やっとこの映画のレビューが書けます。(^^;)
(元気のせいでぇ~~~。 「鬼のいぬまに・・・」をご参照下さい・・・。)
私はこの映画の主演俳優、デヴィッド・ストラザーンのファンです。
私が彼のファンでなければこの映画を観に行ったかな~と考えると、ファンで本当に良かったと思いました。
前に「Vフォー・ヴェンデッタ」の事を「骨のある映画」と書きましたが、この映画も正に「骨のある映画」で、ただし「Vフォー・ヴェンデッタ」のような娯楽性は無く、直球勝負の内容になってます。
この映画はマッカーシー上院議員が扇動する反共キャンペーン、いわゆる「赤狩り」を扱っています。
当時は共産主義者のレッテルを貼られると職まで失い、マッカーシーの報復を恐れてマスコミさえも沈黙を守っていました。
そのマッカーシーに対して、エド・マロー(と仲間たち)が立ち向かっていきます。
この映画に関する感想をネットで色々と読ませて頂いたのですが、「赤狩り」の事が分からないから、この映画もよく分からなかった、というご意見が結構多かったように思います。
「赤狩り」については、私も上に書いたような最小限の事しか知りません。
映画が始まる前に「赤狩り」に関する簡単な説明が挿入されているので、全然分からないということは無いと思うのですが、なにしろ淡々と物語りは進んでいくので分からないというよりは、退屈だったのではないでしょうか・・・。(^^;)
実際、場内のあちらこちらから寝息が聞こえてました。
でも、監督のジョージ・クルーニーはあえて娯楽性を無くした作り方をしたのかな、と思いました。
この映画は単に「マローvsマッカーシー」という図式だけの物語ではなく、ジャーナリスト、ジャーナリズムに対しても問題提起しています。
ネタバレになりますので、これ以降読む方はご注意下さいね。
マローは最初と最後のシーンで演説しています。
テレビは色々な可能性を秘めているけれど、使い手の自覚が無ければただの箱だと。
正確な文章を載せたいのですが、それができないのが残念です。
「マローvsマッカーシー」だけに焦点を当てるなら、もっとドラマチックにマローがマッカーシーを追い込んでいく様を演出できたかもしれません。
でも、この映画で重要なのは、むしろこの最初と最後の演説ではないでしょうか。
「赤狩り」はその象徴として扱われているような気がします。
マロー達の問題提起によってマッカーシーは失墜していきますが、マロー達も仲間に自殺者が出たり、職を追われたり、徐々に活動の場を失っていきます。
映画的な完全勝利ではないので、観ていてカタルシスみたいなのはあまり無いんですね。
最後もマローの演説が終わると拍手があるわけでもなく、壇上から去る彼の靴音がかすかに聞こえるだけです。
これも聴衆の拍手で終えた方がドラマチックだったかもしれません。
現に「え・・これで終わり??」っていう空気が映画館にも漂っていました。
しかし、私なんかは淡々とした映画の流れや、こういう終わり方で、よりマローの演説を印象付けられました。
また、パトリシア・クラークソンとロバート・ダウニー・Jr.が演じる夫婦のエピソード(社内結婚は禁止だったのでそれを隠して勤務していた)も最初はいらないんじゃ・・と思ってたのですが、当時はアメリカのしかも放送局ですらそんな社内規定があったという時代背景を語る上で必要だったのかなと思いました。
娯楽性があまり無いといっても、白黒の美しい映像にタバコの煙が映えて、バックに流れるジャズと共にとてもスタイリッシュな映画になっています。
ホントに登場人物がみんなタバコ吸ってますね。(^^;) 本番中でさえも・・・。
そして何といってもマロー役のデヴィッド・ストラザーンです。
ファンだから贔屓目に見てしまうというのを差し引いても、彼無しではこの映画は成り立たなかったのではと思うほどの素晴らしさです。
この演技でアカデミー賞が取れないなんて・・・。
(ここはファンモードが炸裂してます。(^^ゞ)
この映画が感銘深いのは監督がジョージ・クルーニーだということもあるのではないでしょうか。
普段のイメージと違いますもんね。(笑)
私も彼のこの映画に対する思いや、監督だけでなく出演もするのは「自分が出演することによって資金が集めやすくなる」と率直に語っていたのを読んで、とても好感を持ちました。
これからも硬軟自在に俳優、監督として活躍して欲しいですね。
そして最後に一言・・・。
多くの方が書かれていましたが、私も字幕の読みづらさには閉口しました。
言葉の情報量がとても多い映画なので、字幕が読めないというのは致命的です。
これだけが残念でした。
(元気のせいでぇ~~~。 「鬼のいぬまに・・・」をご参照下さい・・・。)
私はこの映画の主演俳優、デヴィッド・ストラザーンのファンです。
私が彼のファンでなければこの映画を観に行ったかな~と考えると、ファンで本当に良かったと思いました。
前に「Vフォー・ヴェンデッタ」の事を「骨のある映画」と書きましたが、この映画も正に「骨のある映画」で、ただし「Vフォー・ヴェンデッタ」のような娯楽性は無く、直球勝負の内容になってます。
この映画はマッカーシー上院議員が扇動する反共キャンペーン、いわゆる「赤狩り」を扱っています。
当時は共産主義者のレッテルを貼られると職まで失い、マッカーシーの報復を恐れてマスコミさえも沈黙を守っていました。
そのマッカーシーに対して、エド・マロー(と仲間たち)が立ち向かっていきます。
この映画に関する感想をネットで色々と読ませて頂いたのですが、「赤狩り」の事が分からないから、この映画もよく分からなかった、というご意見が結構多かったように思います。
「赤狩り」については、私も上に書いたような最小限の事しか知りません。
映画が始まる前に「赤狩り」に関する簡単な説明が挿入されているので、全然分からないということは無いと思うのですが、なにしろ淡々と物語りは進んでいくので分からないというよりは、退屈だったのではないでしょうか・・・。(^^;)
実際、場内のあちらこちらから寝息が聞こえてました。
でも、監督のジョージ・クルーニーはあえて娯楽性を無くした作り方をしたのかな、と思いました。
この映画は単に「マローvsマッカーシー」という図式だけの物語ではなく、ジャーナリスト、ジャーナリズムに対しても問題提起しています。
ネタバレになりますので、これ以降読む方はご注意下さいね。
マローは最初と最後のシーンで演説しています。
テレビは色々な可能性を秘めているけれど、使い手の自覚が無ければただの箱だと。
正確な文章を載せたいのですが、それができないのが残念です。
「マローvsマッカーシー」だけに焦点を当てるなら、もっとドラマチックにマローがマッカーシーを追い込んでいく様を演出できたかもしれません。
でも、この映画で重要なのは、むしろこの最初と最後の演説ではないでしょうか。
「赤狩り」はその象徴として扱われているような気がします。
マロー達の問題提起によってマッカーシーは失墜していきますが、マロー達も仲間に自殺者が出たり、職を追われたり、徐々に活動の場を失っていきます。
映画的な完全勝利ではないので、観ていてカタルシスみたいなのはあまり無いんですね。
最後もマローの演説が終わると拍手があるわけでもなく、壇上から去る彼の靴音がかすかに聞こえるだけです。
これも聴衆の拍手で終えた方がドラマチックだったかもしれません。
現に「え・・これで終わり??」っていう空気が映画館にも漂っていました。
しかし、私なんかは淡々とした映画の流れや、こういう終わり方で、よりマローの演説を印象付けられました。
また、パトリシア・クラークソンとロバート・ダウニー・Jr.が演じる夫婦のエピソード(社内結婚は禁止だったのでそれを隠して勤務していた)も最初はいらないんじゃ・・と思ってたのですが、当時はアメリカのしかも放送局ですらそんな社内規定があったという時代背景を語る上で必要だったのかなと思いました。
娯楽性があまり無いといっても、白黒の美しい映像にタバコの煙が映えて、バックに流れるジャズと共にとてもスタイリッシュな映画になっています。
ホントに登場人物がみんなタバコ吸ってますね。(^^;) 本番中でさえも・・・。
そして何といってもマロー役のデヴィッド・ストラザーンです。
ファンだから贔屓目に見てしまうというのを差し引いても、彼無しではこの映画は成り立たなかったのではと思うほどの素晴らしさです。
この演技でアカデミー賞が取れないなんて・・・。
(ここはファンモードが炸裂してます。(^^ゞ)
この映画が感銘深いのは監督がジョージ・クルーニーだということもあるのではないでしょうか。
普段のイメージと違いますもんね。(笑)
私も彼のこの映画に対する思いや、監督だけでなく出演もするのは「自分が出演することによって資金が集めやすくなる」と率直に語っていたのを読んで、とても好感を持ちました。
これからも硬軟自在に俳優、監督として活躍して欲しいですね。
そして最後に一言・・・。
多くの方が書かれていましたが、私も字幕の読みづらさには閉口しました。
言葉の情報量がとても多い映画なので、字幕が読めないというのは致命的です。
これだけが残念でした。