2018年2月14日ヤフーブログに投稿した記事より
今から36年前の1982年、イギリスが「鉄の女」サッチャー首相の時代に、大西洋フォークランド諸島の領有をめぐりアルゼンチンとの間で3か月間の戦争を繰り広げた「フォークランド紛争」(英名Falk land War/Conflict/Crisis)という西側諸国の近代化された軍隊同士の初めての戦争があった。
竹島問題の解決は全く糸口が見えないが、フォークランド紛争はどのように英政府が動いたのか当時の状況をみてみた。
きっかけは、アルゼンチン国内のハイパーインフレで前政権が倒れたあとに就任した元陸軍司令官のレオポルド・ガルチェリ大統領が国民の不満をそらすため、前政権から(実行するまでには至らなかった)軍事行動について言及しフォークンド諸島の領有問題をクローズアップしたことで、世論が過熱。民間義勇軍を組織してフォークランド諸島を奪還しようという動きが起こったこと。つまり、国内で本来やるべき改革などが簡単に出来ないため、ナショナリズムで批判の目をかわそうとしたア政権の愚がきっかけといえる、
なぜなら、フォークランド諸島のソレダード港についてアルゼンチンは1820年に領有権を宣言しているが従来から米英の捕鯨船の避難港としての島であったし、そのときの領有宣言自体無視されており、英軍が侵攻して無血占領しており、アルゼンチンが実行支配していた時期はないといっていい。
第一次世界大戦の際にも英独が島の支配を巡って戦っているさなか(フォークランド沖海戦)、アルゼンチンは中立で傍観していたにすぎず、まさにガルチェリ大統領の軍事行動への言及は唐突であったのだ。その結果、アルゼンチンの人々のナショナリズムに火がついてしまった。
島の領有権問題というものは得てして、島そのものや島の領海、(あるのかないのか不明の)海底資源などを目的に争うというよりもむしろ、相手国との二国間関係の悪化も構わないといった「ナショナリズムの象徴」としての動機で行動が起こされる場合もあるということらしい。
ア政府が沈静化を図ったものの同国海軍輸送艦がフォークランド諸島東にある英領サウス・ジョージア島に2度に渡って寄航。3月19日に使われなくなっていた捕鯨工場の解体と称し、60人近い民間人の無断上陸を行った。ア政府の人気とりで領有をめぐる世論がエスカレートし、海軍と民間人が暴走。
民間人60人はアルゼンチン国旗掲揚、国歌斉唱などの行動をとりながら居座りつづけたため英政府は抗議しながら、氷海巡視船エンデュアランスに武装した海兵隊22名と軍用ヘリワプス2機を積載して同島海域に派遣。ア側は海軍輸送艦を一旦ひきあげたものの数十人のアルゼンチン人を島に残していった。民間人を使った実行支配でなし崩し的に島を占領するやりかたは韓国と似ている。
英政府は3月28日にアルゼンチン人の強制退去命令を出し、同時に米合衆国に圧力をかけることを要請、米連邦政府は原子力潜水艦の派遣を決定。ここで、参考にすべきは始めからイギリスは単独行動せず、まず最初に自国の行動と並行して
同盟国アメリカに圧力依頼していること。ここが一番肝心だ。
1952年の李承晩ライン宣言から65年の日韓基本条約締結までのあいだ、島根県の漁民が虐殺、拿捕された時点で日本政府がICJに提訴しなかったのは何故なのだろう。日本の国際的な地位が「戦犯国」扱いであったとして、国民の生命財産を守ることを日本国憲法は謳っているわけで、ICJに提訴することくらいできなかったのだろうか。
1965年の日韓基本条約締結から94年頃までは韓国側も日本に配慮して竹島の領有問題を顕在化させないようにしていた。
1994年が転機だったのだ。国連の海洋法条約が発効し、国際ルールに従って対話をする機会が訪れたとき韓国政府は、竹島の不法占拠を正当化すべく、竹島に接岸施設の建設をはじめ、日本政府が抗議すると、反日感情を爆発させて牽制(逆ギレ)したそうだが、
竹島の実行支配を固めるために韓国が動き始めたときに日本政府は何故、イギリス政府のようにアメリカに圧力依頼出来なかったのだろう。むしろ日本政府は日米安保を盾に、アメリカ政府に沖縄にいる米海軍の竹島への軍用艦派遣を要請できないはずはなかったのだ。何のための日米安保なのだ。そして、まず、日本政府が竹島上陸した韓国人の強制退去命令を出し、応じなければ「紛争国」あるいは「敵国」の移民である在日韓国人の特別永住者以外の即時国外への退去強制を明言するなどの圧力をかければよかったのだ。
3月30日から4月2日にかけてアルゼンチンは空母を旗艦として駆逐艦7、フリゲート艦3、輸送艦3、陸用艦1で編成された機動艦隊を陸軍将兵4000名と共に出撃させ、「ロザリオ作戦」と名付けられた上陸作戦を開始。アルゼンチン政府は引くにひけなくなったため、本気で同島を「併合」しに行っているのだ。
ア側が正規軍を動かし始めたため、サッチャー首相は米レーガン大統領に事態収拾の中介を要請、閣議を召集し、機動部隊の編制を下院で承諾、サッチャー首相が編成命令。4月2日にはアルゼンチン陸軍4000名が侵攻上陸。4月5日に英は航空母艦2隻を中核とする第一陣を出撃した。つまり相手の上陸後、2週間で軍隊を出撃させているのだ。
ここで大きく日本の事情と異なるのは、憲法9条の問題。日本は当時の世論も含め憲法9条によって、紛争解決の手段としての「交戦権」がないのだ。仮に竹島でなく、尖閣諸島が同じように民間人に上陸され実行支配されはじめたとしても、日本政府の当時の対応であったなら、竹島と同じようになっていただろう。
アメリカは日本を自分自身では自国の領土を守るための最低条件もないよう憲法で縛った国だが、「日米安保」という国と国との約束で、今の北朝鮮に対するように、軍用艦(空母とまではいかなくても)を竹島近海に派遣して圧力をかけることくらいならやれたはずだと思うのだ。それを日本政府はアメリカに働きかけなかったとすれば、日本政府はイギリス政府に比べて「国家」としての矜持のようなものがあまりになさ過ぎたのではないだろうか。
因みにこのフォークランド紛争ではエリザベス女王の命令で、女王の次男のアンドルー王子も対潜水艦攻撃用のヘリコプターの副操縦士としてインヴィンシブルという名の航空母艦に乗艦していたそうだ。
憲法第9条
憲法第9条第1項の内容である「戦争の放棄」、憲法第9条第2項前段の内容である「戦力の不保持」、憲法第9条第2項後段の内容である「交戦権の否認」の3つの規範的要素から構成されている。
サウスジョージア島(英語: South Georgia Island)は南大西洋にある島で、イギリスの海外領土であるサウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島に含まれる。主な集落としてはグリトビケンがある。サウスジョージア島は全長167.4kmで、幅は1.4から37kmである[1]。コロネーション島の830 km北東で、サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島の一番近い島であるザボドフスキー島から550 km北西にある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/c8/eff71016879afeb9fbdfd346e9e9aa67.png)
フォークランド諸島:
最初に島を発見したのはフエゴ島の先住民ヤーガン族ともいわれるが、ヨーロッパ人による発見は1520年のポルトガルのマゼラン船団のエステバン・ゴメス船によるとされる。1592年にイギリスの探検家ジョン・デイヴィス が島を記録しており、これがイギリスの領有権の根拠である。1690年にはイギリスの船長ジョン・ストロンが英国海軍のアンソニー・フォークランド子爵にちなんでフォークランド諸島と命名した.
今から36年前の1982年、イギリスが「鉄の女」サッチャー首相の時代に、大西洋フォークランド諸島の領有をめぐりアルゼンチンとの間で3か月間の戦争を繰り広げた「フォークランド紛争」(英名Falk land War/Conflict/Crisis)という西側諸国の近代化された軍隊同士の初めての戦争があった。
竹島問題の解決は全く糸口が見えないが、フォークランド紛争はどのように英政府が動いたのか当時の状況をみてみた。
きっかけは、アルゼンチン国内のハイパーインフレで前政権が倒れたあとに就任した元陸軍司令官のレオポルド・ガルチェリ大統領が国民の不満をそらすため、前政権から(実行するまでには至らなかった)軍事行動について言及しフォークンド諸島の領有問題をクローズアップしたことで、世論が過熱。民間義勇軍を組織してフォークランド諸島を奪還しようという動きが起こったこと。つまり、国内で本来やるべき改革などが簡単に出来ないため、ナショナリズムで批判の目をかわそうとしたア政権の愚がきっかけといえる、
なぜなら、フォークランド諸島のソレダード港についてアルゼンチンは1820年に領有権を宣言しているが従来から米英の捕鯨船の避難港としての島であったし、そのときの領有宣言自体無視されており、英軍が侵攻して無血占領しており、アルゼンチンが実行支配していた時期はないといっていい。
第一次世界大戦の際にも英独が島の支配を巡って戦っているさなか(フォークランド沖海戦)、アルゼンチンは中立で傍観していたにすぎず、まさにガルチェリ大統領の軍事行動への言及は唐突であったのだ。その結果、アルゼンチンの人々のナショナリズムに火がついてしまった。
島の領有権問題というものは得てして、島そのものや島の領海、(あるのかないのか不明の)海底資源などを目的に争うというよりもむしろ、相手国との二国間関係の悪化も構わないといった「ナショナリズムの象徴」としての動機で行動が起こされる場合もあるということらしい。
ア政府が沈静化を図ったものの同国海軍輸送艦がフォークランド諸島東にある英領サウス・ジョージア島に2度に渡って寄航。3月19日に使われなくなっていた捕鯨工場の解体と称し、60人近い民間人の無断上陸を行った。ア政府の人気とりで領有をめぐる世論がエスカレートし、海軍と民間人が暴走。
民間人60人はアルゼンチン国旗掲揚、国歌斉唱などの行動をとりながら居座りつづけたため英政府は抗議しながら、氷海巡視船エンデュアランスに武装した海兵隊22名と軍用ヘリワプス2機を積載して同島海域に派遣。ア側は海軍輸送艦を一旦ひきあげたものの数十人のアルゼンチン人を島に残していった。民間人を使った実行支配でなし崩し的に島を占領するやりかたは韓国と似ている。
英政府は3月28日にアルゼンチン人の強制退去命令を出し、同時に米合衆国に圧力をかけることを要請、米連邦政府は原子力潜水艦の派遣を決定。ここで、参考にすべきは始めからイギリスは単独行動せず、まず最初に自国の行動と並行して
同盟国アメリカに圧力依頼していること。ここが一番肝心だ。
1952年の李承晩ライン宣言から65年の日韓基本条約締結までのあいだ、島根県の漁民が虐殺、拿捕された時点で日本政府がICJに提訴しなかったのは何故なのだろう。日本の国際的な地位が「戦犯国」扱いであったとして、国民の生命財産を守ることを日本国憲法は謳っているわけで、ICJに提訴することくらいできなかったのだろうか。
1965年の日韓基本条約締結から94年頃までは韓国側も日本に配慮して竹島の領有問題を顕在化させないようにしていた。
1994年が転機だったのだ。国連の海洋法条約が発効し、国際ルールに従って対話をする機会が訪れたとき韓国政府は、竹島の不法占拠を正当化すべく、竹島に接岸施設の建設をはじめ、日本政府が抗議すると、反日感情を爆発させて牽制(逆ギレ)したそうだが、
竹島の実行支配を固めるために韓国が動き始めたときに日本政府は何故、イギリス政府のようにアメリカに圧力依頼出来なかったのだろう。むしろ日本政府は日米安保を盾に、アメリカ政府に沖縄にいる米海軍の竹島への軍用艦派遣を要請できないはずはなかったのだ。何のための日米安保なのだ。そして、まず、日本政府が竹島上陸した韓国人の強制退去命令を出し、応じなければ「紛争国」あるいは「敵国」の移民である在日韓国人の特別永住者以外の即時国外への退去強制を明言するなどの圧力をかければよかったのだ。
3月30日から4月2日にかけてアルゼンチンは空母を旗艦として駆逐艦7、フリゲート艦3、輸送艦3、陸用艦1で編成された機動艦隊を陸軍将兵4000名と共に出撃させ、「ロザリオ作戦」と名付けられた上陸作戦を開始。アルゼンチン政府は引くにひけなくなったため、本気で同島を「併合」しに行っているのだ。
ア側が正規軍を動かし始めたため、サッチャー首相は米レーガン大統領に事態収拾の中介を要請、閣議を召集し、機動部隊の編制を下院で承諾、サッチャー首相が編成命令。4月2日にはアルゼンチン陸軍4000名が侵攻上陸。4月5日に英は航空母艦2隻を中核とする第一陣を出撃した。つまり相手の上陸後、2週間で軍隊を出撃させているのだ。
ここで大きく日本の事情と異なるのは、憲法9条の問題。日本は当時の世論も含め憲法9条によって、紛争解決の手段としての「交戦権」がないのだ。仮に竹島でなく、尖閣諸島が同じように民間人に上陸され実行支配されはじめたとしても、日本政府の当時の対応であったなら、竹島と同じようになっていただろう。
アメリカは日本を自分自身では自国の領土を守るための最低条件もないよう憲法で縛った国だが、「日米安保」という国と国との約束で、今の北朝鮮に対するように、軍用艦(空母とまではいかなくても)を竹島近海に派遣して圧力をかけることくらいならやれたはずだと思うのだ。それを日本政府はアメリカに働きかけなかったとすれば、日本政府はイギリス政府に比べて「国家」としての矜持のようなものがあまりになさ過ぎたのではないだろうか。
因みにこのフォークランド紛争ではエリザベス女王の命令で、女王の次男のアンドルー王子も対潜水艦攻撃用のヘリコプターの副操縦士としてインヴィンシブルという名の航空母艦に乗艦していたそうだ。
憲法第9条
憲法第9条第1項の内容である「戦争の放棄」、憲法第9条第2項前段の内容である「戦力の不保持」、憲法第9条第2項後段の内容である「交戦権の否認」の3つの規範的要素から構成されている。
サウスジョージア島(英語: South Georgia Island)は南大西洋にある島で、イギリスの海外領土であるサウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島に含まれる。主な集落としてはグリトビケンがある。サウスジョージア島は全長167.4kmで、幅は1.4から37kmである[1]。コロネーション島の830 km北東で、サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島の一番近い島であるザボドフスキー島から550 km北西にある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/c8/eff71016879afeb9fbdfd346e9e9aa67.png)
フォークランド諸島:
最初に島を発見したのはフエゴ島の先住民ヤーガン族ともいわれるが、ヨーロッパ人による発見は1520年のポルトガルのマゼラン船団のエステバン・ゴメス船によるとされる。1592年にイギリスの探検家ジョン・デイヴィス が島を記録しており、これがイギリスの領有権の根拠である。1690年にはイギリスの船長ジョン・ストロンが英国海軍のアンソニー・フォークランド子爵にちなんでフォークランド諸島と命名した.