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日本人として日々の暮らしの中で思うこと、知りたかったこと

骨太な縄文人遺跡「保美貝塚」(愛知県田原市)

2019-03-18 22:37:38 | 古代
2018/8/30(木) 午後 9:17

HTLV-Ⅰ保因者分布など、様々な角度から縄文人の移動経路や縄文人の定住分布についてアプローチされていますが、最も直接的に縄文人の定住場所の分布を物語るものといえば「貝塚」です。


日本列島には約2500か所の「縄文時代の貝塚」が発見されており、その内のおよそ4分の1近くが東京湾の東岸の千葉県下に集中。千葉県は世界一の「貝塚密集地帯」といわれているそうです。その他、貝塚が集中している地域としては仙台湾や大阪湾などが挙げられるそうです。これらに共通しているのは、太平洋沿岸の内湾で干潟がよく発達しており、貝が豊富に獲れた場所であったという点。


日本列島は酸性土壌であり、骨や有機物が残り難いようですが、貝塚は大量の貝殻に由来する炭酸カルシウムのおかげで土壌がアルカリ性に保たれてきたことで、鳥獣や魚などの骨格(動物遺体)が保存され、当時の生産や海辺の生活を知る動物考古学の観点からも貴重な遺跡となっているようです。


逆に言えば、「貝殻を含まない土壌」には炭酸カルシウムが供給されなかったために、酸性土壌のまま、古代の縄文遺跡は(たとえ縄文人達が定住した場所であっても)骨も有機物も分解されてしまうために残っていないわけで、「太平洋沿岸の内湾沿いにのみ縄文人が多く定住していた」と断定はできないともいえます。「貝殻を獲って食べる集団の遺跡は残っている」のであって、「貝殻を食べていなかった集団の遺跡は残っていない」ということ。


ところで貝塚が太古の人々が遺したものであるという認識は奈良時代から既にあり「常陸国風土記」に現在の大串貝塚に比定される記述があるようです。日本における本格的な貝塚研究の発端は1877年アメリカの動物学者エドワード・S・モースが東京都大田区の大森貝塚を発見し発掘調査したこと。日本最古の貝塚は千葉県西之城貝塚と神奈川県の夏島貝塚で、紀元前7500年頃の縄文時代早期前半の土器が両者から出土。


また「貝塚=ゴミ捨て場」とは限らず、作られ方も時期によって異なり、縄文早期では竪穴住居や小さな調理施設である炉穴の中に捨てられている場合が多く、縄文前期にも早期と同様で、中期になると住居が「ムラ」のほぼ中程の広場を囲んで配置され、それらの住居に貝塚が残されたので結果として環状の貝塚の並び方が形成。(例:加曽利貝塚)


今回「貝塚」で面白い発見があったそうです。それは、3日前の8月27日付の朝日新聞デジタル版に掲載された記事からの引用となりますが、愛知県渥美半島の縄文晩期の遺跡「保美(ほび)貝塚」(愛知県田原市)から「骨太」な縄文人集団がいたことが、国立科学博物館などの研究チームの分析で分かったというニュース。


海部陽介・同博物館研究グループ長らの研究チームは、沖縄県から北海道までの全国の遺跡で出土した縄文人797人分の上腕骨の太さを比較したところ、
「海岸付近の遺跡の縄文人集団は内陸平野で暮らした縄文人集団より上腕骨が太い傾向がみられること」
「保美貝塚の男性の上腕骨は22人全員が全員全国平均を上回っていた、渥美半島の近隣の遺跡と比べても極端に太かった、一方保美貝塚の女性の上腕骨は他の遺跡と大差なかった」その原因として、手足の骨は活動レベルに応じて太く成長するため、この集団は近隣集団よりも遠州灘まで漁に出たり(保美貝塚からは外海にいる大きなマダイやアシカの骨がみつかっている)、紀伊半島から海路で石を大量運搬していたことなどの舟を漕ぐ生活が関係していたと考えられるそうです。

                                              


(右写真 )保美貝塚から出土した縄文人男性の上腕骨(左)。平均的な江戸時代の男性の上腕骨(右)よりも極端に太い(「3万年前の航海徹底再現プロジェクト」提供 

引用:
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%B2%9D%E5%A1%9A&action=edit§ion=4

https://www.asahi.com/articles/ASL8W4V1NL8WULBJ00L.html



コメント

この保美貝塚の例では、遺伝だけでなく活動状況によって短期間で人の骨格や体形が変わりうるということですね。

とても研究成果がわかりやすいです。
2018/8/30(木) 午後 10:06 泉城


> 石田泉城さん
こんばんは。スポーツ選手などはまさにその例ですね。水泳選手は胸郭が発達するため、やや鳩胸になるし、上半身が大きく逆三角形の体型になる。テニスプレーヤーなども、左右の利き腕の長さがやや異なる場合もあると聞きますが。泉城さんはいかがですか。
2018/8/30(木) 午後 10:17 kamakuraboy


見た目で分かるほど利き腕である右が太いです。
長さも少し長いように思います。

利き腕のほうを背中にまわしたときには、やや太いからか、硬くて曲がらないためなのか、上のほうへ指先が持ち上がらない傾向にあります。

私がそうした状態なので、何人かのテニス仲間にやらせてみたところ、同様の結果でした。
2018/8/30(木) 午後 11:17 泉城


> 石田泉城さん
それはかなりテニスに特化した腕の左右差ですね。なるほど、それは余程テニスがお好きな証拠ですね。きっと骨の太さも違うのでは。
2018/8/30(木) 午後 11:35 kamakuraboy


コンバンワ
腕の発達は素晴らしいですね。たぶん足の方も逞しかったのでは?
海辺で海産物を食べる事が出来たこと。よく身体を使ったこと。
応力を掛ける事で骨へのカルシウムの沈着が促進される事など。
筋トレで半年もすれば、それなりの筋肉が付きますが、継続しないと
すぐに萎んでしまいます。骨も同様ですよね。筋トレを遣って居た頃は
レントゲンを撮る機会が有り、骨密度がすごいねと云われた事が有ります。
もう今では駄目でしょう。縄文人は海の恵みに支えられていたようですね。
2018/8/31(金) 午後 11:09 [ 井頭山人(魯鈍斎) ]


> 井頭山人(魯鈍斎)さん
おはようございます。コメントをありがとうございます。
生活環境というのは身長や下肢の長さなど骨格にすぐに影響を及ぼしますし、食生活の変化によって下顎骨の大きさや形状にも影響がすぐ現れることは食生活や生活スタイルが大きく変化した「現代日本人」とたとえば「江戸時代の日本人」とでは大きく異なっているわけですしね。

実は「弥生人」なるものはいない、というのが現在では段々言われ出していますね。相変わらず教科書の歴史は戦後の左翼学者によって歪められたままですが。
2018/9/1(土) 午前 9:24 kamakuraboy


> kamakuraboyさん
そうですね、原日本人は継続して居ます。もちろん住民の地域差は有ったと思います。分りませんが水稲は紀元前5世紀の頃でしょうか?縄文人は狩猟採取だけで無く、栽培もして居たと思われますし、食生活が異なれば日本人も変化してゆきます。水稲の普及は食生活を変えたことでしょうね。(魯鈍斎)
2018/9/2(日) 午前 11:37 [ 井頭山人(魯鈍斎) ]


> 井頭山人(魯鈍斎)さん
おはようございます。仰る通り、縄文後期には陸稲からより生産性の高い水稲が広がはじめ、「イネ」の収穫が増えたことで、保存ができ、エネルギー効率の良い炭水化物という栄養を多く摂れるようになったために、縄文の人々の生活はどんどん豊かなものになり、稲作を通して「共同体意識」なども生まれたのだと思います。

これが狩猟採集民族から脱却して、稲作の拡大から定住もどんどん進み、大家族化や村落形成、人口増加、個体の身体変化(骨格の変化)にも繋がっていったことは容易に想像できますね。
2018/9/2(日) 午前 11:58 kamakuraboy


「渥美半島の縄文人」
遅ればせ乍ら今朝の中日新聞29面に朝日ウェブからの転写みたいな記事が出てました。
2018/9/19(水) 午前 11:51 jinsen99


> jinsen99さん
そうですか。縄文人は日本各地に住んでいたようですね。
2018/9/19(水) 午後 0:11 kamakuraboy

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