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『2つの同じドア』(トランス☆プロジェクト)
先日、吉祥寺へ『2つの同じドア』という舞台公演を見にいってきた。直接のきっかけは知人の方が出演されていたので、舞台の上でのその方を見てみたかったからだ。それともう一つは、この舞台がGID(性同一性障害)をテーマにしていたということだ。いま、直接ではないが、たまたまジェンダーに関連したことを研究テーマにしているので、GIDには少なからず関心がある。さらにいえば、研究テーマ以前に、ジェンダーというカテゴリーや、世の中のさまざまなカテゴリーの中で生きていくことに葛藤を感じることが多い。ジェンダーに限っても、実際オトコとしての生きにくさを日々感じている。自分はGIDではないが―こういう前置きをしなければならないこと自体、生きにくさや葛藤の現われだろうが―そういった生きにくさの象徴的な役割をGIDは背負わされているように思う。そもそも「性同一性障害」は「障害」なのだろうか。このこと一つをとっても大きな疑問である。それはそれとして、この舞台公演を行っている「トランス☆プロジェクト」は「GIDの当事者と一緒にGIDをテーマにした舞台を制作、上演している劇団」だという。そんな人たちが、いったいどのような舞台を創り上げてくれるのか、興味をもって見に行った。
前半は、いわゆる身体表現を主とした舞台で、どちらかといえば抽象的な表現でテーマに迫っている。そのため、見る人によって感じることや思うことは異なるかもしれない。ときにはシリアスに、ときにはユーモラスに、そして、ときには意味不明に(少なくとも自分にとっては)演じられていたテーマは、GIDそのものよりも、世の中の生きにくさと関わる「同調圧力」だったように感じられた。一方で後半は、いわゆる密室劇的な芝居である。災害か何かで一室(場所)に閉じ込められた11人の“男女”が、ある一人の性別に疑問をもったことがきっかけで、自分たちの自分自身の“本当の性別”についても気づいていく。詳しくは書かないが、人はそれぞれ「からだの性別、こころの性別、対象の性別」をもっている。そのことを知って、一人ひとりが自分の“性別”を「男・男・女」とか「女・男・男」などと告白していくくだりは、ユーモラスでありながらも、観客に対してもっともアピール力のあった場面ではないかと思う。社会の中にいると、自分という“個”が捨て去られていく現実があり、極限的な状況に置かれてはじめて“個”に気づいていく。そんな皮肉が込められていたように感じたといっては、深読みしすぎだろうか。
さて、テーマをはなれて、この舞台演劇について感じたことを一言いえば、やはり舞台を創り上げていくことの大変さだろう。とくに前半の身体表現は、一見バラバラに見えてちゃんと統一がとれていなければならないことを思えば、その稽古の厳しさ―といったありきたりな表現しか浮かばないのだが―は並大抵ではないだろうと想像する。演劇の素人である自分にとってはまったくの別世界だ。その意味でも、その知人の方には敬意を表したい。そして、意義あるテーマの舞台に立たれたことを本当に嬉しく思った。
先日、吉祥寺へ『2つの同じドア』という舞台公演を見にいってきた。直接のきっかけは知人の方が出演されていたので、舞台の上でのその方を見てみたかったからだ。それともう一つは、この舞台がGID(性同一性障害)をテーマにしていたということだ。いま、直接ではないが、たまたまジェンダーに関連したことを研究テーマにしているので、GIDには少なからず関心がある。さらにいえば、研究テーマ以前に、ジェンダーというカテゴリーや、世の中のさまざまなカテゴリーの中で生きていくことに葛藤を感じることが多い。ジェンダーに限っても、実際オトコとしての生きにくさを日々感じている。自分はGIDではないが―こういう前置きをしなければならないこと自体、生きにくさや葛藤の現われだろうが―そういった生きにくさの象徴的な役割をGIDは背負わされているように思う。そもそも「性同一性障害」は「障害」なのだろうか。このこと一つをとっても大きな疑問である。それはそれとして、この舞台公演を行っている「トランス☆プロジェクト」は「GIDの当事者と一緒にGIDをテーマにした舞台を制作、上演している劇団」だという。そんな人たちが、いったいどのような舞台を創り上げてくれるのか、興味をもって見に行った。
前半は、いわゆる身体表現を主とした舞台で、どちらかといえば抽象的な表現でテーマに迫っている。そのため、見る人によって感じることや思うことは異なるかもしれない。ときにはシリアスに、ときにはユーモラスに、そして、ときには意味不明に(少なくとも自分にとっては)演じられていたテーマは、GIDそのものよりも、世の中の生きにくさと関わる「同調圧力」だったように感じられた。一方で後半は、いわゆる密室劇的な芝居である。災害か何かで一室(場所)に閉じ込められた11人の“男女”が、ある一人の性別に疑問をもったことがきっかけで、自分たちの自分自身の“本当の性別”についても気づいていく。詳しくは書かないが、人はそれぞれ「からだの性別、こころの性別、対象の性別」をもっている。そのことを知って、一人ひとりが自分の“性別”を「男・男・女」とか「女・男・男」などと告白していくくだりは、ユーモラスでありながらも、観客に対してもっともアピール力のあった場面ではないかと思う。社会の中にいると、自分という“個”が捨て去られていく現実があり、極限的な状況に置かれてはじめて“個”に気づいていく。そんな皮肉が込められていたように感じたといっては、深読みしすぎだろうか。
さて、テーマをはなれて、この舞台演劇について感じたことを一言いえば、やはり舞台を創り上げていくことの大変さだろう。とくに前半の身体表現は、一見バラバラに見えてちゃんと統一がとれていなければならないことを思えば、その稽古の厳しさ―といったありきたりな表現しか浮かばないのだが―は並大抵ではないだろうと想像する。演劇の素人である自分にとってはまったくの別世界だ。その意味でも、その知人の方には敬意を表したい。そして、意義あるテーマの舞台に立たれたことを本当に嬉しく思った。
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