2019/12/29
「中山道歩き 日帰り 加納宿方面へ」 中山道歩き
12日28日天気がいいので、早朝より歩き旅(日帰り)をしてきた。
岐阜市の加納宿から鵜沼宿までのコースを歩きました。このコースをまだ歩いていなかったので。
2年前の12月19日に、青春18切符利用でJR高山線・各務原駅から鵜沼宿・太田宿方面へ歩いている。日帰りだった。加納宿から各務原駅前の中山道については、歩いていなかったので、本日、歩きに行ったのだった。
寄り道したりしたので、本日の歩数は33975歩だった。約20km歩いたことになる。平坦な道ばかりだったが、楽しい一日になった。
今日の中山道歩きで、京都から近江路(11宿)・美濃路(12宿済・残すは細久手宿と大湫宿)を歩いたことになりました。木曽路は半分ほどです。中山道69宿はなかなか進みませんが、がんばりたい。
中山道を歩き始めたのは2017年8月のこと。順番にきちんとつないで歩いているわけではない。概ね、皇女和宮様が徳川家14代将軍に降嫁したときのコースをたどるように歩いている。訪れる宿の順番がばらばらながら、中山道全体のほぼ半分を歩いたことになる。まだまだかかりそうだ。青春18切符利用にこだわるつもりはないが、つい、経済的なことを考えると青春18切符利用となっている。急ぐ旅ではないので、ゆっくり楽しんでいます。
1月に入れば、10日までに「青春18切符・残り2回分」の切符を利用して、埼玉県方面(中山道)を1泊して歩きに行く予定。
JR岐阜駅近くの位置に「加納宿」がある。加納城は天守閣などの建物はないが、石垣が残っている。加納宿は城下町と中山道の宿場町とを兼ねていた。美濃地方16宿の中で、最大の宿場だった。建物そのものは残っていないが、本陣や脇本陣などの「碑」がきちんと設置されていた。
加納城の大手門があったところは中山道であった。今は交通量の多いところである。
細畑(ほそばた)の一里塚 両塚が残っていた。何とか両塚を写真に収めることができた。塚と塚の間の道(=電線に沿った道)が中山道。冬のため、木(たぶん榎だろう)に葉はなかったが、葉が茂っている季節には、枝ぶりから想像して見事であろう。中山道でも両塚が残っている一里塚はごく一部です。先日歩いた塩尻宿の近くにもありましたが、珍しいのですよ。
加納宿と次の鵜沼宿の間は17km余もあります。中間部に「間の宿」と呼ばれる休憩地点が設置されることがある。この地は「新加納」と呼ばれた場所です。
新加納の一里塚跡の碑 こういう碑だけの一里塚が(東海道や中山道で)ほとんどです。
新しい碑の後ろの古い石が本当の碑 お供えがしてあった。
岐阜市から各務原(かかみがはら・かがみがはら)市に入った場所に、「各務原市民公園」があった。旧岐阜大学の敷地跡で、中山道に沿っていた。この公園の近くに「ねずみ小僧治郎吉の碑」があるという情報あり。墓ではなさそうだが(墓は東京にあるらしいので)、好奇心に駆られて、ちょっと寄り道して探すことにした。見つけにくいところだった。公園近くの幼稚園の裏にあった。
なぜ、こんなところに碑があるのだろうか? と調べてみると・・・
【江戸時代、中山道近くのこの地で、旅の若い娘が一夜の宿を求めたが、そこは悪人の家であった。居合わせた僧が、これを懲らしめ、娘は難を逃れた。 この僧は義賊の「ねずみ小僧治郎吉」であった。】
との話。 この助かった娘さん、または関係者の方がこの地に碑を建てたのであろうか? そこまではわからなかった。ねずみ小僧治郎吉にまつわる話は江戸だけではなかったようだ。
各務原とねずみ小僧治郎吉の関係。フーン、そうだったのか、と歩き旅に満足。
中山道に面して、古くて立派な家並みが何カ所かあった。
岐阜市の加納宿から鵜沼宿までのコースを歩きました。このコースをまだ歩いていなかったので。
2年前の12月19日に、青春18切符利用でJR高山線・各務原駅から鵜沼宿・太田宿方面へ歩いている。日帰りだった。加納宿から各務原駅前の中山道については、歩いていなかったので、本日、歩きに行ったのだった。
寄り道したりしたので、本日の歩数は33975歩だった。約20km歩いたことになる。平坦な道ばかりだったが、楽しい一日になった。
今日の中山道歩きで、京都から近江路(11宿)・美濃路(12宿済・残すは細久手宿と大湫宿)を歩いたことになりました。木曽路は半分ほどです。中山道69宿はなかなか進みませんが、がんばりたい。
中山道を歩き始めたのは2017年8月のこと。順番にきちんとつないで歩いているわけではない。概ね、皇女和宮様が徳川家14代将軍に降嫁したときのコースをたどるように歩いている。訪れる宿の順番がばらばらながら、中山道全体のほぼ半分を歩いたことになる。まだまだかかりそうだ。青春18切符利用にこだわるつもりはないが、つい、経済的なことを考えると青春18切符利用となっている。急ぐ旅ではないので、ゆっくり楽しんでいます。
1月に入れば、10日までに「青春18切符・残り2回分」の切符を利用して、埼玉県方面(中山道)を1泊して歩きに行く予定。
JR岐阜駅近くの位置に「加納宿」がある。加納城は天守閣などの建物はないが、石垣が残っている。加納宿は城下町と中山道の宿場町とを兼ねていた。美濃地方16宿の中で、最大の宿場だった。建物そのものは残っていないが、本陣や脇本陣などの「碑」がきちんと設置されていた。
加納城の大手門があったところは中山道であった。今は交通量の多いところである。
細畑(ほそばた)の一里塚 両塚が残っていた。何とか両塚を写真に収めることができた。塚と塚の間の道(=電線に沿った道)が中山道。冬のため、木(たぶん榎だろう)に葉はなかったが、葉が茂っている季節には、枝ぶりから想像して見事であろう。中山道でも両塚が残っている一里塚はごく一部です。先日歩いた塩尻宿の近くにもありましたが、珍しいのですよ。
加納宿と次の鵜沼宿の間は17km余もあります。中間部に「間の宿」と呼ばれる休憩地点が設置されることがある。この地は「新加納」と呼ばれた場所です。
新加納の一里塚跡の碑 こういう碑だけの一里塚が(東海道や中山道で)ほとんどです。
新しい碑の後ろの古い石が本当の碑 お供えがしてあった。
岐阜市から各務原(かかみがはら・かがみがはら)市に入った場所に、「各務原市民公園」があった。旧岐阜大学の敷地跡で、中山道に沿っていた。この公園の近くに「ねずみ小僧治郎吉の碑」があるという情報あり。墓ではなさそうだが(墓は東京にあるらしいので)、好奇心に駆られて、ちょっと寄り道して探すことにした。見つけにくいところだった。公園近くの幼稚園の裏にあった。
なぜ、こんなところに碑があるのだろうか? と調べてみると・・・
【江戸時代、中山道近くのこの地で、旅の若い娘が一夜の宿を求めたが、そこは悪人の家であった。居合わせた僧が、これを懲らしめ、娘は難を逃れた。 この僧は義賊の「ねずみ小僧治郎吉」であった。】
との話。 この助かった娘さん、または関係者の方がこの地に碑を建てたのであろうか? そこまではわからなかった。ねずみ小僧治郎吉にまつわる話は江戸だけではなかったようだ。
各務原とねずみ小僧治郎吉の関係。フーン、そうだったのか、と歩き旅に満足。
中山道に面して、古くて立派な家並みが何カ所かあった。
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タグ: 加納宿
2019/12/20
「洗馬宿・塩尻宿・下諏訪宿を歩いて(その2)」 中山道歩き
ここから続きです。
1日目(12月14日)は下諏訪宿の「宿場街道資料館」見学を終えた時点で、外はすでに真っ暗だった。
予約しておいたビジネスホテルに直行して、リュックサックを置いた。その後、夕食をホテルの近くの食堂で済ませた。ビジネスホテルとはいえ、「温泉」だったので、ゆっくり足の疲れを癒すことができた。
1日目の歩数は、22726歩だった。午後2時ごろから3時間ほどで、13kmほど歩いていたのだった。結構、足腰が疲れた。時速約4㎞の「連続歩行」をしたのだった。いつものペースは、時速3kmなので、今日のペースは休憩時間のほとんどない歩き方だった。日没が早いので、焦って早足になっていたようだ。
塩尻宿中心部から「JRみどり湖駅」までは近いようだったので、(約1㎞)歩いて、下諏訪駅まで列車に乗った。とにかく、日が暮れだしたので、焦った。「みどり湖駅」なるものが近くにいながら、見えないので、あせった。その駅は歩道よりも下にあったのだった。付近を散歩している人にお聞きしたので、見つけることができた。無人駅で、道路から階段を下りていかねばならなかった。
とはいえ、この駅のおかげで助かった。下諏訪駅(下諏訪宿のある駅)に早く到着することができたから。
ここからは、中山道歩き旅2日目(12月15日)。
下諏訪駅から諏訪湖方面を見ると、富士山のような形の山が見えた。駅員に「ここから富士山が見えるのですか?」と尋ねてみた。
「ええ、見えますが・・・めったに見ることはできないのですよ。お客さんはラッキーですね。」との返答。
やはり、見えている山は富士山だったのだ。(諏訪湖から富士山は見えるのだ!)と再認識し、カメラに収めた。
下諏訪宿そのものを昨夜は暗くて見学することができなかったので、朝、再度宿中心部(本陣などがある場所)へ出かけた。
下諏訪宿は諏訪大社下社の門前町として古くから栄えたところ。東に中山道最大の難所「和田峠」、西に「塩尻峠」があり、さらに中山道と甲州街道が合流する地点でもあった。たいへん賑わっていたようだ。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠が40軒で、中山道の唯一「温泉」のある宿場であった。賑わいの様子が絵画などに残されている。室内ではなく、室外にまで出て体を洗っている様子なども描かれていた。現在も観光地としてにぎわっている。街道において、温泉の存在は大きい。
皇女和宮様も下諏訪宿で宿泊されている。次の和田宿までは23kmもあるのだから、江戸へ向かう旅人は誰もが下諏訪宿で宿泊することになるだろう。
それにしても、諏訪湖から見える富士山は「すっきりとして、いい形だった」。
昨日、塩尻宿近くの「みどり湖」駅から「下諏訪」駅まで列車に乗ったので、中山道そのものを歩いてはいなかった。それで、下諏訪宿を見学後、塩尻宿まで歩くことにした。JR塩尻駅まで歩き、列車に乗り帰阪する予定を立てていた。青春18切符利用で、塩尻駅午後2時ごろの列車に乗れば、午後11時頃には帰宅できそうだったから。下諏訪宿の見学を終えたのは、午前8時40分だった。
塩尻峠を越えるにしても、昼頃には(余裕で)塩尻駅に到着できるであろう、と予測できた。下諏訪宿から塩尻宿までの中山道の行程は約12kmだったから。時速3kmで歩けば、4時間後には到着するはずだから。
ところが・・・?
どこで道を間違えたのか、わからない間に「中山道」と違う道を歩き始めていた。地図を見ながら歩いたのだが・・・、新しい道ができていたのだった。
旧中山道・国道20号線・高速道路が交差している箇所があったようで、いくら地図を見ても「旧中山道」が分からなくなってしまった。
勘を働かせて、「旧中山道」を歩いているつもりであったが・・・、違っていたのだ。
(今、どこを歩いているのだろうか?)
(どうも、違うようだ! おかしい! どこで間違えたのだろうか?)
(ひょっとしたら、狭い道と広い道の分かれ道で、広い方の道を選んだことが間違いだったのだろうか? 東海道歩きでの箱根峠越えでのミスのように・・・)
あれこれ考えていると、「そうだ! スマホで現在地を調べてみよう!」と気が付いた。
(スマホで調べることに気が向くべきだったのだ!)
と、冷静になれた。落ち着いてスマホで、現在地を調べてみたら、中山道から大きくそれていたのだった。
中山道へ戻る道を調べてみたら、なんとかあった。ほっとした気分になった。
すでに午前11時ごろになっていたのだ。2時間余り違った道を歩いていたことになる。
(さあ、急いで中山道へもどるぞ!)
スマホで見つけた「中山道への道」を歩いていった。「熊出没注意」の掲示物を目にした時は、一人歩きゆえに焦った。熊やイノシシなどに出会わないようにと祈りながら歩いた。
やっとのことで、中山道に合流できた地点は「塩尻峠史跡群」という箇所であった。近くの展望所があり、諏訪湖や周辺の町が見下ろせた。気候が良ければ、富士山が見える展望所だった。残念ながら富士山は見通せなかった。しかし、八ヶ岳連峰はくっきりと見えていた。
塩尻峠は、標高1055m。この峠は、太平洋側の「表塩」と日本海側の「裏塩」の接点に当たるところから、「塩の終着地(尻)を意味する「塩尻」が地名になったそうである。「尻」には「終着地」の意味があったのだ。ひとつ勉強になった。
「塩の道」は「命の道」でもあり、世界各地でも「塩を確保するルート」は重要視されている。日本でも、「塩の道」は重要だったのだ。
塩尻峠を越えると、塩尻宿へは下り道で楽にどんどん歩くことができた。塩尻宿中心部は昨日歩いていたので、迷わなかった。そしてJR塩尻駅に迷わずに到着することができた。
駅到着は、午後2時ごろになっていた。
塩尻駅到着予定はかなり遅れたが、なんとかその日のうちに帰宅できた。
歩き旅2日目は、33868歩だった。約20km歩いていたのだった。迷わなければ、12kmの行程だったはずなのに・・・。
完
JR中央本線・みどり湖駅。道路の下にある駅だったので、見つけにくかった。
下諏訪駅から見えた富士山(電線が邪魔だったが・・・)
甲州道中・中山道合流之地 碑
念願のこの碑をみたかったので、満足しました。甲州街道を江戸からここ(下諏訪宿)まで歩きたくなる日が来るかもしれない。中山道が終われば…と、願っている。
下諏訪宿本陣跡 門は江戸時代のままで残っていた。
昼近く 塩尻峠からの眺め。 諏訪湖は見えていたが、富士山はかすんで見えなかった。早朝なら、空気が澄んでいて見えたにちがいない。今朝、駅からは確かに見えたのだから。
塩尻から見える北アルプスの山々
1日目(12月14日)は下諏訪宿の「宿場街道資料館」見学を終えた時点で、外はすでに真っ暗だった。
予約しておいたビジネスホテルに直行して、リュックサックを置いた。その後、夕食をホテルの近くの食堂で済ませた。ビジネスホテルとはいえ、「温泉」だったので、ゆっくり足の疲れを癒すことができた。
1日目の歩数は、22726歩だった。午後2時ごろから3時間ほどで、13kmほど歩いていたのだった。結構、足腰が疲れた。時速約4㎞の「連続歩行」をしたのだった。いつものペースは、時速3kmなので、今日のペースは休憩時間のほとんどない歩き方だった。日没が早いので、焦って早足になっていたようだ。
塩尻宿中心部から「JRみどり湖駅」までは近いようだったので、(約1㎞)歩いて、下諏訪駅まで列車に乗った。とにかく、日が暮れだしたので、焦った。「みどり湖駅」なるものが近くにいながら、見えないので、あせった。その駅は歩道よりも下にあったのだった。付近を散歩している人にお聞きしたので、見つけることができた。無人駅で、道路から階段を下りていかねばならなかった。
とはいえ、この駅のおかげで助かった。下諏訪駅(下諏訪宿のある駅)に早く到着することができたから。
ここからは、中山道歩き旅2日目(12月15日)。
下諏訪駅から諏訪湖方面を見ると、富士山のような形の山が見えた。駅員に「ここから富士山が見えるのですか?」と尋ねてみた。
「ええ、見えますが・・・めったに見ることはできないのですよ。お客さんはラッキーですね。」との返答。
やはり、見えている山は富士山だったのだ。(諏訪湖から富士山は見えるのだ!)と再認識し、カメラに収めた。
下諏訪宿そのものを昨夜は暗くて見学することができなかったので、朝、再度宿中心部(本陣などがある場所)へ出かけた。
下諏訪宿は諏訪大社下社の門前町として古くから栄えたところ。東に中山道最大の難所「和田峠」、西に「塩尻峠」があり、さらに中山道と甲州街道が合流する地点でもあった。たいへん賑わっていたようだ。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠が40軒で、中山道の唯一「温泉」のある宿場であった。賑わいの様子が絵画などに残されている。室内ではなく、室外にまで出て体を洗っている様子なども描かれていた。現在も観光地としてにぎわっている。街道において、温泉の存在は大きい。
皇女和宮様も下諏訪宿で宿泊されている。次の和田宿までは23kmもあるのだから、江戸へ向かう旅人は誰もが下諏訪宿で宿泊することになるだろう。
それにしても、諏訪湖から見える富士山は「すっきりとして、いい形だった」。
昨日、塩尻宿近くの「みどり湖」駅から「下諏訪」駅まで列車に乗ったので、中山道そのものを歩いてはいなかった。それで、下諏訪宿を見学後、塩尻宿まで歩くことにした。JR塩尻駅まで歩き、列車に乗り帰阪する予定を立てていた。青春18切符利用で、塩尻駅午後2時ごろの列車に乗れば、午後11時頃には帰宅できそうだったから。下諏訪宿の見学を終えたのは、午前8時40分だった。
塩尻峠を越えるにしても、昼頃には(余裕で)塩尻駅に到着できるであろう、と予測できた。下諏訪宿から塩尻宿までの中山道の行程は約12kmだったから。時速3kmで歩けば、4時間後には到着するはずだから。
ところが・・・?
どこで道を間違えたのか、わからない間に「中山道」と違う道を歩き始めていた。地図を見ながら歩いたのだが・・・、新しい道ができていたのだった。
旧中山道・国道20号線・高速道路が交差している箇所があったようで、いくら地図を見ても「旧中山道」が分からなくなってしまった。
勘を働かせて、「旧中山道」を歩いているつもりであったが・・・、違っていたのだ。
(今、どこを歩いているのだろうか?)
(どうも、違うようだ! おかしい! どこで間違えたのだろうか?)
(ひょっとしたら、狭い道と広い道の分かれ道で、広い方の道を選んだことが間違いだったのだろうか? 東海道歩きでの箱根峠越えでのミスのように・・・)
あれこれ考えていると、「そうだ! スマホで現在地を調べてみよう!」と気が付いた。
(スマホで調べることに気が向くべきだったのだ!)
と、冷静になれた。落ち着いてスマホで、現在地を調べてみたら、中山道から大きくそれていたのだった。
中山道へ戻る道を調べてみたら、なんとかあった。ほっとした気分になった。
すでに午前11時ごろになっていたのだ。2時間余り違った道を歩いていたことになる。
(さあ、急いで中山道へもどるぞ!)
スマホで見つけた「中山道への道」を歩いていった。「熊出没注意」の掲示物を目にした時は、一人歩きゆえに焦った。熊やイノシシなどに出会わないようにと祈りながら歩いた。
やっとのことで、中山道に合流できた地点は「塩尻峠史跡群」という箇所であった。近くの展望所があり、諏訪湖や周辺の町が見下ろせた。気候が良ければ、富士山が見える展望所だった。残念ながら富士山は見通せなかった。しかし、八ヶ岳連峰はくっきりと見えていた。
塩尻峠は、標高1055m。この峠は、太平洋側の「表塩」と日本海側の「裏塩」の接点に当たるところから、「塩の終着地(尻)を意味する「塩尻」が地名になったそうである。「尻」には「終着地」の意味があったのだ。ひとつ勉強になった。
「塩の道」は「命の道」でもあり、世界各地でも「塩を確保するルート」は重要視されている。日本でも、「塩の道」は重要だったのだ。
塩尻峠を越えると、塩尻宿へは下り道で楽にどんどん歩くことができた。塩尻宿中心部は昨日歩いていたので、迷わなかった。そしてJR塩尻駅に迷わずに到着することができた。
駅到着は、午後2時ごろになっていた。
塩尻駅到着予定はかなり遅れたが、なんとかその日のうちに帰宅できた。
歩き旅2日目は、33868歩だった。約20km歩いていたのだった。迷わなければ、12kmの行程だったはずなのに・・・。
完
JR中央本線・みどり湖駅。道路の下にある駅だったので、見つけにくかった。
下諏訪駅から見えた富士山(電線が邪魔だったが・・・)
甲州道中・中山道合流之地 碑
念願のこの碑をみたかったので、満足しました。甲州街道を江戸からここ(下諏訪宿)まで歩きたくなる日が来るかもしれない。中山道が終われば…と、願っている。
下諏訪宿本陣跡 門は江戸時代のままで残っていた。
昼近く 塩尻峠からの眺め。 諏訪湖は見えていたが、富士山はかすんで見えなかった。早朝なら、空気が澄んでいて見えたにちがいない。今朝、駅からは確かに見えたのだから。
塩尻から見える北アルプスの山々
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タグ: 歩き旅
2019/12/14
「洗馬宿・塩尻宿・下諏訪宿を歩いて(その1)」 中山道歩き
中山道歩きで、早朝に家を出た。どの列車も予想していた以上に混んでいた。中央本線の中津川駅に到着するころは、流石に空いていた。
JR中央本線・洗馬(せば)駅に着いたのは、午後1時45分であった。無人駅だった。中津川駅を過ぎると、無人駅がほとんどだった。普通列車は2両で、ワンマン列車。私は青春18切符だったので、整理券をとらなくてもよかった。
洗馬駅に到着したときは、先頭車両の一番前の運転手横のドアから降りなければならない。降り方のアナウンスが駅に到着する前に流れる。整理券を持っていない客は始発駅からの料金を払わされることになる。(そういう決まりのようだ。ある客は取り忘れてトラブルになっていた。)そのトラブルのやり取りの声が静かな車内に聞こえてくる。世の中、整理券を取り慣れていない人もいるようだ。
先頭車両からホームに降り立ったが、(無人駅で)降りたのは私一人ゆえに尋ねる人もいなかった。ホームから見て、中山道の道がどこなのか、さっぱりわからなかった。地図を出して、勘を働かせて道を探した。
「あった、あった。」 中山道の標柱と、その近くに松尾芭蕉の句碑が見つかったのだった。
(ふーん、松尾芭蕉もこの道を歩いていたのだ!)
洗馬宿近辺で詠まれた句は、
『入梅はれの わたくし雨や 雲ちきれ』 という句であった。
読み方や意味をとるのも難しかった。解説を読んでやっとわかった。解説によると、「入梅はれの(つゆばれの) わたくしあめや くもちぎれ」と読むようだ。
「わたくし雨」とは、「地域の部分的に一時的に降る雨のこと」という説明が書かれていた。初めて知った言葉だった。
句を読めたので何とか理解できた。読み方がわからないと、俳句などは難しい。信濃路でも木曽路同様に地域によって天候が急変することが多かったのだろう。木曽も信濃も山や峠が多いから。
それにしても、洗馬宿中心部には昔の建物は何も残っていなかった。昔は善光寺へ行く道と中山道との追分(分かれ道)にあったため、賑わった宿場だったようだ。しかし、今はひっそりとしていた。
塩尻宿へ向かうために追分(分かれ道)から、(善光寺方面の北へは向かわずに)やや東の方向へ中山道を歩き出した。洗馬宿から塩尻宿までは約7kmあった。
途中、ブドウ畑が続いていた。平らで広々としたブドウ畑の中に『平出(ひらで)遺跡』なるものがあった。縄文時代から平安時代にかけての大集落跡で、国史跡になっていた。古墳時代の住居の一部が復元されているようで、その建物を目にすることができた。
(こんなところに、縄文時代から多くの人が住んでいたのだ! 今はブドウ畑が広がっているだけなのに…)
平出遺跡地域の果てに、中山道の「平出の一里塚」が保存されていた。中山道を挟む位置に南北の二つの一里塚がきちんと残っていた。両塚が端正に残っていて、素晴らしかった。
東海道53次で両塚がこれほどきちんと残っている一里塚はなかったように思う。どちらかが欠けていたり、残っていても「変な形」だったり・・・。江戸時代の一里塚を両塚とも元のままで保存することは難しいようだ。
この続きは(その2)へ
洗馬宿 中山道標柱 黒い石(洗馬宿と書かれている)
平出の一里塚 (写真は 片方の塚)両方が残っているのは中山道でも珍しい。江戸日本橋より59里目。塩尻宿の近くにある。
塩尻宿本陣跡 建物など何も残っていなかった。
下諏訪町立 宿場街道資料館
夕方到着したとき、すでに閉館していたが、明かりがついていたので、前をうろうろしながら中を覗き込んでいたら、ドアが開いた。「どうぞ、中へ入って下さい。」と、声がかかった。「あっ、良いんですか? よかったあ!」と感謝して入れてもらった。
ガイドの人が帰宅の準備をしていたようだったが、親切に下諏訪宿についての説明をしてくださった。和宮様降嫁における宿泊の準備や様子などの説明が詳しかった。感謝、感謝。
閉館時間をかなりすぎていた。お礼を言って退館した。「ボランティアガイド」の親切がうれしかった。
JR中央本線・洗馬(せば)駅に着いたのは、午後1時45分であった。無人駅だった。中津川駅を過ぎると、無人駅がほとんどだった。普通列車は2両で、ワンマン列車。私は青春18切符だったので、整理券をとらなくてもよかった。
洗馬駅に到着したときは、先頭車両の一番前の運転手横のドアから降りなければならない。降り方のアナウンスが駅に到着する前に流れる。整理券を持っていない客は始発駅からの料金を払わされることになる。(そういう決まりのようだ。ある客は取り忘れてトラブルになっていた。)そのトラブルのやり取りの声が静かな車内に聞こえてくる。世の中、整理券を取り慣れていない人もいるようだ。
先頭車両からホームに降り立ったが、(無人駅で)降りたのは私一人ゆえに尋ねる人もいなかった。ホームから見て、中山道の道がどこなのか、さっぱりわからなかった。地図を出して、勘を働かせて道を探した。
「あった、あった。」 中山道の標柱と、その近くに松尾芭蕉の句碑が見つかったのだった。
(ふーん、松尾芭蕉もこの道を歩いていたのだ!)
洗馬宿近辺で詠まれた句は、
『入梅はれの わたくし雨や 雲ちきれ』 という句であった。
読み方や意味をとるのも難しかった。解説を読んでやっとわかった。解説によると、「入梅はれの(つゆばれの) わたくしあめや くもちぎれ」と読むようだ。
「わたくし雨」とは、「地域の部分的に一時的に降る雨のこと」という説明が書かれていた。初めて知った言葉だった。
句を読めたので何とか理解できた。読み方がわからないと、俳句などは難しい。信濃路でも木曽路同様に地域によって天候が急変することが多かったのだろう。木曽も信濃も山や峠が多いから。
それにしても、洗馬宿中心部には昔の建物は何も残っていなかった。昔は善光寺へ行く道と中山道との追分(分かれ道)にあったため、賑わった宿場だったようだ。しかし、今はひっそりとしていた。
塩尻宿へ向かうために追分(分かれ道)から、(善光寺方面の北へは向かわずに)やや東の方向へ中山道を歩き出した。洗馬宿から塩尻宿までは約7kmあった。
途中、ブドウ畑が続いていた。平らで広々としたブドウ畑の中に『平出(ひらで)遺跡』なるものがあった。縄文時代から平安時代にかけての大集落跡で、国史跡になっていた。古墳時代の住居の一部が復元されているようで、その建物を目にすることができた。
(こんなところに、縄文時代から多くの人が住んでいたのだ! 今はブドウ畑が広がっているだけなのに…)
平出遺跡地域の果てに、中山道の「平出の一里塚」が保存されていた。中山道を挟む位置に南北の二つの一里塚がきちんと残っていた。両塚が端正に残っていて、素晴らしかった。
東海道53次で両塚がこれほどきちんと残っている一里塚はなかったように思う。どちらかが欠けていたり、残っていても「変な形」だったり・・・。江戸時代の一里塚を両塚とも元のままで保存することは難しいようだ。
この続きは(その2)へ
洗馬宿 中山道標柱 黒い石(洗馬宿と書かれている)
平出の一里塚 (写真は 片方の塚)両方が残っているのは中山道でも珍しい。江戸日本橋より59里目。塩尻宿の近くにある。
塩尻宿本陣跡 建物など何も残っていなかった。
下諏訪町立 宿場街道資料館
夕方到着したとき、すでに閉館していたが、明かりがついていたので、前をうろうろしながら中を覗き込んでいたら、ドアが開いた。「どうぞ、中へ入って下さい。」と、声がかかった。「あっ、良いんですか? よかったあ!」と感謝して入れてもらった。
ガイドの人が帰宅の準備をしていたようだったが、親切に下諏訪宿についての説明をしてくださった。和宮様降嫁における宿泊の準備や様子などの説明が詳しかった。感謝、感謝。
閉館時間をかなりすぎていた。お礼を言って退館した。「ボランティアガイド」の親切がうれしかった。
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タグ: 歩き旅
2019/9/5
「中山道歩き 御嶽(みたけ)宿方面へ」 中山道歩き
残り一回分になっていた「青春18切符」利用で中山道歩きを楽しんできた。今日(9月5日)の行程は、(美濃)太田宿からスタートして、伏見宿→御嶽宿までだった。
以前、太田宿に来たときは、木曽川の「太田の渡し場」を見学していなかったので、今日はじっくり渡し場を訪れ、見学することにした。今日は木曽川の流れが早かった。水量も多く、手漕ぎだった江戸時代は危険だったに違いない(と、想像できた)。
鉄製の橋がかかっている現在、なんの心配もない。江戸時代末期、和宮様はここで渡し舟に乗られた。水量多く、流れが速かったときはおそらく怖い思いをされたことであろう。(そういう想像をついしてしまう。)
なぜなら、私の中山道歩きのコースは、概ね京から江戸を目指して(和宮様降嫁時と同じ行程を)歩いているからである。
東海道歩きの時のように、きっちりと順番に全宿を歩いているわけではないが…。
中山道歩き、宿場訪問はバラバラだが、(今日の訪問宿を入れると)なんとか中山道69宿のうち半分ぐらいは訪問したようだ。(堺から遠い関東地方の宿はたくさん残っている。)
今日の中山道歩きは坂がなく、たいへん楽だった。距離も短く、疲れなかった。
しかし、日帰りでの中山道歩きコースとしては、そろそろ限界かな?
今後は宿泊が必要だろう。歩き旅費用を貯めなければ・・・!
太田宿の渡し場の木曽川の様子 この川幅・水量
これを手漕ぎの船で渡るのは…危険だっただろう!
渡し場が復元されていた。
危険だったことも説明板に書かれていた。
青色の鉄橋は現在のもの。近年、車道とは別に人用の橋も併設されていた。おかげで、安全に渡れた。
太田宿中心部
伏見宿 本陣は門すらなく、跡の碑があるだけであった。街並みはほとんど残っていなかった。
一里塚についても、標柱があるだけで痕跡はなかった。
御嶽宿には資料館的な建物があり、一階が図書館で、2階が歴史資料館になっていた。そこでは、中山道御嶽宿の説明コーナーがあった。
御嶽宿本陣 門が保存されていた。
御嶽宿中心部 江戸時代の建物も残されていた。味わいのある街並みだったが、規模は大きくなかった。
以前、太田宿に来たときは、木曽川の「太田の渡し場」を見学していなかったので、今日はじっくり渡し場を訪れ、見学することにした。今日は木曽川の流れが早かった。水量も多く、手漕ぎだった江戸時代は危険だったに違いない(と、想像できた)。
鉄製の橋がかかっている現在、なんの心配もない。江戸時代末期、和宮様はここで渡し舟に乗られた。水量多く、流れが速かったときはおそらく怖い思いをされたことであろう。(そういう想像をついしてしまう。)
なぜなら、私の中山道歩きのコースは、概ね京から江戸を目指して(和宮様降嫁時と同じ行程を)歩いているからである。
東海道歩きの時のように、きっちりと順番に全宿を歩いているわけではないが…。
中山道歩き、宿場訪問はバラバラだが、(今日の訪問宿を入れると)なんとか中山道69宿のうち半分ぐらいは訪問したようだ。(堺から遠い関東地方の宿はたくさん残っている。)
今日の中山道歩きは坂がなく、たいへん楽だった。距離も短く、疲れなかった。
しかし、日帰りでの中山道歩きコースとしては、そろそろ限界かな?
今後は宿泊が必要だろう。歩き旅費用を貯めなければ・・・!
太田宿の渡し場の木曽川の様子 この川幅・水量
これを手漕ぎの船で渡るのは…危険だっただろう!
渡し場が復元されていた。
危険だったことも説明板に書かれていた。
青色の鉄橋は現在のもの。近年、車道とは別に人用の橋も併設されていた。おかげで、安全に渡れた。
太田宿中心部
伏見宿 本陣は門すらなく、跡の碑があるだけであった。街並みはほとんど残っていなかった。
一里塚についても、標柱があるだけで痕跡はなかった。
御嶽宿には資料館的な建物があり、一階が図書館で、2階が歴史資料館になっていた。そこでは、中山道御嶽宿の説明コーナーがあった。
御嶽宿本陣 門が保存されていた。
御嶽宿中心部 江戸時代の建物も残されていた。味わいのある街並みだったが、規模は大きくなかった。