2014/12/25
「東海道53次歩き旅⑤土山宿~関宿」 東海道53次歩き旅
土山宿から鈴鹿峠を越えて、坂下宿・関宿へ。(12月25日の歩行は30460歩=約18kmでした。)
少し小雨でしたが、傘を差さなければならないほどではなかった。風もなく、行程は順調で、予定よりも早く関宿に到着できました。
坂下宿はほとんど家が残っていなくて、さびしいところでした。一方、関宿は(今回3度目の訪問になりました。歩き旅ではもちろん初めて。)相変わらず、昔同様にすばらしい町並みだと思いました。むしろ、昔よりも町並みがきちんと整備され、きれいになっていましたね。
重要伝統的建造物群保存地区に昭和59年に指定されている。住民の皆さんがたいへん協力的に町並みを保存されてきたのであろう。だんだんきれいになってきていますから。保存地区に指定されても、「ぱっとしない町並み」に劣化していくところがあるのですが、関宿は何年経ってもすばらしい!
観光客が少ないので、雰囲気がいいですね。電線・電柱を隠している町並みですので、江戸時代にタイムスリップした雰囲気を感じることができます。
まだ訪問されたことのない方には、お勧めの「宿場町」です。宿場の規模がすごいですよ。驚きです。たぶん、東海道53次歩き旅では、「ここが最高!」の宿場町なのではないでしょうか? (まだ東海道を全部歩いていないのに、勝手に想像しています。)
東海道53次の宿場で、重要伝統的建造物群保存地区になっているのは、関宿だけですから、たぶん間違っていないでしょう。
鈴鹿峠の「万人講常夜燈」の近くで、母と息子の二人連れに出会った。その時のことを少し触れておこう。
堺を出た時は晴れていた空が、草津駅につく頃からどんよりとしてきた。傘を持ってこなかったが・・・と、空模様が気になり始めていた。土山宿までのバスに乗っている時、フロントグラスのワイパーが動いた。(やっぱり・・・傘が必要だったかな・・・)
鈴鹿山脈越えの時の天候が気になりだしていたが、バスは土山宿に到着。さあ、歩き旅のスタートだ!
小雨が降っていた。(でも、これぐらいの雨なら・・・なんとか・・・)と思い、歩き始めた。
鈴鹿峠に近づくにつれて、小雨が粒状のものに変わり、雪に変わっていた。
万人講常夜燈に到着した。休憩所が近くにあり、雨宿りできるコーナーとトイレがあった。誰もいなかった。静かだった。旅人が一人ぐらいいても良さそうなのに・・・。(売店もなければ、人の気配もまったくなし。)
休憩をしばらくしたが、雪がやみそうではなかったので、休憩所を出て、鈴鹿峠(県境)を目指して歩いていった。
三重県側の方からきたらしい二人連れが視界に入った。(おっ、旅人かな?)
近づくにつれ、旅人だと確信した。
ちょっと、お互いに立ち止まって「こんにちは」と挨拶を交わした。
「東海道を歩かれているのですか?」と、ご婦人のおだやかな声。
「ええ、京都の三条大橋からスタートして・・・東京へ向かっています。3年計画なんです。」と答えた。
「私たちは東京から来たのですよ。東海道を歩いて、3年目です。」
ご婦人は40歳ぐらいの方に見えた。その横に、目の輝きの失われた少年がうなだれていた。さびしそうな目だった。
「息子さんとご一緒なのですね。がんばってください。」と声をかけた。
その時、少年はゆっくりと顔を上げた。私と目があった・・・
雪の舞う峠道に母と子。今日はクリスマスなのに・・・。
(どういう事情があって、クリスマスの日に母と子の東海道二人旅なのであろうか?)
親子連れと別れてから、勝手な想像をする私。
その想像は・・・
松本清張の小説『砂の器』での、村を追われ放浪する親子連れの姿がなんとなくダブってしまった。もっとも、まったく事情は違うであろう。が、少年の目の輝きが失われていることが気になった。あの親子の旅は楽しい旅ではないのだろう・・・。
おそらく、少年はいじめにあっていて、学校へ行けないのかもしれない。家に閉じこもりがちな息子を外に連れ出して、息子の気を晴らしてやろうと・・・。
少年は母につれだされて東海道を歩いているのかもしれないなあ・・・。
そんな勝手な想像をしてしまった。
事実は違うのであろうが・・・。ひょっとすれば、そうなのかもしれない。(元教師の勘)
教師生活を通して、何人かの「登校できない生徒」と接してきた私。登校できない少年少女たちの目を見てきた。何人も見てきた。その目には、なんとなく共通するものがあった。それは「輝きのない、さびしそうな目」だった。
峠で目を合わせた少年も同じ目をしていた。
「お母さん、息子さん、がんばってくださいね! 」
お二人と同じように、「東海道歩き旅」をしている一人として、声援を送ります。
鈴鹿峠の「万人講常夜燈」 東海道の難所に立つ常夜燈
重さ38トン、高さ5・44mの巨大常夜燈。
江戸から来た旅人にとって、近江の国(滋賀県)に入ったという目印となった。逆に京から来た旅人にとっては伊勢の国(三重県)がもうすぐであるという目印であった。
鈴鹿峠から150メートル入ったところにある「鏡石」
鏡石の上に登って、眼下を見た。国道1号線がカーブして走っていた。現在、国道1号線は鈴鹿トンネルをくぐるので、鈴鹿峠越えの難儀さを意識することはない。歩いての峠越えは、やはり苦労しましたよ。江戸時代は鈴鹿越え、箱根越えどちらも難儀したのでしょうね。
鈴鹿峠の標識(滋賀県と三重県の国境) 林の中にあり、薄暗いところであった。
鈴鹿峠越え(途中) 石の階段などがあり、登りやすく整備されている箇所があった。
坂下宿 本陣跡など、「跡」の碑ばかりだった。 土山宿付近同様に、茶畑が見うけられた。茶の栽培に適した気候らしい。
「これより東 東海道関宿(せきじゅく)」の標柱 いよいよ関宿に入ったのだ。
すばらしい町並みに感動!
写真中心部の山は鈴鹿山脈 小雨だったが、鈴鹿山脈が見えていた。
古い町並み 保存状態がよく、延々と連なっていた。少しカーブした道だが、昔の街道はどこもややカーブしている。昔のままの道らしくて、その曲がり具合も味わいがある。すばらしい!
少し小雨でしたが、傘を差さなければならないほどではなかった。風もなく、行程は順調で、予定よりも早く関宿に到着できました。
坂下宿はほとんど家が残っていなくて、さびしいところでした。一方、関宿は(今回3度目の訪問になりました。歩き旅ではもちろん初めて。)相変わらず、昔同様にすばらしい町並みだと思いました。むしろ、昔よりも町並みがきちんと整備され、きれいになっていましたね。
重要伝統的建造物群保存地区に昭和59年に指定されている。住民の皆さんがたいへん協力的に町並みを保存されてきたのであろう。だんだんきれいになってきていますから。保存地区に指定されても、「ぱっとしない町並み」に劣化していくところがあるのですが、関宿は何年経ってもすばらしい!
観光客が少ないので、雰囲気がいいですね。電線・電柱を隠している町並みですので、江戸時代にタイムスリップした雰囲気を感じることができます。
まだ訪問されたことのない方には、お勧めの「宿場町」です。宿場の規模がすごいですよ。驚きです。たぶん、東海道53次歩き旅では、「ここが最高!」の宿場町なのではないでしょうか? (まだ東海道を全部歩いていないのに、勝手に想像しています。)
東海道53次の宿場で、重要伝統的建造物群保存地区になっているのは、関宿だけですから、たぶん間違っていないでしょう。
鈴鹿峠の「万人講常夜燈」の近くで、母と息子の二人連れに出会った。その時のことを少し触れておこう。
堺を出た時は晴れていた空が、草津駅につく頃からどんよりとしてきた。傘を持ってこなかったが・・・と、空模様が気になり始めていた。土山宿までのバスに乗っている時、フロントグラスのワイパーが動いた。(やっぱり・・・傘が必要だったかな・・・)
鈴鹿山脈越えの時の天候が気になりだしていたが、バスは土山宿に到着。さあ、歩き旅のスタートだ!
小雨が降っていた。(でも、これぐらいの雨なら・・・なんとか・・・)と思い、歩き始めた。
鈴鹿峠に近づくにつれて、小雨が粒状のものに変わり、雪に変わっていた。
万人講常夜燈に到着した。休憩所が近くにあり、雨宿りできるコーナーとトイレがあった。誰もいなかった。静かだった。旅人が一人ぐらいいても良さそうなのに・・・。(売店もなければ、人の気配もまったくなし。)
休憩をしばらくしたが、雪がやみそうではなかったので、休憩所を出て、鈴鹿峠(県境)を目指して歩いていった。
三重県側の方からきたらしい二人連れが視界に入った。(おっ、旅人かな?)
近づくにつれ、旅人だと確信した。
ちょっと、お互いに立ち止まって「こんにちは」と挨拶を交わした。
「東海道を歩かれているのですか?」と、ご婦人のおだやかな声。
「ええ、京都の三条大橋からスタートして・・・東京へ向かっています。3年計画なんです。」と答えた。
「私たちは東京から来たのですよ。東海道を歩いて、3年目です。」
ご婦人は40歳ぐらいの方に見えた。その横に、目の輝きの失われた少年がうなだれていた。さびしそうな目だった。
「息子さんとご一緒なのですね。がんばってください。」と声をかけた。
その時、少年はゆっくりと顔を上げた。私と目があった・・・
雪の舞う峠道に母と子。今日はクリスマスなのに・・・。
(どういう事情があって、クリスマスの日に母と子の東海道二人旅なのであろうか?)
親子連れと別れてから、勝手な想像をする私。
その想像は・・・
松本清張の小説『砂の器』での、村を追われ放浪する親子連れの姿がなんとなくダブってしまった。もっとも、まったく事情は違うであろう。が、少年の目の輝きが失われていることが気になった。あの親子の旅は楽しい旅ではないのだろう・・・。
おそらく、少年はいじめにあっていて、学校へ行けないのかもしれない。家に閉じこもりがちな息子を外に連れ出して、息子の気を晴らしてやろうと・・・。
少年は母につれだされて東海道を歩いているのかもしれないなあ・・・。
そんな勝手な想像をしてしまった。
事実は違うのであろうが・・・。ひょっとすれば、そうなのかもしれない。(元教師の勘)
教師生活を通して、何人かの「登校できない生徒」と接してきた私。登校できない少年少女たちの目を見てきた。何人も見てきた。その目には、なんとなく共通するものがあった。それは「輝きのない、さびしそうな目」だった。
峠で目を合わせた少年も同じ目をしていた。
「お母さん、息子さん、がんばってくださいね! 」
お二人と同じように、「東海道歩き旅」をしている一人として、声援を送ります。
鈴鹿峠の「万人講常夜燈」 東海道の難所に立つ常夜燈
重さ38トン、高さ5・44mの巨大常夜燈。
江戸から来た旅人にとって、近江の国(滋賀県)に入ったという目印となった。逆に京から来た旅人にとっては伊勢の国(三重県)がもうすぐであるという目印であった。
鈴鹿峠から150メートル入ったところにある「鏡石」
鏡石の上に登って、眼下を見た。国道1号線がカーブして走っていた。現在、国道1号線は鈴鹿トンネルをくぐるので、鈴鹿峠越えの難儀さを意識することはない。歩いての峠越えは、やはり苦労しましたよ。江戸時代は鈴鹿越え、箱根越えどちらも難儀したのでしょうね。
鈴鹿峠の標識(滋賀県と三重県の国境) 林の中にあり、薄暗いところであった。
鈴鹿峠越え(途中) 石の階段などがあり、登りやすく整備されている箇所があった。
坂下宿 本陣跡など、「跡」の碑ばかりだった。 土山宿付近同様に、茶畑が見うけられた。茶の栽培に適した気候らしい。
「これより東 東海道関宿(せきじゅく)」の標柱 いよいよ関宿に入ったのだ。
すばらしい町並みに感動!
写真中心部の山は鈴鹿山脈 小雨だったが、鈴鹿山脈が見えていた。
古い町並み 保存状態がよく、延々と連なっていた。少しカーブした道だが、昔の街道はどこもややカーブしている。昔のままの道らしくて、その曲がり具合も味わいがある。すばらしい!
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