時おり水色の空が覗いてきましたので…雲が晴れるまで、もう一息ですね!
私の目の前に見えている、ごくごく身近なお話をしております間にも
巷では、いろいろな出来事があったり、様々な話題が飛び交っていますので
そちらは、テレビや新聞やお気に入りのブログのコメントなどにお任せして…
逆に、私は「子どもたちや母親をめぐる世界のお話」に
あえて、意識をして、目を向けていこうと想っております。
ここから見えてくるものと、社会の動きとのギャップが埋まることを願いつつ…
ということで、
先ほどの続きにいくマエに…気にかかった言葉を一つ書いておきましょう。
ある作家の方のコメントに対するコメントが、どうもネット上のブログ空間の中を
グルグルとものすごいスピードで走り回っていたらしく
そちら方面には、ほとんどアンテナを向けていない(?)私といたしましては
そんな話題をどこかできいたような気がするけれど…
いやはや、文学や言葉というのは、受け取る人の背景や考え方その他に寄って
意味している内容やそこから感じ取る想いなども、ほんとうに千差万別で
それこそが、オモシロくもあり、とてもムズカシいところでもあり…
しかし、大きな影響力を持つものなんだなぁ…と痛感しています。
私が気になったのは、日経ビジネスオンラインの深沢真紀さんによる
『「気持ちがいい言葉」ではなく「覚悟ある言葉」を 』というもので
お話になった内容については、私なりに概ね理解したつもりでおります。
自分にとって気持のよい言葉、相手にとって気持のよいことば…などと考えると
自己満足に陥らないように気をつけながら、覚悟を持っていきたいなぁと想いつつ
ついつい、言葉に「ポジティブバイアスをかけてしまう」私のクセは
いかがなものなんでしょうか?と考えております。
そして、思い出したのが、一つは向田邦子さんの「言葉が怖い」という講演と
集英社のPR誌「青春と読書」3月号の中の日高敏昭先生のエッセイ
『世界をこんなふうに見てごらん
日高先生のにんげん、どうぶつ、いきものがたり』の
「第2回人間この変わったいきもの」の中のお話しです。
言葉を使ってお仕事をしている方なのに(だからこそ、かもしれませんけれど?)
向田さんは「言葉とは怖いものである」という認識を、強くお持ちでいらして
その覚悟を持って、きっとモノをお書きになっていらしたんでしょうね。
普段は、私もついつい正直に思ったことを言いがちな…こともありますので
それを言った際の影響や、相手のお感じになることをアレコレと考えますけれど
そのあたりの使い分けばかりを考えすぎてしまうと、キリがありませんし
疲れてしまったり、どうにも動けなくなってしまいます。
それに対する一つのお答えに近づくヒントに思えたのが…
動物行動学者という肩書きを持ちの日高先生のオコトバから、引用いたしますと
『…人間というのは、どうもそうとう昔から死ということを考えていたらしい。死後を全部考えて政治体制まで作る。こんな動物は他にはいないと思った。人間は死を知っているから社会システムを作り、墓や慰めの歌といった様々な文化を作った。そういうふうに発想するととてもおもしろくて文化人類学にも興味を持った。要するに人間と動物の違いは死と美を知っているか否かにあるのだなどということはまともに生物だけを見ていたら思いつかない話なのだ。もっともいろんなことに興味を持つと、なかなかちゃんとした学者にはなれないといわれたりもした。…ちゃんとした動物学者になるべく勉強もしたが、やはり自分の中に複数の視点を持つことはユニークな立場を生んだ。その後、人間とはどういういきものかを考え始め死がいろんなイリュージョンを生み出すという概念をはっきり提唱した。』
このままでは、もっと書き写さなくってはけなくなりますので
機会がありましたら、原本に当たっていただきたいのですけれど
「真理があると思っているよりは、みなイリュージョンなのだと思い、そのつもりで世界を眺めてご覧なさい。」
「つきつめないほうがいいのだろうと思う。…人間の認識する世界はそういうものだと受け止めるいいかげんさがないと、逆に人間はおかしくなるのではないか。かたわらにいつも、これはイリュージョンという悟性をもつこと。揺らぎながら引き裂かれながら、おおいにイリュージョンの世界を楽しめばいいと思うけれど、結局はさじかげんなのだと思う。」(引用ここまで)
私も「戦争やいじめは、ほんとうにイヤです。止めてください!」と
強く思います。
もっと暮らしやすい社会のしくみになったらいいのになぁ…って、思いますけれど
どこをどうしたらいいのか、個人の力ではどうにも途方にくれるしかありません。
そして、こんなふうに「言葉を発しないではいられない」
このヒトという生き物の行方を想いつつ、堂々巡りのお話の着地点は
おそらく「お一人お一人の方が、実際に関わっている人とのやり取り」を通して
それぞれの方々が、それぞれの世界(フィールド)の中で
作りあげていくものなのだろうとなぁと想いました。
さらに、そのひとりひとりが、
「ささやかな出会いによって、少しずつでもみんなでつながる」ことができたら
きっと少しずつでも、何かが変わっていく…
変えていくこともできるような気がします。
スッカリお話がカタチにもならない抽象的な方向に行ってしまいましたけれど
窓の外も、ずいぶんと明るさが増してきましたね!
また後ほど、お昼ご飯を済ませてから、続きをお話できますように!!
私の目の前に見えている、ごくごく身近なお話をしております間にも
巷では、いろいろな出来事があったり、様々な話題が飛び交っていますので
そちらは、テレビや新聞やお気に入りのブログのコメントなどにお任せして…
逆に、私は「子どもたちや母親をめぐる世界のお話」に
あえて、意識をして、目を向けていこうと想っております。
ここから見えてくるものと、社会の動きとのギャップが埋まることを願いつつ…
ということで、
先ほどの続きにいくマエに…気にかかった言葉を一つ書いておきましょう。
ある作家の方のコメントに対するコメントが、どうもネット上のブログ空間の中を
グルグルとものすごいスピードで走り回っていたらしく
そちら方面には、ほとんどアンテナを向けていない(?)私といたしましては
そんな話題をどこかできいたような気がするけれど…
いやはや、文学や言葉というのは、受け取る人の背景や考え方その他に寄って
意味している内容やそこから感じ取る想いなども、ほんとうに千差万別で
それこそが、オモシロくもあり、とてもムズカシいところでもあり…
しかし、大きな影響力を持つものなんだなぁ…と痛感しています。
私が気になったのは、日経ビジネスオンラインの深沢真紀さんによる
『「気持ちがいい言葉」ではなく「覚悟ある言葉」を 』というもので
お話になった内容については、私なりに概ね理解したつもりでおります。
自分にとって気持のよい言葉、相手にとって気持のよいことば…などと考えると
自己満足に陥らないように気をつけながら、覚悟を持っていきたいなぁと想いつつ
ついつい、言葉に「ポジティブバイアスをかけてしまう」私のクセは
いかがなものなんでしょうか?と考えております。
そして、思い出したのが、一つは向田邦子さんの「言葉が怖い」という講演と
集英社のPR誌「青春と読書」3月号の中の日高敏昭先生のエッセイ
『世界をこんなふうに見てごらん
日高先生のにんげん、どうぶつ、いきものがたり』の
「第2回人間この変わったいきもの」の中のお話しです。
言葉を使ってお仕事をしている方なのに(だからこそ、かもしれませんけれど?)
向田さんは「言葉とは怖いものである」という認識を、強くお持ちでいらして
その覚悟を持って、きっとモノをお書きになっていらしたんでしょうね。
普段は、私もついつい正直に思ったことを言いがちな…こともありますので
それを言った際の影響や、相手のお感じになることをアレコレと考えますけれど
そのあたりの使い分けばかりを考えすぎてしまうと、キリがありませんし
疲れてしまったり、どうにも動けなくなってしまいます。
それに対する一つのお答えに近づくヒントに思えたのが…
動物行動学者という肩書きを持ちの日高先生のオコトバから、引用いたしますと
『…人間というのは、どうもそうとう昔から死ということを考えていたらしい。死後を全部考えて政治体制まで作る。こんな動物は他にはいないと思った。人間は死を知っているから社会システムを作り、墓や慰めの歌といった様々な文化を作った。そういうふうに発想するととてもおもしろくて文化人類学にも興味を持った。要するに人間と動物の違いは死と美を知っているか否かにあるのだなどということはまともに生物だけを見ていたら思いつかない話なのだ。もっともいろんなことに興味を持つと、なかなかちゃんとした学者にはなれないといわれたりもした。…ちゃんとした動物学者になるべく勉強もしたが、やはり自分の中に複数の視点を持つことはユニークな立場を生んだ。その後、人間とはどういういきものかを考え始め死がいろんなイリュージョンを生み出すという概念をはっきり提唱した。』
このままでは、もっと書き写さなくってはけなくなりますので
機会がありましたら、原本に当たっていただきたいのですけれど
「真理があると思っているよりは、みなイリュージョンなのだと思い、そのつもりで世界を眺めてご覧なさい。」
「つきつめないほうがいいのだろうと思う。…人間の認識する世界はそういうものだと受け止めるいいかげんさがないと、逆に人間はおかしくなるのではないか。かたわらにいつも、これはイリュージョンという悟性をもつこと。揺らぎながら引き裂かれながら、おおいにイリュージョンの世界を楽しめばいいと思うけれど、結局はさじかげんなのだと思う。」(引用ここまで)
私も「戦争やいじめは、ほんとうにイヤです。止めてください!」と
強く思います。
もっと暮らしやすい社会のしくみになったらいいのになぁ…って、思いますけれど
どこをどうしたらいいのか、個人の力ではどうにも途方にくれるしかありません。
そして、こんなふうに「言葉を発しないではいられない」
このヒトという生き物の行方を想いつつ、堂々巡りのお話の着地点は
おそらく「お一人お一人の方が、実際に関わっている人とのやり取り」を通して
それぞれの方々が、それぞれの世界(フィールド)の中で
作りあげていくものなのだろうとなぁと想いました。
さらに、そのひとりひとりが、
「ささやかな出会いによって、少しずつでもみんなでつながる」ことができたら
きっと少しずつでも、何かが変わっていく…
変えていくこともできるような気がします。
スッカリお話がカタチにもならない抽象的な方向に行ってしまいましたけれど
窓の外も、ずいぶんと明るさが増してきましたね!
また後ほど、お昼ご飯を済ませてから、続きをお話できますように!!