「花はどこへいった」は世界一有名な反戦歌ともいわれ、米国フォークの父とも形容されるピート・シーガーによる作詞作曲であり、シーガーの代表作。
同名の映画を日本人の女性監督坂田雅子が2007年に制作。枯れ葉剤被害者のベトナム人と米国人の交流を描いたドキュメンタリー映画でした。
若い世代の方々は「枯葉剤」という言葉を知っておられるでしょうか?
「枯葉剤」はベトナム戦争中の1961年から1971年にかけて行われた米軍の軍事作戦として使用され、ベトナム共和国(1955年~75年 ベトナム南部に存在した国家)サイゴン周辺やタイニン省やバクリエウ省のホンダン県などの農村部一帯に推定1,200万ガロンも散布されたといわれています。
その中で、最も多く使われたのが「オレンジ剤」(2,4-ジクロロフェノキシ酢酸 (2,4-D) と2,4,5-トリクロロフェノキシ酢酸 (2,4,5-T) の混合剤で、副産物として一般の2,4,5-T剤より更に多い 2,3,7,8-テトラクロロジベンゾ-1,4-ジオキシン (2,3,7,8‐ TCDD)が生成されます。この2,3,7,8‐ TCDDは発癌性を持つと言われるダイオキシンのことで、非常に毒性が強くベトナム人の三世代に奇形新生児が数多く生まれたといわれています。
コロンビア大学のジーン・ステルマンの調査で散布地域と当時の集落分布をあわせて調査した結果400万人のベトナム人が枯葉剤に曝露したと指摘しています。
■ベトナムでの被害とその後
枯葉剤の散布は、名目上は「マラリアを媒介するマラリア蚊や蛭を退治するため」とされましたが、実際はベトコン(注)の隠れ場となる森林の枯死、およびゲリラ支配地域の農業基盤である耕作地域の破壊が目的であったといわれています。
枯葉剤の散布は、名目上は「マラリアを媒介するマラリア蚊や蛭を退治するため」とされましたが、実際はベトコン(注)の隠れ場となる森林の枯死、およびゲリラ支配地域の農業基盤である耕作地域の破壊が目的であったといわれています。
1959年から1968年の異常児出産4002例を調べ、散布強化された1966年以降、先天性口蓋裂が激増していること、奇形出産率がサイゴンで1000人中26人、集中散布地域のタイニンで1000人中64人にのぼった事が報告され、また散布地域の母乳のダイオキシン濃度で最高1450ppt(平均で484ppt)が検出され、非散布地域・国に比べて非常に高い汚染状況にある事が報告されています。
ベトナム政府によれば、最大300万人のベトナム人が枯れ葉剤にさらされ、21世紀の現在もなお先天性欠損を抱える子ども15万人を含む100万人が健康への深刻な影響を受けているそうです。
ベトナム人被害者たちは、米国に対して補償を求め訴訟まで起こしたものの2009年に米連邦最高裁判所が訴えを却下。米国当局は枯葉剤と先天性欠損症などのとの間に直接の関連を認めていませんし、当然、謝罪や賠償などありません。これが国際社会における「強者の正義」ということでしょうか。
但し米国とベトナムの外交が活発化する中で、米国国際開発庁は2012年から2018年にかけてダナン国際空港にてダイオキシン類の浄化作業を開始し、2019年からは、ビエンホア空軍基地跡の浄化作業にも着手。さらに国際開発庁は、ベトナムの障害者の生活改善を目指して政府機関と活動していく趣意書を出しているそうです。
■米帰還兵の被害
米兵のベトナム帰還兵の枯葉剤暴露でその子供の二分脊椎症の増加とTCDDとの関連が示唆されています。
米軍は1971年、毒ガス類を撤去するための移送作戦「オペレーション・レッドハット」を行い、沖縄本島の枯葉剤もハワイ沖ジョンストン島へ移送されたとされます。
1984年、米国のベトナム帰還兵らが枯葉剤製造会社モンサントに対して集団訴訟を起こしました。訴訟に加わった帰還兵らは4万人超。しかし、裁判が審理入りする直前になり、突如原告代表者が会社側との和解を発表。モンサント側は枯葉剤の被害を認めぬままベトナム帰還兵ら原告に補償金1億8000万ドルを支払うことで同意。
裁判で帰還兵らの枯葉剤健康被害が公にされる事がないまま、帰還兵らの証言はお蔵入り。この突然の和解を不服とした帰還兵や遺族らが1989年に再び集団訴訟を起こしましたが却下されています。
1991年米国の枯葉剤曝露帰還兵に対して救済法が成立。15の疾病に枯葉剤との関連が認められた。ベトナム帰還兵の子供世代への健康被害調査も行われ、帰還兵の二分脊椎症の子供および女性帰還兵に限りその他の先天障害をもつ子供へも補償が認められたそうです。
しかしこれによって認められた枯葉剤の次世代への健康被害は限られたものであり、現在も多くの帰還兵の子供の疾病や先天障害は枯葉剤との関連が不明であるとされているようです。
米国の帰還兵の子供世代の先天障害という二次被害は認める一方で、直接枯葉剤に暴露されたベトナムの人々の子供世代の先天異常との関係を認めないというのはあまりにもダブルスタンダードです。
■沖縄持ち込み疑惑
米国政府は、沖縄県における枯葉剤の持ち込みについては否定しているのですが、ベトナム戦争中に枯葉剤が、米国による沖縄統治時に持ち込まれ、沖縄で服務中に枯葉剤に被曝したとして、健康被害の補償を求める米国退役軍人省の公文書や、保管されたマイクロフィルムで明るみに出ています。
(注)ベトナム戦争:
ベトナム戦争は第二次インドシナ戦争とも呼ばれ、宣戦布告が行われなかったため、戦争がいつ開始されたかについては諸説あり、1955年11月~1975年4月30日とされる。
第二次大戦後の米国を盟主とする資本主義・自由主義陣営と、ソ連を盟主とする共産主義・社会主義陣営との間で起こった代理戦争でもあった。
ホー・チ・ミンが率いるベトナム民主共和国(北ベトナム)側は、南ベトナムを「米国の傀儡国家」と規定し、共産主義イデオロギーを背景に、ベトナム人による南北ベトナム統一独立国家の建国を求めるナショナリズムに基づく植民地解放戦争であるとした。
戦争が長期化しベトナム戦争を巡って世界各国で大規模な反戦運動が発生、社会に大きな影響を与えた。1973年のパリ協定を経てリチャード・ニクソン大統領は派遣した米国軍を撤退。
その後も北ベトナム・南ベトナム解放民族戦線と南ベトナムとの戦闘は続き、1975年4月30日のサイゴン陥落によって終戦。南ベトナムが北ベトナムに吸収される形で南北分断が解消。
(注)ベトコン:
南ベトナム解放民族戦線(Mặt trận Dân tộc Giải phóng miền Nam Việt Nam )は、南ベトナムで1960年12月に結成された反サイゴン政権・反米・反帝国主義を標榜する統一戦線組織。略して解放戦線と呼ばれたが、ベトナムコンサン(ベトナム語: Việt Nam Cộng sản )を略したベトコン(ベトナム語: Việt Cộng )と通称されることも多い。南ベトナムの民衆はおろかサイゴン政権の要人にも秘密メンバーを獲得していたことでも知られており、今なお構成員だったことを公表していない人々が多数存在している。
引用:
下半身が一つで上半身が二人の双生児の姿を初めて見たとき、すぐには現実のことと私は理解できませんでした。戦争の犠牲者ですね。
ところで随分前に観光で訪れたベトナムは、拝金主義を感じさせました。
この春、個人旅行者としてテニスの仲間がベトナムからカンボジアへ出国する際に出入国管理官から賄賂を要求されたそうです。
ベトナムの公務員の給料は安いので賄賂を要求すると言われますが、もし、100人から10ドル取れば1000ドルですからベトナムの一月の給料の倍額になりますので、これは商売です。貧しい公務員でなく欲深い犯罪人です。社会主義国家の拝金主義が人間を堕落させる例ですね。
賄賂は、カンボジアやタイにも広がっているようです。
朝鮮半島とやや比較対象になりますが、嘗て存在した米国の傀儡国家の親米政権であった南ベトナム(ベトナム共和国)は75年4月にサイゴン陥落によって倒されて76年7月に現在のベトナム社会主義共和国が誕生したそうですが、朝鮮半島は今後は韓国消滅と北朝鮮も消滅で、統一朝鮮となるのでしょうか。
ベトナムの経済発展は現在めざましく、2018年12月27日付で、2018年の実質GDP成長率が7.1%。2015年~2017年の平均実質GDP成長率が6.5%だったそうで、今後は縫製業を中心に、制裁関税が課された製品の生産拠点が、中国からベトナムへ移行する動きで、経済全体が好調に発展していとみられているそうですから、侮れない国だと思います。
ベトナムの人々は、日本での就業状況をみると勤勉で責任をもって仕事をするといいます。
一部の出入国管理職員のように中国の悪しき慣習が伝播してベトナム社会に広がらないでほしいです。