エンブ一家の旅日記

アウトドア大好き、エンブの日記です(笑)
大好きな奥ちゃまとワンニャン引き連れあちこち走り回っています。

関東日帰りドライブ~館林から大洗へ その2~

2012年06月06日 | Weblog
茂林寺を出て館林市内へと向かうと、すぐに館林城址へと到着します。
駐車場は、隣接する市役所の駐車場を使わせて頂きました。

-----館林城-----
尾曳城とも言われています。
城沼に西から狐の尾のように突き出した半島に中心を置く平城で、現在の館林市の中心部に当たります。
築城は、弘治二年(1556)赤井照康によるという説が一般的だが、いずれも後年の史料に拠るもので
信憑性は疑わしく、不明です。
戦国時代には、上杉氏、武田氏、小田原北条氏による三つ巴の攻防に巻き込まれた事でも有名。
徳川家康関東入封に伴って、徳川四天王・榊原康政が十万石で城主となり、城下町を整備、
寛文元年(1661)徳川綱吉が城主となり全盛を極めた。
彼が五代将軍になってからは将軍を輩出した徳川宗家に関わる重要な地として、江戸幕府に位置付けられ、
最後の城主秋元氏まで江戸幕府の重鎮を務めた七家の居城として栄えた。
城の建物の大半は1840年に焼失。
本丸、三の丸、稲荷郭、城下町などの土塁の一部が残されており、三の丸には土橋門が復元されている。
しかし、二の丸は市役所に変わり、ほとんど城郭の面影を失っている現在です。
時々、近くまで来ていたし、目の前を通り過ぎていたことあったけど今回初めて尋ねてみました。
確かに、市役所が鎮座していて殆ど何も無いに等しい感じ。

復元された、土橋門。
いつも思うことなのですが、なんで日本人は歴史というものを大切にしないのでしょう?
城跡には市役所や大学が腰を下ろしていて自由に見学が出来るところが少ないんですよね。
国土面積が狭い日本では仕方ない事と言われてしまうかもしれませんが、非常に残念なことです。

土橋門を潜ると、土塁に囲まれた曲輪が残っていました。

土橋門からづく土塁後。

十兵衛とミッシェルと歩いてあっという間に一回りできてしまう大きさしかありませんでした。


一休み後、館林を後に佐野に向います。
目的地は、佐野厄除け大師です。
館林からはほぼ一本道で迷う事無く到着です。

-----佐野厄除け大師-----
創建は天慶7年(944)平将門の乱を平定した藤原秀郷が開基となり宥尊上人が
開山したのが始まりと伝えられています。
その後一時衰退しましたが永仁年間に俊海(藤原氏一族)が再興、伏見天皇の勅願所として、
転法輪院の号を賜り、領主である佐野氏(藤原秀郷の子孫とされる一族)の庇護もあり寺運が隆盛します。
佐野氏の居城唐沢山城 は慶長7年幕府から廃城を命じられ惣宗寺 のあった春日岡に佐野城 を
築城する事になり現在地に移されます。佐野氏は慶長19年に突然改易となり
松本へ配流されますが元和3年に家康の遺骸を駿河国久能山から日光東照宮 に移す際
宿所となった事で幕府から庇護されるようになります。
江戸時代を通して御朱印50石を拝領し、三代将軍徳川家光が参拝、
文政11年には幕府が東照宮を境内に造営しています。
又、惣宗寺 は比叡山延暦寺中興の祖とされる良源を祀る佐野厄除大師として
多くの参拝者を訪れてます。境内には田中正造の分骨された墓があります。

関東の3大厄除け大師【西新井大師、川崎大師、観福時大師堂】とは違うみたいです。
関東の3大師【川越大師、青柳大師、佐野厄除け大師】の一つに数えられているようです。
山門には三つ葉葵の家紋が刻まれていて、徳川家に庇護された証でしょうか。
本堂もとても立派なもので、この日も厄除けのご祈祷が行われていました。


境内には、黄金の釣鐘が鎮座していました。

お大師さんの目の前には、佐野ラーメンの文字も見受けられましたが
生憎の満腹状態(笑)
たぬきそばが・・・・・(爆)
お参りをした後、御朱印を頂き大洗へ向けて出発しました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする