2018/12/27
「岐阜城が見える中山道歩き」 中山道歩き
今日は家を5時50分に出て、日帰りで中山道歩きをして来ました。青春18切符利用で、美濃赤坂駅へ。駅到着は9時40分頃でした。
去年の12月に中山道・柏原宿から赤坂宿まで歩き旅をしている。美濃赤坂駅発の列車の本数が少ないので、気が気ではなかった。夕方の日没が早いので、暗くなりはじめると、JR駅へ行きたくなる。冬場の歩き旅は午後4時頃になると、「今日はここまでにしようかな?」と、自分に言い聞かせて「歩き旅」を終えることになる。そういう状況で、去年の赤坂宿探訪はゆっくりできなかった。
赤坂宿はゆっくり見学していなかったので、1年遅れの「じっくり探訪」をすることが(今日は)できました。
素晴らしい宿でした。江戸時代の建物が予想以上に残っていました。保存も良く、住民たちが力を合わせて「宿場町の雰囲気」を大切にしていることがうかがえました。赤坂宿案内のボランティアガイドもおられるようでしたが、土日のみの活動だと観光用パンフレットに書かれていました。建物の室内の見学も2、3軒できるようでしたが、これも土日または特別な日だけのようでした。
江戸時代の建物の内部を公開している宿場はほとんどなく、限られた宿場だけです。そういうことから考えると、「とくに有名な観光地ではない」宿場ですが、がんばっておられると思いました。
赤坂宿(岐阜県大垣市)見学後、美江寺(みえじ)宿(岐阜県瑞穂市)→ 河渡(ごうど)宿(岐阜県岐阜市)→ 加納(かのう)宿(岐阜県岐阜市中心部)まで行ってきました。
加納宿は岐阜駅に近いところですが、建物などほとんど何も残されていませんでした。今日巡ってきた宿の中では、やはり赤坂宿が良かったですね。
今日の歩きは、45000歩ほどでした。約25km歩いたようです。歩き旅コースの地図上の距離は約21kmですが、うろうろしたり、コースを間違ったりしました。それが原因で、歩いた距離が長くなったようです。地図を見ながら、中山道を歩くのですが、「どっちへ行くべきかな?」と迷うことが時々あります。
でも、街道歩き旅は楽しいですよ。年金生活者には、青春18切符はありがたい切符です。
今日は日帰りでしたので、かかった交通費は2370円だけでした。
(残りのチケット、1月10日まで使えますので、また歩きに行くつもりです。)
中山道赤坂宿中心付近 中山道に面した建物
赤坂宿 矢橋家住宅(江戸時代の建物・歴史文化遺産)
中山道・養老街道・谷汲街道が交差する地点
赤坂宿=江戸時代は交通の要衝であった。
中山道から路地に入ったところ 古い家並みが残っている。
赤坂宿には8ヶ所ほど歴史的な見学ポイントがあった。
美江寺宿の本陣跡(碑が立っているだけ)には4本も幟が立っていた。しかし、宿全体には建物はほとんど残っていなかった。
美江神社の中に高札場が復元されていた。高札の記述内容の解説があったので、参考になった。
河渡宿中心部 「河渡の一里塚跡」の碑があるだけで、愛想ない宿だった。
長良川に架けられた「河渡橋」 橋の上から岐阜城がよく見えていた。
江戸時代は「河渡の渡し」があったところで、長良川が増水すると、舟が出なくなり、旅人たちで河渡宿はにぎわったようである。明治になり、橋が架けられたので、宿はさびれていったようだ。時代の流れで、すたれていったのだろう。渡し舟で栄えたところに、橋が架かると街の賑わいも変化する。
現代においても、宮古島などで「巨大な橋」が架かると連絡フェリー会社がつぶれたりする。港周辺もさびれてしまう。橋を架けることに、プラス面とマイナス面があるものだ。世の中の動きについても、両面からの視点を持つことが大切だろう。
ということを「河渡宿の歴史」から考えさせられた。
加納宿には碑があっちこっちにあるだけで、ほとんど歴史的建物はなかった。皇女和宮様が加納宿本陣に宿泊されているが、本陣などの建物はなかった。
和宮様の人生は短かった。(享年31歳)。和宮様の働きによって、徳川家はなんとか残ったようだ。明治時代になり、15代将軍徳川慶喜公は、ささやかであろうが、活躍されているようだ。江戸日本橋に書かれている「日本橋」の字は、徳川慶喜公の直筆字体とのことである。
加納城大手門跡の碑
去年の12月に中山道・柏原宿から赤坂宿まで歩き旅をしている。美濃赤坂駅発の列車の本数が少ないので、気が気ではなかった。夕方の日没が早いので、暗くなりはじめると、JR駅へ行きたくなる。冬場の歩き旅は午後4時頃になると、「今日はここまでにしようかな?」と、自分に言い聞かせて「歩き旅」を終えることになる。そういう状況で、去年の赤坂宿探訪はゆっくりできなかった。
赤坂宿はゆっくり見学していなかったので、1年遅れの「じっくり探訪」をすることが(今日は)できました。
素晴らしい宿でした。江戸時代の建物が予想以上に残っていました。保存も良く、住民たちが力を合わせて「宿場町の雰囲気」を大切にしていることがうかがえました。赤坂宿案内のボランティアガイドもおられるようでしたが、土日のみの活動だと観光用パンフレットに書かれていました。建物の室内の見学も2、3軒できるようでしたが、これも土日または特別な日だけのようでした。
江戸時代の建物の内部を公開している宿場はほとんどなく、限られた宿場だけです。そういうことから考えると、「とくに有名な観光地ではない」宿場ですが、がんばっておられると思いました。
赤坂宿(岐阜県大垣市)見学後、美江寺(みえじ)宿(岐阜県瑞穂市)→ 河渡(ごうど)宿(岐阜県岐阜市)→ 加納(かのう)宿(岐阜県岐阜市中心部)まで行ってきました。
加納宿は岐阜駅に近いところですが、建物などほとんど何も残されていませんでした。今日巡ってきた宿の中では、やはり赤坂宿が良かったですね。
今日の歩きは、45000歩ほどでした。約25km歩いたようです。歩き旅コースの地図上の距離は約21kmですが、うろうろしたり、コースを間違ったりしました。それが原因で、歩いた距離が長くなったようです。地図を見ながら、中山道を歩くのですが、「どっちへ行くべきかな?」と迷うことが時々あります。
でも、街道歩き旅は楽しいですよ。年金生活者には、青春18切符はありがたい切符です。
今日は日帰りでしたので、かかった交通費は2370円だけでした。
(残りのチケット、1月10日まで使えますので、また歩きに行くつもりです。)
中山道赤坂宿中心付近 中山道に面した建物
赤坂宿 矢橋家住宅(江戸時代の建物・歴史文化遺産)
中山道・養老街道・谷汲街道が交差する地点
赤坂宿=江戸時代は交通の要衝であった。
中山道から路地に入ったところ 古い家並みが残っている。
赤坂宿には8ヶ所ほど歴史的な見学ポイントがあった。
美江寺宿の本陣跡(碑が立っているだけ)には4本も幟が立っていた。しかし、宿全体には建物はほとんど残っていなかった。
美江神社の中に高札場が復元されていた。高札の記述内容の解説があったので、参考になった。
河渡宿中心部 「河渡の一里塚跡」の碑があるだけで、愛想ない宿だった。
長良川に架けられた「河渡橋」 橋の上から岐阜城がよく見えていた。
江戸時代は「河渡の渡し」があったところで、長良川が増水すると、舟が出なくなり、旅人たちで河渡宿はにぎわったようである。明治になり、橋が架けられたので、宿はさびれていったようだ。時代の流れで、すたれていったのだろう。渡し舟で栄えたところに、橋が架かると街の賑わいも変化する。
現代においても、宮古島などで「巨大な橋」が架かると連絡フェリー会社がつぶれたりする。港周辺もさびれてしまう。橋を架けることに、プラス面とマイナス面があるものだ。世の中の動きについても、両面からの視点を持つことが大切だろう。
ということを「河渡宿の歴史」から考えさせられた。
加納宿には碑があっちこっちにあるだけで、ほとんど歴史的建物はなかった。皇女和宮様が加納宿本陣に宿泊されているが、本陣などの建物はなかった。
和宮様の人生は短かった。(享年31歳)。和宮様の働きによって、徳川家はなんとか残ったようだ。明治時代になり、15代将軍徳川慶喜公は、ささやかであろうが、活躍されているようだ。江戸日本橋に書かれている「日本橋」の字は、徳川慶喜公の直筆字体とのことである。
加納城大手門跡の碑
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2018/12/16
「妻籠宿(重要伝統的建造物群保存地区)」 中山道歩き
馬籠宿(標高600m)から馬籠峠(標高801m)までは上り道で、汗をかきながらの歩行となり、きつかった。一方、峠を越えた後は、妻籠(つまご)宿へは下り道だったので、楽だった。歩くスピードも速くなった。
中津川宿から馬籠宿への歩き旅コースにおいて、途中出会った人はゼロだったが、馬籠宿から妻籠宿へのコースにおいては、5組の方々に出会った。すべて、欧米系の外国人だった。二人組の方は4組で、5人グループが1組であった。私のように「一人歩き」の人には出会わなかった。
すれ違う時に「グッドモーニング」と挨拶すると、「グッドモーニング!」と元気な声が返ってきた。うれしい挨拶だった。
最後に出会った外国人に、(昼近かったので)「こんにちは」と声をかけると、「コンクニャ・・・」と返答してくれた。日本語の「こんにちは」を返してくれたのだろう…。ちょっと聞き取りにくかったが、微笑ましかった。
それにしても、12月11日(火)に木曽路の歩き旅をしている日本人は(私以外には)いなかった。馬籠宿や妻籠宿には(車やバイク利用で)観光している日本人は何人も見かけたが・・・。歩き旅をしているのは、外国人ばかりだった。外国人は現在日本のどこへでもやってきている時代だ。
中山道(木曽路)歩き旅をしてみて、そのことを実感しました。
馬籠峠から下って行ったところに「一石栃立場(いちこくとちたてば)茶屋」休憩所があった。立場とは、宿場と宿場の間にあって、旅人や駕籠かきたちが休憩する場所であった。江戸時代、東海道や中山道などの各宿場間で、距離が長かったり坂が多い街道において、設置された。(現在、なくなっている立場が多く、「跡」の碑があるだけのことが多い)。
この一石栃立場茶屋の建物は江戸時代後期のもので、無料休憩所として歴史を感じさせてくれる。そのうえ、ボランティアガイドの方が午前9時半ごろに来られて、案内してくれ、お茶や漬物をサービスで出してくれたのだった。
ボランティアガイドは5人ぐらいおられるようだった。日にち交代でガイドされているようだった。この日担当の方は、鈴木省吾さんという方で、「外国人もてなし 木曽節で」という面で有名な方だった。地元の新聞でも取り上げられたそうで、その新聞記事のコピーが掲示されていた。
私の顔を見るなり、「休憩していってください。遠慮はいりませんよ」と声をかけられた。 その誘いにつられて建物の中に入り、休憩させていただいた。お茶とともに飴や小梅の漬物まで出してくださった。
しばらくしたら、木曽節(きそのなあーなかのりさん・・・)を歌ってくださった。大きな力強い声だった。建物の外まで響き渡る声だった。
歌い終わった時、拍手して、迫力ある歌いっぷりを称えた。年齢をお聞きしたところ、77歳とのことであった。
「お元気ですね」と応えた。
「5人いるガイドだが、歌えるのは私一人だけで…。イギリスから来た有名人(元ボンドガールの一人で、放送のための取材者付き)をガイドしたときにも歌ったのですよ。それがBBC放送に取り上げられて、ヨーロッパの国々にも流れて・・・。その後、イギリスやオランダなどの国々から、中山道・妻籠宿や馬籠宿へたくさん来るようになったのですよ!」
77歳の男性ボランティアガイドさんの顔つきは、誇らしげで輝いていた。ボランティアガイド活動の幸せが私にも伝わってきた。
(私も堺で頑張ろう!)
休憩を終えて腕時計を見ると、午前10時前になっていた。急ぎ足で妻籠宿を目指すことにした。南木曾駅に1時半までには到着したかったから。妻籠宿で昼食も取りたい・・・。馬籠宿から南木曾駅までは、約13kmの行程である。それほどゆっくりはしていられない。正午には妻籠宿に到着したいと思った。
妻籠宿までの途中、少し遠回りになったが、男滝(おだき)・女滝(めだき)という二つの滝を見ることができた。それほど高低差がある滝ではなかったが、疲れをいやしてくれる滝だった。東海道歩き旅は海岸や富士山の眺めが疲れをいやしてくれたが、中山道は山が多くて海を見ることはない。滝の眺めが誰をも癒してきたのであろう。皇女和宮様も徳川幕府14代将軍に降嫁されるとき、この中山道を通っている。きっと、この男滝と女滝をご覧になったことであろう。私の歩きコースと同じように、中山道を京から江戸へ向かっている。
皇女とはいえ、すべて駕籠に乗っていたのでもないだろう。険しい山路において、部分的に歩かれたに違いない。
あれこれと歴史的なことを想像しながらの街道歩き旅は疲れるが、楽しいものである。
屋根に石を乗せた建物が何軒か保存されいる家並みに到着できたのは午前11時40分ごろだった。日本で初めて認定された(宿場町としての)「重要伝統的建造物群保存地区」である妻籠宿。
江戸時代の建物群を家並みのままで保存することは難しかったに違いない。大火災が起こらないようにしなければならない。戦争で破壊されないようにもしなければならない。米軍に爆弾を落とされないという「運」も必要であろう。(堺市などは爆弾を落とされ破壊された都市である。ほんの一部しか江戸時代の建物は残っていない。)
妻籠宿の保存状態は見事であった! 完璧な保存状態に感激しながら見て回ることができた。歴史的建造物群が見事に残されているのだ! 宿場の街道筋には電柱一本もなく、撤去されていた。江戸時代にタイムスリップしたようだった。
妻籠宿中心部の蕎麦屋で五平餅とざるそばを食した。どちらもいい味だった。特に五平餅の味噌がおいしかった。蕎麦屋を出発したのは12時20分ごろ。約3.5km先のJR南木曾駅を目指すことにした。
急ぎ足で歩いたので、午後1時10分ごろに到着できた。ラッキーなことに、1時26分発の列車に乗車することができた。これを逃せば、1時間以上待たされるところであった。
中津川駅で快速に乗り換え、名古屋駅からも快速にのることができた。その後乗り換えがあったが、予想よりも早く堺市駅に到着できた。帰宅時間は午後7時半であった。
この日の歩行数は26319歩。約15kmほど歩いたことになる。
思い出に残る中山道(木曽路)歩き旅になった。
島崎藤村の小説『夜明け前』の冒頭、「木曽路はすべて山の中である。」を実感できた歩きであった。 了
一石栃立場茶屋の建物 休憩所(午前9時半ごろより利用可)
男滝 近くに、この滝より細い女滝がある。
妻籠宿の家並み それほどの坂道ではない
屋根の上に石がのっている建物 宿場に数軒残っていた。
妻籠宿本陣 本陣の建物の屋根にも石がのっていた。
西の「枡形(ますがた)」 外敵が進入しにくいように直角に曲げてあるところ。ほとんどの宿場にある。
中津川宿から馬籠宿への歩き旅コースにおいて、途中出会った人はゼロだったが、馬籠宿から妻籠宿へのコースにおいては、5組の方々に出会った。すべて、欧米系の外国人だった。二人組の方は4組で、5人グループが1組であった。私のように「一人歩き」の人には出会わなかった。
すれ違う時に「グッドモーニング」と挨拶すると、「グッドモーニング!」と元気な声が返ってきた。うれしい挨拶だった。
最後に出会った外国人に、(昼近かったので)「こんにちは」と声をかけると、「コンクニャ・・・」と返答してくれた。日本語の「こんにちは」を返してくれたのだろう…。ちょっと聞き取りにくかったが、微笑ましかった。
それにしても、12月11日(火)に木曽路の歩き旅をしている日本人は(私以外には)いなかった。馬籠宿や妻籠宿には(車やバイク利用で)観光している日本人は何人も見かけたが・・・。歩き旅をしているのは、外国人ばかりだった。外国人は現在日本のどこへでもやってきている時代だ。
中山道(木曽路)歩き旅をしてみて、そのことを実感しました。
馬籠峠から下って行ったところに「一石栃立場(いちこくとちたてば)茶屋」休憩所があった。立場とは、宿場と宿場の間にあって、旅人や駕籠かきたちが休憩する場所であった。江戸時代、東海道や中山道などの各宿場間で、距離が長かったり坂が多い街道において、設置された。(現在、なくなっている立場が多く、「跡」の碑があるだけのことが多い)。
この一石栃立場茶屋の建物は江戸時代後期のもので、無料休憩所として歴史を感じさせてくれる。そのうえ、ボランティアガイドの方が午前9時半ごろに来られて、案内してくれ、お茶や漬物をサービスで出してくれたのだった。
ボランティアガイドは5人ぐらいおられるようだった。日にち交代でガイドされているようだった。この日担当の方は、鈴木省吾さんという方で、「外国人もてなし 木曽節で」という面で有名な方だった。地元の新聞でも取り上げられたそうで、その新聞記事のコピーが掲示されていた。
私の顔を見るなり、「休憩していってください。遠慮はいりませんよ」と声をかけられた。 その誘いにつられて建物の中に入り、休憩させていただいた。お茶とともに飴や小梅の漬物まで出してくださった。
しばらくしたら、木曽節(きそのなあーなかのりさん・・・)を歌ってくださった。大きな力強い声だった。建物の外まで響き渡る声だった。
歌い終わった時、拍手して、迫力ある歌いっぷりを称えた。年齢をお聞きしたところ、77歳とのことであった。
「お元気ですね」と応えた。
「5人いるガイドだが、歌えるのは私一人だけで…。イギリスから来た有名人(元ボンドガールの一人で、放送のための取材者付き)をガイドしたときにも歌ったのですよ。それがBBC放送に取り上げられて、ヨーロッパの国々にも流れて・・・。その後、イギリスやオランダなどの国々から、中山道・妻籠宿や馬籠宿へたくさん来るようになったのですよ!」
77歳の男性ボランティアガイドさんの顔つきは、誇らしげで輝いていた。ボランティアガイド活動の幸せが私にも伝わってきた。
(私も堺で頑張ろう!)
休憩を終えて腕時計を見ると、午前10時前になっていた。急ぎ足で妻籠宿を目指すことにした。南木曾駅に1時半までには到着したかったから。妻籠宿で昼食も取りたい・・・。馬籠宿から南木曾駅までは、約13kmの行程である。それほどゆっくりはしていられない。正午には妻籠宿に到着したいと思った。
妻籠宿までの途中、少し遠回りになったが、男滝(おだき)・女滝(めだき)という二つの滝を見ることができた。それほど高低差がある滝ではなかったが、疲れをいやしてくれる滝だった。東海道歩き旅は海岸や富士山の眺めが疲れをいやしてくれたが、中山道は山が多くて海を見ることはない。滝の眺めが誰をも癒してきたのであろう。皇女和宮様も徳川幕府14代将軍に降嫁されるとき、この中山道を通っている。きっと、この男滝と女滝をご覧になったことであろう。私の歩きコースと同じように、中山道を京から江戸へ向かっている。
皇女とはいえ、すべて駕籠に乗っていたのでもないだろう。険しい山路において、部分的に歩かれたに違いない。
あれこれと歴史的なことを想像しながらの街道歩き旅は疲れるが、楽しいものである。
屋根に石を乗せた建物が何軒か保存されいる家並みに到着できたのは午前11時40分ごろだった。日本で初めて認定された(宿場町としての)「重要伝統的建造物群保存地区」である妻籠宿。
江戸時代の建物群を家並みのままで保存することは難しかったに違いない。大火災が起こらないようにしなければならない。戦争で破壊されないようにもしなければならない。米軍に爆弾を落とされないという「運」も必要であろう。(堺市などは爆弾を落とされ破壊された都市である。ほんの一部しか江戸時代の建物は残っていない。)
妻籠宿の保存状態は見事であった! 完璧な保存状態に感激しながら見て回ることができた。歴史的建造物群が見事に残されているのだ! 宿場の街道筋には電柱一本もなく、撤去されていた。江戸時代にタイムスリップしたようだった。
妻籠宿中心部の蕎麦屋で五平餅とざるそばを食した。どちらもいい味だった。特に五平餅の味噌がおいしかった。蕎麦屋を出発したのは12時20分ごろ。約3.5km先のJR南木曾駅を目指すことにした。
急ぎ足で歩いたので、午後1時10分ごろに到着できた。ラッキーなことに、1時26分発の列車に乗車することができた。これを逃せば、1時間以上待たされるところであった。
中津川駅で快速に乗り換え、名古屋駅からも快速にのることができた。その後乗り換えがあったが、予想よりも早く堺市駅に到着できた。帰宅時間は午後7時半であった。
この日の歩行数は26319歩。約15kmほど歩いたことになる。
思い出に残る中山道(木曽路)歩き旅になった。
島崎藤村の小説『夜明け前』の冒頭、「木曽路はすべて山の中である。」を実感できた歩きであった。 了
一石栃立場茶屋の建物 休憩所(午前9時半ごろより利用可)
男滝 近くに、この滝より細い女滝がある。
妻籠宿の家並み それほどの坂道ではない
屋根の上に石がのっている建物 宿場に数軒残っていた。
妻籠宿本陣 本陣の建物の屋根にも石がのっていた。
西の「枡形(ますがた)」 外敵が進入しにくいように直角に曲げてあるところ。ほとんどの宿場にある。
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タグ: 妻籠宿から南木曾駅へ
2018/12/13
「馬籠宿に泊まる(その2)」 中山道歩き
馬籠宿近くには、元学校の建物を改装した宿泊施設・ゲストハウスがあった。ネットにおけるコメントの評価では、4・9(5・0が最高)ついていた。コメント内容を読んでみても、過ごしやすく快適だという内容が多かった。
それに、何といっても『馬籠宿の中心部から徒歩7分。宿泊料=一泊(食事なし)で2700円』が決め手になった。
ゲストハウスに泊まったことはなかったが、馬籠宿に近い点が魅力的であった。いつも利用しているネット宿泊サイト(じゃらん)に掲載されている宿泊ホテルは、どこも馬籠中心部から遠かった。本当は温泉付きビジネスホテルが希望なのだが、歩いては無理そうな距離のホテルばかりだったので、今回はあきらめた。(東海道歩き旅ではホテルが見つかりやすかったが、中山道は難しい。要するに古い旅館はみつかるのだが・・・宿泊料金がべらぼうに高い。)
宿泊施設は、「新築のゲストハウス」のように感じた。床材が新しい板だったので、ピッカピカ。新築ではないのだが、床や壁から木の香りがした。16人部屋(2段ベット8個分)と10人部屋(2段ベット5個分)と校長室を改装した(1組のみ使用可の)個室があった。全部で、30人ぐらいが利用できる施設だった。
冷暖房完備で、それぞれのベッドには照明があり、Wi-Fiも使える。それぞれカーテンがついており、プライバシーに配慮されていた。ちょうど、関西汽船などの「2等寝台」に寝るイメージだった。これで2700円は安い。ベッドのクッションも快適だったから。
初めて「ゲストハウス」に泊まったが、安心して眠ることができた。談話室へ行って、宿泊客同士が仲良くなるように工夫されていた。
そこで、ちょっと談話室をそっとのぞいてみたが・・・、外国人ばかりだった。
(えっ、外国人ばかりだ。それも若い人たちばかり…。英語は苦手だし…)
一瞬、そう思ったので、談話室の戸を開けることなく、ベットに戻ったのだった。
(70歳のおっさんが入っていく世界ではなさそうだな・・・もう少し、若ければ・・・さて、どうかな? 英語が得意なBさんやTさんなら・・・きっと・・・)
(ここから続きです。)
泊まり客の誰とも話す機会がなかったが、ゲストハウスの職員の方と話す機会があった。
「ここは外国人の方がよく利用されているのですか?」
「はい、日本人よりもむしろ外国の方が多いですね」
「そうなんですね・・・」
「車で来られたんですか?」
「いえ、中津川駅から歩きで・・・。中津川宿を少し見てから、落合宿経由で、・・・やっと馬籠宿にたどり着きました」
「それは、それは・・・」と、ちょっと驚かれた表情。
「中山道はアップダウンが多くて、大変だったでしょう!」
「たったの9kmほどの行程でしたが・・・予想していた以上にアップダウンが多かったですね。疲れました・・・。でも、落合の石畳道はすばらしかったですよ!」
「ありがとうございます」
職員の方との短い会話であったが、話をすることが心地よかった。
歩き旅が好きで、東海道53次を京都・三条大橋からスタートして東京・日本橋まで、15回に分けて歩き旅をしたことを紹介したところ、「がんばっていますね!」とほめていただいた。
中山道69次も完歩したいなあ、と一瞬思ったが、「たぶん無理だろう」とも思われた。
朝になり、サービス朝食をいただくことになった。すべてセルフサービスだった。食パンと飲みものだけだった。食事コーナーは男性外国人の方と二人だけだった。ポットの使い方がよくわからずに戸惑っていると、男性外国人が英語で「ファースト」「セカンド」と推すボタンを指さして教えてくれた。彼はそのポットを使い慣れているようだった。
「サンキュウ」と笑顔で礼を言った。
たったこれだけのことだが、何となく心が和らいだ。このゲストハウスは外国人の利用が多いのだなあ、と実感したのだった。
午前8時過ぎにゲストハウスをスタートして、馬籠峠(標高801m)を目指すことにした。
本日(12月11日)、次の妻籠宿へ行き、散策してからJR南木曾(なぎそ)駅まで歩く予定。そして、青春18切符利用でJR堺市駅へ。
宿泊したゲストハウス(元学校の校舎)
ものすごく広い運動場 背後の山は恵那山
馬籠宿 山の斜面にあるため風通しが良く、大火事が発生しやすい。
複数回火災が起こり、宿全体が消失もしている。明治時代や大正時代の大火によって、灰燼に帰したが、復活して現在に至っている。今ある家並みは、大火の後に復元されてきたものである。
島崎藤村の出生地であり、馬籠宿の本陣跡(建物などが復元されている)
藤村記念館となっている。入場料が必要。朝早かったので、今回は入場できなかった。
江戸からの馬籠宿入口(京からの出口)付近 高札場あり
馬籠峠 信濃国(長野県)と美濃国(岐阜県)との国境
近年までは、馬籠宿は長野県であったが、現在は岐阜県(中津川市の一部)に入っている。つまり、江戸時代の国の分け方に戻ったようである。しかし、「木曽路」という分け方においては、馬籠宿も妻籠宿同様に木曽路に分類されている。馬籠は微妙な位置にあるようだ。馬籠・妻籠とセットで紹介されることが多い。所属県は違うのに…。
それに、何といっても『馬籠宿の中心部から徒歩7分。宿泊料=一泊(食事なし)で2700円』が決め手になった。
ゲストハウスに泊まったことはなかったが、馬籠宿に近い点が魅力的であった。いつも利用しているネット宿泊サイト(じゃらん)に掲載されている宿泊ホテルは、どこも馬籠中心部から遠かった。本当は温泉付きビジネスホテルが希望なのだが、歩いては無理そうな距離のホテルばかりだったので、今回はあきらめた。(東海道歩き旅ではホテルが見つかりやすかったが、中山道は難しい。要するに古い旅館はみつかるのだが・・・宿泊料金がべらぼうに高い。)
宿泊施設は、「新築のゲストハウス」のように感じた。床材が新しい板だったので、ピッカピカ。新築ではないのだが、床や壁から木の香りがした。16人部屋(2段ベット8個分)と10人部屋(2段ベット5個分)と校長室を改装した(1組のみ使用可の)個室があった。全部で、30人ぐらいが利用できる施設だった。
冷暖房完備で、それぞれのベッドには照明があり、Wi-Fiも使える。それぞれカーテンがついており、プライバシーに配慮されていた。ちょうど、関西汽船などの「2等寝台」に寝るイメージだった。これで2700円は安い。ベッドのクッションも快適だったから。
初めて「ゲストハウス」に泊まったが、安心して眠ることができた。談話室へ行って、宿泊客同士が仲良くなるように工夫されていた。
そこで、ちょっと談話室をそっとのぞいてみたが・・・、外国人ばかりだった。
(えっ、外国人ばかりだ。それも若い人たちばかり…。英語は苦手だし…)
一瞬、そう思ったので、談話室の戸を開けることなく、ベットに戻ったのだった。
(70歳のおっさんが入っていく世界ではなさそうだな・・・もう少し、若ければ・・・さて、どうかな? 英語が得意なBさんやTさんなら・・・きっと・・・)
(ここから続きです。)
泊まり客の誰とも話す機会がなかったが、ゲストハウスの職員の方と話す機会があった。
「ここは外国人の方がよく利用されているのですか?」
「はい、日本人よりもむしろ外国の方が多いですね」
「そうなんですね・・・」
「車で来られたんですか?」
「いえ、中津川駅から歩きで・・・。中津川宿を少し見てから、落合宿経由で、・・・やっと馬籠宿にたどり着きました」
「それは、それは・・・」と、ちょっと驚かれた表情。
「中山道はアップダウンが多くて、大変だったでしょう!」
「たったの9kmほどの行程でしたが・・・予想していた以上にアップダウンが多かったですね。疲れました・・・。でも、落合の石畳道はすばらしかったですよ!」
「ありがとうございます」
職員の方との短い会話であったが、話をすることが心地よかった。
歩き旅が好きで、東海道53次を京都・三条大橋からスタートして東京・日本橋まで、15回に分けて歩き旅をしたことを紹介したところ、「がんばっていますね!」とほめていただいた。
中山道69次も完歩したいなあ、と一瞬思ったが、「たぶん無理だろう」とも思われた。
朝になり、サービス朝食をいただくことになった。すべてセルフサービスだった。食パンと飲みものだけだった。食事コーナーは男性外国人の方と二人だけだった。ポットの使い方がよくわからずに戸惑っていると、男性外国人が英語で「ファースト」「セカンド」と推すボタンを指さして教えてくれた。彼はそのポットを使い慣れているようだった。
「サンキュウ」と笑顔で礼を言った。
たったこれだけのことだが、何となく心が和らいだ。このゲストハウスは外国人の利用が多いのだなあ、と実感したのだった。
午前8時過ぎにゲストハウスをスタートして、馬籠峠(標高801m)を目指すことにした。
本日(12月11日)、次の妻籠宿へ行き、散策してからJR南木曾(なぎそ)駅まで歩く予定。そして、青春18切符利用でJR堺市駅へ。
宿泊したゲストハウス(元学校の校舎)
ものすごく広い運動場 背後の山は恵那山
馬籠宿 山の斜面にあるため風通しが良く、大火事が発生しやすい。
複数回火災が起こり、宿全体が消失もしている。明治時代や大正時代の大火によって、灰燼に帰したが、復活して現在に至っている。今ある家並みは、大火の後に復元されてきたものである。
島崎藤村の出生地であり、馬籠宿の本陣跡(建物などが復元されている)
藤村記念館となっている。入場料が必要。朝早かったので、今回は入場できなかった。
江戸からの馬籠宿入口(京からの出口)付近 高札場あり
馬籠峠 信濃国(長野県)と美濃国(岐阜県)との国境
近年までは、馬籠宿は長野県であったが、現在は岐阜県(中津川市の一部)に入っている。つまり、江戸時代の国の分け方に戻ったようである。しかし、「木曽路」という分け方においては、馬籠宿も妻籠宿同様に木曽路に分類されている。馬籠は微妙な位置にあるようだ。馬籠・妻籠とセットで紹介されることが多い。所属県は違うのに…。
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タグ: ゲストハウス
2018/12/10
「馬籠宿に泊まる(その1)」 中山道歩き
早朝に家を出たが、JR中津川駅に到着したのは、12時を過ぎていた。
3時間も歩けば馬籠(まごめ)宿に到着するだろうと予測した。歩く距離は9キロだったから。ところがどっこい、アップダウンが多くて、息切れしながらの歩き旅になってしまった。到着したのは午後4時を過ぎていた。そんなに遅くはないのに、馬籠宿は閉店している店が多く、ひっそりしていた。藤村記念館も入館時刻を過ぎ、門が閉じられていた。
12月の馬籠宿は観光客が少ないのだろう。今夜泊まる所は「食事なし」の予約だったので、馬籠宿で食事処を探すことにした。
驚いた。どこもすでに終了していたのだ!
(どこも早すぎる! まいったなぁー)
【ここから続きです】
犬を散歩させている人を見かけたので、尋ねてみた。
「この辺りで、食事ができる所はありませんか?」
「この辺りの店は4時ごろには閉めるので・・・たぶん食事処はどこも閉まってしまうのですよ」
「それにしても、まだ5時前ですが・・・。閉まるのが、早いですね」
「特に冬になると、閉まるのが早くて・・・。でも、ひょっとしたら・・・まごめやさんなら営業しているかも・・・」
と、親切に道順を教えてくれたのだった。
急ぎ足で教えていただいた店へ行ってみた。入り口には、「終了」の札がかかっていた。(やっぱり遅かったか・・・どうしよう・・・)
馬籠宿の町並みの入口付近にお土産店があった。お菓子類が売られていたので、入ってみた。ぐるっと見て回ったが、パンなど夕食代わりになりそうな食べ物は売ってなかった。
「あの・・・すみません、お菓子以外の食べ物はどこかに売っていませんか?」と店の人に尋ねてみた。
「この近くにJA経営の店ならありますよ。すぐ近くですよ」と教えていただいたのだった。
中に入ってみると、コンビニではなかったけれど、「コンビニふう」だった。
(やったー! これで「夕食」が手に入ったぞ!)
売れ残っていたらしい巻き寿司いなり寿司セットとサンドイッチや菓子パンを購入して宿泊場所へ急いだ。もう暗くなり始めていた。5時を過ぎると急に暗くなっていくので、気もあせった。なにしろ、初めて宿泊するところだったから。
この続きは(その2)へ *この日の歩数は23339歩だった。(約14km)
中津川宿 高札場 この上は高い崖だった。
落合宿 お寺の松が道路上に(トラックが当たりそうな場所にあった)歴史的に重要な松なので、切れないようだ。落合宿の中心地
落合宿本陣の門が立派。 建物は再建されたものだったが、門は江戸時代に加賀藩前田家から贈られたものだった。
落合の石畳道入口(すごく長かった)
馬籠宿は坂道が多かった。すべて坂、坂、坂・・・
こんなに坂が多いところに「宿場」を造るなんて! 家々の建築だけで大変だったに違いない。二度の大火で全滅したが、再起している。すごい「復活力」だ!
馬籠宿と言えば、「島崎藤村」及び島崎家の人々の存在が大きい。
3時間も歩けば馬籠(まごめ)宿に到着するだろうと予測した。歩く距離は9キロだったから。ところがどっこい、アップダウンが多くて、息切れしながらの歩き旅になってしまった。到着したのは午後4時を過ぎていた。そんなに遅くはないのに、馬籠宿は閉店している店が多く、ひっそりしていた。藤村記念館も入館時刻を過ぎ、門が閉じられていた。
12月の馬籠宿は観光客が少ないのだろう。今夜泊まる所は「食事なし」の予約だったので、馬籠宿で食事処を探すことにした。
驚いた。どこもすでに終了していたのだ!
(どこも早すぎる! まいったなぁー)
【ここから続きです】
犬を散歩させている人を見かけたので、尋ねてみた。
「この辺りで、食事ができる所はありませんか?」
「この辺りの店は4時ごろには閉めるので・・・たぶん食事処はどこも閉まってしまうのですよ」
「それにしても、まだ5時前ですが・・・。閉まるのが、早いですね」
「特に冬になると、閉まるのが早くて・・・。でも、ひょっとしたら・・・まごめやさんなら営業しているかも・・・」
と、親切に道順を教えてくれたのだった。
急ぎ足で教えていただいた店へ行ってみた。入り口には、「終了」の札がかかっていた。(やっぱり遅かったか・・・どうしよう・・・)
馬籠宿の町並みの入口付近にお土産店があった。お菓子類が売られていたので、入ってみた。ぐるっと見て回ったが、パンなど夕食代わりになりそうな食べ物は売ってなかった。
「あの・・・すみません、お菓子以外の食べ物はどこかに売っていませんか?」と店の人に尋ねてみた。
「この近くにJA経営の店ならありますよ。すぐ近くですよ」と教えていただいたのだった。
中に入ってみると、コンビニではなかったけれど、「コンビニふう」だった。
(やったー! これで「夕食」が手に入ったぞ!)
売れ残っていたらしい巻き寿司いなり寿司セットとサンドイッチや菓子パンを購入して宿泊場所へ急いだ。もう暗くなり始めていた。5時を過ぎると急に暗くなっていくので、気もあせった。なにしろ、初めて宿泊するところだったから。
この続きは(その2)へ *この日の歩数は23339歩だった。(約14km)
中津川宿 高札場 この上は高い崖だった。
落合宿 お寺の松が道路上に(トラックが当たりそうな場所にあった)歴史的に重要な松なので、切れないようだ。落合宿の中心地
落合宿本陣の門が立派。 建物は再建されたものだったが、門は江戸時代に加賀藩前田家から贈られたものだった。
落合の石畳道入口(すごく長かった)
馬籠宿は坂道が多かった。すべて坂、坂、坂・・・
こんなに坂が多いところに「宿場」を造るなんて! 家々の建築だけで大変だったに違いない。二度の大火で全滅したが、再起している。すごい「復活力」だ!
馬籠宿と言えば、「島崎藤村」及び島崎家の人々の存在が大きい。
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2018/12/9
「2017年8月 中津川宿にて撮影」 中山道歩き
2017年8月(一年以上前) 中津川宿へ行った時に撮った写真
2017/12/19
「中山道歩き旅 (岐阜県)鵜沼宿・太田宿」 中山道歩き
12月に入り、2回目の(日帰り)中山道歩き旅をしてきた。
今回の行き先は、岐阜県の鵜沼(うぬま)宿と太田宿だった。高山本線・各務原(かがみがはら)駅で降り、そこから歩き始めた。自宅を午前5時20分に出て、各務原駅到着は午前9時40分だった。
今回の(自宅からスタートして帰宅するまでの)総歩数は30425歩だった。万歩計では約19kmほど歩いたことになったが、中山道だけの行程は約15㎞だと思われる。
各務原駅から鵜沼宿まで約4㎞歩いた。鵜沼宿に到着したのは、11時近かった。
というのは、岐阜県で一番大きな古墳(衣裳塚古墳・形は円墳)が中山道のすぐ近くにあり、(立ち入り可能な)登れる古墳だった。そこで、古墳の一番高いところまで登っていき、写真を撮ったりした。鵜沼宿到着が予定時刻よりも遅くなってしまった。
鵜沼宿は加納宿(JR岐阜駅近くの宿)から17kmほど離れた宿である。宿間は一般的には約10㎞だが、この宿間は長いのでどの旅人も苦労したことであろう。今回は、鵜沼宿の4kmほど手前から歩いたのだった。
鵜沼宿中心部は古い家が残っていたし、脇本陣は再建されていた。町を挙げて「鵜沼宿」を大切にしている雰囲気があった。
再建された『坂井脇本陣』は柱などの木の香りが漂っていて、最近の建物であることを物語っていた。再建費用は(想像するだけだが・・・)相当な額に違いなかった。
その脇本陣には、無料で入館することができた。3人の高齢の男性ボランティアガイドさんが笑顔で迎えてくださった。建物の説明をしていただいた後、私を入れた4人は中山道歩きなどの話題で盛り上がった。平日でもあり、観光客は私一人だけだったので、あれやこれやと話が続き、時間が過ぎていったのであった。(高齢者は全国的に暇なのかもしれない…?)
そこを出てから、『鵜沼宿町屋館』という元旅籠→明治時代は郵便局 の立派な建物に入っていった。そこにも高齢のガイド(ここは女性だった)さんがおられて、建物の歴史や鵜沼宿の説明を聞くことができた。すべて無料だった。
鵜沼宿の建物は明治24年の濃尾大地震で壊滅的な被害を受けたのだが、見事に復活していた。濃尾大地震については、まったく知識がなかったので、「ガイドさんの説明が聞けて良かったなあ!」と感謝した。
歴史をふまえて「宿・町並み・建物」を味わえるのは、歩き旅の楽しみである。
鵜沼宿でかなり時間を使ったので、急ぎ足で次の太田宿を目指した。
「うとう峠の一里塚(江戸から百里目)」を過ぎると、石畳風歩道を歩いた。車は入ってこれないので、中山道そのものの道であった。
石畳道が終わると、国道に合流した。その道は木曽川沿いの道であり、途中からは(木曽川の)土手道になった。木曽川を眺めながらの歩き旅で、気分爽快であった。
その道は『日本ライン ロマンチック街道』と名付けられていた。木曽川の急流を近くに眺めながら歩くことができた。
ロマンチック街道が尽きるころ、太田宿中心部に近づいた。
木曽川土手近くに『虚空蔵堂(こくうぞうどう)』という建物があった。説明板によると、(太田出身の)坪内逍遥氏の少年時代の遊び場だったとのことである。横に椋の巨木があり、(老人になった)逍遥氏がその木の下で記念撮影(掲示板に写真あり)されていた。
堂そのものは感動することはなかったが、「椋」の巨木に感動した。東海道歩きをしていた時、たまに「椋」を目にすることはあったが、ここの椋の巨木には驚いた。冬ゆえに葉はなかったが、葉があればさらに感動が増したであろう。
太田宿は木曽川の「太田の渡し」と舟運を控えた宿で、大いに賑わったようだ。中山道と飛騨街道や郡上街道が交差する位置にある。現在、国道21号線が走り、車の量も多い。
皇女和宮降嫁の行列が太田宿において、福田本陣(現在は本陣門のみで、建物はない)に宿泊している。(1861年10月20日に)京を出発して7日目であった。
太田宿の記録によると、行列の人・馬は7856人・280疋とのことである。福田本陣に皇女和宮が宿泊しているが、脇本陣や旅籠など宿場全体がごった返したことであろう。とにかく、江戸時代の太田宿住民人口は505人だったのだから、行列が通り過ぎるまで、大騒動だったに違いない。
太田宿休憩所において、その様子などがアニメ映像で紹介されていた。脇本陣の建物が保存修理されていた。この建物は立派な「うだつ」があがっており、見ごたえがあった。建物の中はお住まいになっているので公開されていないが、団体の方が見学中とのことで、その団体の方々に入れてもらえたので、見学ができた。ラッキーだった。
江戸時代にタイムスリップしたようだった。
中山道・鵜沼宿近くの「衣裳塚古墳」
鵜沼宿入口の碑
鵜沼宿の町並み(中心部)
「うとう峠」への道標
木曽川 白波が見えた。この川の渡し舟は急流のため危険だったようだ。
木曽川の土手道(ロマンチック街道)=中山道
「虚空蔵堂」 椋の大木が力強かった。
立派なうだつのある脇本陣(建物は補修して保存)
現在、お住いの家でもあり、普段は非公開。
町並みに江戸時代の雰囲気が残っていた。
今回の行き先は、岐阜県の鵜沼(うぬま)宿と太田宿だった。高山本線・各務原(かがみがはら)駅で降り、そこから歩き始めた。自宅を午前5時20分に出て、各務原駅到着は午前9時40分だった。
今回の(自宅からスタートして帰宅するまでの)総歩数は30425歩だった。万歩計では約19kmほど歩いたことになったが、中山道だけの行程は約15㎞だと思われる。
各務原駅から鵜沼宿まで約4㎞歩いた。鵜沼宿に到着したのは、11時近かった。
というのは、岐阜県で一番大きな古墳(衣裳塚古墳・形は円墳)が中山道のすぐ近くにあり、(立ち入り可能な)登れる古墳だった。そこで、古墳の一番高いところまで登っていき、写真を撮ったりした。鵜沼宿到着が予定時刻よりも遅くなってしまった。
鵜沼宿は加納宿(JR岐阜駅近くの宿)から17kmほど離れた宿である。宿間は一般的には約10㎞だが、この宿間は長いのでどの旅人も苦労したことであろう。今回は、鵜沼宿の4kmほど手前から歩いたのだった。
鵜沼宿中心部は古い家が残っていたし、脇本陣は再建されていた。町を挙げて「鵜沼宿」を大切にしている雰囲気があった。
再建された『坂井脇本陣』は柱などの木の香りが漂っていて、最近の建物であることを物語っていた。再建費用は(想像するだけだが・・・)相当な額に違いなかった。
その脇本陣には、無料で入館することができた。3人の高齢の男性ボランティアガイドさんが笑顔で迎えてくださった。建物の説明をしていただいた後、私を入れた4人は中山道歩きなどの話題で盛り上がった。平日でもあり、観光客は私一人だけだったので、あれやこれやと話が続き、時間が過ぎていったのであった。(高齢者は全国的に暇なのかもしれない…?)
そこを出てから、『鵜沼宿町屋館』という元旅籠→明治時代は郵便局 の立派な建物に入っていった。そこにも高齢のガイド(ここは女性だった)さんがおられて、建物の歴史や鵜沼宿の説明を聞くことができた。すべて無料だった。
鵜沼宿の建物は明治24年の濃尾大地震で壊滅的な被害を受けたのだが、見事に復活していた。濃尾大地震については、まったく知識がなかったので、「ガイドさんの説明が聞けて良かったなあ!」と感謝した。
歴史をふまえて「宿・町並み・建物」を味わえるのは、歩き旅の楽しみである。
鵜沼宿でかなり時間を使ったので、急ぎ足で次の太田宿を目指した。
「うとう峠の一里塚(江戸から百里目)」を過ぎると、石畳風歩道を歩いた。車は入ってこれないので、中山道そのものの道であった。
石畳道が終わると、国道に合流した。その道は木曽川沿いの道であり、途中からは(木曽川の)土手道になった。木曽川を眺めながらの歩き旅で、気分爽快であった。
その道は『日本ライン ロマンチック街道』と名付けられていた。木曽川の急流を近くに眺めながら歩くことができた。
ロマンチック街道が尽きるころ、太田宿中心部に近づいた。
木曽川土手近くに『虚空蔵堂(こくうぞうどう)』という建物があった。説明板によると、(太田出身の)坪内逍遥氏の少年時代の遊び場だったとのことである。横に椋の巨木があり、(老人になった)逍遥氏がその木の下で記念撮影(掲示板に写真あり)されていた。
堂そのものは感動することはなかったが、「椋」の巨木に感動した。東海道歩きをしていた時、たまに「椋」を目にすることはあったが、ここの椋の巨木には驚いた。冬ゆえに葉はなかったが、葉があればさらに感動が増したであろう。
太田宿は木曽川の「太田の渡し」と舟運を控えた宿で、大いに賑わったようだ。中山道と飛騨街道や郡上街道が交差する位置にある。現在、国道21号線が走り、車の量も多い。
皇女和宮降嫁の行列が太田宿において、福田本陣(現在は本陣門のみで、建物はない)に宿泊している。(1861年10月20日に)京を出発して7日目であった。
太田宿の記録によると、行列の人・馬は7856人・280疋とのことである。福田本陣に皇女和宮が宿泊しているが、脇本陣や旅籠など宿場全体がごった返したことであろう。とにかく、江戸時代の太田宿住民人口は505人だったのだから、行列が通り過ぎるまで、大騒動だったに違いない。
太田宿休憩所において、その様子などがアニメ映像で紹介されていた。脇本陣の建物が保存修理されていた。この建物は立派な「うだつ」があがっており、見ごたえがあった。建物の中はお住まいになっているので公開されていないが、団体の方が見学中とのことで、その団体の方々に入れてもらえたので、見学ができた。ラッキーだった。
江戸時代にタイムスリップしたようだった。
中山道・鵜沼宿近くの「衣裳塚古墳」
鵜沼宿入口の碑
鵜沼宿の町並み(中心部)
「うとう峠」への道標
木曽川 白波が見えた。この川の渡し舟は急流のため危険だったようだ。
木曽川の土手道(ロマンチック街道)=中山道
「虚空蔵堂」 椋の大木が力強かった。
立派なうだつのある脇本陣(建物は補修して保存)
現在、お住いの家でもあり、普段は非公開。
町並みに江戸時代の雰囲気が残っていた。
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