2019/8/31
「中山道・守山宿へ 日帰り」 中山道歩き
明日(9月1日)、天候が不順なので、中山道歩きを近場へ行く予定。
今日も大粒の雨が降った。晴れたり、大粒の雨が降ったり・・・不安定なので、近場の中山道(近江路でまだ歩いていないコース)を歩きに行くことにした。
草津宿から守山宿へ。さらに守山宿から武佐宿へ。この行程は約20㎞ほど。私の歩き旅ペースは時速3km余りなので、6時間半ぐらいかかることになる。
雨が降ってきたら、傘をさす必要があるだろう。とにかく、このごろは全国的に秋雨前線の影響があるようだ。それも、雨の降り方が、ものすごい! 傘をさして歩くと、もっと時間がかかるかもしれない。
とにかく、近場とはいえ、(天候不順を予想して)少しでも朝早く出かけるつもり。
この続きは後日(帰宅後)に。
ここからは、帰宅後(9月2日)にまとめたものです。
9月1日、雨がパラパラしたときもあったが、概ね曇り空で歩きやすかった。予想したとおりの曇天だった。おかげで、傘をささずに歩くことができた。
約20kmの行程とは言え、草津宿本陣の内部見学をしたり、古墳見学もしたので、実質は(万歩計によると)26kmも歩いていた。最高気温が35度ほどあったので、やはり、疲れました。
9月に入ったとはいえ、まだまだ「真夏」。20㎞以上の一人歩き旅は、厳しかったですね。
草津宿は東海道歩きの時に一度来たことがあったのだが、本陣の内部を見ていなかった。今回、開館直後(午前9時)に見学することができた。
本当にすごい建物だったし、歴史上の人物たちが宿泊または休憩していた本陣だったことが分かって、感動した。
浅野内匠頭や吉良上野介、それぞれ同じ年に、この本陣に宿泊していたのだ。(宿泊者名が台帳に記されていた。その台帳を読むことができたので、歴史を実感できましたね。) この草津宿本陣に宿泊してから、約2年後、あの事件は起こっている。
本陣内を10分ほど見学したら、歩こうと思って入ったのだが・・・見学時間が40分にも! 今まで見てきたどこの本陣よりも、「歴史を実感」しましたね。最高に素晴らしい本陣でした。
見学は有料でしたが、価値はありました。
東海道・中山道合流地点(分岐地点)にある「草津宿」本陣。見学を終え、歩き旅をスタートしたのは、午前9時45分でした。
守山とは「比叡山」の鬼門(北東)の位置にあたる。 比叡山を邪気から守る位置にあるのが、「守山」とのこと。「なるほど、そういう由来で、守山という地名なのだ!」と、一つ勉強になった。
守山宿に到着したのは、11時30分になっていた。
「中山道街道交流館」という案内所で、休憩をさせていただいた。歩き旅をしている者にとって、こういう休憩と案内がある施設はありがたい。守山宿をゆっくり見て歩いたので、守山宿を出たのは正午を回っていた。
守山宿から武佐宿への行程は時間がかかった。中山道の一部が(パッと見た感じ)通行禁止になっている箇所があった。イノシシの出没で、畑が荒らされるのを防止していた。鉄の門が設置されていたが、鍵はかけられていなかった。開けた後はイノシシが「猪突猛進」しても開けられないように鎖が巻き付けてあった。その鎖を丁寧にほどいて、鉄の門を開けることができた。開けた後は、元の状態に鎖で巻き付けておいた。(中山道を通行できて、ほっとした。)
中山道でこんな経験をしたのは初めて。とにかく全国的に「動物による被害」が増加していることを実感しましたね。
武佐宿に到着できたのは、夕方になっていた。武佐宿本陣などを見て回り、近江鉄道・武佐駅(無人駅)から一駅、JR近江八幡駅まで乗車できたので、ちょっと楽だった。
帰宅できたのは午後8時過ぎであった。
中山道・近江路歩きは完了したことになる。美濃路(岐阜県)歩きはまだ完了していない。
9月5日(木)に、岐阜県美濃路・太田宿→伏見宿→御嶽宿 を歩いてくる予定。
この地点から(写真)右方向への道が東海道53次
まっすぐトンネル方向への道が中山道69次
江戸時代は、トンネル部分に「草津川」が流れ、土手があった。現在は埋め立てられて、公園になっている。今回、その土手公園の下を通って、中山道・守山宿方面へ歩いて行った。
5年前、東海道歩きの時は、右手の道(草津川土手)を歩いて行ったものだった。
分岐点に立つ「灯篭標識」が懐しかった。
草津宿本陣の建物 内部がすごかった。うなるほど立派、立派!
滋賀県 唯一の現存「一里塚」 残っていましたね
野洲市内 中山道(守山宿と武佐宿の間)
武佐宿への道中に「甲山古墳」があった。中山道に近かったので、古墳見学をしてみた。石室に入ることができ、石棺も見ることができた。石室通路は途中まで入れ、解説のアナウンスが自動的に流れてきた。無人の古墳だったので、アナウンスにびっくりした。いろいろな古墳を見学してきているが・・・「このしかけはいいなあ!」と思った。
武佐宿本陣 門などが残っていた。
武佐宿の町並み
今日も大粒の雨が降った。晴れたり、大粒の雨が降ったり・・・不安定なので、近場の中山道(近江路でまだ歩いていないコース)を歩きに行くことにした。
草津宿から守山宿へ。さらに守山宿から武佐宿へ。この行程は約20㎞ほど。私の歩き旅ペースは時速3km余りなので、6時間半ぐらいかかることになる。
雨が降ってきたら、傘をさす必要があるだろう。とにかく、このごろは全国的に秋雨前線の影響があるようだ。それも、雨の降り方が、ものすごい! 傘をさして歩くと、もっと時間がかかるかもしれない。
とにかく、近場とはいえ、(天候不順を予想して)少しでも朝早く出かけるつもり。
この続きは後日(帰宅後)に。
ここからは、帰宅後(9月2日)にまとめたものです。
9月1日、雨がパラパラしたときもあったが、概ね曇り空で歩きやすかった。予想したとおりの曇天だった。おかげで、傘をささずに歩くことができた。
約20kmの行程とは言え、草津宿本陣の内部見学をしたり、古墳見学もしたので、実質は(万歩計によると)26kmも歩いていた。最高気温が35度ほどあったので、やはり、疲れました。
9月に入ったとはいえ、まだまだ「真夏」。20㎞以上の一人歩き旅は、厳しかったですね。
草津宿は東海道歩きの時に一度来たことがあったのだが、本陣の内部を見ていなかった。今回、開館直後(午前9時)に見学することができた。
本当にすごい建物だったし、歴史上の人物たちが宿泊または休憩していた本陣だったことが分かって、感動した。
浅野内匠頭や吉良上野介、それぞれ同じ年に、この本陣に宿泊していたのだ。(宿泊者名が台帳に記されていた。その台帳を読むことができたので、歴史を実感できましたね。) この草津宿本陣に宿泊してから、約2年後、あの事件は起こっている。
本陣内を10分ほど見学したら、歩こうと思って入ったのだが・・・見学時間が40分にも! 今まで見てきたどこの本陣よりも、「歴史を実感」しましたね。最高に素晴らしい本陣でした。
見学は有料でしたが、価値はありました。
東海道・中山道合流地点(分岐地点)にある「草津宿」本陣。見学を終え、歩き旅をスタートしたのは、午前9時45分でした。
守山とは「比叡山」の鬼門(北東)の位置にあたる。 比叡山を邪気から守る位置にあるのが、「守山」とのこと。「なるほど、そういう由来で、守山という地名なのだ!」と、一つ勉強になった。
守山宿に到着したのは、11時30分になっていた。
「中山道街道交流館」という案内所で、休憩をさせていただいた。歩き旅をしている者にとって、こういう休憩と案内がある施設はありがたい。守山宿をゆっくり見て歩いたので、守山宿を出たのは正午を回っていた。
守山宿から武佐宿への行程は時間がかかった。中山道の一部が(パッと見た感じ)通行禁止になっている箇所があった。イノシシの出没で、畑が荒らされるのを防止していた。鉄の門が設置されていたが、鍵はかけられていなかった。開けた後はイノシシが「猪突猛進」しても開けられないように鎖が巻き付けてあった。その鎖を丁寧にほどいて、鉄の門を開けることができた。開けた後は、元の状態に鎖で巻き付けておいた。(中山道を通行できて、ほっとした。)
中山道でこんな経験をしたのは初めて。とにかく全国的に「動物による被害」が増加していることを実感しましたね。
武佐宿に到着できたのは、夕方になっていた。武佐宿本陣などを見て回り、近江鉄道・武佐駅(無人駅)から一駅、JR近江八幡駅まで乗車できたので、ちょっと楽だった。
帰宅できたのは午後8時過ぎであった。
中山道・近江路歩きは完了したことになる。美濃路(岐阜県)歩きはまだ完了していない。
9月5日(木)に、岐阜県美濃路・太田宿→伏見宿→御嶽宿 を歩いてくる予定。
この地点から(写真)右方向への道が東海道53次
まっすぐトンネル方向への道が中山道69次
江戸時代は、トンネル部分に「草津川」が流れ、土手があった。現在は埋め立てられて、公園になっている。今回、その土手公園の下を通って、中山道・守山宿方面へ歩いて行った。
5年前、東海道歩きの時は、右手の道(草津川土手)を歩いて行ったものだった。
分岐点に立つ「灯篭標識」が懐しかった。
草津宿本陣の建物 内部がすごかった。うなるほど立派、立派!
滋賀県 唯一の現存「一里塚」 残っていましたね
野洲市内 中山道(守山宿と武佐宿の間)
武佐宿への道中に「甲山古墳」があった。中山道に近かったので、古墳見学をしてみた。石室に入ることができ、石棺も見ることができた。石室通路は途中まで入れ、解説のアナウンスが自動的に流れてきた。無人の古墳だったので、アナウンスにびっくりした。いろいろな古墳を見学してきているが・・・「このしかけはいいなあ!」と思った。
武佐宿本陣 門などが残っていた。
武佐宿の町並み
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2019/8/27
「大井宿から中津川宿へ歩き旅 日帰り」 中山道歩き
青春18切符利用で歩き旅。約5年前から街道一人歩き旅をしている。東海道を完歩後、中山道歩きをばらばらに少しずつしている。
東海道歩きは、東海道本線にそうように東海道53次を歩くことができたので、 JRも本数が多く便利だった。
ところが、中山道69次歩きはJRの駅から離れている宿が予想以上に多い。さらに、乗り継ぎ時間が80分以上という場合もある。東海道歩きは全体的に便利だった。
本日(8月26日)のコースはJR中央本線恵那駅へ。恵那駅の街が大井宿。ここから次の中津川宿まで歩き、中津川駅より帰宅する予定。
中央本線は名古屋~中津川間は列車の本数が1時間に1本あり、比較的便利です。中津川駅から先は約2時間に1本になる。青春18切符利用者にとって、厳しい「待ち時間」になります。
( 以上の記述は、行きの列車内で書いたものです。)
以下、帰宅後に書いたものです。
堺市駅を午前6時ごろにスタート。列車を乗り継いで恵那駅に到着したのは、午前11ごろであった。名古屋駅での中央本線への乗り継ぎ時間は、たった3分であった。大阪駅同様に大きな駅は人で混雑する。3分で乗り換えるのは厳しいことが予想された。そこで、1番線ホーム(東海道本線)から7番線ホーム(中央本線)に移動するためには、どの車両に乗っていれば3分で乗り換えることができるかを、車掌に相談しておいた。
車掌さんが教えてくれたのは、「後ろから3両目がいいでしょう。近くに階段がありますから、その階段を下りて、通路を移動してください。」というアドバイスであった。
大垣駅から名古屋駅へ。名古屋駅到着前に車両を移動し、到着したら、すぐに移動。階段を見つけて駆け下りて、7番ホーム目指して駆け上がった。
そしたら、発車の合図がなっていた。あわててかけこんだら、ドアが閉まった。
セーフ。中央本線に乗り換えることができた。走って走って・・・駆け込んだので、汗がたらたら。
とにかく大きな駅で乗り換えを短時間で終えるのは、至難の業だ。(去年は、この短時間乗り換えに失敗したのだった。失敗して、一列車を遅らせたので、待ち時間が60分もあった。あの時は、つらかった。
今日は、ぎりぎりセーフ。うれしかったですね。
3分乗り換え成功のおかげで、恵那駅には、午前中に到着することができたのです。
大井宿から中津川宿へ歩き旅。約12kmの行程なので、「昼食タイムや休憩を入れて、約5時間かな?」と予想した。
経験上、私の街道歩きのスピードは時速約3㎞。写真を撮ったり、中を見学したり・・・。
大井宿から中津川宿へのコースは、予想以上に坂が多かった。熊や動物が出るような場所ではなかったが、アップダウンが多く、早く歩けなかった。
結局、中津川駅に到着できたのは、午後3時40分であった。
うまく、午後3時50分発の快速に乗ることができた。帰宅できたのは、午後9時を過ぎていた。
大井宿・中津川宿の日帰り中山道歩きは、なかなか厳しかった。でも、楽しかった。街道一人歩きは私にとって、幸せなことだと、今回も実感できた。
街道歩きができることに感謝、感謝!
恵那駅の近く 大井宿の大井橋
大井橋に中山道69次の宿の「広重」による浮世絵(写真)が掲げられていた。もちろん、大井宿の浮世絵も。(写真右の雪深い宿画が大井宿)
大井宿本陣全体
本陣の立派な門 江戸時代のまま保存されていた。
坂の上から大井宿(恵那市内)全体を見通せた。
しばらく行くと、中津川方面が見えてきた。
中山道・中津川宿中心部 栗菓子で有名。
造り酒屋も中心部にあった。この辺は夜間ライトアップしている箇所。ポスターなどで見かける地域である。
東海道歩きは、東海道本線にそうように東海道53次を歩くことができたので、 JRも本数が多く便利だった。
ところが、中山道69次歩きはJRの駅から離れている宿が予想以上に多い。さらに、乗り継ぎ時間が80分以上という場合もある。東海道歩きは全体的に便利だった。
本日(8月26日)のコースはJR中央本線恵那駅へ。恵那駅の街が大井宿。ここから次の中津川宿まで歩き、中津川駅より帰宅する予定。
中央本線は名古屋~中津川間は列車の本数が1時間に1本あり、比較的便利です。中津川駅から先は約2時間に1本になる。青春18切符利用者にとって、厳しい「待ち時間」になります。
( 以上の記述は、行きの列車内で書いたものです。)
以下、帰宅後に書いたものです。
堺市駅を午前6時ごろにスタート。列車を乗り継いで恵那駅に到着したのは、午前11ごろであった。名古屋駅での中央本線への乗り継ぎ時間は、たった3分であった。大阪駅同様に大きな駅は人で混雑する。3分で乗り換えるのは厳しいことが予想された。そこで、1番線ホーム(東海道本線)から7番線ホーム(中央本線)に移動するためには、どの車両に乗っていれば3分で乗り換えることができるかを、車掌に相談しておいた。
車掌さんが教えてくれたのは、「後ろから3両目がいいでしょう。近くに階段がありますから、その階段を下りて、通路を移動してください。」というアドバイスであった。
大垣駅から名古屋駅へ。名古屋駅到着前に車両を移動し、到着したら、すぐに移動。階段を見つけて駆け下りて、7番ホーム目指して駆け上がった。
そしたら、発車の合図がなっていた。あわててかけこんだら、ドアが閉まった。
セーフ。中央本線に乗り換えることができた。走って走って・・・駆け込んだので、汗がたらたら。
とにかく大きな駅で乗り換えを短時間で終えるのは、至難の業だ。(去年は、この短時間乗り換えに失敗したのだった。失敗して、一列車を遅らせたので、待ち時間が60分もあった。あの時は、つらかった。
今日は、ぎりぎりセーフ。うれしかったですね。
3分乗り換え成功のおかげで、恵那駅には、午前中に到着することができたのです。
大井宿から中津川宿へ歩き旅。約12kmの行程なので、「昼食タイムや休憩を入れて、約5時間かな?」と予想した。
経験上、私の街道歩きのスピードは時速約3㎞。写真を撮ったり、中を見学したり・・・。
大井宿から中津川宿へのコースは、予想以上に坂が多かった。熊や動物が出るような場所ではなかったが、アップダウンが多く、早く歩けなかった。
結局、中津川駅に到着できたのは、午後3時40分であった。
うまく、午後3時50分発の快速に乗ることができた。帰宅できたのは、午後9時を過ぎていた。
大井宿・中津川宿の日帰り中山道歩きは、なかなか厳しかった。でも、楽しかった。街道一人歩きは私にとって、幸せなことだと、今回も実感できた。
街道歩きができることに感謝、感謝!
恵那駅の近く 大井宿の大井橋
大井橋に中山道69次の宿の「広重」による浮世絵(写真)が掲げられていた。もちろん、大井宿の浮世絵も。(写真右の雪深い宿画が大井宿)
大井宿本陣全体
本陣の立派な門 江戸時代のまま保存されていた。
坂の上から大井宿(恵那市内)全体を見通せた。
しばらく行くと、中津川方面が見えてきた。
中山道・中津川宿中心部 栗菓子で有名。
造り酒屋も中心部にあった。この辺は夜間ライトアップしている箇所。ポスターなどで見かける地域である。
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2019/8/22
「中山道・和田宿」 中山道歩き
お盆が終わり、信州へ「体休め」のドライブ旅行をしてきた。久しぶりのドライブだったので、運転につかれた。高齢者運転事故が増えている時代だから、気をつけていても事故を起こしたり、起こされたりする。それに世間を騒がせている「あおり運転」をされる場合もある。あおり運転件数のデータには驚かされる。誰でも一度ぐらいは、あおられた経験をしているようだ。
最近はレンタカーを運転しても日帰りで返すことが多いのだが、今回は4日間借りたので、やはり、疲れましたね。
信州へ出かけていたのだが、一番印象に残った個所は、中山道・和田宿だった。
下諏訪宿(諏訪湖の近く)の(京から江戸へ向けて歩くと)次の宿になる。中山道最大の難所と言われる和田峠(標高1600m)を越えていくと、和田宿に到達する。下諏訪宿から約22kmの行程である。登山コースと言っても過言ではないだろう。
若い時の私なら22kmの登山行程に挑戦したかもしれないが、この歳では無理だろう…と歩いて訪れることを諦めた。
歩くことはあきらめたけれど、和田宿の本陣などを見てみたかった。
今回、念願がかなった。「車でも遠いなあ・・・」と実感した。歩くことを、諦めてよかった。
真夏の炎天下、中山道(和田峠越えのコース)を歩いている人はいないようだった。木曽路や信濃路には熊も出没している。今年は札幌の市街地にも熊がうろうろしている。グループならまだしも、私の歩き旅は、「一人旅」だから、熊に襲われると心細い。闘う自信もない(笑)。
木曽路を歩いてきているが・・・「熊の出没に注意」の標示があっちこっちにあった。和田峠も熊が出没する可能性がある。とにかく標高1600メートルの峠付近は、熊が出没しそうなので、真夏の一人登山は心細い。
というような状況判断で、和田峠近辺や和田宿の見学は車利用にしたのだった。東海道歩き旅では、「熊の心配」はまったくしなかったが、中山道は心配することがあった。近年、熊が人家近くに出没したり、山菜採りに出かけた人が襲われることが多くなってきた。
山にえさが減ってきたのであろう。熊・サル・イノシシ・鹿などによる「農作物被害」が全国的に増えている。
私がお借りしている畑でも、アライグマ・ハクビシン・イタチ・カラスなどのよる被害がある。堺市南区の住宅地・畑においてでさえ、動物被害があるのだから、全国的にはものすごい被害があるのだろう。
和田宿はどんなところだったのか、少しですが、写真で紹介します。和田宿本陣(建物が残っていました)の中には入れませんでした。(月曜休館日だったため) 外観はしっかり見ることができました。
和田宿 本陣
本陣の立派な門構え
和田宿中心地付近の様子
土産物などが売られているような店。提灯が中山道和田宿の雰囲気を出していた。
立派な建物 江戸時代は大きな旅籠だったとのこと。
本陣向かい 蕎麦屋さんが営業していた。
脇本陣 門と建物も残っていた。
幕末に和田宿は全焼したが、皇女和宮様の降嫁による江戸への移動における宿泊地に決められていたので、大急ぎで本陣や脇本陣・旅籠などが再建されている。江戸幕府から借金をして再建されたようだ。本陣・脇本陣などの建物はすべて幕末の建物なのだが、現在に至るまで残っている。中山道全体の本陣や脇本陣などの建物はほとんどなくなっているが、本陣・脇本陣・主な旅籠などが揃って残っている和田宿は歴史的に貴重だと言えるであろう。
見学した日が月曜だったので、休館日だった。建物の中を見学はできなかったが、外観や街並みを歩いて見て回ることができた。ほんの短距離の「中山道・和田宿歩き」をすることができた。念願の和田宿を味わうことができ、満足できました。
それにしても、大急ぎで再建するための建築材をそろえるだけでも大変な苦労があったにちがいない。生木は山にいくらでもあるが・・・建築材にはできないだろう。
皇女和宮様の徳川将軍家への降嫁予定は決まっていることであったから、その宿泊予定日までに完成させる必要があった。
皇女一行たちが宿泊する場所は、この山の中の「和田宿」以外にない。下諏訪宿から22kmも離れている和田宿。その和田宿が全焼してしてしまった江戸時代末期。どれぐらい多くの大工が集められたのであろうか…? ものすごく辺鄙な位置にある中山道・和田宿。
詳しくは調べていないが、たいへんな苦労談があったにちがいない。「和田宿復興と皇女和宮様降嫁」で、話があれば、読んでみたい。
皇女和宮様の降嫁には、いろいろ歴史が絡んでいることであろう。
下諏訪宿から江戸へ向かうと、ここ和田宿に至る
中山道 江戸時代の道の一部
現代の車道のガードレールの切れ目が、旧中山道。
中山道・下諏訪宿にある「万治の石仏」
写真右の人は観光客です。この石仏を見に来る人は多い。
最近はレンタカーを運転しても日帰りで返すことが多いのだが、今回は4日間借りたので、やはり、疲れましたね。
信州へ出かけていたのだが、一番印象に残った個所は、中山道・和田宿だった。
下諏訪宿(諏訪湖の近く)の(京から江戸へ向けて歩くと)次の宿になる。中山道最大の難所と言われる和田峠(標高1600m)を越えていくと、和田宿に到達する。下諏訪宿から約22kmの行程である。登山コースと言っても過言ではないだろう。
若い時の私なら22kmの登山行程に挑戦したかもしれないが、この歳では無理だろう…と歩いて訪れることを諦めた。
歩くことはあきらめたけれど、和田宿の本陣などを見てみたかった。
今回、念願がかなった。「車でも遠いなあ・・・」と実感した。歩くことを、諦めてよかった。
真夏の炎天下、中山道(和田峠越えのコース)を歩いている人はいないようだった。木曽路や信濃路には熊も出没している。今年は札幌の市街地にも熊がうろうろしている。グループならまだしも、私の歩き旅は、「一人旅」だから、熊に襲われると心細い。闘う自信もない(笑)。
木曽路を歩いてきているが・・・「熊の出没に注意」の標示があっちこっちにあった。和田峠も熊が出没する可能性がある。とにかく標高1600メートルの峠付近は、熊が出没しそうなので、真夏の一人登山は心細い。
というような状況判断で、和田峠近辺や和田宿の見学は車利用にしたのだった。東海道歩き旅では、「熊の心配」はまったくしなかったが、中山道は心配することがあった。近年、熊が人家近くに出没したり、山菜採りに出かけた人が襲われることが多くなってきた。
山にえさが減ってきたのであろう。熊・サル・イノシシ・鹿などによる「農作物被害」が全国的に増えている。
私がお借りしている畑でも、アライグマ・ハクビシン・イタチ・カラスなどのよる被害がある。堺市南区の住宅地・畑においてでさえ、動物被害があるのだから、全国的にはものすごい被害があるのだろう。
和田宿はどんなところだったのか、少しですが、写真で紹介します。和田宿本陣(建物が残っていました)の中には入れませんでした。(月曜休館日だったため) 外観はしっかり見ることができました。
和田宿 本陣
本陣の立派な門構え
和田宿中心地付近の様子
土産物などが売られているような店。提灯が中山道和田宿の雰囲気を出していた。
立派な建物 江戸時代は大きな旅籠だったとのこと。
本陣向かい 蕎麦屋さんが営業していた。
脇本陣 門と建物も残っていた。
幕末に和田宿は全焼したが、皇女和宮様の降嫁による江戸への移動における宿泊地に決められていたので、大急ぎで本陣や脇本陣・旅籠などが再建されている。江戸幕府から借金をして再建されたようだ。本陣・脇本陣などの建物はすべて幕末の建物なのだが、現在に至るまで残っている。中山道全体の本陣や脇本陣などの建物はほとんどなくなっているが、本陣・脇本陣・主な旅籠などが揃って残っている和田宿は歴史的に貴重だと言えるであろう。
見学した日が月曜だったので、休館日だった。建物の中を見学はできなかったが、外観や街並みを歩いて見て回ることができた。ほんの短距離の「中山道・和田宿歩き」をすることができた。念願の和田宿を味わうことができ、満足できました。
それにしても、大急ぎで再建するための建築材をそろえるだけでも大変な苦労があったにちがいない。生木は山にいくらでもあるが・・・建築材にはできないだろう。
皇女和宮様の徳川将軍家への降嫁予定は決まっていることであったから、その宿泊予定日までに完成させる必要があった。
皇女一行たちが宿泊する場所は、この山の中の「和田宿」以外にない。下諏訪宿から22kmも離れている和田宿。その和田宿が全焼してしてしまった江戸時代末期。どれぐらい多くの大工が集められたのであろうか…? ものすごく辺鄙な位置にある中山道・和田宿。
詳しくは調べていないが、たいへんな苦労談があったにちがいない。「和田宿復興と皇女和宮様降嫁」で、話があれば、読んでみたい。
皇女和宮様の降嫁には、いろいろ歴史が絡んでいることであろう。
下諏訪宿から江戸へ向かうと、ここ和田宿に至る
中山道 江戸時代の道の一部
現代の車道のガードレールの切れ目が、旧中山道。
中山道・下諏訪宿にある「万治の石仏」
写真右の人は観光客です。この石仏を見に来る人は多い。
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2019/7/28
「27日深夜、無事に帰宅できました。」 中山道歩き
青春18切符利用の3日間の旅行でしたが、無事に帰宅できました。
一日目(7月25日)は、午前7時頃にJR堺市駅から乗車。9回の乗り換えで、埼玉県行田市のホテルに到着したのは、午後6時頃でした。乗車時間は長かったですが、経済的には安価に行くことができました。乗車運賃(片道9800円のところ)青春18切符利用でしたので、2370円でした。
車窓を楽しみ、読書もしっかりできました。快速や普通列車ばかりでしたが、すべて座っていくことができました。
二日目(7月26日)早朝からホテルの近くにある「さきたま古墳群」へ歩いていきました。大きな古墳が9基あり、小さな古墳もいくつかありました。
日本で一番大きい円墳「丸墓山古墳」に登り、そのあと、今回一番行きたかった稲荷山古墳(国宝の鉄剣が見つかった古墳)を登ってみました。
百舌鳥古墳群には立ち入れない古墳が多いのですが、ここ「さきたま古墳群」の古墳は立ち入り禁止になっている古墳はわずかだった。
古墳は立ち入れる方が楽しいものですね。
古墳群見学後、博物館で国宝の鉄剣などの展示物を見学した。やはり、「本物はすごい!」とため息が出た。写真資料では見ていたが、実物を見ると感激は違った。鉄剣ばかり、20分ぐらいは見ていたようだ。ほかの展示物はあっさりと…。
午後からは中山道歩き旅の開始。
JR行田駅から熊谷宿・深谷宿まで歩いた。真夏の歩き旅は厳しかった。
この日、万歩計によると、約28キロ歩いていた。足に豆ができていた。歩き旅は久しぶりだった。
三日目(7月27日)は、すでに車中でブログを書いたので、ここでは省略。
日本で一番大きな円形古墳「丸墓山古墳」の説明板
丸墓山古墳の登り口 頂上部まで登れる、直径105m・高さ17mの円墳
稲荷山古墳(国宝の鉄剣が埋設されていた古墳) 前方登り口
将軍山古墳 横穴式石室の中に入れる古墳だった。埋葬の状態が復元されていたので、わかりやすかった。
荒川の土手・河口より72km地点(JR行田駅近く)を歩いてみた。すごい川幅の土手になっていた。川幅が広くて、右岸が分からなかった。
江戸時代の中山道は「元荒川」という川の側の道。
JR熊谷駅前の「熊谷直実像」
熊谷市は、最高気温が日本一高い地点になっている時がある。関東地方では高温になりやすい地形なのであろう。
「熊谷次郎直実」は、1184年、一の谷の合戦で平敦盛を討ち取った武将である。平家側と源氏側との戦いにおいて、歴史上有名な合戦である。その熊谷次郎直実の出身地だから、素晴らしい像が目立つところに設置されていた。熊谷駅改札口前であり、バスターミナル中央部でもあった。平安・鎌倉時代の武将像が存在感のある駅であった。
江戸時代には中山道の「熊谷宿」として栄えた町である。
札の辻(高札場)跡
本陣跡 「竹井家本陣」は間口27mで奥行きは「星川」に達するという大規模なものであったが、今は碑が残るだけである。明治時代の火災と戦災の被害で、跡形もなくなってしまったとのことである。
旧中山道の一部、現在はデパートが建っている
新島一里塚 江戸時代に植えられた木の幹が残っていた。歴史を感じさせる見事な一里塚だった。
深谷ネギ畑を目にした時、「やっと深谷宿に近づいたなあ!」と感激。深谷ネギの畑を実際に見たのは初めてだった。熊谷宿から深谷宿までは12kmもあり、真夏の歩き旅はきつかった!
「深谷は遠いなあ・・・」との心境で疲れ切っていたので、(足の豆も気にしながら歩いていた)、ネギ畑を目にした時は、うれしかったですね。
深谷=新札になる「渋沢栄一」氏の出身地 深谷駅前に立派な像
顔の部分をアップ
深谷宿の町並み レンガ造りの家がよかったですね。
深谷宿本陣遺構(現在、印刷会社になっていました)
本陣の一部が保存されているという説明板がありました。
一日目(7月25日)は、午前7時頃にJR堺市駅から乗車。9回の乗り換えで、埼玉県行田市のホテルに到着したのは、午後6時頃でした。乗車時間は長かったですが、経済的には安価に行くことができました。乗車運賃(片道9800円のところ)青春18切符利用でしたので、2370円でした。
車窓を楽しみ、読書もしっかりできました。快速や普通列車ばかりでしたが、すべて座っていくことができました。
二日目(7月26日)早朝からホテルの近くにある「さきたま古墳群」へ歩いていきました。大きな古墳が9基あり、小さな古墳もいくつかありました。
日本で一番大きい円墳「丸墓山古墳」に登り、そのあと、今回一番行きたかった稲荷山古墳(国宝の鉄剣が見つかった古墳)を登ってみました。
百舌鳥古墳群には立ち入れない古墳が多いのですが、ここ「さきたま古墳群」の古墳は立ち入り禁止になっている古墳はわずかだった。
古墳は立ち入れる方が楽しいものですね。
古墳群見学後、博物館で国宝の鉄剣などの展示物を見学した。やはり、「本物はすごい!」とため息が出た。写真資料では見ていたが、実物を見ると感激は違った。鉄剣ばかり、20分ぐらいは見ていたようだ。ほかの展示物はあっさりと…。
午後からは中山道歩き旅の開始。
JR行田駅から熊谷宿・深谷宿まで歩いた。真夏の歩き旅は厳しかった。
この日、万歩計によると、約28キロ歩いていた。足に豆ができていた。歩き旅は久しぶりだった。
三日目(7月27日)は、すでに車中でブログを書いたので、ここでは省略。
日本で一番大きな円形古墳「丸墓山古墳」の説明板
丸墓山古墳の登り口 頂上部まで登れる、直径105m・高さ17mの円墳
稲荷山古墳(国宝の鉄剣が埋設されていた古墳) 前方登り口
将軍山古墳 横穴式石室の中に入れる古墳だった。埋葬の状態が復元されていたので、わかりやすかった。
荒川の土手・河口より72km地点(JR行田駅近く)を歩いてみた。すごい川幅の土手になっていた。川幅が広くて、右岸が分からなかった。
江戸時代の中山道は「元荒川」という川の側の道。
JR熊谷駅前の「熊谷直実像」
熊谷市は、最高気温が日本一高い地点になっている時がある。関東地方では高温になりやすい地形なのであろう。
「熊谷次郎直実」は、1184年、一の谷の合戦で平敦盛を討ち取った武将である。平家側と源氏側との戦いにおいて、歴史上有名な合戦である。その熊谷次郎直実の出身地だから、素晴らしい像が目立つところに設置されていた。熊谷駅改札口前であり、バスターミナル中央部でもあった。平安・鎌倉時代の武将像が存在感のある駅であった。
江戸時代には中山道の「熊谷宿」として栄えた町である。
札の辻(高札場)跡
本陣跡 「竹井家本陣」は間口27mで奥行きは「星川」に達するという大規模なものであったが、今は碑が残るだけである。明治時代の火災と戦災の被害で、跡形もなくなってしまったとのことである。
旧中山道の一部、現在はデパートが建っている
新島一里塚 江戸時代に植えられた木の幹が残っていた。歴史を感じさせる見事な一里塚だった。
深谷ネギ畑を目にした時、「やっと深谷宿に近づいたなあ!」と感激。深谷ネギの畑を実際に見たのは初めてだった。熊谷宿から深谷宿までは12kmもあり、真夏の歩き旅はきつかった!
「深谷は遠いなあ・・・」との心境で疲れ切っていたので、(足の豆も気にしながら歩いていた)、ネギ畑を目にした時は、うれしかったですね。
深谷=新札になる「渋沢栄一」氏の出身地 深谷駅前に立派な像
顔の部分をアップ
深谷宿の町並み レンガ造りの家がよかったですね。
深谷宿本陣遺構(現在、印刷会社になっていました)
本陣の一部が保存されているという説明板がありました。
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2019/7/27
「埼玉より帰宅中 列車の中にて」 中山道歩き
旅行3日目、東海道本線の列車の中にて。
台風が上陸して、名古屋方面に進んでいるらしい。幸い、列車は順調に動いている。(午後3時
現在、私は静岡付近にいます)
昨日は中山道歩き(約27km歩き旅)で深谷宿に泊まりました。久しぶりの歩き旅だったので、足にマメができました。風呂に入り、疲れも取りました。
今朝、上野にある東京国立博物館の『三国志展』を見学してから列車に乗りました。
列車が途中で不通にならないように願っています。
さて、今夜中に帰宅できそうかな?
(写真中央部)さきたま古墳群9基の1つ 稲荷山古墳
丸墓山古墳の頭頂部より撮影。 墳丘全長120mの前方後円墳(緑の草に覆われて、こんもりとしている部分が稲荷山古墳。)
人が登っていける。たぶん豪族の墓だからだろう。(天皇の墓の場合、立ち入り禁止になっている古墳が多い。)
その古墳で見つかった鉄剣 「さきたま史跡の博物館」に展示されている。撮影可能だった。
古代史超1級資料であり、 国宝になっている。
鉄剣に金の文字(表に57字、裏に58字)合計115文字が刻まれていた。5世紀の鉄剣に文字が書かれていたとは! 「世紀の大発見」のニュースとなった。
古事記、日本書紀よりも約250年も前に書かれたことが判明し、日本古代史に驚きをもたらしたようだ。
台風が上陸して、名古屋方面に進んでいるらしい。幸い、列車は順調に動いている。(午後3時
現在、私は静岡付近にいます)
昨日は中山道歩き(約27km歩き旅)で深谷宿に泊まりました。久しぶりの歩き旅だったので、足にマメができました。風呂に入り、疲れも取りました。
今朝、上野にある東京国立博物館の『三国志展』を見学してから列車に乗りました。
列車が途中で不通にならないように願っています。
さて、今夜中に帰宅できそうかな?
(写真中央部)さきたま古墳群9基の1つ 稲荷山古墳
丸墓山古墳の頭頂部より撮影。 墳丘全長120mの前方後円墳(緑の草に覆われて、こんもりとしている部分が稲荷山古墳。)
人が登っていける。たぶん豪族の墓だからだろう。(天皇の墓の場合、立ち入り禁止になっている古墳が多い。)
その古墳で見つかった鉄剣 「さきたま史跡の博物館」に展示されている。撮影可能だった。
古代史超1級資料であり、 国宝になっている。
鉄剣に金の文字(表に57字、裏に58字)合計115文字が刻まれていた。5世紀の鉄剣に文字が書かれていたとは! 「世紀の大発見」のニュースとなった。
古事記、日本書紀よりも約250年も前に書かれたことが判明し、日本古代史に驚きをもたらしたようだ。
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2019/1/8
「中山道・近江路歩き旅(1月8日・日帰り)」 中山道歩き
1月8日、予定通り中山道近江路歩きに行ってきた。高宮宿からスタートして柏原宿まで歩いてきた。本日の歩数は約40000歩だった。約22kmほど歩いてきたようだ。地図上の距離もほぼ同じだった。ほとんど寄り道をしたり、迷ったりもしなかった結果だろう。足の痛みもなかった。
今回歩いたコースは鳥居本宿や醒井宿・柏原宿など、江戸時代の町並みが残されていて、わくわくしながら歩けた。
番場宿には本陣跡などの碑が数多くあり、街道に面した家が、江戸時代はどういう商売をしていたのか、想像しやすかった。残念ながら番場宿には、江戸時代の建物そのものはほとんどなかったが・・・。
彦根市の小野という地。 小野小町が生まれた地だという伝説あり。「小野こまち会館」があった。
昔、東山道(とうさんどう)の小野宿があった。江戸時代になり、中山道と言われる街道になり、宿場ではなくなった。
鳥居本宿 江戸時代、和紙に防水用の柿渋を塗り込んで作った合羽がよく売れた。その産地として栄えていた。今は製造していないが、屋根に看板だけが残っていた。歴史を感じさせてくれました。
鳥居本宿本陣跡 建物は残っておらず、洋風の建物に変わっていた。
300年以上前から売られている胃薬「赤玉 神教丸」。
その建物は立派な家だった。 なんとまあ、販売薬局として現役の店だった!
近江路の歴史はすごいですね!
創業は江戸時代ですね。看板にそのことが書かれていた。
彦根市 中山道モニュメント 旅人の姿がリアルでした。
番場宿への中山道 薄暗くて誰にも会うことがなく・・・。こういう道の一人旅はやや心細いです。
摺針峠=すりはりとうげ(建物は、江戸時代は茶屋本陣として営業していたようだ。)
はるか遠くに琵琶湖が見えていた。中山道随一の名勝地だった。琵琶湖が埋め立てられていない江戸時代は、湖面が近かったようである。
番場宿(ばんばじゅく)の一部
番場宿 蓮華寺本堂前庭にて 南北朝時代の悲しい歴史。
1333年、足利尊氏に追われて落ちてきた六波羅探題・北条仲時一行432人全員が、この寺で自刃した。その血の流れが川のようだったとのこと。700年ほど前の出来事とはいえ、戦争の歴史は想像するだけで心が痛む。400人以上の自刃とは! 中山道(江戸時代以前は東山道と呼ばれていた道)にも悲しい歴史があったのだ。今回、初めて知りました。
番場宿にこういう碑が6ヶ所ぐらいありました。脇本陣跡、問屋場跡など。
醒井宿碑の前の雪は融けないまま。 寒いところですね。
夏は「梅花藻」が清流の中に咲いている宿で、有名です。春は桜、晩夏の頃は、百日紅の木々が満開になり、どの季節に行ってもいい宿ですね。私の醒井宿訪問は4回目でした。冬は初めて。
柏原宿 素晴しい町並みの宿でした。今回歩いた宿の中では最高!
江戸時代初期に創業した伊吹もぐさ店「伊吹堂亀屋」 江戸時代の建物が立派だった。
現在も営業中らしい。伊吹山のよもぎを原料にもぐさを作っている。私は「やいと」の経験がないので、もぐさをよくは知らないが…。
幕末、柏原宿本陣(江戸時代の建物はない)に皇女和宮様が江戸へ向かう時に宿泊している。その碑。
今回歩いたコースは鳥居本宿や醒井宿・柏原宿など、江戸時代の町並みが残されていて、わくわくしながら歩けた。
番場宿には本陣跡などの碑が数多くあり、街道に面した家が、江戸時代はどういう商売をしていたのか、想像しやすかった。残念ながら番場宿には、江戸時代の建物そのものはほとんどなかったが・・・。
彦根市の小野という地。 小野小町が生まれた地だという伝説あり。「小野こまち会館」があった。
昔、東山道(とうさんどう)の小野宿があった。江戸時代になり、中山道と言われる街道になり、宿場ではなくなった。
鳥居本宿 江戸時代、和紙に防水用の柿渋を塗り込んで作った合羽がよく売れた。その産地として栄えていた。今は製造していないが、屋根に看板だけが残っていた。歴史を感じさせてくれました。
鳥居本宿本陣跡 建物は残っておらず、洋風の建物に変わっていた。
300年以上前から売られている胃薬「赤玉 神教丸」。
その建物は立派な家だった。 なんとまあ、販売薬局として現役の店だった!
近江路の歴史はすごいですね!
創業は江戸時代ですね。看板にそのことが書かれていた。
彦根市 中山道モニュメント 旅人の姿がリアルでした。
番場宿への中山道 薄暗くて誰にも会うことがなく・・・。こういう道の一人旅はやや心細いです。
摺針峠=すりはりとうげ(建物は、江戸時代は茶屋本陣として営業していたようだ。)
はるか遠くに琵琶湖が見えていた。中山道随一の名勝地だった。琵琶湖が埋め立てられていない江戸時代は、湖面が近かったようである。
番場宿(ばんばじゅく)の一部
番場宿 蓮華寺本堂前庭にて 南北朝時代の悲しい歴史。
1333年、足利尊氏に追われて落ちてきた六波羅探題・北条仲時一行432人全員が、この寺で自刃した。その血の流れが川のようだったとのこと。700年ほど前の出来事とはいえ、戦争の歴史は想像するだけで心が痛む。400人以上の自刃とは! 中山道(江戸時代以前は東山道と呼ばれていた道)にも悲しい歴史があったのだ。今回、初めて知りました。
番場宿にこういう碑が6ヶ所ぐらいありました。脇本陣跡、問屋場跡など。
醒井宿碑の前の雪は融けないまま。 寒いところですね。
夏は「梅花藻」が清流の中に咲いている宿で、有名です。春は桜、晩夏の頃は、百日紅の木々が満開になり、どの季節に行ってもいい宿ですね。私の醒井宿訪問は4回目でした。冬は初めて。
柏原宿 素晴しい町並みの宿でした。今回歩いた宿の中では最高!
江戸時代初期に創業した伊吹もぐさ店「伊吹堂亀屋」 江戸時代の建物が立派だった。
現在も営業中らしい。伊吹山のよもぎを原料にもぐさを作っている。私は「やいと」の経験がないので、もぐさをよくは知らないが…。
幕末、柏原宿本陣(江戸時代の建物はない)に皇女和宮様が江戸へ向かう時に宿泊している。その碑。
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