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日本人として日々の暮らしの中で思うこと、知りたかったこと

日韓併合の歴史の中の政略結婚

2019-03-02 06:59:32 | 歴史

対馬藩主宗家38代当主・宗武志(そうたけゆき)と大韓帝国高宗の王女・徳恵(とくへ)

このお二人の写真を目にしたことがある方はかなりの韓国ウォッチャーだと
思いますが、大韓帝国高宗の王女徳恵(とくへ)と対馬藩の宗武志(そうたけゆき)伯爵です。東京帝国大学文学部英文科を卒業しており、長身で大変な美男子であったようです。

徳恵は1925(大正14)年、13歳のときに日本の皇族と同様の教育を受けるため、京城(現ソウル)の日本の小学校から東京の学習院に転校。王女として特別な扱いを受けていた環境が一変し、言葉が通じず生活習慣も違うことから次第に精神を病んでしまいます。

徳恵は19歳になった時病状が回復し、そこで日本政府は、宗武志伯爵との結婚を進めました。昨年、韓国で彼女を主人公にした映画がつくられていましたね。(例によってかなりの反日フィクション映画だったそうですが)

このお二人の結婚よりも前に、高宗の七男・李垠(イウン)と梨本宮家の方子(まさこ)が1920(大正9)年に日韓の絆のためにご結婚されていますが、今回はそちらにはスポットライトを当てません。

1931(昭和6)年に宗伯爵と徳恵はご結婚され、翌年には長女の正恵(まさえ)が生まれており、政略結婚であっても幸せな家庭が営まれるはずでした。しかし、徳恵の精神病が再発、病状は次第に悪化、東京郊外の松沢病院に入院となります。

その後北原白秋の門下生となった武志は、廣池千九郎が開いた道徳科学専攻塾で道徳を教えながら、東大大学院で英語を学び、卒業後は内閣情報局で英訳の仕事を務め、周りの雑音を気にせず、誠実に徳恵をいたわり続けていました。

結婚式のあった年の末、対馬を訪れた新婚夫妻を大歓迎した島民や、当時、対馬で働いていた韓国の人たちも大喜びし、島民たちは募金を集めて清水山城の跡に「御成婚慶祝」の石碑を建て、競うように韓国の人たちも八幡前広場には記念碑を建て、刻銘の下には、寄付した人たちの氏名も彫られているそうです。

二人の境遇が一変したのは1945(昭和20)年の敗戦からです。伯爵、王族の身分はなくなり、武志は貴族院議員を務めた後、麗澤大学教授となり、その後、外国語学部長や廣池学園常務理事などを歴任しながら、詩人としても活動しておられます。戦後は日韓両国の関係が悪化したこともあり、1955(昭和30)年に協議離婚しました。

また、明治大学英文科を卒業して22歳になっていた娘の宗正恵は、音楽を通して知り合った日本人男性と結婚しますが、精神病の母がいることが知られて離縁され、その後の消息は不明。

1961(昭和36)年まで松沢病院で暮らした徳恵は、同年祖国韓国への帰国を果たしますが、病状は回復しないまま、1989(平成元)年に永眠。それより先の1985(昭和60)年に、武志は亡くなっていますが、詩人であった氏は、1964(昭和39)年に発刊された「新対馬島誌」に、次のような詩を詠まれています。

島も痩せたが 友も痩せた
魚形を削りながら だまって潮を見る
だが俺には夢がある
言いさして友は笑う
深夜 世界図を開く コンパスを取る
島を軸にぐるっと廻す

彼の友人や彼はどのような夢を思い描いておられたのでしょう。



コメント

kamakuraboyさん、この話も全く知りませんでした。

王女・徳恵さんを始め、娘さん、そして宗武志さんも歴史の被害者ですね。
のほほんと暮らしている私には、計り知れない困難や苦しみ、立場上どうにもならないことがあっただろうと思うと心が締めつけられます。
2018/1/27(土) 午後 9:19 泉城

> 石田泉城さん
本当にそうですね。日韓の歴史そのもののような悲しいお話しです。
kamakuraboy
2018/1/27(土) 午後 11:06 kamakuraboy



2018年1月24日ヤフーブログに投稿した記事より

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