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このページは、時間が前後しますが f-o-q の 備忘録 です。
昨日のことより、云十年前の方が鮮明だったりします。

酒風呂の日(12月22日)

2022-12-22 23:30:00 | 現在過去日記
冬至の日には温泉に入りお酒を飲もうと提唱している株式会社高橋助作酒造店が記念日に制定。
冬至:二十四節気のひとつ
湯治:温泉治癒
杜氏:日本酒製造の責任者
がいづれもとうじと読むことから。

ちなみに、酒風呂には、リラックス、温熱、睡眠誘導などの効果があるとされている。
日本酒の原材料である米麹には、肌のたるみやひらいた毛穴を整えてくれる作用が見込める。さらに血液の循環を良くする作用もあるので、汗がじわじわ、からだじゅうポカポカに。血流を促進してくれるので、肩こりや冷え性の症状も和らげる。
酒風呂の作り方
 浴槽で38〜40℃のお湯に、1〜2カップの日本酒を入れるだけ。と、とても簡単! 
 ただし“合成清酒”では効果が得られないので、“清酒”を入れる必要がある。
 蓋を開けてからしばらく立った香りの飛んだ日本酒は使用しない。
効果的な入り方
 酒風呂の効果的な入り方として、副交感神経をリラックスさせる38〜40℃がおすすめ
 身体が温まってきたな、と感じたら一旦シャワーで身体を流し、再度入浴。
 それから再び酒風呂に浸かって、身体の芯まで温まったら、入浴タイムは終了。
 タオルで身体を丁寧に拭いて、ゆったりくつろぐ。
注意事項
 酒風呂の残り湯で洗濯しない
 病気の方は要注意
 子供や妊婦さん、お酒の弱い方はNG
 酒風呂は一日で捨てましょう
 入浴中かゆみが出たらすぐ出ましょう
 酒風呂の温度を上げすぎない
では、入りましょう。


12月22日の出来事「 三方ヶ原の戦い 」
1572年:武田信玄軍が徳川家康・織田信長軍を破る。家康は浜松城に敗走。
熟成しきった最強武田軍に、若き徳川軍が完膚なきまでに叩かれる。
武田軍30,000人(武田本隊25,000※北条軍2,000を含む+山県隊5,000)
徳川軍11,000人(徳川軍8,000+織田軍3,000)
三方ヶ原の戦いとは、西上作戦を行う信玄に対して奇襲をかけようとした家康のもくろみによって勃発した。しかし、信玄は家康の考えを読んでおり、結果として織田・徳川連合軍は信玄によって大敗する。
この三方ヶ原の戦いは、家康にとって伊賀越えと並ぶ人生最大の危機とされている。
歌川芳虎が描いた「三方ヶ原の戦い」徳川家康(左丸)と武田信玄(右丸)
家康が信玄と戦った三方ヶ原の戦いで、浜松城に敗走する家康が途中、小さな茶店を見つけ小豆餅を頬張った。その時、敵の気配を感じた家康公は銭を払わず茶店を飛び出し慌てて逃げた。店主の老婆が「銭を!」と追いかけ、やっとのおもいで銭を取った。
このエピソードから餅を食べた場所は「小豆餅」、銭を取った場所は「銭取」となり現在も浜松の地名として残っている。事の真偽はともかく地名は残っている。
浜松城へ到着した家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、いわゆる空城計を行った。
家康自身は湯漬けを食べてそのままいびきを掻いて眠り込んだとも伝わる。
この、心の余裕を取り戻した家康の姿を見て、将兵は皆安堵した。
浜松城まで追撃してきた山県昌景隊は、空城の計によって警戒心を煽られ城内に突入することを躊躇し、そのまま引き上げた。
一矢報いようと考えた家康は大久保忠世、天野康景らに命令し、浜松城の北方約1キロにある犀ヶ崖付近に野営中の武田軍を夜襲させた(犀ヶ崖の戦い)。
この時、混乱した武田軍の一部の兵が犀ヶ崖の絶壁から転落したり、崖に誘き寄せるために徳川軍が崖に布を張って橋に見せかけ、これを誤認した武田勢が殺到して崖下に転落したなどの策を講じ、その結果、多数の死傷者を出したという。
この「布橋」も地名として残っている。
では、御菓子司あおいのお菓子をば、姫街道行かれた際はどうぞ。

12月22日生まれ「 龍鳳之姿、天日之表 」
598年:李世民 (唐の2代皇帝(太宗))
流血の果てに大唐帝国を開き、理想の時代を開き大唐帝国の基礎を築く。
598年に当時隋朝の唐国公で煬帝の母方の従兄にあたる李淵の子として生まれた。
少なくともその血統の4分の3以上は非漢人。
4歳の頃、李淵を訪れたある書生がこの子を見て「龍や鳳凰の姿を有し、成人後は世の中を治めて民衆を安心させるだろう。」と言った。そのため世民という諱がついたという。
漢の劉邦の場合は、母に龍が乗っている夢。龍が好きなんだな。
李世民は武将として優れた才能を発揮し、隋末唐初に割拠した群雄を平定するのに中心的役割を果たした。
高祖李淵は長男の李建成を立太子するが、隋討伐で戦功を挙げた李世民の名声が高まり、李世民に天策上将なる称号を与え、東宮に匹敵する弘義宮を建築するに至り、李建成は皇太子の地位に不安を持つようになった。
李世民の勢力を削減しようとした李建成は、李世民から礼遇されている謀臣を讒言により排除した。その後李建成の幕臣の魏徴や弟の李元吉が李世民暗殺を建議。
この計画を事前に察知した李世民は、李建成の部下で長安城の北門である玄武門の守備隊長を買収、変を起こし李建成と弟の李元吉を殺害した
この政変により、李淵は8月に李世民に譲位し、事態の収拾を図った。
太宗の時代、多くの賢臣名将が排出し、太宗の手足となって唐王朝の新基軸を作り、約300年の礎を成した。太宗の政治は、在位23年のあいだ改元されなかった元号の「貞観」と結び付つけて「貞観の治」と呼ばれ、善政理想政治の代名詞となっている。
唐太宗 李世民      王羲之・蘭亭序(らんていじょ)榻本
書家としても有名な太宗は王羲之の書を愛し、貞観年間を通じてその真蹟を集めることに力を惜しまなかった。その集め得た逸品は整理保護し、優れた榻書手(トウショジン)に命じて榻本を作り、これを臣下に分かち与えた。これにより羲之流の書が一世を風靡するに至った。彼は羲之の書を愛する余り、《蘭亭叙》を殉葬させた。

12月22日の誕生花「 百日草: 別れた友への想い、古き良き時代、絆、幸福 」
和名:百日草、ジニア
英名:Common Zinnia、Youth and old age
別名:浦島草(ウラシマソウ)、長久草(チョウキュウソウ)
百日草という名前は、百日間に渡って次々に花を咲かせることが由来。
(実際の開花期間は100日以上)
Youth and old age(若者と老人)は、次々に新しい花が咲くことが由来
日本へは、1862年、文久時代に渡来して花がとても長持ちする事から
百日草(ヒャクニチソウ)、長久草(チョウキュウソウ)と呼ばれるようになった。
鮮やかな花を咲かせる百日草だが、花言葉は切ない言葉が目立つ。
これは、長い間咲き続ける姿が「誰かを待っているように見える」ことが由来。

では f-o-q


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