【その1】長久保宿→芦田宿→間の宿・茂田井→望月宿→八幡宿→塩名田宿 の続きです。
佐久平駅の近くのホテルに宿泊後、いよいよ3日目に。
佐久平駅は北陸新幹線としなの鉄道が交差している地点であった。駅前の(千曲バス)バス停で午前7時51分発の塩名田行きの(午前中1本だけの)バスに乗った。このバスを逃せば、午前中の塩名田行きのバスはなかった。
(とにかくこの辺りの中山道はバスの本数が少ない。バスを利用する人は少ない地域らしい。)
昨日の「中山道歩きの中断地点=塩名田宿本陣前」をスタートできたのは、午前8時10分だった。本陣の説明板をじっくりと読み、本陣の建物(外観)をじっくり見た後、街並みを味わいながら中山道を(次の岩村田宿を目指して)歩きだした。
岩村田宿への道は、歩きやすく、県道154号線となっていた。車の量は少なく、北には浅間山を、南には八ケ岳連峰を眺めながらの「中山道歩き」になった。
塩名田宿から4kmほど歩いた場所に、「相生松」が植えられていた場所があり、歌碑やその他の碑も設置されていた。さらに1kmほど歩いた地点が、岩村田宿中心部であった。この地点は「街道が交差するところ(分去れ)」で、中山道は、東西方向から南北方向に直角に曲がっていた。中山道・下仁田街道・佐久甲州街道がこの地点で交わっていた。交通の要衝であり、江戸時代はにぎわったことが想像できた。岩村田宿は(珍しく)本陣・脇本陣がなかった宿場で、(こんな宿もあったのか!?)と驚いた。江戸時代の街道の宿場で、本陣・脇本陣がないなんて・・・とちょっと不思議な気がした。東海道ではすべての宿に本陣・脇本陣があったから。参勤交代などで、岩村田に宿泊することを避けたのかもしれない。実は、調べたところ、岩村田は宿場ではあるが、城下町だった。たぶん城下町であることが、本陣がない(何らかの)理由だろうと思えた。大名などの高貴な人が何らかの理由で岩村田で宿泊しなければならないときは、お寺に泊まったと書かれていた。
岩村田宿中心部(直角に曲がっているところ)付近は、(現在)商店街が並び、交通量の多いところになっていた。
東西方向に歩いてきた中山道は、岩村田中心部で南北方向へ向きを変えて歩き始めた。浅間山が近づく方向への歩き旅になった。約5km先の小田井宿へ。やはり、緩やかな坂道(県道9号線)が続いていた。その道は上信越自動車道をまたぐ形で、岩村田橋がかけられていた。その橋上からは、八ケ岳連峰が遠くかすんで見えていた。県道9号線=中山道は、車の量は少なく安全に歩くことができた。ペットボトルの水を飲み干したころ、やっと飲み物の自動販売機を見つけることができたので、うれしくなって・・・。水1本を一気に飲み、お茶など2本をさらに購入して、リュックに入れ込んだ。とにかく、この日は初夏のような天気だった。 (これで、3月初旬なのか!?)
小田井宿本陣跡に到着した時刻は11時50分だった。
(明治時代に入ると)人気のある避暑地となっていった軽井沢。その軽井沢宿へ行く途中にある小田井宿。小田井宿の次は、追分宿 → 沓掛宿 → 軽井沢宿へ と続いている。 小田井宿の中山道街並みは静かな雰囲気だった。直線的な中山道が続き、歩きやすい町だった。東屋のような休憩所があったので、少し休憩させていただいた。幕末、和宮降嫁の際に、小田井宿・安川本陣にて昼食をとられている。その折、安川家は小さな人形をいただいたとのこと。当時、ひなびた宿だったところにとって、記念すべき出来事になったようである。宿泊ではなく、「昼食休憩の宿」にすぎなかった小田井。江戸時代において、和宮様の存在・行動は影響力があったと考えられる。歴史的には、悲劇的運命を歩まれた皇女だが、小田井の人たちにとってはありがたい存在だった。(歴史を味わいながらの歩き旅は、興味津々です。)
しなの鉄道の御代田駅近くの踏切を(12時40分ごろに)越えた。(さて、あと少しで追分かな?)と想像しながら、追分宿を目指して、ゆるやかな上り坂を歩いて行った。昼食をとるところがなかったので、疲れていた。「西軽井沢」なる宣伝用の看板が目に入るようになってきたとき、「そば」の幟が目に入った。中山道から少しずれるが、その幟を目指して歩いた。ちょっとおしゃれなお蕎麦屋さんだった。午後1時15分。お腹がすいていたので、食事できるところが見つかって、ありがたかった。「信州そば」も食べてみたかった。ちょっと緑色を帯びた「盛りそば」だった。茶色の「信州そば」ではなかったが、おいしかった。
お蕎麦屋さんから「中山道」の道へ戻って、追分宿方面を歩いて行った。道に面したところに、いろいろな会社の建物が建っていた。一般の民家は少なく、「避暑地」にある保養所や研修所らしい建物が多くなってきていた。国道18号線が近づくにつれて、交通量も増え、トラックなど産業用の車も増えてきた。
追分宿の街並みが近づいてきた地点で、国道18号線そのものが中山道の一部地点に『分去れの碑』があった。(「分去れ」とはどういう読み方をするのだろうか…)と考え込んでしまった。ブンサレ? ブサレ? ワケサレ? など、いろいろ考えてみたが、わからなかった。そこで、スマホで調べてみた。正解は「ワカサレ」と読むとのことだった。群馬から長野にかけての方言で、道が左右に分かれるところ。「分かれ道」、「追分」の意味だった。今回、一つ方言を勉強できた。分去れ(ワカサレ)=追分=分かれ道
この『分去れの碑』があるところは、中山道と北国街道との分かれ道の地点。江戸からやってきた人にとって、左側の道(=国道18号線)が中山道で、右側の細い道が北国街道になる。(現在、北国街道へ行く人は少ない。)
国道18号線は信号がないところは、車が多くて渡れない。ものすごい量の車がビュンビュンと通過していく。中山道の多くの区間は、国道ではないので、交通量は少なかった。
交通量の多い『分去れの碑』を写真に収め、中山道歩きを再開した。碑から東(軽井沢方面)に、100mほど歩いた地点に、追分宿碑があった。(いよいよ、今回の目的地=追分宿だ!)と、ほっとした。
国道18号線にちかい道=中山道の追分宿・本陣跡を探し求めて歩きだした。100mほど歩いた地点に、本陣跡や脇本陣跡があった。そして、高札場跡もあり、復元されていた。しかし、目についたのは、「堀辰雄文学記念館」の入り口の門だった。堀辰雄については、よく知らない作家だったので、文学記念館には入らなかった。(疲れていたし・・・)でも、文学館入口の門に魅かれた。門の説明があった。それによると、「追分宿本陣の裏門を移築したもの、という説明だった。(なるほど、歴史ある、立派な門だ!) と、門ばかり見とれていた。(堀辰雄氏には申し訳ないが・・・) 堀辰雄氏は『風立ちぬ』などの名作をこの地で執筆されている。また晩年、労咳(結核)を患い、ここを安住の地とされたようである。追分宿と堀辰雄とは関係が深い地だったらしい。次の宿=軽井沢宿までは、散歩コースにしていたのかもしれない。軽井沢は多くの文人たちが集まる地でもあったから。芥川龍之介などとの交流もあったようだ。
追分宿にさよならをした時刻は午後2時50分だった。そこから先の中山道は沓掛宿へ向かう道だった。その中間点への道は、まだ歩いていなかった。間の宿・借宿(かりやど)という地点まで歩くことにした。追分宿から、約2kmだったので、午後3時15分に到着できた。久しぶりに見た「借宿」の立派な家を写真に収めて、「今回の中山道歩き旅、終了!」と独り言。
歩数計をチェックしたら、(本日は)33766歩でした。約20kmほど歩いたようでした。(地図上では中山道19kmでした。)
借宿から1kmほど歩いて、しなの鉄道・信濃追分駅へ。しばらく待ってから乗車。小諸駅へ向かった。夕方、小諸駅近くのホテルで泊まり、10日(旅行4日目)、朝一番(6時45分発)のJR小海線に乗り、青春18切符利用で大阪・堺市駅へ。帰宅は午後6時過ぎだった。久しぶりに、自宅で夕食。ほっとできました。
今回で中山道の8宿を歩くことができました。最難関の「和田峠越え」を残していますが、これで何とか今年中に、「中山道69次完歩」の目途がつきそうです。残り9宿ぐらいになりましたから。
以上で、【その1】【その2】の記録終わりです。
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北方向の遠くの山が浅間山 浅間山の大噴火(約240年前)による溶岩の一部がこの畑にもありました。(こんな遠くまで飛んできたのだ! 火山の爆発は恐ろしい!) その溶岩の上に「庚申塔などの碑」が建てられていました。今回の中山道歩きでは浅間山や八ケ岳連峰などを見ながら歩けました。眺めは良かったですね。
岩村田宿に近い中山道わきに植えられていた「相生松(あいおいまつ)」(休憩できる場所になっている)。相生松とは、雄株・雌株の2本の松が寄り添って生え、1つの根から立ち上がるように見えるもので、縁結びや和合、長寿の象徴とされる。現在のこの松は、3代目とのこと。徳川幕府14代将軍への降嫁の折、ここで皇女和宮は野点(お茶会)を行っている。その日、天気も良かったのでしょうね。野点中、約4000名のお供の人たちはしっかり休憩できたことでしょう。そんなことを想像しながら「相生松」を眺め、私もしばらく休憩しました。
小田井宿休憩所。 皇女和宮様が小田井宿安川本陣にて昼食をとられている。その際、本陣は小さな人形を拝領した。それにちなんで毎年8月16日には、授かった拝領人形を籠に乗せて古装束の一行が練り歩く「小田井宿祭り」が行われる、とのこと。皇女和宮と小田井宿との縁は、現在に至っても「祭り」として、続いている・・・。静かで質素な宿場町だが、歴史は静かに息づいていた。
小田井(おだい)宿 ほぼまっすぐな中山道が続いていた。車はほとんど通らなかった。
御代田(みよた)の一里塚 畑の中に両塚とも残っていて、古い木(枝垂桜)もしっかり残っていた。
後ろの山は浅間山 今まで見た一里塚では最高!(背景がよかったですね)
分去れ(わかされ)の碑 この分かれ道の碑もいいところにありますね。全国に「追分」はあっちこっちにありますが、追分宿の「追分」は感動ものでした。
写真左の道が中山道(国道18号線) 右の道が北国街道(=海野宿など、すばらしい宿場あり)
堀辰雄文学記念館入口の門(追分宿本陣の門を移築したもの) この門を入って行くと記念館がある。
追分宿と沓掛宿との中間部 借宿(古い立派な建物が残っていた)
今回の中山道歩き終了地点=間の間・借宿