2021/11/13
「中山道歩き旅 高崎宿から安中宿へ(その2)」 中山道歩き
板鼻宿から安中宿までは、3kmあまりで非常に近く感じた。昨日の歩きで、足全体が疲れていたので、足取りは重かった。何とか、12時半ごろに中心部(安中宿・須藤本陣跡)に到着することができた。須藤本陣跡の碑は、安中郵便局の敷地にあった。
碑を確認した後、昨日見学できなかった建造物、「旧安中藩郡奉行役宅」および「旧安中藩武家長屋」を目指した。
それらの建物は、須藤本陣跡から近い位置にあった。中山道そのものに面していなかったが、須藤本陣跡から約500mの位置にあった。
「郡奉行役宅」から道路を隔てた位置に「武家長屋」があり、見学料は2軒ともで210円だった。受付で見学料を払うときに、「どちらから来られました?」と聞かれ、受付ノートに記入した。電話番後も書くことになっていた。コロナ感染対策とのことだった。感染者は群馬県でも激減していたが、用心しているようだった。
「中山道を少しずつ、歩き旅をしている者です。」と伝えると、見学者は私一人だけだったので、短時間だったが、案内してもらえた。私と同じ年齢の男性の方だった。
「武家長屋の方は、誰もいませんので、自由に見学なさってください」とのことで、一人だけで見学することになった。
なかなか見ごたえのある「武家長屋」が建造されていた。もともと現存していた3軒分に東端の1軒を新築した建物とのこと。4軒長屋として、公開されていた。長屋ゆえに、内部は豪華ではなく、質素だった。一戸建てに住めた上級藩士以外は武家長屋に住んでいた。
江戸時代にタイムスリップできる「武家長屋」をじっくりと見て回ったので、時間が経過してしまった。「もう歩きたくないなあ・・・」という心境になっていた。(タクシーにでも乗ってJR安中駅まで行きたいなあ・・・)という気分だった。
見学に夢中になり、昼食をとる機会もなく、午後1時20分を過ぎていた。
武家長屋を出て、タクシーが通らないかなあ・・・と思った。
そのとき、すぐ前に、バス停があることに気が付いた。飛んで行って、時刻表を見た。「えっ、一日3本しかないぞ! 今、何時だ!! 13時22分・・・」
(おっ、13時35分があったぞ!!!)
朝・昼・夕、それぞれ1本のみ。その昼の便がもうすぐやってくるぞ! 感激のあまり、歩き旅はここで終了! とした。足腰はもう限界だったので、バスに乗れることがうれしかった。タクシーはまったくと言っていいほど、通過する気配はなかったから。余計にうれしかった。
13時35分、(コミュニティ)バスは時間通りにやってきて、乗ることができた。バスの中で、万歩計を見た。26181歩だった。(約15km歩いていたことになる。)
10月28日=37625歩。約22km
29日=26181歩。約15km
二日間で6万3800歩。(約37km)
夜行バスでよく眠れなかった状況にもかかわらず、2日間でよく歩いたものだと、自分自身で満足できた。碓氷関所跡や安中宿で江戸時代をたっぷりと感じることができた点が、いい思い出になった。
ちなみに、バスでJR安中駅に到着してから、JR仙台駅駅までの切符を購入し、栃木県の宇都宮駅で途中下車。宇都宮駅近くのビジネスホテルで宿泊し、足腰の疲れをとった。
翌日(10月30日)、仙台駅まで普通列車のみで行き、昼過ぎに到着した。仙台駅から仙台空港へ。格安航空ピーチに乗り、関空へ。
無事、午後8時前、家に到着できた。
以上で、今回の中山道歩き旅の記録は終了です。4分割の記録になりました。一気に書く力がなくなりました。やはり、歳なのでしょうか…。
碑を確認した後、昨日見学できなかった建造物、「旧安中藩郡奉行役宅」および「旧安中藩武家長屋」を目指した。
それらの建物は、須藤本陣跡から近い位置にあった。中山道そのものに面していなかったが、須藤本陣跡から約500mの位置にあった。
「郡奉行役宅」から道路を隔てた位置に「武家長屋」があり、見学料は2軒ともで210円だった。受付で見学料を払うときに、「どちらから来られました?」と聞かれ、受付ノートに記入した。電話番後も書くことになっていた。コロナ感染対策とのことだった。感染者は群馬県でも激減していたが、用心しているようだった。
「中山道を少しずつ、歩き旅をしている者です。」と伝えると、見学者は私一人だけだったので、短時間だったが、案内してもらえた。私と同じ年齢の男性の方だった。
「武家長屋の方は、誰もいませんので、自由に見学なさってください」とのことで、一人だけで見学することになった。
なかなか見ごたえのある「武家長屋」が建造されていた。もともと現存していた3軒分に東端の1軒を新築した建物とのこと。4軒長屋として、公開されていた。長屋ゆえに、内部は豪華ではなく、質素だった。一戸建てに住めた上級藩士以外は武家長屋に住んでいた。
江戸時代にタイムスリップできる「武家長屋」をじっくりと見て回ったので、時間が経過してしまった。「もう歩きたくないなあ・・・」という心境になっていた。(タクシーにでも乗ってJR安中駅まで行きたいなあ・・・)という気分だった。
見学に夢中になり、昼食をとる機会もなく、午後1時20分を過ぎていた。
武家長屋を出て、タクシーが通らないかなあ・・・と思った。
そのとき、すぐ前に、バス停があることに気が付いた。飛んで行って、時刻表を見た。「えっ、一日3本しかないぞ! 今、何時だ!! 13時22分・・・」
(おっ、13時35分があったぞ!!!)
朝・昼・夕、それぞれ1本のみ。その昼の便がもうすぐやってくるぞ! 感激のあまり、歩き旅はここで終了! とした。足腰はもう限界だったので、バスに乗れることがうれしかった。タクシーはまったくと言っていいほど、通過する気配はなかったから。余計にうれしかった。
13時35分、(コミュニティ)バスは時間通りにやってきて、乗ることができた。バスの中で、万歩計を見た。26181歩だった。(約15km歩いていたことになる。)
10月28日=37625歩。約22km
29日=26181歩。約15km
二日間で6万3800歩。(約37km)
夜行バスでよく眠れなかった状況にもかかわらず、2日間でよく歩いたものだと、自分自身で満足できた。碓氷関所跡や安中宿で江戸時代をたっぷりと感じることができた点が、いい思い出になった。
ちなみに、バスでJR安中駅に到着してから、JR仙台駅駅までの切符を購入し、栃木県の宇都宮駅で途中下車。宇都宮駅近くのビジネスホテルで宿泊し、足腰の疲れをとった。
翌日(10月30日)、仙台駅まで普通列車のみで行き、昼過ぎに到着した。仙台駅から仙台空港へ。格安航空ピーチに乗り、関空へ。
無事、午後8時前、家に到着できた。
以上で、今回の中山道歩き旅の記録は終了です。4分割の記録になりました。一気に書く力がなくなりました。やはり、歳なのでしょうか…。
安中宿中心部 須藤本陣跡(安中郵便局の敷地内)
旧安中藩武家長屋 玄関から入ったところ
(現在、玄関前の庭は植木で美しいが、江戸時代は畑として利用されていた。たぶん経済的に苦しかったのであろう。
(現在、玄関前の庭は植木で美しいが、江戸時代は畑として利用されていた。たぶん経済的に苦しかったのであろう。
4軒長屋の全体写真 茅葺の屋根でしっかりした建物
内部に入り、天井を見た。写真のようにシンプルで質素なつくりだった。
県道に面している旧安中藩武家長屋外観。
今まで、いろいろなところで江戸時代の武家屋敷を見てきたが、「武家長屋」を見たのは初めてだった。「武家長屋」の再現、公開に拍手を送りたい。
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2021/11/10
「中山道歩き旅 高崎宿から安中宿へ(その1)」 中山道歩き
10月29日、中山道歩きの再スタート。(昨日28日は、碓氷関所跡から安中宿まで江戸に向かって歩いた。歩き旅1日目の様子は前回のブログに記録。)
2日目は、方向を変え、高崎宿からスタートして安中宿(江戸時代、京都への上り方向)へ歩くことにした。昨日は下り方向を歩いたのだが…。
朝早く起きたので、7時20分にホテルを出た。一度高崎に来たことがあったので、高崎城跡は高崎駅の東側だと思い込んで歩き出した。700mほど歩けば、中山道の街道筋に到着するはずだと、思い込んで歩き始めた。700mほど歩いた地点に「中山道」はなかった。おかしいなあ・・・と思い、スマホで「今、どこにいるか」を調べてみた。
中山道から、遠ざかっていたことが判明した。中山道は駅の東ではなく、西側だったのだ! 確認が甘かった。(一度来たことがあった駅なので、確認が甘かったのだ。)
思い込みだけで歩き出した失敗だった。地図を持っているのだが、地図の見方が甘かった。方向感覚に狂いがあった。
いったん高崎駅に戻り、東口ではなく、西口へ。どちらも同じぐらいにぎやかな状況だった。駅西口から700メートルほど歩いた地点に「中山道の街道筋」があった。
「ここだここだ!」と交差点の表示を確認してから、街道歩きを再スタートした。時刻は8時前になっていた。
高崎神社の近くに「恵徳寺」という寺があった。高崎城初代城主が創建した寺であった。
「高崎」の地は、昔は「和田」と言われていた。「和田」という地名から「松崎」に変えたいが、いかがかものだろうか? と、寺の禅師に問うたところ、禅師は「松は枯れるが、高さには限りがない、その意をとって、高崎はいかが」と進言したという。初代城主は、納得し、「高崎」の地名が生まれたとのこと。
「和田」の地名が「高崎」になったのは、天正年間(1573~1592)とのことである。「高崎」という地名と、関係の深い寺だった。
しばらく歩いていくと、利根川上流河川(烏川)に架けられている「君が代橋」があった。橋の名前の由来は調べていないが、なんとなく「古風な雰囲気」を意識してしまった。
君が代橋を渡り、しばらく行くと「高崎市豊岡町」に至った。豊岡は「ダルマの里」と言われ、ダルマづくりの家が多い。近くにある「達磨(だるま)寺」の住職が農民に製作を指導した、とのこと。
ダルマづくりの会社の前を通った時、大きなダルマを写真に収めた。高崎といえば、ダルマ。主に豊岡町で作られていたことが分かった。達磨寺そのもにはいかなかったが、中山道から南の丘陵地帯にそれらしき寺が見えていた。この地点の中山道=国道18号線だった。交通量が多い国道だった。
達磨寺を眺めながら国道18号線(中山道の一部)を歩いていくと、板鼻(いたはな)宿 に着いた。
板鼻宿は碓氷川の「渡し」を控え、にぎわった宿だった。川が増水すると川止めになり、旅人は板鼻宿に逗留しなければならない。東海道の大井川(島田宿はにぎわった)ほどではないにしても、やはり中山道においても「川止め」になる川はあった。碓氷川はそれなりに水量の多い川である。
文久元年(1861年)11月10日、徳川家茂(14代将軍)に降嫁する皇女和宮は板鼻宿(本陣木嶋家)に宿泊している。木嶋家の敷地だったところに、現在は「板鼻公民館」がある。その前に海音寺潮五郎書の石碑が立っている。また公民館の一角に宿泊所だった本陣付属の「書院」が保存されている。そこは、皇女和宮資料館になっており、資料・大きなまな板・草履などが展示されているようだ。(私は入館しなかったので、実際のものを見学してないが。)
海音寺潮五郎氏と板鼻宿とは、どういう関係があるかは調べていないが、何らかの関係があるのだろう。一応、石碑の字体を写真に収めるだけで、次の安中宿へ急いだ。
板鼻宿を通過した時刻は、午前11時30分だった。
この続きは(次のブログ「その2」へ)
だるま製作所 入口から眺めて、奥の方に大きなだるまがあった。
国道18号線 群馬県では「丸太道標」が所々に設置されていて、中山道であることを確認できた。この地点から1.5km先が板鼻宿。丸太道標を見ると、元気がでた。
2日目は、方向を変え、高崎宿からスタートして安中宿(江戸時代、京都への上り方向)へ歩くことにした。昨日は下り方向を歩いたのだが…。
朝早く起きたので、7時20分にホテルを出た。一度高崎に来たことがあったので、高崎城跡は高崎駅の東側だと思い込んで歩き出した。700mほど歩けば、中山道の街道筋に到着するはずだと、思い込んで歩き始めた。700mほど歩いた地点に「中山道」はなかった。おかしいなあ・・・と思い、スマホで「今、どこにいるか」を調べてみた。
中山道から、遠ざかっていたことが判明した。中山道は駅の東ではなく、西側だったのだ! 確認が甘かった。(一度来たことがあった駅なので、確認が甘かったのだ。)
思い込みだけで歩き出した失敗だった。地図を持っているのだが、地図の見方が甘かった。方向感覚に狂いがあった。
いったん高崎駅に戻り、東口ではなく、西口へ。どちらも同じぐらいにぎやかな状況だった。駅西口から700メートルほど歩いた地点に「中山道の街道筋」があった。
「ここだここだ!」と交差点の表示を確認してから、街道歩きを再スタートした。時刻は8時前になっていた。
高崎神社の近くに「恵徳寺」という寺があった。高崎城初代城主が創建した寺であった。
「高崎」の地は、昔は「和田」と言われていた。「和田」という地名から「松崎」に変えたいが、いかがかものだろうか? と、寺の禅師に問うたところ、禅師は「松は枯れるが、高さには限りがない、その意をとって、高崎はいかが」と進言したという。初代城主は、納得し、「高崎」の地名が生まれたとのこと。
「和田」の地名が「高崎」になったのは、天正年間(1573~1592)とのことである。「高崎」という地名と、関係の深い寺だった。
しばらく歩いていくと、利根川上流河川(烏川)に架けられている「君が代橋」があった。橋の名前の由来は調べていないが、なんとなく「古風な雰囲気」を意識してしまった。
君が代橋を渡り、しばらく行くと「高崎市豊岡町」に至った。豊岡は「ダルマの里」と言われ、ダルマづくりの家が多い。近くにある「達磨(だるま)寺」の住職が農民に製作を指導した、とのこと。
ダルマづくりの会社の前を通った時、大きなダルマを写真に収めた。高崎といえば、ダルマ。主に豊岡町で作られていたことが分かった。達磨寺そのもにはいかなかったが、中山道から南の丘陵地帯にそれらしき寺が見えていた。この地点の中山道=国道18号線だった。交通量が多い国道だった。
達磨寺を眺めながら国道18号線(中山道の一部)を歩いていくと、板鼻(いたはな)宿 に着いた。
板鼻宿は碓氷川の「渡し」を控え、にぎわった宿だった。川が増水すると川止めになり、旅人は板鼻宿に逗留しなければならない。東海道の大井川(島田宿はにぎわった)ほどではないにしても、やはり中山道においても「川止め」になる川はあった。碓氷川はそれなりに水量の多い川である。
文久元年(1861年)11月10日、徳川家茂(14代将軍)に降嫁する皇女和宮は板鼻宿(本陣木嶋家)に宿泊している。木嶋家の敷地だったところに、現在は「板鼻公民館」がある。その前に海音寺潮五郎書の石碑が立っている。また公民館の一角に宿泊所だった本陣付属の「書院」が保存されている。そこは、皇女和宮資料館になっており、資料・大きなまな板・草履などが展示されているようだ。(私は入館しなかったので、実際のものを見学してないが。)
海音寺潮五郎氏と板鼻宿とは、どういう関係があるかは調べていないが、何らかの関係があるのだろう。一応、石碑の字体を写真に収めるだけで、次の安中宿へ急いだ。
板鼻宿を通過した時刻は、午前11時30分だった。
この続きは(次のブログ「その2」へ)
だるま製作所 入口から眺めて、奥の方に大きなだるまがあった。
国道18号線 群馬県では「丸太道標」が所々に設置されていて、中山道であることを確認できた。この地点から1.5km先が板鼻宿。丸太道標を見ると、元気がでた。
双体道祖神 中山道、特に群馬県、長野県に多い道祖神。防塞の神、夫婦和合の神、子宝・安産の神、厄除けの神、災難除けの神など庶民の願いが込められているとのことである。
旅をする者にとって、「災難除け」を願いたい。
旅をする者にとって、「災難除け」を願いたい。
中山道板鼻宿 石碑(字体は、海音寺潮五郎氏)
板鼻宿本陣跡 木嶋家が本陣であった。
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2021/11/4
「中山道歩き 碓氷(うすい)関所跡から安中宿へ(その1)」 中山道歩き
10月28日、高速バスで高崎駅(群馬県)前に到着後、JR信越本線に乗り、横川駅に向かった。横川駅は信越本線の終着駅であり、横川駅からはバスに乗り、碓氷峠を越えると軽井沢に行くことができる。軽井沢も中山道の宿場町である。(江戸時代とは違って、現在の軽井沢はおしゃれな避暑地であり、新幹線利用で軽井沢駅へ行く人が多い。
江戸時代、中山道の宿場として栄えていた軽井沢。軽井沢宿から下りの中山道の次の宿は坂本宿。(ちなみに、江戸時代までは京都へ向かう方向が「上り」で、江戸(東京)へ向かう方向が「下り」だった。つまり、(天皇の住まい)皇居が中心地になる。
明治時代になり、皇居が東京に移り、(交通機関などでは)東京へ向かう方向が「上り」になった。
ちなみに、現代でも使われている「下りもの」・「下らないもの」という言葉の語源は、この「上り」「下り」と関係がある。
「下りもの」とは、「品質の良い、素晴らしいもの」という意味である。どこから下ってきたものか? その地点は「京都」である。京都では、どの地方よりも数多くの名品・伝統工芸品が歴史的に作られ、「京都の品」は品質が高かった。ゆえに、「下りもの」とは、京都(上方)から下ってきた、「品質の高い上等なもの」を意味する言葉になった。
「下らないもの」は、逆の意味で、「品質が悪く、上等ではないもの」を意味する言葉になった。「くだらない」や「くだらん」という語は、その語形変化である。
江戸時代になっても、文化や工芸品・モノづくりの質は、京都が中心で、江戸は遅れていたことが言葉としても証明できる話である。
江戸時代、なんといっても品質が良くて、上等なお酒は「伏見の酒」だった。「江戸時代、下りものとして、象徴的な評価を受けている。伏見・灘・(さらに堺)で、品質の良い上等なお酒が造られている。(堺市内の酒造会社は100社ほどあったが、戦後激減していった。)
「下る」「上る」「上方」などの言葉は、起点はすべて京都の時代が長かった。「上方」については、「上方落語」などの言葉として、明治以降も使われ続けている。「上方」とは、広く大阪や京都を含めた関西地方をさす場合もある。
「上方=大阪」と、限定して考える人もいるようだが、「上方」の語源はやはり京都だろう。(と、私は思っている。) 京都に皇居が長年あり続け、天皇は歴史的に長期間京都を住まいとしているから。東京を皇居としている期間は(歴史的には)まだ短い。
話は、脱線しました。元に戻します。
10月28日午前11時にJR横川駅に到着した。駅から(軽井沢へ行く方向にある)坂本宿を目指して歩いた。約700m歩いた地点に碓氷関所跡があった。午前11時20分になっていた。
観光ボランティア(碓氷関所保存会)の方にガイドしていただいた。パンフレットに書かれていないことも、いろいろ説明していただいた。参考になった。
江戸時代のままの建築材(門柱など)に手を触れてみた。江戸時代の材木とはいえ、しっかりした太い柱だった。実物に触れることができた感激で、「江戸時代の中山道」を想像できた気がした。街道歩きの楽しみは、「昔を実感」できること。「この関所跡に来れてよかった」。73歳になっても、歩き旅がまだまだ継続できそうな気がした。
碓氷関所跡を(今回の歩き旅の)スタート地点として、松井田宿→安中宿(江戸へ向かう方向)を目指すことにした。午前11時30分だった。
JR横川駅で有名な駅弁「峠の釜めし」を購入しようとしたのだが、すでに売り切れになっていた。本店の「おぎのや」で、「どこへ行けば、手に入りますか?」と尋ねると、「国道のドライブインなら、まだ売っているかも…」と、教えていただいた。歩くと、結構遠かったが、何とか駅弁は残っていた。ラッキーだった。
横川駅近辺でイベントがあったので、大勢の観光客が押し寄せていたのだった。どの人も立派なカメラをぶら下げていた。
駅弁購入のため、時間がかかったので、「中山道歩き」そのものは、はかどらなかった。スタート地点(碓氷関所跡)→松井田宿→安中宿までは約18㎞ある。暗くならないうちに本日の目的地(安中宿)に到着できたら・・・と、願った。午後だけで18kmはきついかな? ちょっと不安に思った。1年9か月ぶりの(2020年1月以来の)歩き旅だったので、足腰は大丈夫だろうかと・・・。
ちなみに、東海道歩きにおいては、一日で一番距離を歩いたのは36kmだった。平均して、一日の歩行距離は約20kmだった。中山道歩きは、峠が多いので、もっと短いペースだが…。
松井田宿(本陣跡)に到着できたのは、午後2時30分ごろだった。
松井田宿の街並みには、宿場時代の跡を伝えるものは何もなかった。補陀寺など立派な寺社があり、宿の繁栄を物語っているようだ。
松井田宿からの眺めとして、特筆すべきは「妙義山の眺め」で、荒々しい岩峰が連なる妙義山は迫力があった。「こんな山は珍しい!」と、一人でうなっていた。のこぎり状の山並みに目を奪われながら歩いた。
(この続きは、その2へ)
妙義山 近景
妙義山 遠景
信越本線に沿って、またはその近くに中山道があった。
松井田宿の中山道には昔を思わせる建物は何もなかった。
江戸時代、中山道の宿場として栄えていた軽井沢。軽井沢宿から下りの中山道の次の宿は坂本宿。(ちなみに、江戸時代までは京都へ向かう方向が「上り」で、江戸(東京)へ向かう方向が「下り」だった。つまり、(天皇の住まい)皇居が中心地になる。
明治時代になり、皇居が東京に移り、(交通機関などでは)東京へ向かう方向が「上り」になった。
ちなみに、現代でも使われている「下りもの」・「下らないもの」という言葉の語源は、この「上り」「下り」と関係がある。
「下りもの」とは、「品質の良い、素晴らしいもの」という意味である。どこから下ってきたものか? その地点は「京都」である。京都では、どの地方よりも数多くの名品・伝統工芸品が歴史的に作られ、「京都の品」は品質が高かった。ゆえに、「下りもの」とは、京都(上方)から下ってきた、「品質の高い上等なもの」を意味する言葉になった。
「下らないもの」は、逆の意味で、「品質が悪く、上等ではないもの」を意味する言葉になった。「くだらない」や「くだらん」という語は、その語形変化である。
江戸時代になっても、文化や工芸品・モノづくりの質は、京都が中心で、江戸は遅れていたことが言葉としても証明できる話である。
江戸時代、なんといっても品質が良くて、上等なお酒は「伏見の酒」だった。「江戸時代、下りものとして、象徴的な評価を受けている。伏見・灘・(さらに堺)で、品質の良い上等なお酒が造られている。(堺市内の酒造会社は100社ほどあったが、戦後激減していった。)
「下る」「上る」「上方」などの言葉は、起点はすべて京都の時代が長かった。「上方」については、「上方落語」などの言葉として、明治以降も使われ続けている。「上方」とは、広く大阪や京都を含めた関西地方をさす場合もある。
「上方=大阪」と、限定して考える人もいるようだが、「上方」の語源はやはり京都だろう。(と、私は思っている。) 京都に皇居が長年あり続け、天皇は歴史的に長期間京都を住まいとしているから。東京を皇居としている期間は(歴史的には)まだ短い。
話は、脱線しました。元に戻します。
10月28日午前11時にJR横川駅に到着した。駅から(軽井沢へ行く方向にある)坂本宿を目指して歩いた。約700m歩いた地点に碓氷関所跡があった。午前11時20分になっていた。
観光ボランティア(碓氷関所保存会)の方にガイドしていただいた。パンフレットに書かれていないことも、いろいろ説明していただいた。参考になった。
江戸時代のままの建築材(門柱など)に手を触れてみた。江戸時代の材木とはいえ、しっかりした太い柱だった。実物に触れることができた感激で、「江戸時代の中山道」を想像できた気がした。街道歩きの楽しみは、「昔を実感」できること。「この関所跡に来れてよかった」。73歳になっても、歩き旅がまだまだ継続できそうな気がした。
碓氷関所跡を(今回の歩き旅の)スタート地点として、松井田宿→安中宿(江戸へ向かう方向)を目指すことにした。午前11時30分だった。
JR横川駅で有名な駅弁「峠の釜めし」を購入しようとしたのだが、すでに売り切れになっていた。本店の「おぎのや」で、「どこへ行けば、手に入りますか?」と尋ねると、「国道のドライブインなら、まだ売っているかも…」と、教えていただいた。歩くと、結構遠かったが、何とか駅弁は残っていた。ラッキーだった。
横川駅近辺でイベントがあったので、大勢の観光客が押し寄せていたのだった。どの人も立派なカメラをぶら下げていた。
駅弁購入のため、時間がかかったので、「中山道歩き」そのものは、はかどらなかった。スタート地点(碓氷関所跡)→松井田宿→安中宿までは約18㎞ある。暗くならないうちに本日の目的地(安中宿)に到着できたら・・・と、願った。午後だけで18kmはきついかな? ちょっと不安に思った。1年9か月ぶりの(2020年1月以来の)歩き旅だったので、足腰は大丈夫だろうかと・・・。
ちなみに、東海道歩きにおいては、一日で一番距離を歩いたのは36kmだった。平均して、一日の歩行距離は約20kmだった。中山道歩きは、峠が多いので、もっと短いペースだが…。
松井田宿(本陣跡)に到着できたのは、午後2時30分ごろだった。
松井田宿の街並みには、宿場時代の跡を伝えるものは何もなかった。補陀寺など立派な寺社があり、宿の繁栄を物語っているようだ。
松井田宿からの眺めとして、特筆すべきは「妙義山の眺め」で、荒々しい岩峰が連なる妙義山は迫力があった。「こんな山は珍しい!」と、一人でうなっていた。のこぎり状の山並みに目を奪われながら歩いた。
(この続きは、その2へ)
妙義山 近景
妙義山 遠景
信越本線に沿って、またはその近くに中山道があった。
松井田宿の中山道には昔を思わせる建物は何もなかった。
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2021/10/31
「中山道歩き 無事帰宅」 中山道歩き
夜行バスに乗り、高崎に到着したのは、(28日)午前9時40分だった。平日とはいえ、満席だった。(深夜バス利用で、大阪から高崎方面へ行く人は多いのだなあ!)と、びっくりした。去年の10月に深夜バス利用で、下関まで乗ったバスは、結構すいていたので・・・。
「やはり、東京方面への夜行バス利用者は多いのだなあ」と、実感した。
私が乗った深夜高速バスは、難波発23時20分発で、東京・川越で途中下車し、高崎が終着地であった。
東京に到着するまで、それほど疲れなかったが、東京(皇居近くのバス停)を出てからは、混んでいてすごく疲れた。「都心部はこんなに朝早くから混雑しているのだあ・・・」と、川越のバス停に到着するまで時間がかかり疲れた。川越から高崎はそれほど疲れなかった。
高崎駅に到着後、10時過ぎの電車(JR信越線)に乗り、30分ほどで、終着駅・横川駅に着いた。鉄道公園で催しがあり、大勢の人でにぎわっていた。望遠レンズを付けた高価そうなカメラを持った人が多かった。(撮り鉄たちらしい)と思ったが、私は、あまり関心がないので、素通りした。そして、横川駅から700mほど先にある、「碓氷関所跡」へ向かった。
中山道で一番見たかった「碓氷関所」跡。東門が写真などで見ていたが、実物をこの目で見たかった。
観光ボランティアガイド(私より年上らしい方)がおられたので、案内していただいた。やはり、ガイドの方がおられると参考になる話が聞けた。ありがたかった。
(歩き旅の内容は、次のブログに。)
碓氷関所跡 東門が再現されていた。明治初期に出された政府の破壊令によって、西門はなくなり、現在もないまま。東門も破壊されそうになったが、東門の解体材木をひそかに秘匿した人がおられ、再現できたとのこと。(ガイドの方の話による。) 関所の建物群はすべて破壊令に従って破壊されている。
明治になり、「関所は不必要」とのことで、全国にある関所は破壊された。
近年になり、観光ブームが起こり、いろいろな関所(箱根関所など)は再現されているが、江戸時代の建物が江戸時代のままで残っているところはどこかにあるのだろうか? たぶん、残されたいろいろな資料に基づいて、新しい材木を使って再建された関所が多いように思われる。
この碓氷関所の東門の材木は江戸時代のもので、貴重な文化財として評価されている。明治政府の命令に逆らって、材木を保存、秘匿してくれたことに、そういう人がいたことに拍手を送りたい。
この日、横川駅近くで、イベントがあり、大勢の観光客が集まっていた。有名な駅弁「峠の釜めし」を買おうとしたが、売り切れだった。何とか販売している店を知り、苦労して探し当てた。思い出に残る駅弁になった。味は良かった。
「やはり、東京方面への夜行バス利用者は多いのだなあ」と、実感した。
私が乗った深夜高速バスは、難波発23時20分発で、東京・川越で途中下車し、高崎が終着地であった。
東京に到着するまで、それほど疲れなかったが、東京(皇居近くのバス停)を出てからは、混んでいてすごく疲れた。「都心部はこんなに朝早くから混雑しているのだあ・・・」と、川越のバス停に到着するまで時間がかかり疲れた。川越から高崎はそれほど疲れなかった。
高崎駅に到着後、10時過ぎの電車(JR信越線)に乗り、30分ほどで、終着駅・横川駅に着いた。鉄道公園で催しがあり、大勢の人でにぎわっていた。望遠レンズを付けた高価そうなカメラを持った人が多かった。(撮り鉄たちらしい)と思ったが、私は、あまり関心がないので、素通りした。そして、横川駅から700mほど先にある、「碓氷関所跡」へ向かった。
中山道で一番見たかった「碓氷関所」跡。東門が写真などで見ていたが、実物をこの目で見たかった。
観光ボランティアガイド(私より年上らしい方)がおられたので、案内していただいた。やはり、ガイドの方がおられると参考になる話が聞けた。ありがたかった。
(歩き旅の内容は、次のブログに。)
碓氷関所跡 東門が再現されていた。明治初期に出された政府の破壊令によって、西門はなくなり、現在もないまま。東門も破壊されそうになったが、東門の解体材木をひそかに秘匿した人がおられ、再現できたとのこと。(ガイドの方の話による。) 関所の建物群はすべて破壊令に従って破壊されている。
明治になり、「関所は不必要」とのことで、全国にある関所は破壊された。
近年になり、観光ブームが起こり、いろいろな関所(箱根関所など)は再現されているが、江戸時代の建物が江戸時代のままで残っているところはどこかにあるのだろうか? たぶん、残されたいろいろな資料に基づいて、新しい材木を使って再建された関所が多いように思われる。
この碓氷関所の東門の材木は江戸時代のもので、貴重な文化財として評価されている。明治政府の命令に逆らって、材木を保存、秘匿してくれたことに、そういう人がいたことに拍手を送りたい。
この日、横川駅近くで、イベントがあり、大勢の観光客が集まっていた。有名な駅弁「峠の釜めし」を買おうとしたが、売り切れだった。何とか販売している店を知り、苦労して探し当てた。思い出に残る駅弁になった。味は良かった。
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2021/10/27
「中山道歩き旅 久しぶり」 中山道歩き
コロナがやっと落ち着き、歩き旅ができるようになった。
中山道歩きが2年近く中断中だったので、高崎市周辺の中山道を歩きに行くことにした。
JR横川駅近くの「碓氷(うすい)関所跡」(安中市)~「高崎宿」までを歩く予定。
とにかく今夜は、なんば発(23時20分)で高崎駅(明日の朝9時過ぎに到着予定)まで、高速バス(夜行便)利用で移動。
JR青春18切符を使える時期ではないので、バス利用での移動になった。中山道の近場(大阪から近いところ)の宿場は、ほぼ歩いているので、残りの宿場は遠い箇所ばかりになってきた。
クマの出没する峠越えは、一人では心細い。だから、その部分はまだ歩ききっていない。カットしている。
中山道の峠道は一人旅をする者にとって、何となく不安である。中山道は東海道と違って、実際にクマの出没ニュースは流れていますから。
今回の歩くコースには、クマは出没しないはず。(と、信じて・・・)
では、行ってきまーす!
中山道歩きが2年近く中断中だったので、高崎市周辺の中山道を歩きに行くことにした。
JR横川駅近くの「碓氷(うすい)関所跡」(安中市)~「高崎宿」までを歩く予定。
とにかく今夜は、なんば発(23時20分)で高崎駅(明日の朝9時過ぎに到着予定)まで、高速バス(夜行便)利用で移動。
JR青春18切符を使える時期ではないので、バス利用での移動になった。中山道の近場(大阪から近いところ)の宿場は、ほぼ歩いているので、残りの宿場は遠い箇所ばかりになってきた。
クマの出没する峠越えは、一人では心細い。だから、その部分はまだ歩ききっていない。カットしている。
中山道の峠道は一人旅をする者にとって、何となく不安である。中山道は東海道と違って、実際にクマの出没ニュースは流れていますから。
今回の歩くコースには、クマは出没しないはず。(と、信じて・・・)
では、行ってきまーす!
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2020/1/8
「中山道歩き旅 鴻巣宿方面へ(追加写真あり)」 中山道歩き
青春18切符使用期限が1月10日。残り2回分を利用して、中山道歩きをすることにしました。今回は、埼玉県の鴻巣宿・桶川宿などを歩くコース。
東海道本線など8回乗り継ぎ、大宮駅へ。到着は午後7時頃になりました。1泊して、中山道歩きをスタート。
初日、天気がいいので、由比(ゆい)駅で途中下車して、薩埵峠(さったとうげ)へ行ってきました。初めて薩埵峠からの富士山を見ることができ、感動しました。東海道歩きなどの時に3回も来ていたのですが、すべて見ることができなかったのです。今日は、「いい気分になりました。薩埵峠から富士山は、テレビか写真でしか見ていなかったので、今日は心が躍りました。4回目でやっと見ることができたのですから。
大宮のビジネスホテルに泊まって、朝早くから中山道歩きに出ました。
夜の12時までに帰宅することを予測すると、鴻巣宿・桶川宿までしか歩けませんでした。埼玉県はやはり遠いところですね。
帰り、列車の中から富士山がきれいに見えました。
今回は、行き帰りの二日とも富士山が列車の中から見えました。私の歩き旅を応援してくれたようでした。
帰宅は午後11時40分でした。昼頃、埼玉県の駅(北上尾駅)で列車に乗り、なんとかその日のうちに帰宅出来ました。青春18切符5回分を使い切りました。
また春休み期間も頑張って歩きます。
薩埵峠からの富士山 やっと見れました。
大井川近辺から富士山が見えました。列車内より撮影
鴻巣の中心部に鴻神社がありました。コウノトリと関係があり、「たまご」に願いを書くようでした。フーン、こういう神社もあるんだなあ。
鴻巣宿の歩道には「コウノトリ」だらけ
鴻巣宿標柱
桶川宿本陣遺構
桶川宿の立派な建造物
この建物も桶川宿 古い建造物が保存されている宿でした。
帰りに見えた富士山 車中より撮影
桶川宿の案内所「中山道宿場館」に立ち寄った時
写真のような「往来手形」をいただいた。奇麗な字体だったので、記念に家に持ち帰った。桶川は「べにばな」で栄えた地であり、入館記念に「べにばな」の種をプレゼントしてもらえた。春になれば、いただいた種を畑に植えてみる予定。紅色の花が咲いてくれるかな?
折り紙のカエルもいただいた。「無事にカエル」と書かれてあった。なかなか粋な宿場館だった。
東海道本線など8回乗り継ぎ、大宮駅へ。到着は午後7時頃になりました。1泊して、中山道歩きをスタート。
初日、天気がいいので、由比(ゆい)駅で途中下車して、薩埵峠(さったとうげ)へ行ってきました。初めて薩埵峠からの富士山を見ることができ、感動しました。東海道歩きなどの時に3回も来ていたのですが、すべて見ることができなかったのです。今日は、「いい気分になりました。薩埵峠から富士山は、テレビか写真でしか見ていなかったので、今日は心が躍りました。4回目でやっと見ることができたのですから。
大宮のビジネスホテルに泊まって、朝早くから中山道歩きに出ました。
夜の12時までに帰宅することを予測すると、鴻巣宿・桶川宿までしか歩けませんでした。埼玉県はやはり遠いところですね。
帰り、列車の中から富士山がきれいに見えました。
今回は、行き帰りの二日とも富士山が列車の中から見えました。私の歩き旅を応援してくれたようでした。
帰宅は午後11時40分でした。昼頃、埼玉県の駅(北上尾駅)で列車に乗り、なんとかその日のうちに帰宅出来ました。青春18切符5回分を使い切りました。
また春休み期間も頑張って歩きます。
薩埵峠からの富士山 やっと見れました。
大井川近辺から富士山が見えました。列車内より撮影
鴻巣の中心部に鴻神社がありました。コウノトリと関係があり、「たまご」に願いを書くようでした。フーン、こういう神社もあるんだなあ。
鴻巣宿の歩道には「コウノトリ」だらけ
鴻巣宿標柱
桶川宿本陣遺構
桶川宿の立派な建造物
この建物も桶川宿 古い建造物が保存されている宿でした。
帰りに見えた富士山 車中より撮影
桶川宿の案内所「中山道宿場館」に立ち寄った時
写真のような「往来手形」をいただいた。奇麗な字体だったので、記念に家に持ち帰った。桶川は「べにばな」で栄えた地であり、入館記念に「べにばな」の種をプレゼントしてもらえた。春になれば、いただいた種を畑に植えてみる予定。紅色の花が咲いてくれるかな?
折り紙のカエルもいただいた。「無事にカエル」と書かれてあった。なかなか粋な宿場館だった。
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タグ: 往来手形
2020/1/5
「中山道歩き旅 鴻巣宿方面へ」 中山道歩き
青春18切符使用期限が1月10日。残り2回分を利用して、中山道歩きをすることにしました。今回は、埼玉県の鴻巣宿・桶川宿などを歩くコース。
東海道本線など8回乗り継ぎ、大宮駅へ。到着は午後7時頃になりました。1泊して、中山道歩きをスタート。
初日、天気がいいので、由比(ゆい)駅で途中下車して、薩埵峠(さったとうげ)へ行ってきました。初めて薩埵峠からの富士山を見ることができ、感動しました。東海道歩きなどの時に3回も来ていたのですが、すべて見ることができなかったのです。今日は、「いい気分になりました。薩埵峠から富士山は、テレビか写真でしか見ていなかったので、今日は心が躍りました。4回目でやっと見ることができたのですから。
大宮のビジネスホテルに泊まって、朝早くから中山道歩きに出ました。
夜の12時までに帰宅することを予測すると、鴻巣宿・桶川宿までしか歩けませんでした。埼玉県はやはり遠いところですね。
帰り、列車の中から富士山がきれいに見えました。
今回は、行き帰りの二日とも富士山が列車の中から見えました。私の歩き旅を応援してくれたようでした。
帰宅は午後11時40分でした。埼玉県の駅を昼頃に乗り、なんとかその日のうちに帰宅出来ました。青春18切符5回分を使い切りました。
また春休み期間も頑張って歩きます。
薩埵峠からの富士山 やっと見れました。
大井川近辺から富士山が見えました。列車内より撮影
鴻巣の中心部に鴻神社がありました。コウノドリと関係があり、「たまご」に願いを書くようでした。フーン、こういう神社もあるんだなあ。
鴻巣宿の歩道にはコウノドリだらけ
鴻巣宿標柱
桶川宿本陣遺構
桶川宿の立派な建造物
この建物も桶川宿 いろいろ保存されていました。
帰りに見えた富士山 車中より撮影
東海道本線など8回乗り継ぎ、大宮駅へ。到着は午後7時頃になりました。1泊して、中山道歩きをスタート。
初日、天気がいいので、由比(ゆい)駅で途中下車して、薩埵峠(さったとうげ)へ行ってきました。初めて薩埵峠からの富士山を見ることができ、感動しました。東海道歩きなどの時に3回も来ていたのですが、すべて見ることができなかったのです。今日は、「いい気分になりました。薩埵峠から富士山は、テレビか写真でしか見ていなかったので、今日は心が躍りました。4回目でやっと見ることができたのですから。
大宮のビジネスホテルに泊まって、朝早くから中山道歩きに出ました。
夜の12時までに帰宅することを予測すると、鴻巣宿・桶川宿までしか歩けませんでした。埼玉県はやはり遠いところですね。
帰り、列車の中から富士山がきれいに見えました。
今回は、行き帰りの二日とも富士山が列車の中から見えました。私の歩き旅を応援してくれたようでした。
帰宅は午後11時40分でした。埼玉県の駅を昼頃に乗り、なんとかその日のうちに帰宅出来ました。青春18切符5回分を使い切りました。
また春休み期間も頑張って歩きます。
薩埵峠からの富士山 やっと見れました。
大井川近辺から富士山が見えました。列車内より撮影
鴻巣の中心部に鴻神社がありました。コウノドリと関係があり、「たまご」に願いを書くようでした。フーン、こういう神社もあるんだなあ。
鴻巣宿の歩道にはコウノドリだらけ
鴻巣宿標柱
桶川宿本陣遺構
桶川宿の立派な建造物
この建物も桶川宿 いろいろ保存されていました。
帰りに見えた富士山 車中より撮影