「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

『生きる歓び』を読む―『生きる歓び』

2023年02月03日 | Ecology
☆『生きる歓び』(ヴァンダナ・シヴァ・著、熊崎実・訳、築地書館、1994年)☆

以下の記事は2008年5月16日付けで本ブログに別ブログへのリンクとして掲載していたものだが、すでにリンクが切れていて長らくアクセスできない状態になっていたため、あらためて本ブログに掲載した。当時は書影なしだったが、これを機会に書影も掲載した。なお、本記事は当時エコフェミニズムに強い関心を抱いていたことが色濃く反映している。現在もエコロジーやフェミニズムに対する関心は薄れていないつもりだが、ある種の意気込みが感じられて懐かしい。
(リンクを復活させました:2023/07/10)

  ヴァンダナ・シヴァはインドでエコ・フェミニズムを実践している女性であり、その取り組みに対して「もう一つのノーベル賞」といわれる「ライト・ライブリフッド賞」を受賞している。1952年インド北部のヒマラヤ山麓に生まれたシヴァは、カナダのウェスタン・オンタリオ大学で物理学および科学哲学の博士号を取得後、原子力関係の研究に従事していたが、1970年代にチプコ運動と呼ばれる森林保護運動と出会い、それを契機としてエコロジーとの関わりを深めていった。その後1982年に「科学・技術・自然資源政策研究財団」を故郷に設立し、有機農業の実践、遺伝子組み換え作物や先進国による第三世界の遺伝子資源の収奪と特許化(「バイオパイラシー」と呼ばれる)に対する批判、森林保護や水資源保全などの活動に取り組んでいる。シヴァの著書はわが国おいてもかなり紹介されているが、本書『生きる歓び』は初期の代表的な著作である。
  シヴァの基本的な立場は反グローバリズムであり、西欧に端を発する資本主義的な市場経済批判である。市場経済は「経済成長」を至上の目的とし、その達成度は「生産性」で測られる。しかし、その「生産性」とは商品生産によって生み出された利潤であって、伝統的に女性が関わってきた再生産やサブシステンスと呼ばれる活動(日常生活の維持や育児など)は含まれていない。それに対して、「開発」以前の伝統的な経済では、自然生態系の下での女性による生産や再生産もまた必要不可欠なものとして位置づけられ、それを含むすべての活動によって「生産性」が規定されていたと考えられる 。さらに市場経済は「経済成長」のために市場の拡大を求め、その矛先は第三世界へと向けられていく。これが「開発」という名の第一世界による第三世界の植民地化である。
  シヴァは、この二つの経済を比較して、基本的に異なる点を二つ指摘する。第一に、伝統的な経済と比較して市場経済においては、同じニーズを満たすのに大量のエネルギーと資源の投入を必要とする一連のプロセスをとり、かつ購買力のない多数の人々を排除していく。そして第二に、市場経済における豊かさは新たな人工的ニーズを作りだし、それが財とサービスという生産の増加を要求する。しかし、伝統的な経済においては、死活に無関係なニーズの充足という面では進歩していないにしても、基本的で命にかかわるニーズの充足という面では「原初の豊かな社会」であるといえる。この意味で第三世界の「貧困」とは、第一世界(市場経済)によって文化的に決めつけられ誤認された「貧困」なのである。そして、現実には開発の結果、水は減り、肥沃な土壌も少なくなり、遺伝資源の豊かさが減少した。これらの天然資源は、自然の経済と女性たちの生存ための経済の基盤であるから、それが希少になれば女性と底辺にいる人々を窮乏化させることになる。この新たな窮乏化は、人々の生存を支えていた資源が市場に吸収される一方で、その人々自身はその市場から排除されるという性質のものである。男性を主体とした近代的な科学技術による「開発」は、自然を資源収奪の対象とし、女性を生産の場から退けることによって周縁化し、そして同時に、女性のもつ自然性ゆえに女性をヒエラルキーの下部へと位置づける。すなわち、「開発」によって女性は二重に搾取されていると換言することができるであろう。シヴァにとって「第三世界における今日の開発活動は、西欧の性差別のイデオロギーが生み出した科学と経済のパラダイムを文化の異なる社会に重ね合わせたもの」であり「エコロジーの破壊と女性の疎外がこうしたパラダイムを基礎とする開発事業の避けられない帰結であることは、いまや明らか」なのである 。この言葉は、シヴァがエコ・フェミニズムの立場にあることを明確に表しているように思われる。
  さて、第一世界による第三世界の「開発」に対して、シヴァやインドの女性たちはエコロジー闘争を開始したが、その支えとなっている理念をシヴァは「女性原理」と呼んでいる。シヴァは「開発」を「女性原理の死」と捉え、「女性原理」の回復を戦略の基礎に据えている 。しかし、シヴァの「女性原理」には神秘的な要素が見られると同時に、女性性に大きな価値を置いているようにも見える。これは「女性と自然との結びつきを強化」する戦略を取ったがゆえに批判されたカルチュラル・エコフェミニズムと同様の陥穽へと導かれる危険性を秘めている。カルチュラル・エコフェミニズムは女性性を固定化すると同時に西欧的な二元論に陥る可能性を孕んでいたのである。しかし、シヴァは自らの「女性原理」におけるこのような可能性を基本的に否定しているように思われる。シヴァによれば 、西欧的な二元論の自然観と比較して、インドの宇宙論では人と自然とは一体の中の二重性であり、これらは自然の中、女性の中、男性の中で互いに補完し合う不可分なものであるという。この「二重性」という言葉は「二分割」や「二元論」とは異なる弁証法的な意味で使われているように思われる。またシヴァは 、ジェンダーのイデオロギーは男性と女性という二元論的な分裂をもたらしたとして批判する。これは男性と女性とを二分化した価値に配当しカテゴリー化することに対する批判であり、シヴァはそのような排他的なカテゴリー化を超えた新たな認識を提示する。それは、男性性や女性性を固定的な価値として各々のジェンダーに配当することなく、すなわち男性性と女性性とを区別することなく、それらは異なっているけれども、弁証法的に一体となったものの二つの側面であるという認識に立つことである。このことにより「女性原理」が女性の中でのみ具現化されるものではなく、同時に男性にとっても利するものとなる。
  第三世界においては自然の収奪は女性の疎外と強く結び付いている。それは、女性が生物学的な意味で生命の生産と再生産とを行っているだけではなく、生存に必要な物を供給するという点で社会的な役割を担っているからである。「女性原理」が具現された持続可能な社会が植民地化され崩壊すると、男性はその破壊に加担するか移住を余儀なくされるが、女性は自然や生命との関わりを持ち続けるのがふつうであるとシヴァはいう。そして、女性がとりわけ持続可能性の原則になじみやすいのは、単に生物学的なというよりは、むしろ歴史的・文化的なところに原因がある指摘している。その意味で、第一世界の女性はもとより、消費文化になじんだ第三世界のエリート層の女性からも「女性原理」が失われ、シヴァにとっては批判の対象となる。一方で、エコロジー危機をいわば可視化した第三世界の女性は、単なる「開発」や市場経済の犠牲者として発言するのではなく、新たなエコロジーのパラダイムを創造するリーダーとならねばならないとシヴァは主張する。このシヴァの言葉を、第一世界に居住するわれわれは―いうまでもなく、男性のみならず女性も―重く受け止めなければならない。

  


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