしています。二人分だと、6000円ほどの節約になりますから。ピーチはネットで購入してもらうことを条件に「格安」にしていますね。)
帰りのチケットをネットで購入しようと思っていたので、ネット画面を確認できたときは、ほっとしました。有線でばかりネットに接続していた者にとって、今回の接続体験は「いい経験」になりました。
今日は、石垣島2日目の生活に入っています。今回は、「どこそこへ行きたい!」という旅ではないので、宿周辺の町を歩きながらのんびりと過ごしています。
残念なのは、「予想していた以上に暑い」ということで、歩き回っているだけで疲れています。それで、島内バス全路線5日間乗り放題チケット(2000円)を使って、バスに乗りまくる過ごし方をすることにしました。
2年前にできた「新石垣空港」と石垣市内中心部とは離れています。バスで40分かかり、バス代は540円。往復すると、1000円超します。タクシーだと2700円ぐらいです。多くの人がバス利用のようです。新しくて気持ちのいい空港になりましたが、移動費用は高くつく空港になりました。
5日間乗り放題のチケットはたいへん経済的で便利です。すでに、昨日と今日で3000円分ほどバスを利用しました。とにかく連日30℃前後あり、もう「真夏」なので、歩くのは控えめにして過ごしています。
こんなに暑いとは・・・! 私の予想がかなり外れました(悲)。
石垣島へ来たのは3度目ですが、冬の石垣島ばかり経験していたので、「5月の石垣島」を甘く見ていたようです。
それに、台風6号が・・・。湿度が高くなっており・・・。蒸し暑くて、クーラーをつけっぱなしにして寝ています。
というような状況ですので、早めに帰るかも?
格安航空利用で石垣島へ来る人が増えて、宿関係者は「多すぎて疲れる」らしく、困っているようなことを耳にしました。特に人気の「竹富島」の宿泊施設や観光関係者は忙しすぎてたいへんらしいようです。人口の少ない島ですから・・・。
観光客が来すぎて、(例えば)「トイレ」利用者が多くて(許容を越えると)たいへんらしい。「竹富島の良さ」が多すぎる観光客によって破壊されていくかもしれません。
(ちなみに、今回、私は竹富島へは行きません。石垣島をうろうろするだけになりそうです。)
(ネットがつながったので、格安チケットをネット購入する予定です。空港カウンターで購入すると、手数料が一人3000円ほどかかるので、ネット接続できて、ほっとしています。二人分だと、6000円ほどの節約になりますから。ピーチはネットで購入してもらうことを条件に「格安」にしていますね。)
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2015/3/25
「関西とはどこの関所から西なのか?」 旅行記録
東海道53次歩き旅を始めて、約1年経過。
日帰りの「数珠繋ぎ歩き」でスタートした旅であったが、前回(3月13日・14日)は「一泊しての歩き旅」になった。今後も宿泊を伴う旅になるだろう。約500kmの歩き旅だが、現在、4分の1ぐらいの行程は達成したようである。
関西(京都・三条大橋)からスタートして、関東(江戸・日本橋)を目指して歩いている。その途中である。
江戸時代までは、京都へ向かう方向が「上り」であった。天皇が京都にお住まいだったからである。「江戸」から「東京」に変わって(明治時代になって)から、都が東に移って、「東京」と呼ばれ、天皇の住まいが変わってから、(東海道においては)上りと下りが逆になってしまった。
東京へ向かう方向が「上り」になった歴史は浅い。150年も経っていない。
江戸が「東の京」になってから150年足らず経過しているが、この150年ほどの「東京の繁栄振り」はたいしたものである。
江戸の繁栄を引き継いで、東京となってからも、さらなる繁栄はものすごい勢いである。しかし、くどく繰り返すが、「歴史は浅い」。
歴史があれば「何でも良い」とは思っていないが、「歴史に学ぶことは多い」ものだ。そのことだけ言っておきたい。
ところで、東海道53次歩き旅をしてきて、考えたことがある。
関西、関東という言葉について。あまり意識しないで聞き、使ってきた言葉である。
今回、歩き旅をするようになって、逢坂(おうさかの)関と鈴鹿の関を越えてから、意識して考えるようになった。
「関=関所」だから、「関西=関所の西」ってことになる。はて、どこの「関所」よりも西側が「関西なんだろうか?」。
博学な方にとっては、簡単な問題なのだろうが、私にはわからない疑問であった。
(ここから続きです。)
そこで調べてみた。いろいろ調べてみたところ、辞書によって説明が微妙に違った。
辞書の他に、ネットでも調べてみた。
調べれば調べるほど、「住んでいる人によって、あるいは時代によって」、「関西」の位置・範囲、認識が違うということが明らかになってきた。
私が一番納得した「関西」についての説明は、大和朝廷の防衛ラインにおける関所を根拠にしたものである。
大和朝廷は奈良盆地で居を構え、日本を支配していた。その奈良盆地防衛のために置いた軍事拠点。それが、3ヶ所の関所(三関)であった。関所を軍事拠点とし、奈良盆地に構えていた「天子の宮城=皇居」を防衛したわけである。三関より西側の地域は大和朝廷の直轄地であったが、三関より東側地域は支配しきれていなかった。だから、三関は絶対的防衛線であった。
大和朝廷の時代が終わっても、平安時代初期ごろまで、三関より東を「警戒すべき異民族」が住む地域とみなしていたようである。
大和朝廷が日本を統一したとはいえ、日本列島全体を支配しきれていなかった時代である。
その三関とは、「不破関(ふわのせき)=岐阜県」・「鈴鹿関(すずかのせき)=三重県」・「愛発関(あらちのせき=福井県」である。
これらの関所は時代の経過につれて、役割や位置づけが変わっていき、関所が廃止されていった。平安時代になり、天皇の住まいは京都に定着した。
それに伴って、「関西」地域は変化することになった。関所の位置づけが変化したらしい。
京都盆地(天皇の住まいのあるところ)を防衛するための「絶対的防衛拠点ライン」として、重要視され始めたのが、「逢坂(おうさかの)関」であった。
だから、逢坂関(現在、京都市と大津市の境目付近にある関)よりも西側が、「関西」であった。それに伴って、逢坂関よりも東側を「関東」とみなしていた。今の滋賀県は(昔は)関東であり、東国にある国々の一つであったのだ。
京(京都)が政治経済・文化や芸術の「文明圏」であり、逢坂関よりも東側の国々の人々を「文明圏外に住む人々」とみなしていたのであろう。
しかし、京都中心の政治は永遠ではなかった。鎌倉幕府が実権を握る時代に入った。
天皇の力は平安時代よりもなくなり、武士が力を持つに連れて、「京都の力」は衰弱していくことになった。
そういう時代の流れに沿う形で、「関西」地域も変化したようである。
「逢坂関」の重要度は低くなっていった。
それでどうなったのか? 「大和朝廷の時代の三関」がやはり重要拠点の関所とみなされたのだ。「関西は、昔に戻った」のだ。
鎌倉時代における「関西」地域は、三関(不破関・鈴鹿関・愛発関)よりも西側ということになったわけである。
東側は当然「関東」であった。
三関の中でも、特に重要な(東西を分ける)関所は、鈴鹿の関所だったと考えられる。
江戸時代に入り、箱根の関所が重要度を増してくるまでは、鈴鹿の関所が多くの日本人に意識されていたにちがいない。名古屋や鎌倉などから京都へ向かう場合、最大の難所は「鈴鹿越え」である。その鈴鹿の関所こそ、「関西」への入り口とみなせるだろう。人々の意識も「鈴鹿関の西側=関西」と考えていたにちがいない。
不破関や愛発関の存在感は鎌倉に幕府が置かれてからは、低下していった(と、私は考えている)。歴史的にも、不破関や愛発関の存在は軽い扱いになっていった。
もっとも、不破関は「天下分け目の戦い」となった1600年の「関ヶ原の戦い」で、重要な場所になったのだが・・・。
鎌倉時代・室町時代(戦国時代)・安土桃山時代と時代が経過しても、「関西」地域は変わらなかった。鈴鹿の関所よりも西側が「関西」で、東が「関東」であった。
しかし、江戸時代になり、「関西」は微妙に変化しだした。大坂・京などの関西圏に住む人・尾張などの名古屋圏に住む人・江戸などの関東圏に住む人それぞれによって、認識に変化が起こり始めたわけである。
(ここから続き・まとめになります。)
江戸時代になり、江戸が権力者の中心地となった。参勤交代の制度で、各大名たちは江戸に屋敷(上屋敷・中屋敷・下屋敷)を設置しなければならず、約200藩の大名たちはものすごい出費となった。各藩が蓄財できないようにした制度が、参勤交代だったにちがいない。一年ごとに江戸へ行かねばならぬ経費は莫大な費用を要したであろう。
江戸から遠い藩は参勤交代制度によって藩財政が疲弊していったようである。徳川幕府に逆らう力を「財力」の面で、なえさせていったのである。
西日本の各藩の参勤交代では、東海道を行くことがほとんどであった。中山道も利用したらしいが、利用度は低かったようである。
江戸城防衛のための関所として、重視されたのが、「箱根の関所」。江戸への侵入を防御する拠点として、最も重視されたのである。
箱根の関所より東の8か国を関八州(かんはっしゅう)と称した。つまり、関東地方は「箱根の関所」より東側であり、箱根の関所よりも、西側を「関西」とみなすようになっていったのである。
だから、江戸時代においては、箱根の関所よりも西はすべて「関西」とみなされていたのである。
ところがどっこい、そういう認識・捉え方は、江戸周辺に住む関東人の認識であって、関西人にとっての「関西の範囲」は、「逢坂の関」または「鈴鹿の関所」より西側の地域のままだったと考えられる。
江戸時代に入っても、京都に住まう天皇。一方、将軍が住まい、権力をふるう本拠地は江戸。関西人と関東人の認識の違いはいろいろな方面で現れ、その違いが顕著になっていった。それが、江戸時代の特徴の一つだと考えられる。
明治になり、日本を地域区分するときの「関西地方」の認識がほぼ一般化していったようである。
関西=京都・大阪・神戸を中心とする一帯。(京阪神地方)
という認識が一般化した。狭い範囲で考えれば、「逢坂の関」のラインであり、広く捉えると(関西地方=近畿地方という捉えかたをすると)「鈴鹿の関」のラインが、現在に至っていると考えられるのである。「箱根の関より西側=関西」という認識は、江戸時代が過ぎ去って消失していったと考えられる。
名古屋を中心とした地域は、関西地方と関東地方の「中」であり、「中部地方」という認識で落ちついたのであろう。中部地方とは「鈴鹿の関」ラインと「箱根の関」ラインが両サイドにある地域だといえるであろう。
日本の地域区分を考えるに当たって、その地形と歴史を絡めて推測することは「楽しい思考」でした。
まとめが不十分ですが、一応ここまでとします。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。(今回、長いブログになりました。) 完
日帰りの「数珠繋ぎ歩き」でスタートした旅であったが、前回(3月13日・14日)は「一泊しての歩き旅」になった。今後も宿泊を伴う旅になるだろう。約500kmの歩き旅だが、現在、4分の1ぐらいの行程は達成したようである。
関西(京都・三条大橋)からスタートして、関東(江戸・日本橋)を目指して歩いている。その途中である。
江戸時代までは、京都へ向かう方向が「上り」であった。天皇が京都にお住まいだったからである。「江戸」から「東京」に変わって(明治時代になって)から、都が東に移って、「東京」と呼ばれ、天皇の住まいが変わってから、(東海道においては)上りと下りが逆になってしまった。
東京へ向かう方向が「上り」になった歴史は浅い。150年も経っていない。
江戸が「東の京」になってから150年足らず経過しているが、この150年ほどの「東京の繁栄振り」はたいしたものである。
江戸の繁栄を引き継いで、東京となってからも、さらなる繁栄はものすごい勢いである。しかし、くどく繰り返すが、「歴史は浅い」。
歴史があれば「何でも良い」とは思っていないが、「歴史に学ぶことは多い」ものだ。そのことだけ言っておきたい。
ところで、東海道53次歩き旅をしてきて、考えたことがある。
関西、関東という言葉について。あまり意識しないで聞き、使ってきた言葉である。
今回、歩き旅をするようになって、逢坂(おうさかの)関と鈴鹿の関を越えてから、意識して考えるようになった。
「関=関所」だから、「関西=関所の西」ってことになる。はて、どこの「関所」よりも西側が「関西なんだろうか?」。
博学な方にとっては、簡単な問題なのだろうが、私にはわからない疑問であった。
(ここから続きです。)
そこで調べてみた。いろいろ調べてみたところ、辞書によって説明が微妙に違った。
辞書の他に、ネットでも調べてみた。
調べれば調べるほど、「住んでいる人によって、あるいは時代によって」、「関西」の位置・範囲、認識が違うということが明らかになってきた。
私が一番納得した「関西」についての説明は、大和朝廷の防衛ラインにおける関所を根拠にしたものである。
大和朝廷は奈良盆地で居を構え、日本を支配していた。その奈良盆地防衛のために置いた軍事拠点。それが、3ヶ所の関所(三関)であった。関所を軍事拠点とし、奈良盆地に構えていた「天子の宮城=皇居」を防衛したわけである。三関より西側の地域は大和朝廷の直轄地であったが、三関より東側地域は支配しきれていなかった。だから、三関は絶対的防衛線であった。
大和朝廷の時代が終わっても、平安時代初期ごろまで、三関より東を「警戒すべき異民族」が住む地域とみなしていたようである。
大和朝廷が日本を統一したとはいえ、日本列島全体を支配しきれていなかった時代である。
その三関とは、「不破関(ふわのせき)=岐阜県」・「鈴鹿関(すずかのせき)=三重県」・「愛発関(あらちのせき=福井県」である。
これらの関所は時代の経過につれて、役割や位置づけが変わっていき、関所が廃止されていった。平安時代になり、天皇の住まいは京都に定着した。
それに伴って、「関西」地域は変化することになった。関所の位置づけが変化したらしい。
京都盆地(天皇の住まいのあるところ)を防衛するための「絶対的防衛拠点ライン」として、重要視され始めたのが、「逢坂(おうさかの)関」であった。
だから、逢坂関(現在、京都市と大津市の境目付近にある関)よりも西側が、「関西」であった。それに伴って、逢坂関よりも東側を「関東」とみなしていた。今の滋賀県は(昔は)関東であり、東国にある国々の一つであったのだ。
京(京都)が政治経済・文化や芸術の「文明圏」であり、逢坂関よりも東側の国々の人々を「文明圏外に住む人々」とみなしていたのであろう。
しかし、京都中心の政治は永遠ではなかった。鎌倉幕府が実権を握る時代に入った。
天皇の力は平安時代よりもなくなり、武士が力を持つに連れて、「京都の力」は衰弱していくことになった。
そういう時代の流れに沿う形で、「関西」地域も変化したようである。
「逢坂関」の重要度は低くなっていった。
それでどうなったのか? 「大和朝廷の時代の三関」がやはり重要拠点の関所とみなされたのだ。「関西は、昔に戻った」のだ。
鎌倉時代における「関西」地域は、三関(不破関・鈴鹿関・愛発関)よりも西側ということになったわけである。
東側は当然「関東」であった。
三関の中でも、特に重要な(東西を分ける)関所は、鈴鹿の関所だったと考えられる。
江戸時代に入り、箱根の関所が重要度を増してくるまでは、鈴鹿の関所が多くの日本人に意識されていたにちがいない。名古屋や鎌倉などから京都へ向かう場合、最大の難所は「鈴鹿越え」である。その鈴鹿の関所こそ、「関西」への入り口とみなせるだろう。人々の意識も「鈴鹿関の西側=関西」と考えていたにちがいない。
不破関や愛発関の存在感は鎌倉に幕府が置かれてからは、低下していった(と、私は考えている)。歴史的にも、不破関や愛発関の存在は軽い扱いになっていった。
もっとも、不破関は「天下分け目の戦い」となった1600年の「関ヶ原の戦い」で、重要な場所になったのだが・・・。
鎌倉時代・室町時代(戦国時代)・安土桃山時代と時代が経過しても、「関西」地域は変わらなかった。鈴鹿の関所よりも西側が「関西」で、東が「関東」であった。
しかし、江戸時代になり、「関西」は微妙に変化しだした。大坂・京などの関西圏に住む人・尾張などの名古屋圏に住む人・江戸などの関東圏に住む人それぞれによって、認識に変化が起こり始めたわけである。
(ここから続き・まとめになります。)
江戸時代になり、江戸が権力者の中心地となった。参勤交代の制度で、各大名たちは江戸に屋敷(上屋敷・中屋敷・下屋敷)を設置しなければならず、約200藩の大名たちはものすごい出費となった。各藩が蓄財できないようにした制度が、参勤交代だったにちがいない。一年ごとに江戸へ行かねばならぬ経費は莫大な費用を要したであろう。
江戸から遠い藩は参勤交代制度によって藩財政が疲弊していったようである。徳川幕府に逆らう力を「財力」の面で、なえさせていったのである。
西日本の各藩の参勤交代では、東海道を行くことがほとんどであった。中山道も利用したらしいが、利用度は低かったようである。
江戸城防衛のための関所として、重視されたのが、「箱根の関所」。江戸への侵入を防御する拠点として、最も重視されたのである。
箱根の関所より東の8か国を関八州(かんはっしゅう)と称した。つまり、関東地方は「箱根の関所」より東側であり、箱根の関所よりも、西側を「関西」とみなすようになっていったのである。
だから、江戸時代においては、箱根の関所よりも西はすべて「関西」とみなされていたのである。
ところがどっこい、そういう認識・捉え方は、江戸周辺に住む関東人の認識であって、関西人にとっての「関西の範囲」は、「逢坂の関」または「鈴鹿の関所」より西側の地域のままだったと考えられる。
江戸時代に入っても、京都に住まう天皇。一方、将軍が住まい、権力をふるう本拠地は江戸。関西人と関東人の認識の違いはいろいろな方面で現れ、その違いが顕著になっていった。それが、江戸時代の特徴の一つだと考えられる。
明治になり、日本を地域区分するときの「関西地方」の認識がほぼ一般化していったようである。
関西=京都・大阪・神戸を中心とする一帯。(京阪神地方)
という認識が一般化した。狭い範囲で考えれば、「逢坂の関」のラインであり、広く捉えると(関西地方=近畿地方という捉えかたをすると)「鈴鹿の関」のラインが、現在に至っていると考えられるのである。「箱根の関より西側=関西」という認識は、江戸時代が過ぎ去って消失していったと考えられる。
名古屋を中心とした地域は、関西地方と関東地方の「中」であり、「中部地方」という認識で落ちついたのであろう。中部地方とは「鈴鹿の関」ラインと「箱根の関」ラインが両サイドにある地域だといえるであろう。
日本の地域区分を考えるに当たって、その地形と歴史を絡めて推測することは「楽しい思考」でした。
まとめが不十分ですが、一応ここまでとします。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。(今回、長いブログになりました。) 完
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2014/11/4
「西之表市・鉄砲館など」 旅行記録
旅行3日目(10月29日)
早朝に目が覚めたので、ホテル周辺を一人で散歩することにした。西之表港は静かだった。フェリー乗り場のすぐ近くで、漁船が小魚を陸揚げする作業をしていた。小魚は「きびなご」だとわかった。今が旬らしい。
漁港の様子を見学した後、「火縄銃の国産化」を初めて成し遂げた鍛冶職人=「八板金兵衛清定」像を探すことにした。それは、漁港から約300mの位置にあった。二人の鍛冶職人が作業をしている姿の銅像であった。おそらく腰をかがめている職人が八板金兵衛(やいたきんべえ)であろう。(特に説明はなかったが。)
さらに散歩を続けることにした。
次に向かったところは、八板金兵衛の娘「若狭」の墓地。
金兵衛は(島主)種子島時堯から「伝来鉄砲の模造品=鉄砲の国産品」を製作するように命じられ、日々努力していた。そして、「ほぼ同じような火縄銃」を短期間で、完成させたのだ。(すごくパクリ力のある優秀鍛冶職人だったのだ!)
しかし・・・。鍛冶職人として最高の能力を発揮したのだが、どうしても模造できなかった部分があった。それは「ネジ」であった。
雄ネジの模造はできたが、雌ネジ部分を造ることは困難で、悩みに悩んだ。いくら知恵を絞っても、鍛冶能力最高の力を発揮しても、鉄砲の尾栓部に「雌ネジ」を造る事はできなかった。
その当時の日本では、ネジというものを誰も知らなかった時代であったから。日本にはネジはなかったのだ。
悩みに悩んだが、結果、ネジ部を造れずに、鉄砲の筒の尾栓を塞いだままの「模造火縄銃」を完成させた。それが、日本で初めて製造された「火縄銃」であった。それら30挺ほどの「欠陥火縄銃」は、戦において実際に使われてたのだ。そしたら・・・。
その銃は2、3発発砲したら、火薬の滓が筒の中に残ってしまい、使い物にならなくなってしまった。というよりも、欠陥銃であり、弾が手元で暴発したのだ。欠陥銃の射手は大怪我をしてしまった。
「使い物にならない、危険な欠陥銃」であることがはっきりした。ポルトガル伝来銃とは「似てはいるが、欠陥銃」でしかなかった。
八板金兵衛は自分の未熟さを恥じ、悩みに悩んだ。
「ネジの造り方がわからない、わからない。このままでは、使い物にならない・・・。ネジの造り方さえ分かれば・・・!」
その苦しみを目の当たりにして暮らしていた娘「若狭」は、「何とかしてあげたい! 私にできることがあれば・・・」と、日々考えるようになっていった。
鉄砲伝来後、1年が経過したが、火縄銃は欠陥銃のままであった。
そのころ、明国(中国)船が、再び種子島にポルトガル人・中国人らを乗せてやってきたのだ。その船の乗組員の中に、鉄匠(鉄砲製造技術者)が乗り合わせていると、ポルトガル人(1年前に来ていた人物で、名はフランシスコ・ゼイモット)が種子島時堯に伝えた。
時堯は「吉報だ! 金兵衛に早速知らせてやろう!」と大喜び。
ところが、鉄砲尾栓部ネジの製造法を伝授するために条件が出された。
その条件は、娘の若狭がゼイモットの嫁(つまり国際結婚)になることを要求されたのであった。
金兵衛は親として苦しんだ。「得体の知れない異国人」に娘を嫁に・・・。若狭を「鉄砲製造の犠牲」に・・・。そんなことはしたくない! 親として当然の考えであっただろう。
ところが、若狭は島主(時堯)に絶対服従の立場であった刀鍛冶職人=金兵衛(父親)のために、身を捧げる覚悟で、その結婚を承諾したのであった。「政略結婚」のような結婚と似たような感覚だったのだろう。父のために、父の苦しい状況を救うために「何かをしてあげたい」常日頃から思い続けていた若狭。なんとまあ、親思いの娘なのか!
この話は「伝説」のレベルの話である。しかし、とにかく、ポルトガル人が伝えた火縄銃が一年後ぐらいに「国産化に成功」したことは事実である。
金兵衛の刀鍛冶としての高度な能力とその娘・若狭の働き(犠牲的行為)によって、ネジ製造法を(外国人の鉄匠に)教えてもらうことができた。そして、「火縄銃の国産化」は見事に完成した。
火縄銃の製造法は瞬く間に本土(堺など)に伝わっていった。
種子島伝来から13年後(1556年)には、日本は30万挺もの鉄砲を保有している。鉄砲30万挺を保有する国は、(当時としては)「世界最大の軍事大国」だったのだ。鉄砲30万挺を保有していた国はなかったのだ。
この日本の技術力はすごい! 日本の技術力のすごさは、中世から近世へ、さらに現代へ伝えられている。
ネジ製造法が伝授されてから、日本の近代化がスタートしたと言えるであろう。
織機の発明や、電子立国として世界に貢献し、自動車産業などで世界のトップ技術を保っている。鋼管製造や建設機械製造など、いろいろな分野における日本の技術レベルは、ぬきんでている。「世界のトップレベル」である技術はものすごく多い。
この技術の種は、「種子島」からスタートしたものだったのだ。
技術の種子が日本の「種子島」で蒔かれ、今や、ロケット発射基地となった。
この結びつきは、何か意味のあることであろう。
朝の散歩で、「若狭の墓」にお参りできたことは、感慨深いことであった。
朝食後、火縄銃100挺が展示してあった「鉄砲館」を見学した。「うわぁ100挺も! 壮観だ!」と目を見張った。堺市や国友(滋賀県)などで火縄銃を見てきたが、100挺を一度に見たの初めてだった。すごい! 感激、感激。
ポルトガル伝来銃や(金兵衛による)国産化火縄銃も展示されていた。流石、種子島「鉄砲館」だと、感心した。
種子島に来ることができて「幸せ」だった。
午後2時発のフェリー「プリンセスわかさ」に乗船し、鹿児島にもどった。
一日違いで、海は(昨日の波とは)打って変わって静かであった。フェリーはほとんど揺れなかった。
佐多岬にさよならをして、錦江湾内に入った。桜島が見えてきた頃、夕方になっていた。
旅はほぼ終わった。
鹿児島市内のホテルで一泊した。
旅行4日目(10月30日)
午前中、鹿児島で一番のデパート「山形屋(やまかたや)」で買い物をした。外観がとても素敵なデパートであった。規模は大阪市内のデパートに比べれば小さいが、「雰囲気のいいデパート」だと感じた。
鹿児島市内から空港行きの高速バスで約50分で、鹿児島空港に到着。
ピーチ利用で、関空へ。
無事、予定通り午後3時ごろ自宅に帰ってきた。(ピーチの乗り方にも慣れてきました。)
八板金兵衛像
若狭の墓
鉄砲館全景
八板金兵衛製作の火縄銃(西之表市指定文化財)
種子島家14代島主・種子島時尭(ときたか)像
鉄砲館の近くの丘(城跡)に建てられていた。
(帰りのフェリーより撮影)佐多岬灯台は小島の頂上に。それにしても、すごいところに建設したものだ!
早朝に目が覚めたので、ホテル周辺を一人で散歩することにした。西之表港は静かだった。フェリー乗り場のすぐ近くで、漁船が小魚を陸揚げする作業をしていた。小魚は「きびなご」だとわかった。今が旬らしい。
漁港の様子を見学した後、「火縄銃の国産化」を初めて成し遂げた鍛冶職人=「八板金兵衛清定」像を探すことにした。それは、漁港から約300mの位置にあった。二人の鍛冶職人が作業をしている姿の銅像であった。おそらく腰をかがめている職人が八板金兵衛(やいたきんべえ)であろう。(特に説明はなかったが。)
さらに散歩を続けることにした。
次に向かったところは、八板金兵衛の娘「若狭」の墓地。
金兵衛は(島主)種子島時堯から「伝来鉄砲の模造品=鉄砲の国産品」を製作するように命じられ、日々努力していた。そして、「ほぼ同じような火縄銃」を短期間で、完成させたのだ。(すごくパクリ力のある優秀鍛冶職人だったのだ!)
しかし・・・。鍛冶職人として最高の能力を発揮したのだが、どうしても模造できなかった部分があった。それは「ネジ」であった。
雄ネジの模造はできたが、雌ネジ部分を造ることは困難で、悩みに悩んだ。いくら知恵を絞っても、鍛冶能力最高の力を発揮しても、鉄砲の尾栓部に「雌ネジ」を造る事はできなかった。
その当時の日本では、ネジというものを誰も知らなかった時代であったから。日本にはネジはなかったのだ。
悩みに悩んだが、結果、ネジ部を造れずに、鉄砲の筒の尾栓を塞いだままの「模造火縄銃」を完成させた。それが、日本で初めて製造された「火縄銃」であった。それら30挺ほどの「欠陥火縄銃」は、戦において実際に使われてたのだ。そしたら・・・。
その銃は2、3発発砲したら、火薬の滓が筒の中に残ってしまい、使い物にならなくなってしまった。というよりも、欠陥銃であり、弾が手元で暴発したのだ。欠陥銃の射手は大怪我をしてしまった。
「使い物にならない、危険な欠陥銃」であることがはっきりした。ポルトガル伝来銃とは「似てはいるが、欠陥銃」でしかなかった。
八板金兵衛は自分の未熟さを恥じ、悩みに悩んだ。
「ネジの造り方がわからない、わからない。このままでは、使い物にならない・・・。ネジの造り方さえ分かれば・・・!」
その苦しみを目の当たりにして暮らしていた娘「若狭」は、「何とかしてあげたい! 私にできることがあれば・・・」と、日々考えるようになっていった。
鉄砲伝来後、1年が経過したが、火縄銃は欠陥銃のままであった。
そのころ、明国(中国)船が、再び種子島にポルトガル人・中国人らを乗せてやってきたのだ。その船の乗組員の中に、鉄匠(鉄砲製造技術者)が乗り合わせていると、ポルトガル人(1年前に来ていた人物で、名はフランシスコ・ゼイモット)が種子島時堯に伝えた。
時堯は「吉報だ! 金兵衛に早速知らせてやろう!」と大喜び。
ところが、鉄砲尾栓部ネジの製造法を伝授するために条件が出された。
その条件は、娘の若狭がゼイモットの嫁(つまり国際結婚)になることを要求されたのであった。
金兵衛は親として苦しんだ。「得体の知れない異国人」に娘を嫁に・・・。若狭を「鉄砲製造の犠牲」に・・・。そんなことはしたくない! 親として当然の考えであっただろう。
ところが、若狭は島主(時堯)に絶対服従の立場であった刀鍛冶職人=金兵衛(父親)のために、身を捧げる覚悟で、その結婚を承諾したのであった。「政略結婚」のような結婚と似たような感覚だったのだろう。父のために、父の苦しい状況を救うために「何かをしてあげたい」常日頃から思い続けていた若狭。なんとまあ、親思いの娘なのか!
この話は「伝説」のレベルの話である。しかし、とにかく、ポルトガル人が伝えた火縄銃が一年後ぐらいに「国産化に成功」したことは事実である。
金兵衛の刀鍛冶としての高度な能力とその娘・若狭の働き(犠牲的行為)によって、ネジ製造法を(外国人の鉄匠に)教えてもらうことができた。そして、「火縄銃の国産化」は見事に完成した。
火縄銃の製造法は瞬く間に本土(堺など)に伝わっていった。
種子島伝来から13年後(1556年)には、日本は30万挺もの鉄砲を保有している。鉄砲30万挺を保有する国は、(当時としては)「世界最大の軍事大国」だったのだ。鉄砲30万挺を保有していた国はなかったのだ。
この日本の技術力はすごい! 日本の技術力のすごさは、中世から近世へ、さらに現代へ伝えられている。
ネジ製造法が伝授されてから、日本の近代化がスタートしたと言えるであろう。
織機の発明や、電子立国として世界に貢献し、自動車産業などで世界のトップ技術を保っている。鋼管製造や建設機械製造など、いろいろな分野における日本の技術レベルは、ぬきんでている。「世界のトップレベル」である技術はものすごく多い。
この技術の種は、「種子島」からスタートしたものだったのだ。
技術の種子が日本の「種子島」で蒔かれ、今や、ロケット発射基地となった。
この結びつきは、何か意味のあることであろう。
朝の散歩で、「若狭の墓」にお参りできたことは、感慨深いことであった。
朝食後、火縄銃100挺が展示してあった「鉄砲館」を見学した。「うわぁ100挺も! 壮観だ!」と目を見張った。堺市や国友(滋賀県)などで火縄銃を見てきたが、100挺を一度に見たの初めてだった。すごい! 感激、感激。
ポルトガル伝来銃や(金兵衛による)国産化火縄銃も展示されていた。流石、種子島「鉄砲館」だと、感心した。
種子島に来ることができて「幸せ」だった。
午後2時発のフェリー「プリンセスわかさ」に乗船し、鹿児島にもどった。
一日違いで、海は(昨日の波とは)打って変わって静かであった。フェリーはほとんど揺れなかった。
佐多岬にさよならをして、錦江湾内に入った。桜島が見えてきた頃、夕方になっていた。
旅はほぼ終わった。
鹿児島市内のホテルで一泊した。
旅行4日目(10月30日)
午前中、鹿児島で一番のデパート「山形屋(やまかたや)」で買い物をした。外観がとても素敵なデパートであった。規模は大阪市内のデパートに比べれば小さいが、「雰囲気のいいデパート」だと感じた。
鹿児島市内から空港行きの高速バスで約50分で、鹿児島空港に到着。
ピーチ利用で、関空へ。
無事、予定通り午後3時ごろ自宅に帰ってきた。(ピーチの乗り方にも慣れてきました。)
八板金兵衛像
若狭の墓
鉄砲館全景
八板金兵衛製作の火縄銃(西之表市指定文化財)
種子島家14代島主・種子島時尭(ときたか)像
鉄砲館の近くの丘(城跡)に建てられていた。
(帰りのフェリーより撮影)佐多岬灯台は小島の頂上に。それにしても、すごいところに建設したものだ!
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2014/10/29
「門倉岬・鉄浜海岸」 旅行記録
旅行2日目(10月28日)
午前8時40分発のフェリー「プリンセスわかさ」で種子島へ。
大隅半島先端部の佐多岬を過ぎて、東シナ海と太平洋との接点海域に出たとたん、フェリーはものすごく揺れだした。錦江湾(鹿児島湾)内と外海とでは揺れがまったく違った。大型フェリーでも、すごく揺れた。この海域は、東シナ海の潮の流れと太平洋の潮の流れ(黒潮の本流)が合流し、波が立ちやすいのであろう。風も強かったので、波も大きかった。柱などにつかまりながら佐多岬の灯台を眺めていた。しっかりつかまりながら、白い灯台を見つめ、陸地からながめた何年か前の「大隅半島への旅行」を思い出していた。
立っていられないぐらい揺れ続けていたが、佐多岬灯台の白さが心にしみた。感無量。
佐多岬灯台を船上から見ることができて、感激した。以前の旅行で、大隅半島先端部(陸地)から灯台を眺めたことはあったが、船上からは初めてだった。感無量! 白い灯台が目に焼きついた。
この灯台は小さな島の上にあるため、一般人は歩いては灯台そのものへたどり着けない。船をチャーターして、波静かなタイミングで上陸するしかない。危険な島なので、一般人は立ち入り禁止になっていることであろう。波が激しくぶつかる岩礁地帯にある小島。その島の頂上部に灯台が建設されている。建設資材はどんな方法で運んだのであろうか? とにかく、非常に重要な灯台の一つにちがいない。
「フランシスコザビエルらが、日本(鹿児島)にやってきた時にも、この佐多岬をながめ、開聞岳をながめ、錦江湾(鹿児島湾)に入ったのだなあ!」
と想像しながら、佐多岬を長い時間ながめていた。歴史を感じながら、風景を眺めるのは、楽しい時間である。高速フェリーに乗らなくて、かえって、よかった。長い時間、開聞岳や佐多岬を眺めていることができたから。
佐多岬が完全に見えなくなった頃、種子島ははっきりと見え出した。
いよいよ、種子島だ!
種子島・西之表港に着く直前に、レンタカー会社に連絡。港でレンタカーを用意して待っていてくれた。ありがたかった。
12時50分ごろに、港の待合室で契約・料金の支払いを済ませることができた。
昼食もとらずに、種子島ドライブを開始した。車の返却予定は(ガソリンスタンドは午後6時ごろに閉まるスタンドが多い島だとのことで)午後6時ごろにした。営業時間の短い島だなあ・・・と驚いた。(大阪だったら、考えられない閉店時間です。島には島の事情があるのでしょうね。)
車の返却時間から予想して、(のんびりしていられないので)早速「門倉岬」を目指すことにした。
途中、「千座(ちくら)の岩屋」という海岸部にある洞穴を見学しに行った。干潮時のみ洞穴(1000人が座れる広さとのこと)に入れるとガイドに書いてあった。
干潮時間を調べていなかった。
たどり着いた時は、残念ながら干潮時ではなかった。波が激しくて近づくこともできなかった。種子島における観光スポットらしいが、海岸には誰一人いなかった。
遠浅の美しい海岸に白く大きな波がザザァー、ザザァーと長くゆったりと押し寄せていた。 そのゆったりした白い波は「見事」であった。
洞穴「千座の岩屋」には入れなかったけれど、打ち寄せる波は価値あるものであった。
さて、今回の目的地、「門倉岬」へ急がねば!
わが憧れの地(鉄砲=火縄銃が日本に初めて伝来した地)=門倉岬に到着した!
門倉岬からの眺めた海岸線の雄大さ。その眺めは、太平洋の雄大さでもあった。
種子島最南端の岬。高さ約100mの断崖から美しい海岸線がパノラマのごとく見渡せた。鉄砲伝来の難破船(1643年、ポルトガル人たちが乗っていた船)が漂着した前之浜海岸がくっきりと見え、感動、感動。ワクワクしてその浜を眺め続けた。写真を何枚もいろいろな角度から撮り、満足した。満足、満足。
「念願がかなって、これで、思い残すことはない!」と自分に言い聞かせていた。(ちょっとオーバーです。まだまだ思い残していることがありますから。)
今まで、計画倒ればかりで、門倉岬はなかなか来る機会はありませんでした。天気も良く、感謝しています。台風上陸・接近は多い年。種子島は、歴史的に「難破船がたどり着くコースに当たる島」だとのこと。難破船に関する碑が一つや二つではない島で、難破船関係の碑がたくさんあって、びっくりしました。
「鉄砲伝来の地=種子島」は、偶然ではなく、必然だったと考えられますね。「黒潮」・「台風」などを考えると、種子島に難破船がたどり着くことになる。
特に、種子島の東側(太平洋に面している海岸)に漂着している。鉄砲伝来船も門倉岬直下の東側海岸であった。
感動の心を抱えつつ、門倉岬におさらばした。「たぶん、これがお別れになるであろう」と。
門倉岬からの帰り道、種子島宇宙センターへ行っては見たが、外観だけを見ただけで、館内見学はパスした。その方面は、あまり興味のない私。
時間がなかったので、次の目的地を目指した。
種子島の中心よりやや北東部、太平側にある鉄浜(かねはま)海岸へ行ってみた。
鉄分を多く含んだ砂浜だった。砂浜の色でわかった。真っ黒な「砂鉄海岸」と呼べる浜に、大きな波が次々と押し寄せていた。サーフィンに適した波がどんどん力強く寄せていたので、サーファーには人気があるだろう。大阪や東京からこの浜へ来るには交通費がたいへんだが。
この浜の「砂鉄」の量は鍛冶文化を育成したに違いない。砂鉄は無尽蔵(?)の海岸かも・・・? (ちょっとオーバーな表現です。でも、鉄分たっぷりの浜ですよ。)
この黒い海岸を実際に歩く経験ができ、満足しました。
今日、この浜を見に来て、浜を歩いているのは、私一人(妻は疲れたらしく車の中で休憩)だけでした。鉄浜海岸は私のプライベートビーチでしたよ(笑)
至福の時間でした。
佐多岬灯台
門倉岬(入り口に鉄砲射撃の銅像があった)
鉄砲伝来紀功碑(ここからの眺めが最高!)
岬直下は、崖および岩礁地帯。(危なくて降りていけなかった。)
岬から、鉄砲伝来船が漂着した浜(前之浜)を見下ろした風景。
海岸線の先には、(霞んでいるが)種子島宇宙センターの基地がある。後一ヶ月ほどで、ロケット発射とのこと。関係者が種子島にたくさん来られている気配である。打ち上げは成功するようにと期待しています。最近、アメリカでは失敗しましたね。現在でも、失敗はあるのですね。
鉄浜海岸の砂(黒い砂=鉄分たっぷり)
鉄浜海岸の風景。黒い砂浜が遠くまで続いていた。
「砂鉄の島」ゆえに、鉄砲伝来以前から鍛冶は盛んだったようである。鍛冶職人がかなりいる島で、現在も鍛冶屋が何軒もある。現在は、ハサミ(種子鋏)を生産しており、土産物として販売されていた。昔から鍛冶は盛んな島だったのだ。だから、日本にとって、ラッキーだったのだ。鍛冶職人の功績(鉄砲の国産化に、約一年後成功している。この功績はものすごく大きい! 難破船が他の島に漂着していたら、「鉄砲の国産化」が100年以上遅れていたかもしれない・・・。そういう想像をすることも、歴史を意識する手がかりになる。楽しい。
種子島はすばらしい!
午前8時40分発のフェリー「プリンセスわかさ」で種子島へ。
大隅半島先端部の佐多岬を過ぎて、東シナ海と太平洋との接点海域に出たとたん、フェリーはものすごく揺れだした。錦江湾(鹿児島湾)内と外海とでは揺れがまったく違った。大型フェリーでも、すごく揺れた。この海域は、東シナ海の潮の流れと太平洋の潮の流れ(黒潮の本流)が合流し、波が立ちやすいのであろう。風も強かったので、波も大きかった。柱などにつかまりながら佐多岬の灯台を眺めていた。しっかりつかまりながら、白い灯台を見つめ、陸地からながめた何年か前の「大隅半島への旅行」を思い出していた。
立っていられないぐらい揺れ続けていたが、佐多岬灯台の白さが心にしみた。感無量。
佐多岬灯台を船上から見ることができて、感激した。以前の旅行で、大隅半島先端部(陸地)から灯台を眺めたことはあったが、船上からは初めてだった。感無量! 白い灯台が目に焼きついた。
この灯台は小さな島の上にあるため、一般人は歩いては灯台そのものへたどり着けない。船をチャーターして、波静かなタイミングで上陸するしかない。危険な島なので、一般人は立ち入り禁止になっていることであろう。波が激しくぶつかる岩礁地帯にある小島。その島の頂上部に灯台が建設されている。建設資材はどんな方法で運んだのであろうか? とにかく、非常に重要な灯台の一つにちがいない。
「フランシスコザビエルらが、日本(鹿児島)にやってきた時にも、この佐多岬をながめ、開聞岳をながめ、錦江湾(鹿児島湾)に入ったのだなあ!」
と想像しながら、佐多岬を長い時間ながめていた。歴史を感じながら、風景を眺めるのは、楽しい時間である。高速フェリーに乗らなくて、かえって、よかった。長い時間、開聞岳や佐多岬を眺めていることができたから。
佐多岬が完全に見えなくなった頃、種子島ははっきりと見え出した。
いよいよ、種子島だ!
種子島・西之表港に着く直前に、レンタカー会社に連絡。港でレンタカーを用意して待っていてくれた。ありがたかった。
12時50分ごろに、港の待合室で契約・料金の支払いを済ませることができた。
昼食もとらずに、種子島ドライブを開始した。車の返却予定は(ガソリンスタンドは午後6時ごろに閉まるスタンドが多い島だとのことで)午後6時ごろにした。営業時間の短い島だなあ・・・と驚いた。(大阪だったら、考えられない閉店時間です。島には島の事情があるのでしょうね。)
車の返却時間から予想して、(のんびりしていられないので)早速「門倉岬」を目指すことにした。
途中、「千座(ちくら)の岩屋」という海岸部にある洞穴を見学しに行った。干潮時のみ洞穴(1000人が座れる広さとのこと)に入れるとガイドに書いてあった。
干潮時間を調べていなかった。
たどり着いた時は、残念ながら干潮時ではなかった。波が激しくて近づくこともできなかった。種子島における観光スポットらしいが、海岸には誰一人いなかった。
遠浅の美しい海岸に白く大きな波がザザァー、ザザァーと長くゆったりと押し寄せていた。 そのゆったりした白い波は「見事」であった。
洞穴「千座の岩屋」には入れなかったけれど、打ち寄せる波は価値あるものであった。
さて、今回の目的地、「門倉岬」へ急がねば!
わが憧れの地(鉄砲=火縄銃が日本に初めて伝来した地)=門倉岬に到着した!
門倉岬からの眺めた海岸線の雄大さ。その眺めは、太平洋の雄大さでもあった。
種子島最南端の岬。高さ約100mの断崖から美しい海岸線がパノラマのごとく見渡せた。鉄砲伝来の難破船(1643年、ポルトガル人たちが乗っていた船)が漂着した前之浜海岸がくっきりと見え、感動、感動。ワクワクしてその浜を眺め続けた。写真を何枚もいろいろな角度から撮り、満足した。満足、満足。
「念願がかなって、これで、思い残すことはない!」と自分に言い聞かせていた。(ちょっとオーバーです。まだまだ思い残していることがありますから。)
今まで、計画倒ればかりで、門倉岬はなかなか来る機会はありませんでした。天気も良く、感謝しています。台風上陸・接近は多い年。種子島は、歴史的に「難破船がたどり着くコースに当たる島」だとのこと。難破船に関する碑が一つや二つではない島で、難破船関係の碑がたくさんあって、びっくりしました。
「鉄砲伝来の地=種子島」は、偶然ではなく、必然だったと考えられますね。「黒潮」・「台風」などを考えると、種子島に難破船がたどり着くことになる。
特に、種子島の東側(太平洋に面している海岸)に漂着している。鉄砲伝来船も門倉岬直下の東側海岸であった。
感動の心を抱えつつ、門倉岬におさらばした。「たぶん、これがお別れになるであろう」と。
門倉岬からの帰り道、種子島宇宙センターへ行っては見たが、外観だけを見ただけで、館内見学はパスした。その方面は、あまり興味のない私。
時間がなかったので、次の目的地を目指した。
種子島の中心よりやや北東部、太平側にある鉄浜(かねはま)海岸へ行ってみた。
鉄分を多く含んだ砂浜だった。砂浜の色でわかった。真っ黒な「砂鉄海岸」と呼べる浜に、大きな波が次々と押し寄せていた。サーフィンに適した波がどんどん力強く寄せていたので、サーファーには人気があるだろう。大阪や東京からこの浜へ来るには交通費がたいへんだが。
この浜の「砂鉄」の量は鍛冶文化を育成したに違いない。砂鉄は無尽蔵(?)の海岸かも・・・? (ちょっとオーバーな表現です。でも、鉄分たっぷりの浜ですよ。)
この黒い海岸を実際に歩く経験ができ、満足しました。
今日、この浜を見に来て、浜を歩いているのは、私一人(妻は疲れたらしく車の中で休憩)だけでした。鉄浜海岸は私のプライベートビーチでしたよ(笑)
至福の時間でした。
佐多岬灯台
門倉岬(入り口に鉄砲射撃の銅像があった)
鉄砲伝来紀功碑(ここからの眺めが最高!)
岬直下は、崖および岩礁地帯。(危なくて降りていけなかった。)
岬から、鉄砲伝来船が漂着した浜(前之浜)を見下ろした風景。
海岸線の先には、(霞んでいるが)種子島宇宙センターの基地がある。後一ヶ月ほどで、ロケット発射とのこと。関係者が種子島にたくさん来られている気配である。打ち上げは成功するようにと期待しています。最近、アメリカでは失敗しましたね。現在でも、失敗はあるのですね。
鉄浜海岸の砂(黒い砂=鉄分たっぷり)
鉄浜海岸の風景。黒い砂浜が遠くまで続いていた。
「砂鉄の島」ゆえに、鉄砲伝来以前から鍛冶は盛んだったようである。鍛冶職人がかなりいる島で、現在も鍛冶屋が何軒もある。現在は、ハサミ(種子鋏)を生産しており、土産物として販売されていた。昔から鍛冶は盛んな島だったのだ。だから、日本にとって、ラッキーだったのだ。鍛冶職人の功績(鉄砲の国産化に、約一年後成功している。この功績はものすごく大きい! 難破船が他の島に漂着していたら、「鉄砲の国産化」が100年以上遅れていたかもしれない・・・。そういう想像をすることも、歴史を意識する手がかりになる。楽しい。
種子島はすばらしい!
<form action="https://gold.ap.teacup.com/applet/keke7761/671/clap" method="POST"><input type="submit" value="拍手" /></form> 2
2014/10/29
「念願の種子島へ」 旅行記録
旅行1日目(10月27日)
27日(月)の飛行機で鹿児島空港に着いた。噴火の兆候が見られ、頂上付近は立ち入り禁止になっている霧島連峰(の一部)。近年、噴火を起こしたことのある「新燃岳」も霧島連峰。活動中の桜島もすぐ近く。御嶽山の噴火があったので、霧島連峰近辺はピリピリしている。
霧島連峰宿泊地はキャンセルが多くなっているというニュースが流れていた。秋の行楽シーズンということもあり、宿経営者には厳しい状況であろう。しかし、やはり安全第一に行動してほしい。
とにかく日本列島は活動期に入っている。新燃岳の再爆発や桜島の巨大爆発もあるかもしれない。桜島は今日も(小さめだが)噴煙を上げていた。
素人判断だが、「火山(死火山・休火山・活火山)には、近づきたくない」と思う。
鹿児島空港の近くに、霧島連峰が美しくそびえていた。連峰は美しい曲線を描いて優美だ。空港からの距離はかなりあるのだろうが、近く感じられる。火山活動が活発にならないように願いたい。
鹿児島市内中心部まで、バスで1時間ぐらいかかった。高速道路を利用して1時間ほどかかるのだから、不便な位置に飛行場があるものだ。バス代だけで、1250円もかかった。とてもじゃないが、私には、タクシー利用はできない。(さて、高速バスで1時間かかる距離は、タクシーだといくらかな?)
ちなみに、JR阪和線利用電車賃が「堺市~関空」まで850円ほど。「遠いし、電車代が高いなあ」と思っていたが、鹿児島空港に比べたら、「関空は便利なんだ!」と「変な納得」を感じたものである。
種子島へ行くフェリーは、朝8時40分発。今夜は鹿児島市内のホテルで一泊。
鹿児島一の繁華街「天文館」で、かき氷店「白熊」に入った。
妻は「白熊」が有名店であることを知っていたが、私はまったく知らなかった。「白熊」って店があるのだが、どんな店なんだろうか? メニューが「白熊」と旅行の本に書かれてあったので、戸惑った私。
かき氷の蜜が「白いクリーム蜜」だった。なるほど、「白熊」。
白熊を食するスプーンに驚きましたよ。カレーを食べるサイズのスプーンだった! 大阪ではありえないスプーンですよ。あそこまで大きいと、ちょっと・・・。3分の2の大きさにしてほしい、と思った。それほど上品な人間ではないが、あのスプーンは大きすぎますよ。もっとも、食べやすいのは事実。食べやすさを重視してのスプーンの大きさ。それはわかるが・・・。
まあ、とくかく有名店で「かき氷・白熊」を食べることができ、思い出になりました。
さて、2日目はいよいよ待望の種子島だ。
鹿児島市で一番の繁華街「天文館通り」。「明時館の別名=天文館(てんもんかん)」という建物は(江戸時代にはあったが)現在は存在せず、「天文館跡」の碑があるだけ。江戸時代、薩摩藩の気象台のような役割をしていた「明時館(=天文館)」があった。その建物があった通り=天文館通り。(通りを略して「天文館」と、市民は呼んでいる。)
その通りのほぼ中心部にお好み焼き店「千房」があった。関西では有名な、あの「千房」が天文館にも出店していた。「流石、全国展開している千房だなあ!」と、その店舗に親しみを感じましたね。(余談になるが、「千房」創業者の子息の一人を担任したことのある私。ちょっと昔のことだが・・・。たいへん真面目で、優秀な生徒であった。確か、サッカーもがんばっていたスポーツ青年。)
天文館跡の碑は、「千房」入口のすぐ前に建てられていた。小さな碑なので、旅行者の多くは気づかないかも? 私も前回「天文館」を歩いた時は、見落としてしまった。今回はゆっくり歩いたので、気がつきました。
さて、天文館通りを歩かれた方々、この碑に気づかれましたか?
「天文館むじゃき」というかき氷(ミルク氷の上に果物がいろいろ)の店。かき氷「白熊」発祥の店=「むじゃき」。時間によっては、長い行列ができる店。ミルクが特製とのことで、ファンが多い。
白熊の剥製。でかい! 口の先には、かき氷「白熊」が!
桜島は噴煙を上げていた。
27日(月)の飛行機で鹿児島空港に着いた。噴火の兆候が見られ、頂上付近は立ち入り禁止になっている霧島連峰(の一部)。近年、噴火を起こしたことのある「新燃岳」も霧島連峰。活動中の桜島もすぐ近く。御嶽山の噴火があったので、霧島連峰近辺はピリピリしている。
霧島連峰宿泊地はキャンセルが多くなっているというニュースが流れていた。秋の行楽シーズンということもあり、宿経営者には厳しい状況であろう。しかし、やはり安全第一に行動してほしい。
とにかく日本列島は活動期に入っている。新燃岳の再爆発や桜島の巨大爆発もあるかもしれない。桜島は今日も(小さめだが)噴煙を上げていた。
素人判断だが、「火山(死火山・休火山・活火山)には、近づきたくない」と思う。
鹿児島空港の近くに、霧島連峰が美しくそびえていた。連峰は美しい曲線を描いて優美だ。空港からの距離はかなりあるのだろうが、近く感じられる。火山活動が活発にならないように願いたい。
鹿児島市内中心部まで、バスで1時間ぐらいかかった。高速道路を利用して1時間ほどかかるのだから、不便な位置に飛行場があるものだ。バス代だけで、1250円もかかった。とてもじゃないが、私には、タクシー利用はできない。(さて、高速バスで1時間かかる距離は、タクシーだといくらかな?)
ちなみに、JR阪和線利用電車賃が「堺市~関空」まで850円ほど。「遠いし、電車代が高いなあ」と思っていたが、鹿児島空港に比べたら、「関空は便利なんだ!」と「変な納得」を感じたものである。
種子島へ行くフェリーは、朝8時40分発。今夜は鹿児島市内のホテルで一泊。
鹿児島一の繁華街「天文館」で、かき氷店「白熊」に入った。
妻は「白熊」が有名店であることを知っていたが、私はまったく知らなかった。「白熊」って店があるのだが、どんな店なんだろうか? メニューが「白熊」と旅行の本に書かれてあったので、戸惑った私。
かき氷の蜜が「白いクリーム蜜」だった。なるほど、「白熊」。
白熊を食するスプーンに驚きましたよ。カレーを食べるサイズのスプーンだった! 大阪ではありえないスプーンですよ。あそこまで大きいと、ちょっと・・・。3分の2の大きさにしてほしい、と思った。それほど上品な人間ではないが、あのスプーンは大きすぎますよ。もっとも、食べやすいのは事実。食べやすさを重視してのスプーンの大きさ。それはわかるが・・・。
まあ、とくかく有名店で「かき氷・白熊」を食べることができ、思い出になりました。
さて、2日目はいよいよ待望の種子島だ。
鹿児島市で一番の繁華街「天文館通り」。「明時館の別名=天文館(てんもんかん)」という建物は(江戸時代にはあったが)現在は存在せず、「天文館跡」の碑があるだけ。江戸時代、薩摩藩の気象台のような役割をしていた「明時館(=天文館)」があった。その建物があった通り=天文館通り。(通りを略して「天文館」と、市民は呼んでいる。)
その通りのほぼ中心部にお好み焼き店「千房」があった。関西では有名な、あの「千房」が天文館にも出店していた。「流石、全国展開している千房だなあ!」と、その店舗に親しみを感じましたね。(余談になるが、「千房」創業者の子息の一人を担任したことのある私。ちょっと昔のことだが・・・。たいへん真面目で、優秀な生徒であった。確か、サッカーもがんばっていたスポーツ青年。)
天文館跡の碑は、「千房」入口のすぐ前に建てられていた。小さな碑なので、旅行者の多くは気づかないかも? 私も前回「天文館」を歩いた時は、見落としてしまった。今回はゆっくり歩いたので、気がつきました。
さて、天文館通りを歩かれた方々、この碑に気づかれましたか?
「天文館むじゃき」というかき氷(ミルク氷の上に果物がいろいろ)の店。かき氷「白熊」発祥の店=「むじゃき」。時間によっては、長い行列ができる店。ミルクが特製とのことで、ファンが多い。
白熊の剥製。でかい! 口の先には、かき氷「白熊」が!
桜島は噴煙を上げていた。
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