ヴァーグナー「さまよえるオランダ人」
3/7 新国立劇場 ミヒャエル・ボーダー指揮 マティアス・フォン・シュテークマン演出
ちょっといい服を着て、ロビーでくつろいでいる。今日の演目はどんなんだろう、と期待に胸はふくらむ。映画の始まる前の暗闇にわくわくするように、グラスの音とおしゃべりが聞こえる明るいロビーにわくわくするのだ。
やがて照明が点滅し、開演5分前を知らせる。
いいな、この感じ。
ぼくはオペラそのものももちろん好きだけれど、この雰囲気が好きだ。
こうした気持ちでいっぱいになった観客たちにとって序曲(前奏曲)は大切である。今日はどんなメニューなのだろうか、期待できるのだろうか、パーティーの席についたばかりの観客に序曲は今日のできを教えてくれる。だから、だから、序曲は大切なのだ。
なのに、序曲で人の頭を殴るとは。
金管!
どういうことよ。どうなっちゃうんだ、と心配したのだが、あにはからんや幕があいたら平穏無事に流れていってひとまず安堵。いや、ま、ときたま金管が不安定なとこはあるんだが。
「さまよえるオランダ人」はその名の通り、航海中呪いの言葉をはいたため、死ぬこともできず永遠に海をさまようオランダ人船長の話である。
ヴァーグナーがこれを書いたのはパリ。パリの劇場に受け入れてもらえるよう、後期のヴァーグナーと比べると一般ウケを狙っている部分が散見する。しかし、それが傷ではなく、かえってこのオペラを特徴づけると思う、とくに合唱とか。そして特筆すべきは、新国立劇場合唱団のすばらしさ。男声、女声ともども、すばらしい声とハーモニーを聞かせてくれた。かなりの水準だと思う。
借金取りに追われたヴァーグナーがパスポートも取れずに密航したときに遭遇した嵐もこのオペラに影響していると言われるが、たしかに嵐を描写するオーケストラの咆吼はすさまじい。よほど怖い思いをしたのだろう。このあたりも東京交響楽団、グッジョブ。
パリで一般ウケを狙って作ったので、のちのちあらわれるヴァーグナー的観念はそれほど濃厚ではない。しかし、その萌芽はこのオペラの中にもかいま見ることができる。愛と死だの、自己犠牲や救済など。その概念をいかに前からの形式で表現するか、そこもこのオペラの面白さだろう。
この悲劇は、雄弁な悪魔に対して、神が無口であることによる。悪魔の仕打ちに対して、神はたよれず、頼りになるのは7年ごとに上陸できる先での女性。ゲーテのファウスト同様、悪魔に責めさいなまれる魂を救済できるのは女性である(とぼくが主張しているわけじゃないんだよ、あくまでゲーテやヴァーグナーの話)。
したがって、ここに顕れる愛は感情の次元にはなく、存在論の次元、アンドレ・マルローの言う「人間の条件」に直結する次元の話となる。だからここには男女の感情の機微などはない。しかしそれでは観客が何が何だかわからない。感情的なものを一身に背負わされ、状況を説明させられるのはエリックである(父親は一見人間的だが、どちらかというと話を進ませるための機械的役柄と言ってもいいだろう)。彼の役は、だから、難しいものだと思うし、難しい上に人から共感が持たれない辛い役でもあるだろう。あちらで救済や永遠や呪いの悲劇などといった大壇上に構えた大きな歌が歌われているのに、エリックはやれ父親がいなかったときに世話したじゃん、などと卑屈な歌を歌わされるのだ。
それでもエリック役は好演。難しい役どころを下卑ずに歌っていました。あとダーラント役の松位浩ブラヴォ。
しかし、やはり、圧倒的によかったのはゼンタ役のカンペ(カンペだのウーシタロだの、なんか日本人にはクスッな名前の人たちだ)。この役は、いわばイッちゃってる役。何しろ話に聞いた悲劇のオランダ人(見たこともない、いやそれ以上に名前さえも知らない、最後まで)を救えるのは自分だと思いこんでる。生身の彼氏そっちのけ。ぼくが彼だったら、相当イヤな状況だと思う。付き合っている彼女がいきなり「離婚したヒロミ郷を救えるのは私なのよ」などと宣言されたりした日にゃ。それがそんなに変な感じがしなかったのは、やはりカンペの歌の力量。ヴァーグナー歌いに求められる声量や強さを万全にこなした上で、繊細な表現も素晴らしい。
合唱ともども今回の歌手陣の好演は耳に残るうれしさだった。
あ、演出について書くの忘れた。第1幕は棒立ち男二人デュエットなどやらせて何考えてんだと思ってたけれど、あとはなかなかよかった。男声合唱が赤い靴、女声合唱が赤い靴下など、細部に凝ったりして。最後、ゼンタが船に入っちゃってどうすんだと思ったが、これは呪われた船ともども鎮めようということなのかと納得。
3/7 新国立劇場 ミヒャエル・ボーダー指揮 マティアス・フォン・シュテークマン演出
ちょっといい服を着て、ロビーでくつろいでいる。今日の演目はどんなんだろう、と期待に胸はふくらむ。映画の始まる前の暗闇にわくわくするように、グラスの音とおしゃべりが聞こえる明るいロビーにわくわくするのだ。
やがて照明が点滅し、開演5分前を知らせる。
いいな、この感じ。
ぼくはオペラそのものももちろん好きだけれど、この雰囲気が好きだ。
こうした気持ちでいっぱいになった観客たちにとって序曲(前奏曲)は大切である。今日はどんなメニューなのだろうか、期待できるのだろうか、パーティーの席についたばかりの観客に序曲は今日のできを教えてくれる。だから、だから、序曲は大切なのだ。
なのに、序曲で人の頭を殴るとは。
金管!
どういうことよ。どうなっちゃうんだ、と心配したのだが、あにはからんや幕があいたら平穏無事に流れていってひとまず安堵。いや、ま、ときたま金管が不安定なとこはあるんだが。
「さまよえるオランダ人」はその名の通り、航海中呪いの言葉をはいたため、死ぬこともできず永遠に海をさまようオランダ人船長の話である。
ヴァーグナーがこれを書いたのはパリ。パリの劇場に受け入れてもらえるよう、後期のヴァーグナーと比べると一般ウケを狙っている部分が散見する。しかし、それが傷ではなく、かえってこのオペラを特徴づけると思う、とくに合唱とか。そして特筆すべきは、新国立劇場合唱団のすばらしさ。男声、女声ともども、すばらしい声とハーモニーを聞かせてくれた。かなりの水準だと思う。
借金取りに追われたヴァーグナーがパスポートも取れずに密航したときに遭遇した嵐もこのオペラに影響していると言われるが、たしかに嵐を描写するオーケストラの咆吼はすさまじい。よほど怖い思いをしたのだろう。このあたりも東京交響楽団、グッジョブ。
パリで一般ウケを狙って作ったので、のちのちあらわれるヴァーグナー的観念はそれほど濃厚ではない。しかし、その萌芽はこのオペラの中にもかいま見ることができる。愛と死だの、自己犠牲や救済など。その概念をいかに前からの形式で表現するか、そこもこのオペラの面白さだろう。
この悲劇は、雄弁な悪魔に対して、神が無口であることによる。悪魔の仕打ちに対して、神はたよれず、頼りになるのは7年ごとに上陸できる先での女性。ゲーテのファウスト同様、悪魔に責めさいなまれる魂を救済できるのは女性である(とぼくが主張しているわけじゃないんだよ、あくまでゲーテやヴァーグナーの話)。
したがって、ここに顕れる愛は感情の次元にはなく、存在論の次元、アンドレ・マルローの言う「人間の条件」に直結する次元の話となる。だからここには男女の感情の機微などはない。しかしそれでは観客が何が何だかわからない。感情的なものを一身に背負わされ、状況を説明させられるのはエリックである(父親は一見人間的だが、どちらかというと話を進ませるための機械的役柄と言ってもいいだろう)。彼の役は、だから、難しいものだと思うし、難しい上に人から共感が持たれない辛い役でもあるだろう。あちらで救済や永遠や呪いの悲劇などといった大壇上に構えた大きな歌が歌われているのに、エリックはやれ父親がいなかったときに世話したじゃん、などと卑屈な歌を歌わされるのだ。
それでもエリック役は好演。難しい役どころを下卑ずに歌っていました。あとダーラント役の松位浩ブラヴォ。
しかし、やはり、圧倒的によかったのはゼンタ役のカンペ(カンペだのウーシタロだの、なんか日本人にはクスッな名前の人たちだ)。この役は、いわばイッちゃってる役。何しろ話に聞いた悲劇のオランダ人(見たこともない、いやそれ以上に名前さえも知らない、最後まで)を救えるのは自分だと思いこんでる。生身の彼氏そっちのけ。ぼくが彼だったら、相当イヤな状況だと思う。付き合っている彼女がいきなり「離婚したヒロミ郷を救えるのは私なのよ」などと宣言されたりした日にゃ。それがそんなに変な感じがしなかったのは、やはりカンペの歌の力量。ヴァーグナー歌いに求められる声量や強さを万全にこなした上で、繊細な表現も素晴らしい。
合唱ともども今回の歌手陣の好演は耳に残るうれしさだった。
あ、演出について書くの忘れた。第1幕は棒立ち男二人デュエットなどやらせて何考えてんだと思ってたけれど、あとはなかなかよかった。男声合唱が赤い靴、女声合唱が赤い靴下など、細部に凝ったりして。最後、ゼンタが船に入っちゃってどうすんだと思ったが、これは呪われた船ともども鎮めようということなのかと納得。