長崎県島原市が制定。
1990年11月17日、雲仙普賢岳の山頂部で水蒸気爆発。2百年ぶりの噴火が始る。
これカラー写真です。
さて今日は、その2百年前にあった「島原大変肥後迷惑」について
1792年5月21日雲仙岳の天狗山の直下で、マグニチュード6.4の強い火山性地震が発生。
それに起因して軟弱な地質の眉山の一部が大規模な崩壊を起こし、岩屑なだれを発生させ、大量の砕屑物が有明海になだれ込んだ衝撃で、10メートル以上(最大で20m超)の大津波が発生し、津波の第一波は約20分で有明海を横断して対岸の肥後天草に到達した。
島原側が高さ6~9メートル、天草側4~5メートルの津波であったと言われている。
天草の海岸で反射した返し波は再び島原を襲い、津波による死者は島原で約10,000人、
対岸の熊本で5,000人と言われている。
この災害による死者・行方不明者は合計15,000人におよび、有史以来日本最大の火山による災害となった。 そのほとんどは山体崩壊により発生した津波による犠牲者
今も島原市に行くとそのあとをみることができる。にかほ市にもある「流れ山」という地形を見ることができる。小さな流れ山が市内に多数あり、海の中にもたくさんの流れ山が、島になってとても美しい風景をつくっている。
有史以前より、幾度となく繰り返されて島原半島が形づくられていると思えば、火山との共生は重要なことであるとあらためて感じる。ただ日本列島では火山に限らず、自然災害が起こりうるところは無数にあり、人間がいることで災害となることを考えれば、その所々での危険性を把握したうえで注意深く生きていくことはとても大事なことだと思う。
11月17日の出来事「 日本講演旅行 」
1922年:改造社の招きでアインシュタインが来日。
以下、ドイツ大使館ネコのきまぐれブログより
ドイツ生まれの理論物理学者アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein)が来日して今年で100年ということで、ドイツ大使館は外壁に「来日100周年記念 –アインシュタインの日本講演旅行- 100 Jahre Einstein - Reise in Japan」と題してウォールマンガ・アーティストの内田慎之介さんが描いた7枚の絵を展示。
ドイツ生まれの理論物理学者アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein)が来日して今年で100年ということで、ドイツ大使館は外壁に「来日100周年記念 –アインシュタインの日本講演旅行- 100 Jahre Einstein - Reise in Japan」と題してウォールマンガ・アーティストの内田慎之介さんが描いた7枚の絵を展示。
1922年(大正11年)、「出版業界きっての立役者」と名を馳せた改造社創業者・山本実彦は、同出版社および雑誌「改造」が日本に招致したバートランド・ラッセル、マーガレット・サンガーに次ぐ「世界的名声人士」として、懇意になっていたアインシュタイン博士を妻エルザとともに日本に招待した。招待する側には、講演収入と同出版社の招待者特集本の売上増の見込みもあったが、日本は当時大正デモクラシーの時期であり、アインシュタイン来日は社会的にも大きな意味を持っていた。招かれたアインシュタインの側は、ラフカディオ・ハーンが記した美しい日本を実際に自分の眼で確かめることと、科学の世界的連携によって国際関係を一層親善に導くことが訪日の目的である、と語っている。
日本滞在は1922年11月17日から12月29日までの43日間となった。
旅行日記より
2018年に公開されたアインシュタインのアジア旅行時の日記には現地での中○人やスリ○ンカ人への記載が人種差別だとして批判されているが、対照的に1922-23年の訪日時の日記にて「日本人は謙虚で質素、礼儀正しい、まったく魅力的です」「他のどこにも存在しないくらい純真な魂たち。誰でもこの国を愛し、敬うだろう」と評価した一方で「日本人の知識への欲求は芸術への欲求に比べると弱いようだ。生まれつきの気質か?」と残している。
1993年、理論物理学者のスティーヴン・ホーキングが仙台市を訪れた際、同地を訪れた理由を訊いたところ、「アインシュタイン博士の本を読んでいたら、『やがて我々の大学と競争関係に入る大学は東北大学だ』と書いてあったからだ」と答えたという。
2018年に公開されたアインシュタインのアジア旅行時の日記には現地での中○人やスリ○ンカ人への記載が人種差別だとして批判されているが、対照的に1922-23年の訪日時の日記にて「日本人は謙虚で質素、礼儀正しい、まったく魅力的です」「他のどこにも存在しないくらい純真な魂たち。誰でもこの国を愛し、敬うだろう」と評価した一方で「日本人の知識への欲求は芸術への欲求に比べると弱いようだ。生まれつきの気質か?」と残している。
1993年、理論物理学者のスティーヴン・ホーキングが仙台市を訪れた際、同地を訪れた理由を訊いたところ、「アインシュタイン博士の本を読んでいたら、『やがて我々の大学と競争関係に入る大学は東北大学だ』と書いてあったからだ」と答えたという。
11月17日生まれ「 独創性の勝利 」
1906年:本田宗一郎(経営者)
逸話が多いので今日は原付ビジネスバイクカブ絡みで
カブはオートバイは50ccのモペットタイプで、クラッチレバーがなく、片手運転が出来るというので重宝がられ蕎麦屋の出前や新聞配達など、町の商店の間では大評判になったが、この成功を見て他社もこれに追随、街中この手のバイクが走り回りY社のカブ、S社のカブと呼ばれるようになった。
「スーパーカブ」の形状が日本で立体商標登録認可 ~乗り物として初の快挙達成~
各社それぞれに乗り味の差はあるものの、同じアンダーボーンスタイルのビジネスバイク(Y社メイト、S社バーディー)に関して言えば、端的に言ってしまえば模倣品。
ここまで完コピーする必要性があったのだろうか?
本家はこちら
で、本日のお題、宗一郎の逸話
この頃ようやく日本にも、意匠権というものが意識されはじめ、係争の結果ホンダが勝利。
「スーパーカブ」の形状が日本で立体商標登録認可 ~乗り物として初の快挙達成~
当時のお金で数億円、相手会社がホンダに支払う羽目に…が、社長の宗一郎は、「ホンダが創ったと分かればそれでよい」として、お金を受け取らないと決定をくだした。
とらぬ狸を決めていた営業、生産、開発の重役は悔しがったが、翌朝の新聞はこれを大きく取り上げた。これによって世間は、やはりホンダのオリジナルだったと知ることに。
宗一郎の思い切った決断によって、かえってホンダの独創性が世に認められることに、同時に社内にも独創性の重要さが強く意識付けられた。
とらぬ狸を決めていた営業、生産、開発の重役は悔しがったが、翌朝の新聞はこれを大きく取り上げた。これによって世間は、やはりホンダのオリジナルだったと知ることに。
宗一郎の思い切った決断によって、かえってホンダの独創性が世に認められることに、同時に社内にも独創性の重要さが強く意識付けられた。
11月17日の誕生花:「 龍の鬚:不変の心、変わらぬ想い、深い思いやり 」
別名:ジャノヒゲ(蛇の髭)、ヤマスゲ(山菅)
細く艶やかな葉が「ヒゲ(髭)」に見立てられ、
細く艶やかな葉が「ヒゲ(髭)」に見立てられ、
人の髭より長く太いので「リュウノヒゲ(龍の髭)」という名前が付いた。
では f-o-q
世界で一番の二輪車だという説がありますね(知らんけど)。
メイトの方は子供の頃のCMソングが思い出されます。
「乗ってる、乗ってる、乗ってる、乗ってる〇〇〇、
乗ってる乗ってる、乗ってる、乗ってる、△△△。
〇〇〇に乗れば安上がり♪♪」
伏字には適当に当てはめてください。
一時期、スズキに通ってましたが、当時の愛車がヤマハXJのため、一番遠くの駐輪場に廻されました。どのメーカーもそうでしょうかね。